【創作SS】さよなら、満島くん
幸せの象徴のような、真っ黄色の並木道。学外の人間も往来する昼下がりのキャンパスで、満島くんは森見登美彦作品から飛び出したような黒髪の乙女に微笑みかけている。
不謹慎を承知で、コロナ禍に感謝してしまう。わたしは周囲に悟られないように、声を圧し殺してマスクの中で泣いていた。
・・・・・・
この都内のマンモス校にある数多の食事処のの中で、一番古くて、一番安い食堂が、わたしの職場だ。
四十路を目前に控えた身だ。毎日毎日、おびただしい数の学生たちに、丼や麺類を振る舞い続ける生活で、特定の学生に思い入れを抱くなんて、夢想したこともなかった。
生涯現役で恋愛を謳歌する人を否定する気はないし、生きていれば何が起こるかはわからない。ただ、自分よりひと回り以上も下の青年が対象だということに、私自身がどうしようもなく戸惑い、平常心を保てなくなっている。
年が離れすぎているだけではない。縁もゆかりもない相手だ。
フルネームを知らないどころか、実のところ、ミツシマくんが満島くんであるかどうかも分からない。いつもひとりで食事をする彼を、教授がたまたまそう呼び掛けているのを盗み聞きしただけだからだ。なんなら下の名前がひかりとか真之助で、満島はあだ名かもしれない。
なんにも知らない。
この情報量に対して、わたしが彼に抱く感情量は、異常だ。
ふと、中年が年端もいかない少女に恋慕し、罪を犯したニュースが頭をよぎる。
人生何が起こるか分からないと、他ならないこの恋が証明している。わたしもいつか、罪を犯してしまったらどうしよう。
そんな風に考えるようになった頃、満島くんから食券を受け取り、碗を出すだけの接触を、なけなしの平常心を装ってやり過ごしたいつも通りの昼の後に、それは起こった。
昼時のピークも過ぎ、そろそろ休憩をとろうかというタイミングに、学生たちがせせら笑う声が耳に入ったのだ。
ーーミツシマはカナコに相当熱を上げているようだ。並木のベンチで堂々とアプローチを仕掛けている。
にわかには信じ難かった。
こんな大きな大学で、いつもひとりで食事をとっているような満島くんが、女学生に熱を上げる姿が想像できなかった。
この目で確かめなくては。思うより先に足は並木道へ向かった。
向かった先で目にしたのは、見たこともない満島くんの満面の笑顔と、曖昧な笑みを浮かべるカナコの姿だった。
私は涙していた。マスクの中で頬が不快に湿っていくが、そんなことはどうだってよかった。
嬉しかったのだ。
満島くんが意中の女性といる姿を見れば、もしかすると自分は狂ってしまうのではないかと何度も懸念したが、わたしは今その光景を目の当たりにしても、殺意や暴力的な衝動は湧いてこない。
自分が犯罪者とならなかったことへの安堵を味わっていると、カナコが申し訳なさそうに、けど意を決したように立ち上がり、一礼した。
「満島先生のお誘い、本当に光栄なんですが、今回は家庭の用事が……」
カナコの言葉は震えているものの、はっきりと届いたが、正しく理解するのには時間を要した。
今、この乙女は満島先生、と言った?
年の割りに落ち着いていると思っていた。当然である。彼はここの職員らしい。ひとりで食事をとるのも、教授に君付けで呼ばれるほどにまだ若く、研究室を持たない職員であれば珍しいことではないだろう。
学生のせせら笑う声が頭に響く。
満島先生が幾つかは知らないが、生徒に個人的な関心を向けるなんて。満島くんへの執着があっという間に満島先生への軽蔑へ裏返る。
そしてその眼差しは、その冷たさのまま、その先しばらくわたし自身を凍えさせた。
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