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37歳バリキャリ女性の婚活体験記(哲学編)

前回の記事では、仮交際の5名からどのように本命を選び、選ばれるのかについて、コンサルワークでよく使うAsIs-Tobe、バックキャストを用いて考えを深めた。

今回は前回とは異なり、エーリッヒ・フロム著の『愛するということ』を読み、哲学的なアプローチで結婚相手について考えてみたい。
婚活のドラマっぽいストーリーではないので、哲学的な問いが好きな方のみお付き合い下さい。

恋愛

<昔の結婚>
愛は本質的には、意志に基づいた行為であるべきだ。すなわち、自分の全人生を相手の人生に賭けようという決断の行為であるべきだ。
ー(省略)ー
昔は、結婚するふたりがたがいに相手を選ぶのではなく、自分たちの意思にかかわりなく選ばれたのだったが、それでも愛し合うことを求められた。

<現代の結婚>
愛とは意志とは無関係に自然に生まれるものであり、自分ではコントロールできない感情に突然捉われるのが愛なのだと考えられている。そうした考え方をする人は、愛し合っているふたりの表面的なところしか見ていない。
ー(省略)ー
誰かを愛するというのは、たんなる激しい感情ではない。それは決意であり、決断であり、約束である。

『愛するということ』エーリッヒ・フロム著

たしかに、祖父母の時代はつり合ったお家柄同士で縁談が組まれ、結婚したと聞いている。当人たちに結婚相手の選択権はほぼなく、両親が見定めたお相手と結婚することが一般的だった。
花嫁・花婿は尊敬する両親の選んだお相手への信頼を元に、自分の人生を相手に賭けようという「意志の行為」として愛し合うことを求められた。

昔の結婚もこれはこれで、合理的だと思う。私自身が人事として人と向き合う仕事をしながらも、「人を見定めるのは非常に難しい」といつも感じているからだ。より経験値が高い年長者の方が人を見抜く目が育まれていると思うので、信頼する両親にその目を使って私に見合うお相手を連れてきてくれたら、それはそれで有難いと思うのだ。
(👆37歳で未婚だから有難いとか言ってるけど、ピチピチの25歳だったら絶対迷惑がってると思う。爆)

現代の自由恋愛による結婚は「恋に落ちて」「恋に盲目」となり、「恋愛の賞味期限は約3年」なので、「勢いがある内に結婚する」とよく耳にする。
真実の愛を誓う者同士は、恋愛感情のみに支配されることなく「あなたを永遠に愛します」と意思に基づいて継続的に決断し、結婚生活を送る。

昔の結婚と現代の結婚の共通点は「意志に基づいた行為が愛である」ということであり、相違点は「結婚相手を自分が選択したか否か」と「結婚前後のどちらで恋愛感情を持つか」ということだ。
果たして、この2つの相違点は結婚の本質に大きな違いを生み出すのだろうか?
私の同級生は現在の旦那様に駅でナンパされて結婚したが、当時の彼女の心境を考えると、昔の結婚に近しいものがあると思う。突然、目の前に現れた男性は両親が選んだ相手でもなければ、彼女が能動的に見つけ出した相手でもない。かろうじて結婚前に恋愛感情は育まれたが、見ず知らずの男性から突然アプローチされる気持ちは、昔の結婚で初顔合わせを行った時の男女の心境に近しいと思う。

ということは、昔と現代の結婚の相違点は本質的には大きな影響を及ぼしておらず、共通点の「意志に基づいた行為が愛である」ということが結婚の本質なのだろうか。

自己愛

この愛を考える前提として、「主体」と「客体」がある。何らかの作用がなされるとき、その作用を担うものが「主体」、作用を及ぼされるものが「客体」である。「主体」の女性は「客体」である男性を愛し、「主体」の男性は「客体」である女性を愛する、という双方向の関係で結婚は成り立っている。

他人への愛と自分への愛は二者択一ではないということになる。それどころか、自分を愛する態度は、他人を愛せるすべてに見られる。原則として「対象」と自分はつながっているのであるから、他者への愛と自己愛とを分割することはできない。純粋な愛は生産性の表現であり、そこには配慮、尊重、責任、知が含まれている。愛は誰かに影響されて生まれるものではなく、自分の愛する能力にもとづいて、愛する人の成長と幸福を積極的に求めることである。

『愛するということ』エーリッヒ・フロム著

このロジックに照らすと、愛情の方向は「主体(女性)→客体(男性)」と「主体(男性)→客体(女性)」だけではなく、「主体(女性)→主体(女性)」と「主体(男性)→主体(男性)」も存在する。
むしろ、他者愛と自己愛を分割できないとのことなので、愛情の流れは「主体(女性)→主体(女性)→客体(男性)」と「主体(男性)→主体(男性)→客体(女性)」の2パターンに集約されるのではないだろうか。

この2パターンの愛情の流れのどこかにボトルネックがあったり、十分な愛情を注げていないと客体への愛情は伝わらないらしい。なぜなら、そこには社会的な生き物である「人間」への根本的な理解と肯定ができていないからだ。

もしある人が生産的に愛せるなら、その人は自分のことも愛している。他人しか愛せない人は、愛することが全くできないのである。

『愛するということ』エーリッヒ・フロム著

あ~、心が痛い・・・・働きづめで失恋して自己肯定感低めのこじらせ女子だった過去のぴょんは、「他人がハッピーだったら、自分は犠牲になってもいい」ってよく思ってた。「周囲のみんながアルマゲドンで死んだら、自分一人で生きていたくない」って思ってた。

でも、ぴょんが幸せじゃなかったら、周囲の親しい人たちは心配で幸せじゃないのよ。アルマゲドンでみんなが死んじゃっても、みんなが私に命をつないでくれたのだから生きなきゃいけないのよ。だってそれがみんなの愛情を受け取るってこと。直近の2年で大切な人を3名、天国に見送ったのだけど、彼らと触れ合った記憶は私への愛情なのよね。
そうした愛情をちゃんと受け止められなかった時は、自分を愛せてなかったし、好きな人に渡しているつもりだった愛情は表面的だった。

もし自分自身を愛するなら、すべての人間を自分と同じように愛している。他人を自分自身より愛さないならば、ほんとうの意味で自分を愛することはできない。自分を含め、あらゆる人を等しく愛するなら、彼らをひとりの人間として愛しているのであり、その人は神であると同時に人間である。従って、自分を愛し、同時に他のすべての人を等しく愛する人は、偉大であり、正しい

『愛するということ』エーリッヒ・フロム著

37歳にしてようやく自分の変人気質に開き直り、自分を愛せるようになってきたのよね。短所もいっぱいあるけど、私はみんなに愛されてここまで生きてきたし、婚活市場では価値が低めの年齢だけど、若い人にはない知識や経験を積んで内面を豊かにしてきた。ちゃんと自分をケアして、相手の人生に肯定的に関わっていける人間に成長してきたんじゃないかと思うのよ。

「で、結婚相手はどうするの?」という問いについては、この本を読むと「誰でもよくない!?」って結論に至ってしまう。爆

まだまだ、婚活ストーリーは続きそうです。次回もお楽しみに!!




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