空中散歩
「あれがいい」
私が指差した方向をハラミ先生も目で追いかける。
「あれに乗りたいので、おごってください」
勇気を出して言った私を見て先生は、驚いたような困ったような顔をする。
YOKOHAMA AIR CABIN。
「あ、足が疲れちゃって。荷物重いし、もう戻らないとだし」
一緒に乗るための口実を口早に喋る。そう、私は疲れちゃって、歩きたくなくて、お金もあまりないところに、偶然先生を見かけてお願いしているのだ。思い込んだら本当に疲れた気がする、単純な私。ハラミ先生はため息をつく。
私が今いるのは、ワールドポーターズや赤レンガ倉庫、コスモワールドなどがある運河パーク。横浜エアキャビンは、運河パーク駅とJR桜木町駅を繋ぐ、二〇二一年に開業したばかりの日本初都市型循環式ロープウェイだ。
ハラミ先生が自由行動でこの辺のエリアを周回することになっているのは、事前にそれとなく聞いてわかっていた。赤レンガ倉庫で先生を見つけてから、私はずっとチャンスを待っていた。
数時間しかない。ハラミ先生と何とか距離を縮めたかった。
遠巻きに様子を伺っていてもダメだ。代わる代わる生徒たちとすれ違い、声をかけ、談笑している。これはもう強攻手段に出るしかなかった。
「ハラミ先生」
赤レンガ倉庫からワールドポーターズの方角へ歩いている先生の背中に声をかけた。
陽は沈みかかっていて、みなとみらいの街並みは夕焼けを横顔に浴びて幻想的な淡い表情を見せていた。私はスカートの裾をギュッと掴む。大丈夫、大丈夫だ、そう自分に言い聞かせる。
「お土産買い過ぎちゃってお金あまりなくて、おごってください」
必死の嘘だった。修学旅行一日目の今日は、昼に中華街へ着きクラス毎に昼食を取った後、解散。班になってみなとみらいや博物館など自由行動をして十七時にJR桜木町駅へ集合、新横浜のホテルへと向かう段取りだった。時刻は十六時過ぎ。海から流れてくる風に肌寒さを感じた。秋が深まっている。
同じ班だった真奈美もユリアも途中から彼氏と回っている。おそろいのブレスを買ったり、コスモワールドへ行ってジェットコースターに乗ったりするのだと言う。真奈美は一年の時から同じ彼氏と付き合っていて(隣のクラスの純基くんだ。一、二年の時は同じクラスだったのに三年で離ればなれになってしまった。先生の組み分けってマジで謎! と真奈美は四月の初め激昂していた)言わばこの修学旅行は二人にとって青春のクライマックスなのだ。一方、ユリアは最近彼氏が出来た。ユリアはいい意味でふんわりしていて、流されやすい。真奈美が修学旅行に彼氏いないなんてつまらないよ、絶対付き合っておきなと念を押したから、その通り実際に付き合ったのだ。なんて従順、もとい良い子。ふんわりしたユリアはモテる。それまで、告白されても適当に流していたくせに、次に告白してきた凌太くんにはOKを出した。タイミングが良かった、凌太くんは。顔やスペックなら直哉くんとか蓮くんとか、過去惨敗した面々の方が一枚も二枚も上手だったのに。恋愛はわからない。
「で、さやかはどうする?」
班での話し合いの最中、真奈美は言った。ユリアもにこにこしながらこちらを見ている。私たち三人は仲が良かった。おそらくバランスが良かったのだろう。活発でリーダー気質のある真奈美、そこにいるだけで場が和み癒されるユリア。私はさしずめふたりのマネージャーだ。もしくは通訳。華がある二人と仲良くなりたいみんなの窓口、みたいなもん。特に光る武器なんてないし、愛嬌も度胸もない。
「どうするも何もないよ」
「適当に付き合っちゃえよ。四組の何だっけ」
「林」
「そう、林。告られたんでしょ」
「でも振った」
やれやれ、と真奈美とユリアが肩をすくめる。
「さやかのタイプじゃなかったんだねー」
ユリアが間延びした声を出す。
「まあ、そういうこと」
「かたいねえ、さやかさんは。ま、私たちはアンタのそういう所が好きなんだけどさ」
真奈美が私の頭をクシャクシャ撫でる。犬みたいだ。
二人とも、自由行動は一緒に回ろうよって言ってきたけど、カップルの邪魔は出来ないでしょと丁重にお断りした。二人とも心から残念そうな顔をした。言っても、中華街からみなとみらいまでは三人で移動するのだ。別々に行動するのはほんの数時間だけ。それでも友達にそんな顔をされると嬉しくてニヤついてしまう。二人にとって心からの友人でいれることを。
でも、私は大事な真奈美とユリアにすら言えていなかった。本当は好きな人がいること。それが、英語のハラミ先生だってことを。
数秒立ち止まった後、ハラミ先生は観念したような顔でエアキャビンの方へ歩き出した。
「えっ、いいんですか」
「約束しただろ」
ジュースとか、お菓子とかもっとあっただろ。ぶっきらぼうに先生は言葉を放つ。
二年生の私の英語の成績は下から数えたほうがいいくらいの低さだった。ここ日本だし、英語より日本語できたほうが良いっしょ、と私は言い訳ばかりしていた。ある日。産休の山中先生の代わりに気怠そうに教室へ現れたのがハラミ先生だった。原田三津留。略してハラミ先生。
勉強、全然できませんと泣き言を言った、私(正確には真奈美とユリア、そして影にひょこんと隠れた私)たちに、じゃあ小テスト百点取ったら何かおごってやるよ、と言った。簡単なエサで点数を上げさせるなんて安易、なんだけどまんまと私は頑張った。
ものの見事に百点を取り、私は歓喜した。おおっ、すげえ。まさかとるとはという顔をハラミ先生はした。(真奈美とユリアも私のカンニングを疑った、半分本気で)いろいろと侮られている。
私はその約束を忘れずに、かといって行使もせずに約一年のあいだ胸にしまい続けた。そして、やってきた修学旅行。まさに千載一遇のチャンスだった。使うならここだ。
「はじめて乗るなあ」
ハラミ先生が呟いているのを聞くと、内心ガッツポーズをした。誰かと乗った(観覧車みたいな個室空間、乗っていた場合絶対女性となんだから)ことがない、お互いのはじめてを共有できることに喜びしか感じなかった。
チケット売り場までやってくると、エアキャビンの料金は片道千円で、思わず私は尻ごみする。
「やっぱり大丈夫です」
「いやいいよ」
「大丈夫です!」
千円も先生におごらせたなんて知られた日には、私は学校で炎上する。
「そっか」
ハラミ先生は自分の券を買いすたすたと歩いていく。二階が出発ゲートになっている。おごってくれと言ったのに、急にやっぱりやめるって言い出して、めちゃくちゃだなって思ってるんだろうな。もっとスマートにアプローチ出来たらな。ぐるぐると渦のような気持ち。
「早くしろよ、集合時間に間に合わねーぞ」
「一緒に乗るの?」
私が言うと、先生は首を傾げ、
「同じ方向だよな」と笑う。
循環しているエアキャビンに乗ると、本当に二人きりの空間になった。緊張する。
「つーか、なんでひとり?」
「真奈美もユリアも、彼氏と回ってます」
と正直に答えた。ハラミ先生は変な詮索はしない人だ。
「おおー、それはアオハルだねえ」
先生は自分事のように嬉しそうだ。
「さやかは? アオハルしないの」
うちのクラスに佐藤姓は三人いて、ハラミ先生は「紛らわしいので苗字が複数ある生徒は下の名前で呼びます」と、初回の授業で言った。私は佐藤姓であることを心から感謝した。
「彼氏いないんで」
「好きなヤツとか、いないの?」
唐突な質問にどういう顔をしてしまっただろう。ハラミ先生はすぐに、悪い立ち入りすぎた、と謝った。
胸の鼓動がバクンバクンとうるさい。
「ハラミ先生は──」
やめとけ、やめとけ。
胸の鼓動を押さえつけた両手は、言葉までは抑えられなかった。
「彼女、いるんですか?」
わざとらしく外の景色を眺めているフリをして私は聞いた。開放的なガラス窓は視界を広くさせてくれる。まさに散歩するような速度でエアキャビンは進んでいる。
フン、と鼻を鳴らして先生は言った。
「いないよ」
へえ、こみ上げる喜びを握りしめた拳で押しころす。
「おじさんは、君たちの世話でいっぱいいっぱいなわけ」
君たち、というくくりがまず嬉しかった。それはすなわち、私たちなのだ。私とその他大勢。
「おじさんって、まだ二十六ですよね」
「さやかたちの年齢からしたらおじさんだろ」
「私は、そんなに差は感じませんけど」
みなとみらいの風景は美しく、都会的に整理されていた。どこを切り取っても一枚の絵みたいだ。綺麗。地に足が着いていないふわふわとした夢心地が私をエスコートしている。
「五分間だけ──」
自分でも何を言おうとしているのか、わかる前に話はじめた。ハラミ先生がこちらを向いて私の言葉の続きを待つ。目が合う。恥ずかしくて背けたいけど、今は二人きりだから。
「──彼女になってあげてもいいですよ」
なんだよそれ、先生は一笑する。
何でしょう本当に。私も思う。
「カノジョ、役ですよ。ハラミ先生私たちの世話ばかりで可哀想だなって思って」
思いと裏腹に言葉がペラペラと出てくる。
ほら、となり。座ってください。私はシートの端に座り直し横をあける。
まったく、と先生は私の横に腰掛ける。触れてしまいそうな距離に胸が張り裂けそうだった。はじめて教室に入ってきたその日から先生の一挙一動に心を奪われた。一目惚れだった。くせっ毛でカールした柔らかい髪。ぱっちりと開いた二重瞼。シャープな眉。少し猫背気味で、実は足が速いところ。気怠そうな雰囲気と声。生徒には公平に優しいところ。同級生たちには感じなかった、感情だった。私は何度も私自身に確認した。本当なんだよね、私が今感じているこの気持ちは、と。
私をいつになくこんなに積極的な気持ちにさせているのは、修学旅行のせいだ。
「あー、こどもでいられるのもあと少しかあ」
青い春。少しでも早く大人になりたかった。
何処へ行くのも自分で自由に決められて。働いたお金で好きな服や靴を買い、好きな人と映画を観たりドライブに行きたかった。でも、同じくらいこどものままでいたかった、友達と笑って、好きな人に胸を焦がす今のまま止まっていたかった。青い春は永遠に続かない。季節は巡る。それを知っているから、だから。
相反する気持ちとみなとみらいの空は、西日がおりてきて群青とオレンジが混じったような、濃い模様を描いている。色彩がぶつかる。風景が一際美しく私の瞳に映るのは、修学旅行のせいだろうか。恋のせいだろうか。
ハラミ先生が好きだ。好きって簡単に言えるけど、正直何なんだろう。英語だとLOVE。LIKEじゃないんだ。好きって、ふわふわしていて、だけど強烈で、二十六歳の先生が感じることのできる好きって気持ちと、私のそれは違うのかもしれない。もしかしたら、おままごとのようなものに思われてしまうかもしれない。だけど、私が自分の気持ちを、自分でおままごとだと思ってしまったら、本当におままごとになってしまうから。それだけはわかるから。
色彩をゆっくりと変えるまちの上を散歩する。エアキャビンの中、私ははやる鼓動をもう押さえつけたりはしなかった。
桜木町が見えてくる。集合場所へ歩いている何人かの生徒がエアキャビンを見る。
私は立ち上がって外に向かって手を振る。
絶対に先生と二人で乗っていることに対して誰かが何か言ってくる。適当にごまかそうと決めていた。自分の気持ちをごまかすより、そっちのほうはずっと簡単だ。私は振り返り、先生へ話しかけた。
「好き──」
彼女のような距離感。今だけの特別な時間。
「──な人と、次は乗ってくださいね」
「おまえもな」
先生は微笑んで言う。
返事はしないで曖昧に頷いた。いつか来るのだろうか。好きな人ともう一度エアキャビンに乗る機会が。今度は恋人として。
言葉に出来ない想いは、想いのままでまだここにある。
世界に生まれなかった、私だけの秘密の恋。
言葉に出来ない、だけどせめてハラミ先生、あなただけには伝わって。
夕焼けがハラミ先生の顔を染める。私の顔は、先生の顔よりも、きっと赤い。
好き。私は念じる。先生がいて私がいる。この現実は今ここにしかなかった。一緒にエアキャビンに乗った修学旅行、五分間だけのそれを、例えば十年後、私は思い出すだろうか。ハラミ先生は覚えていてくれるだろうか。
好き。夕焼けが先生の輪郭をくっきりと浮かび上がらせる。私の気持ちも確かに現れていた。確かで、本当の想いだったから、誰にも言えなかった。怖かった。言った瞬間にどこかへ飛んで行ってしまうようで。だから私はただ念じた。
好き。先生と目が合う。
好き。先生は不思議そうに笑った。
「なんだよ」
私は想いとは裏腹の、返事をした。
「何でもないです」
エアキャビンは緩やかな速度で桜木町駅へ着く。
直に、ドアが開く。
先生も私も、じっと目を逸らさない。
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