思春期の残酷な呪いが解けるまで
今まで生きてきて、一等うれしかったことは、過去の自分が諦めたことや、嫌いだと一度は吐き捨てたものを、楽しめるようになったことだ。
おしゃれ、運動、楽器、料理、恋愛、その他もろもろ。
克服のきっかけは、いつも誰かの言葉だったと思う。
そのありがたい誰かは、今でも旅行する仲の友人だったり、テレビや本の中の人物だったりするが、たまたま選択の授業をともにした上級生のような、もう連絡先など手元にない、きっと会うことのない人の場合もある。
そんな人たちにこっそりありがとうと呟く気持ちで、その思い出を大事にする意味も込めて、記事を残したいと思う。
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小学4年生だった。
クラスの男の子が私のアトピー性皮膚炎をからかうイラストを描いて笑っていた。
当時住んでいた地域は治安が悪く、陰気で負けん気の強い私はその土地でナメられないように、言葉も行動も倍返しという半沢直樹を約10年ほど先取りした信条を掲げていたせいで、男の子との諍いも日常茶飯事であったけど、この件は心をザックリ引き裂いたので、そのイラストも、内容も覚えている。
小学校高学年にもうすぐ上がろうという頃だ。異性を意識し始める年の頃で、私の心を八つ裂きにしたお調子者で少し意地悪な男の子たちが、クラスの可愛い女の子たちと、私との間とは全然異なる関係を築き始めているのを、蚊帳の外で感じていた。
同じ「女子」であっても、男の子たちから見れば、そういう棲み分けがあるのだと脳に強く刻み込まれた。
将来の夢を「女子アナ」と書いたり、学芸会でヒロイン役に推薦されても嫌がらせでは?と疑わずに引き受けられる女の子たちと、私とは、先天的に違うのだと思った。
運動も苦手だった私は、学業と絵と、そしてユーモアを拠り所として磨く決意をして、おしゃれや可愛らしいものは自分のカバーできる領域ではないと位置付けた。
その後、マイホーム購入とともに引っ越し、小学校6年に上がるタイミングで転校した。
(めちゃくちゃ蛇足だが、当時普通に好きな男の子はいて、転校による失恋のショックで鬼束ちひろの「call」を永遠に聴いて浸っていた。このときの鬼束ちひろへの熱が今の私のHNに繋がっている。恐らく西日本で最も厨二病ポエムを量産した女子小学生は私である。その男の子も非常に人格者であり、感謝すべき人のひとりだと思う。)
転校した初日、めちゃくちゃ牧歌的なクラスの男女仲に驚愕した。小学6年生になるのに、もう小学校では一番お姉さんでお兄さんなのに、昼休みには皆でドッジボールと隠れ鬼を交互にやる日々を過ごした。
ただ、そんな平和なクラスでも皆思春期は始まっている。大変健全な内容ではあったが、恋愛の噂は絶えなかった。そして卒業までの一年間、当然のように私がその学級恋愛ドラマの表舞台に上がることはなかった。今思えば、小学生で恋愛を謳歌している子なんて当時何割いたんだという話であるが、私と親しくしてくれた女の子が非常に器量がよくて、面倒見もよい素敵な子で、告白の場に付き添ったりしたこともあったので、この1年で私は「平和な世界においても自分は何も起こらない側」との自覚を強めた。
そして、中学に上がる前の春休み、見知らぬ男子学生にすれ違い様にブスと罵られる通り魔的事件が発生した。
本気の他人に、何も悪いこともしていないのに、突然容姿を罵られた経験は、小学4年生の頃の経験と重なって、「ああ、自分は醜いんだ」と思った。本当に会ったこともない赤の他人の一瞬の言葉なのに、今もその男の子がどんな抑揚で言ったか、地元のどっちの方向へ自転車を立ち漕ぎして去ったのか、今でも思い出せる。
醜い私が、おしゃれをしたって似合わないし、恥ずかしいだけ。可愛くなりたいとあがけばあがくほど、滑稽なだけ。
最低限の清潔感のための手入れはしていたが、おしゃれに関しては非常に消極的になっていたし、何よりこの事件で年頃の異性に対しての苦手意識が増してしまい、中学に上がってからは男の子とは学校や塾で冗談を言い合う程度の最低限の交流はあるものの、放課後に遊ぶというようなことも全くしなくなっていた。※この事件単体でそうなったというよりは、ネットにハマってオタク化した自分に対し、かつて小学校で親しくしていた友達はギャル化が進んで疎遠になり、男女混合で遊びに行くようなイベントが消滅した背景あり。
そして高校へ進学し、中学時代からロキノン系バンドに傾倒していたこともあり、軽音楽部に入った私は資金調達のために友達の紹介でコンビニでアルバイトを始めた。
そのコンビニに、他校の1つ上の男の先輩がいて、よくシフトが被っていた。
ピアスも開けてたし、結構なM字バングだったし、同じバイトのシングルマザーと付き合ってたし、私以外の人とは結構しゃべるのに私とはあんまり喋らないから苦手で、2人シフトの時は結構苦痛に感じていた。
けど、ある日その先輩が言ったのだ。
「化粧水何使ってんの?」と。
私は皮膚科通いで肌荒れが治まっていたが、乾燥でもしていて、見苦しいから指摘されたのかと思った。化粧水なんて使ったことがまだなかった。
皮膚科のヒルドイドクリームを顔用に配合したやつだとおそるおそる回答すると、先輩は「肌きれいだから参考にしようと思ったのに皮膚科は行くのめんどくさい」と言った。
正確には参考にしようと思ったのに以降はそんな感じのことを言ってた気がするというだけで、あまり覚えていない。だって前半部分にめちゃくちゃ驚いたから。
肌がきれいだなんてそれまで言われたことがなかった。
小学生の頃、クラスメイトが書いた私のイラストには肌荒れを示す斑点が赤ペンでめいっぱい描画されていたのだ。
親心からだろうが、母にはよく肌荒れを防ぐためにちゃんと皮膚科に行きなさい、また掻いてる、ほら荒れてる、と指摘された。
普通の人の皮膚と自分の皮膚は異なるものだと思っていた。
なのに、目の前の全然仲良くない男の人が、わたしの肌を褒めている。
私はその場ではお礼のひとつも言えずに、シフト中も大して話をするでもなく相変わらず沈黙の多い時間を過ごしたが、退勤してすぐに同じバイト先の友人に、その出来事を喜びと驚きいっぱいで報告した。
その友人は小学6年生の同級で、高校からまた親しくした仲だったので、私がアトピーで悩まされてきたことを知っていた。
その友人がまた、言うのだ。「鬼草は肌がきれいになったよね~。」と。軽く。
私が確認する度に、本当にそう思うと繰り返してくれた彼女に、私は思い切って打ち明けた。
おしゃれをもっとしたい。あなたみたいに、お化粧もしてみたい。
言ってからは本当に簡単に、自分が変わっていくのを感じた。幼馴染のその友人は、すぐに私に化粧を試しに施してみてくれたし、美容院もおすすめのところを教えてくれて、私は初めて町から離れた美容院に行き、友人と相談して決めたヘアカタログを見せてしっかりとオーダーをした。死ぬほど恥ずかしかった。
高校でバンドを一緒に組もうと誘ってくれた友達がとてもおしゃれな子で、そしてとても私を褒めてくれたから、私は今までのことなど嘘のように、素直におしゃれを楽しむようになった。自分を馬鹿にした誰よりも、ずっとおしゃれだと思う子が、自分の変化に気づき、肯定してくれることが心強かった。お化粧も持ち前のネットスキルでいっぱい調べて、たくさんの女の子と情報交換して、少しづつ様になるようになった。
あんなに美容が怖かったのに、脇の脱毛だって行けたし、その話題をクラスのダンス部のキレイな女の子と笑って出来るようになった。
バイト先の先輩とも気が付いたらめちゃくちゃ打ち解けて、シフトが被ればお互い全力で品出しをして、余った時間はレジでのお喋りに興じた。あのバイト先には結構厄介な人もいて、女子高生バイトたちを性的な話題で傷つけてきたりする男の人もいたが、先輩はやんちゃな人特有の面倒見のよさで下心も無く、こちらの文化祭に顔を出してくれたりと、わりと良くしてくれていたと思う。
そのうち先輩は付き合っていたシングルマザーの妊娠を機に学校もバイトも辞めて就職したので関わることも減った。
会うことはないが、些細な一言がわたしの思春期の呪いを解くきっかけ、後押しのひとつとなったことを、このネットの片隅でお礼申し上げたい。
思春期は敏感すぎて、ちょっとした些細な発言が、トラウマになったり逆に支えになったりする。
あの頃受け取った、それなりに遠い関係性のひとの言葉だったりが、今でも胸の支えになっている。
わたしはそれをそっと取り出してみる度に、自分はどうせなら支えになる側の言葉を発したいと思ってみたりする。
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