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存在する意義を見出せたから言えること
1990年、私はこの仕事に就きました。そうは言っても、それは自分自身の意思とは別のところから力が働いたからで、自分の希望ではありません。この仕事に生きがいを見出すことができたのは、とある事件がきっかけ。その日以来、私はこの好きではない職場で『誰かのために』、自分の地位を特権にして奮闘しました。ネガティブからポジティブに一気に切り替わった私に、不可能はないように思えるほど、私は「ここではたらく」ことに意味を持ちました。
そんな私の32年をざっくりとお話出来たらと、今この記事を書いています。
嫁ぎ先は、老舗旅館。プロポーズの時彼は、「旅館の仕事はしなくていい、そんなことは求めない。ライターの仕事を続けていいよ」と言いました。ところが、嫁いだ直後その思考は一変、夫とその両親が代わる代わる私の勤める会社へ幾度となく苦情を入れ、私は職場で居場所を失いました。
夫は、自分の得た給料を家庭に入れることなく「金が必要なら働け」と、私は退職から程なくして、旅館へ強制労働に駆り出されてゆくことに。女将である義母は、とても厳しく、私の労働は早朝4時から深夜11時までに及び、月に3回の休日は義父母宅の家事に追われました。朝4時に朝食の食堂へ、食堂の業務がひと段落するとチェックアウトの手伝いにフロントへ、客室清掃の手伝いに回る。お昼に1時間の休憩を済ませると午後からお客様を出迎える準備。宴会の席があれば酌婦として席に入り、無ければ夕食の食堂とチェックインのお客様の案内、それが落ち着くと館内の見廻りを済ませて夜11時に家に帰る生活。
実家に帰ることなど許されず、ひたすら旅館のために働きました。どれだけ働いても月給は10万円。タイムカードを用意されていたものの、それは勤務を管理するためのもので、私には時給がありません。これ、作り話でも昔話でもない、本当にあった平成の話です。
夫はというと、週6日のペースで夕方4時に出勤して3時間ほど仕事をすると飲みに出かけます。私が出勤する朝4時にはまだ帰宅しておらず、昼休みに家に戻る頃寝室でいびきをかいて眠る夫がいました。夫婦の財布は別々、夫の給料は全て夫のもの。私の得る月10万円で夫婦二人隣接する賃貸マンションに住み、ギリギリの生活を続けること2年、私は夫の子を身ごもりました。
そんなの離婚してしまえという人もいますが、当時の私は思考がほぼ停止していて、全ては自分の責任と思っていたので、到底離婚などという思考にはならなかったのです。
5年、10年、20年と一生懸命仕事をしていると、少しずつ私を見てくれる人が増えていきました。ともに働く従業員さん、出入り業者さん、そしてお客様。私の味方が増えれば増えるほど、今度は女将が有らぬ噂を流します。「家事をちゃんとしない」「仕事をしているふりをする」「みられていないところで酒やタバコをする」「浮気癖がありあちこちに手を出している」「板前とできてる」次々に噂を流し、従業員が少しでも私の肩を持てば、その人は仕事を外されました。嘘だと判っていても、皆その噂に流されるまま。「助けてあげられなくてごめんね」と、幾人もの人からこっそり耳打ちされました。
そんな中、真っ向から立ち向かってくれる人が3人現れました。私より10歳ほど年上の客室清掃に来ていたパートさん、食堂チーフをしていた50代の女性、フロントを任されていた少し年下の男性。噂の火消しをしながら、私の盾となり「あなたは何も悪くない」と。しかし、その代償に3人の待遇はどんどん悪化。3人は、働きづらくなっても「大丈夫」と笑います。
客室清掃のパートさんは、たぶん無理をしていたのでしょう。心労から寝込むようになり、ほどなくして身体を壊してしまいました。そしてその半年後、癌の診断を受け瞬く間に全身に広がり帰らぬ人に。最期の3カ月、私は毎日彼女を見舞うため病院へ足を運び、彼女から「あなたはあなたらしく」と、励ますつもりが逆に励まされる結果。
「もうここに戻らない人に時間を費やすな」と、度々夫と女将に叱られました。ちょうどその頃、メインバンクから送り込まれたコンサルタントの推奨により、私は名ばかりの取締役に就任、更に名ばかりの総務部長となりました。
総務部長となった私は、夫や女将、当時の社長である夫の父からの従業員に対する高圧的な態度を、法によって何とか正せないものかと考えました。それが、助けてくれた人を救う手段と考えたからです。労働法と会社法を労働基準監督署へ何度も出向いて学びました。その結果、監督署の調査が入り、様々な改善命令が出されることに。それまで家業に毛の生えたような名前だけの企業に、就業規則を作り、労働契約書を結び、研修制度と昇給プログラムを実施して、社会保険への加入を進めました。そして、健保推奨の心の健康プロジェクトを活用して、相談窓口を作り、ハラスメントの撲滅とコンプライアンスの徹底を実行に移し、労働環境の改善に取り組みました。
全ては、心を蝕まれたことをきっかけに身体を壊しこの世を去った彼女に報いるために。そして、私の盾となり苦境に耐え続けてくれているチーフたちのために。
私は、この時初めて「ここではたらく意義」というものを実感しました。きっと神様は、この会社を真っ当な企業にするために私をここに招いたのでしょう。活き活きと笑顔で働く従業員は、お客様を呼びます。お客様が増えれば、それを従業員に還元します。取引先への発注も増えます。至る所で人と人の関係が良くなり、心にゆとりが生まれます。
夫は、数年前父親から代替わりして社長へ就任、相変わらず毎夜飲みに出かけ昼まで寝るという生活。女将は女将と呼ばれることに拘り、今も女将のままですが、80歳を過ぎてから人前に出ることはありません。お客様は私を女将と呼びますが、私の名刺は総務部長のまま。それで充分だと思っています。今ではすっかり余裕ができて、元々天職と思っていたライターの仕事もできる時間も持てています。
私にとってはたらくとは、誰かの笑顔を守ることに他ならない。笑顔を見られれば、それが最高のご褒美です。