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鈴木家の日常⑤「トイレ使ったの、誰ですか?」

「普通」の基準は一人一人違うから、「普通」という言葉をあまり使わないように生きてきた。これは父の教えだ。今思えば、その教えに都合よく言いくるめられていたのかも知れないが、おかげで私は人と違うことに違和感を覚えることなく、「ちょっと違う」人や行動、出来事に対して比較的柔軟だった。そんな私に、どうしても納得できない衝撃的な事が起こった話をしようと思う。

私の嫁いだ鈴木家は、自営する会社を挟んで両隣に夫の実家と私の家がある。敷地はマルッと地続きだ。夫の実家には弟のユキオ夫婦が同居しており、夫の両親とユキオ夫婦とその子供ランマル君が住んでいる。一方私の家には夫と私と一人息子のショウ、それにチワワのラッキーが暮らしている。
私の密かなストレスは、この同じ敷地に住んでいる鈴木家だ。どうにも鈴木家の面々とは相容れない。ユキオの嫁ミドリは、同じ嫁いだ者同士だが、鈴木家に良く馴染んでいるが、私にはどうしても無理だ。あらゆる面で「普通の基準値」が違いすぎている。私にとって唯一の理解者は、一人息子のショウだけなのだ。

土地持ちの鈴木家が経営するのは、会社といっても家族経営の小さなもので、先祖から受け継いだ市内の土地に複数の駐車場を持ち、数棟の集合住宅を持っていて、それらを管理することを生業としている。私の夫は、この会社の経営者をしながら、市議会議員をしている。不動産管理は、ほぼ業者任せのため、経営といっても体を動かしているわけではない。私は近所の住宅展示場でパートをする傍ら、夫の会社の経理をしている。
夫の会社の取締役には、両親やユキオの名が連なっているが、特に何かの仕事があるわけでもなく、事務所にも滅多に顔を出すことはない。
事務所の掃除は、私の仕事だ。そう決まっているわけではないが、私しか掃除をしないから、いつの間にか私の仕事ということになった。

夫の会社は、火曜と水曜を定休日としており、私は月曜と木曜金曜に出社する。朝と夕方に社内の掃除機をかけ、拭き掃除をする。来客用と自社用のふたつのトイレを掃除して、洗面所をきれいにする。玄関と外回りをきれいに掃き出し、植木の水やりをする。
土日祝日は、展示場へ出勤する前に夫の会社へ行って普段と同様に掃除機をかけ拭き掃除をして、来客用と自社用のふたつのトイレ、洗面所の掃除後、玄関と外回りをきれいにして、植木の水やりをする。そして、夕方4時に展示場から戻ると真っ先に夫の会社へ立ち寄り、朝と同じ流れで掃除を済ませる。
掃除が好きなわけではない。ただ、汚いのが嫌なのだ。
中でも、トイレと洗面所が汚いのは本当に萎える。ところが、本来夫と私しか使わないはずの会社のトイレと洗面所が尋常でないほど汚いことが多い。特に朝の汚れ具合と言ったら、相当なものだ。夕方に掃除を済ませて会社を占めているにも関わらず汚い。何なら、朝から一日過ごした夕方のトイレと洗面所よりも汚れている。しかも、自社用も来客用もだ。家のトイレも洗面所もそれほど汚れないのに、会社のトイレはいつも汚いのだ。来客だってほとんどないし、あったとしてもそんなに汚れるほど使わないはずだ。
私は、掃除はするが自分が用を足すのは自宅のトイレを使っている。掃除をする前のあの汚さを考えると、そこを使うのが嫌になるからだ。
夫の会社に出社している私が汚さないとすれば、犯人は。そう鈴木家の人々。汚す人がたくさんいるのに、掃除をするのは私一人。この理不尽がどうにも耐え難いと思った私は、トイレと洗面所に貼り紙をした。
「トイレはフタを占めてから流しましょう」
「きれいに使いましょう」
貼り紙をしておよそひと月が経過したが、一向に変化がない。

遂に堪忍袋が限界を超えた。
その朝のトイレは、言葉にならないほど汚されていた。敢えて汚したのではないかと思うような汚れ具合だ。どうしたらこんなところにこんなものが付着するのかと思うような場所に汚物がついている。使用後の生理用品が無造作に放置されている。
私は、後先考える余裕もないままに、夫の実家に乗り込んだ。
「トイレ、使ったのは誰ですか?」
噴き出しそうな感情を必死で抑えてそう言った。
「トイレならみんな使ってるけど何?」
ユキオが涼しい顔でそう答えると、脇から義父母が次々と横やりを入れた。
「そんな怖い顔しなくたっていいじゃない、たかがトイレを使ったくらい、減るもんじゃない」
「そうそう、誰がどこのトイレ使たっていいのよ」
「大体なんなのさ、朝から人の家入るなり失敬な」
「ちゃんと掃除できてるかチェックしてやってるんだから感謝されたいくらいよ」
それぞれが言いたいことをいい、人を小馬鹿にしたように笑う。私は黙って実家のトイレを開けに行った。そこはトイレとは言えないほどの物置小屋と化していた。いや、物置というよりもゴミ置き場だった。
「あの、この家って1階と2階にそれぞれトイレありましたよね?今見せていただいたら、1階のトイレはゴミ置き場になっていましたが、2階はどうなっているんでしょうか。家にトイレがあるのになぜ会社のトイレをわざわざ使います?しかも毎回家を出て会社のカギを開け閉めしてまで。家のトイレを使えるようにすれば済む話でしょう?」
私の言葉にユキオは耳をふさぎ、ミドリはそっぽを向いた。
「あのね、だったら掃除してちょうだい」
義父がさも最もな意見かのように堂々と言ったので私は言い返した。
「掃除は自分たちでするものでしょう?そもそも自分で掃除をしないから平気で汚せる。掃除する人のことを考えたらあんな使い方できませんよ。優しさのかけらもない使い方。一度だって自分で掃除をしようと思ったことあります?自分たちで掃除したくないなら、外注出てみてくださいよ。そこにどれだけの費用が掛かることか」
ユキオはフゥーとため息をついて「結局金かよ」と呟いた。
ユキオの言葉に、私の怒りが吹っ飛んだ。この人たちを相手に向きになったことを悔やんだ。そうだ、この人たちに真っ当なことは通じない。
「来週から、会社のトイレと洗面所の掃除は交代制にします。あとでローテーションの表を作って持ってきます」
背後にガヤガヤと罵声が聞こえたが、私が振り向くことはなかった。

数日後、会社のトイレは驚くほどきれいだ。来客用はおそらく誰も使っていない。ちょうど夫の議会や外部視察が続き、自社用トイレもほぼ使わなかったのだろう。鈴木家の面々は、よほど掃除をしたく無かったのだろう。会社のトイレを使うのは完全に諦めたようだ。
おかげで私は、夕方トイレを掃除した状態のまま朝を迎えられている。私のストレスは一気に消えた。あのこの世のものとは思えない程の汚れを見ずに、毎日を過ごせている。
今は、このストレスフリーがいつまでも続くことを願うばかりだ。


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