鈴木家の日常③「そのタオル、臭いませんか?」
「普通」の基準は一人一人違うから、「普通」という言葉をあまり使わないように生きてきた。これは父の教えだ。今思えば、その教えに都合よく言いくるめられていたのかも知れないが、おかげで私は人と違うことに違和感を覚えることなく、「ちょっと違う」人や行動、出来事に対して比較的柔軟だった。そんな私に、どうしても納得できない衝撃的な事が起こった話をしようと思う。
夫の妹ユミが結婚したのは35歳を過ぎてからだった。相手は7歳年下の商社マン、トシユキ君だ。夫とユミはひとまわり離れているから、夫とトシユキ君の歳の差は19歳。もはや兄弟という歳の差ではないくらいだ。
トシユキ君の大阪本社転勤が決まり、ユミも一緒に大阪へ住むことを決意した頃の出来事。
いよいよ引越しという時に、親族で食事会を開くことにした。散らかった夫の実家ではなく近くの店を予約した。
義父母、義弟夫婦、私たち家族が揃い、奥の座敷で義妹夫婦の到着を待った。予定時刻を20分ほど過ぎて座敷へと入ってきた義妹夫婦には、少々険悪ムードが漂っていた。
「ちょっと、ほんと面倒なの、この人!」
最初に口火を切ったのは、ユミだ。
「いや、待って!違うでしょ!嫌なことを嫌だって言っただけだよ」
トシユキが真っ赤な顔をして大きな声で言い、それにこたえるかのようにユミが声を被せた。
「バスタオルってさ、洗わないよね?ね?別にそれって普通だよね?」
ユミの問いかけに義父母がうんうんと頷き、ミドリとユキオが笑った。
「喧嘩ってそんなことで?」
トシユキが苛ついているのははっきりと見て取れるが、周囲は皆笑っている。私は少しトシユキが可哀想に思えたが、黙っている。かかわることが面倒だから。
私の視線に気づいたのか、トシユキが私の方をじっと見ている。私は慌てて視線を逸らした。が、一歩遅かったようだ。
「違いますよね、お姉さんは。僕の勘違いだったら申し訳ないですが、以前お宅へお邪魔したとき、ストックルームにきれいに畳まれたフカフカのタオルが並んでいました。お姉さんなら判りますよね?」
私が答えに困っていると、息子が口を挟んできた。
「そうだよ、僕んちはみんな毎日一人1枚使ってるよ。パパが時々僕の使ったタオルを使ってママに怒られてるよ。タオルにはバイキンがいっぱい住んでるから毎日一人1枚のバスタオルなんだよってママが」
「ですよね、僕もそう思います」
トシユキはホッとしたように微笑みかけ、息子の頭を撫でながらもう一度私の方を見た。
「お姉さんが正しいと思います。僕も洗わないバスタオルは不衛生だと思っています。それを言葉にしたらダメなんですか?ユミが洗いたくないなら僕が洗う、それもダメなんですかね?」
あろうことか、私は思わず拍手してしまった。すると夫が口を開いた。
「トシユキ君がそうしたいなら洗濯してもらえよ、実際オレもバスタオルなんて洗ったって洗わなくたっていいと思って生きてたけどさ、毎日きれいなタオル使ってるともう戻れなくなるぜ、ユミも1回やってみればわかるよ」
頬をめいっぱい膨らませたユミは、「絶対トシユキが洗ってよね」と小さな声で呟いた。
夫の実家である鈴木家では、バスタオルを洗わない。風呂上がりに身体を拭いた後リビングに広げて、そこそこ乾いたころに洗面所へ戻してタオルハンガーに引っ掛ける。夫曰く「風呂できれいになった身体を拭くだけのタオルだからきれい」だそうだ。
1週間、2週間、1カ月、3カ月。一体どのくらいそのまま使っているのかわからないが、とにかく臭いバスタオルが洗面所に並んでるのだ。しかも、どれが誰のか決まっていない。顔を洗っても、手を洗っても、歯を磨いても、いつ誰が使ったかわからない、そこに干されているバスタオルを使うのだ。私には無理だ、例え今目の前にそれしかなかったとしても使えない。自分で着ている服の方が余程衛生的だと思う。
来客が来ても、鈴木家のバスタオルルールは変わらない。「洗面所に干しているの使って、それきれいだから」と言われる。私は初めてそれを見た時、お風呂に入るのを止めた。遠慮するふりをして、車を走らせスーパー銭湯へ行ったのだ。有料バスタオルを借りて、湯上りタオルを購入した。
鈴木家を訪れる来客と言えば、年に数回の親戚くらいだろうか。九州に暮らす義父の妹さんは、自前のバスタオルをいつも持参してくると言っていた。
モワッとする重たい臭気の漂よう洗面所で、あのガサガサな手触りで、湿った瞬間に異様な臭いを放つバスタオル。それを血のつながりのないミドリは、本当に使えているのだろうか。そんな疑問が心の片隅に芽生えたが、私にはそれを確認する勇気はない。
周囲はみんな、バスタオルの話題などすっかり忘れて、目の前のターンテーブルを廻る中華料理の話題で盛り上がっている。
トシユキが私の隣へ正座で座った。
「あの、バスタオルだけですか?」
「え?」
トシユキが何を言いたいのか、薄々検討は付くが、私からそれを指摘することは是が非でも避けたいのだ。どこで誰が聞いているかわからない。それをネタにまた嫌味を言われて絡まれるのが面倒だった。
「朝使ったマグカップ、夕方まで放置してまたそのまま使う。ひどい時は翌朝まで放置したままでも平気で使う。しかも、自分のじゃなくても平気。そういうの僕、嫌で」
私は少し下を向いて小さく頷き「そうだよね」と小声で答えた。
「嫌なことは嫌って言った方が良いと思うよ。私は夫にはそうしてる」
トシユキは納得したのか、ユミの隣へ戻って行った。自分以外の誰かが、この鈴木家の中の常識に違和感を覚えてくれることが嬉しくなった。私は心の中で「トシユキ君頑張れ」とエールを送っている。