雪山とコーヒー(2)
兵庫県北部と鳥取県の県境に雄大にそびえる標高1510mの「氷ノ山」という山がある。山陰地方では大山につぐ高峰である。標高800m以上の山腹には天然記念物のイヌワシやツキノワグマが生息する。豪雪地帯に位置するため雪深さは凄まじい。
2月末の明け方、5時。車内の寒さに目が覚めた。ぼんやりとした青白く薄暗い空が目の前にひろがる。世界が動きだす前の一瞬の静寂。寝袋にくるまりその情景をうっとりと眺めていた。オレンジ色の光がその青白い空に混ざった。青とオレンジの混ざったあわいの時間。そんな不思議な時間は夜明けとともに一瞬ですぎさった。昨夜、水筒にいれたホットコーヒーを一気に飲みほし装備を整え、雪の氷ノ山の頂を目指した。
登山道までくると凄まじい雪に圧倒された。氷ノ山にのぼるには兵庫県側と鳥取県側の二つのルートがあるが、登山客が多いのは鳥取県側。ネットで調べると昨日、兵庫県側から登った人が1人いたことが分かっていたので何とかなるだろうと思ったのだが、思った通り1人の足跡が残っていた。雪が積もると地形自体が変わってしまうので、この心許ない足跡をたどっていくしか仕方がない。アイゼンを装着し、2mほど積もった雪面に足を踏み込むと「ズボ」っと勢いよく膝上までふんごむ始末。雪山は初めて。しかも単独の登山。厳しい山行になることはこの1歩目から十分に予感された。「引き返す」という選択はない。山があれば登るしかないだろ。
平坦な雪道をズボズボ、ふんごみながら進みようやく実際に登っていくところまでくると60度以上の急斜面が待っていた。足跡は続いている。ピッケルを突き刺し、「転落したらアウトだな」という足の震えと恐れの感情と戦いながら独りで登り続けた。「うらにし」と呼ばれる日本海側特有の変わりやすい天候は容赦なく、気がつけな厚い雲が空をおおった。まだ午前中だというのに、薄暗く、目の前の雪の壁に心が折れそうになるのを、何とかかんとか己を励まし、息を切らしながら登ったのだ。途中、平坦で見晴らしのよいところにでて、ザックからバーバーと水と簡易やかんを出しお湯をわかした。ドリップコーヒーをsnow peakのピカピカ光るコップに注いだ。湯気と一緒にコーヒーのよい香りが爽やかに体の中に入っていった。この静かな時間が何よりも愛おしい。ナイロンジャケットとフリース素材の上着を脱いで、ほてった体を雪山の風で冷ました。「がさ」っと音がして大きな鹿があらわれた。目と目が合ってお互いにかたまった。角の立派な大きな鹿だ。大きな美しい黒い瞳を見つめてうっとりと眺めた。その瞬間、勢いよくかけ鹿はどこかに消えていった。野生動物との遭遇。「うおおー!」と思わず声を出す。この野生動物は異界へ誘う使者のようだった。遠くで奇妙な鳥の声を聴いたような気がした。気持ちを落ち着かせゆっくりとコーヒーを飲んで再び、歩みを進めた。
しばらく行くとさらに急勾配の坂道が待っていた。あたりは雑木林で見通しが悪い。おまけにガスってきて分厚い雲が空をおおい、心細い1つの足跡を踏んでとぼとぼと歩いた。「ふうふう」息を切らせ登る。暗い闇の世界に焦燥感は増す。時間をかけてようやく登り切るとだだっ広い見通しのよい場所に出た。見覚えのある場所にほっと安堵し勢いよく歩を進めた。時間は12時過ぎ。ここまでくるのに3時間以上かかっている。日が落ちる時間を考えるとそろそろタイムリミットがせまっていた。「14時がタイムリミット…」引き返す時間を決めて急ぎ足で雪を踏み分け進んだ。休憩スポットの避難小屋まで到着。時間は13時過ぎ。分厚い雲はどこかへ行き青空が顔を出した。山頂が遠く視界に入った。「引き返そう…」「目の前に山頂が見える」「引き際が大事」「通常なら30分あれば山頂まで行ける距離」「日が落ちてから暗闇を歩くことになるかもしれないぞ」「急いでいけば大丈夫」体を休めしばし進むか引くか自問自答をした。結局、「まだ見たことのない世界を見てみたい」という素直な欲求に従って進むことにした。決断にかかった時間は1分もかからなかっただろう。この後、地獄をみることになるとは全く知らず、一応、何かあった時のために「18時過ぎても連絡なかったら警察に連絡して」と何人かの友人にLINEで連絡をして、アイゼンを締め直し無謀にも歩を進めたのだ。この死と隣り合わせのギリギリのエッジをいくということに「生きている」ということが実感されるのだ。下界では社会的な仮面を被り、あらゆるバイアスやヒエラルキーに晒されながらサバイブする消耗戦を余儀なくされる。しかしこの雪上ではそんなことは一切、関係がなくなる。深呼吸をする。山の冷たい空気が肺に入り、己の体の細胞は悦びに溢れるのだ。人を寄せ付けない圧倒的な美しい雪の世界に1人とぼとぼ無心に歩く。ただシンプルに歩くことと呼吸をすることに集中する。複雑な思考にとらわれることなど一切ない。歩くこととは瞑想である。1人分が歩ける道を歩き眼下の崖をみる。体の末端の神経が働いていることをはっきりと感じ滑落する恐れなど全くなかった。この瞬間、宇宙とひとつになっていた。
最後の難関を登る途中、目眩がして明らかに体力が想定以上に消耗していることに気がついた。喘ぎ喘ぎしながら、山頂付近の最後の登り道を地を這うように進んだ。「まずい…消耗している」と心の声がする。山頂に着いた頃にはまた分厚い雲が出て激しく雪が降り出した。最後の力を振り絞り山頂の避難小屋に入る。埃っぽく薄暗い室内に不安がさらに増す。数日前に人がここにいた痕跡を残し、しんと静まりかえり、自分の荒い呼吸以外、この世界に音など何もなかった。
窓の外を見ると雪は先ほどよりも激しさを増していた。雪の国の魔女にでも誘われているのだろうか。「長居してはいけない」細胞が警告するが体が疲労で動かない。しばらく体を横にしてようやく思考も体も動きだし、まずは食べて体力を回復させようと思った。バーナーに火をつけお湯を沸かす。火はいい。冷え切った室内に勢いよく生命の灯火が燃えているようだ。空気圧でパンパンに膨らんカップ麺の蓋をあけお湯を注いで、コーヒーを淹れて外の景色をぼんやり眺めた。スープを鍋にいれてぐつぐつと煮込む。カップ麺を食べ、あったかいスープとコーヒーを胃に流し込むと、体中から汗が吹き出て、冷え切った体はぽかぽかとし、生命がはっきりと燃え出した。
避難小屋に入ったのが14時。窓の外を見つめ30分ほど休憩し、避難小屋を出たのが14時30分。単純に5時間かけて山頂まで登った。日が暮れるまで2時間弱。完全にアウト。この瞬間、強烈に生存本能が働き光の速さで思考が走った。スマホの電池残量とバッテリーを確認し暗闇を歩く覚悟をしてヘッドライトを準備した。避難小屋を出ると雪は変わらず横殴りに吹き、視界は2、3mというところだった。短時間で下山するならいつもの神大ヒュッテのある反対側のコースを歩けばいい。来た道を戻ってあの激しい急勾配を下ることなど考えたくもなかった。来た道と反対側へ歩いて、すぐに状況は悪くなっていることに気がついた。そこは雪の平原があるだけで道などなかったのだ。頼りの足跡もない。「100%、遭難する」と直感し、泣く泣く来た道を戻ることにした。ここで一気に恐怖や不安の感情が湧いてきた。「この雪で頼りの足跡がかき消されたら進むことも戻ることもできなくなる」「足跡が消えなかったとしても日が暮れて暗闇の中で、足跡がどこまで見えるのだろうか」悪い予感に耐えながら、怪我をしないように足跡を頼りに慎重に歩く。目の前は60度以上の急傾斜。体を斜面に対して横にしながらストックを使って下っていく。夢中で下ってあることに気がついた。いつの間にか自分が来る時につけた足跡を見失っていたのだ。目の前は真っ白な真新しい雪。この瞬間、血の気がひいて目の前が奇妙な音をたて霞んだ。漫画でよくあるあの縦線。あれが血の気がひいた瞬間、音をたてて頭から足先まで音を立てて落ちていくのが見えたのだ。真っ白な雪が紫色に染まった。「漫画のあの血の気がひくザアっていう表現は現実に起こるんだ…」と妙に感心しながらも、呼吸は浅く、心臓の鼓動は激しく短く打ち、足先が震えた。苦しくなってナイロンジャケットを脱いで走り出したい衝動をかろうじて抑えた。発狂寸前だったのかもしれない。かろうじて理性が勝ち「まずは落ち着け」と体の奥の奥から指令が出てゆっくりと長く深い深呼吸をした。一息ごとに酸素が脳に行き渡る。「生きたい」という生存本能が働きだすと、視界が再びクリアになっていった。「まずは元の場所まで戻る」という選択をし、急斜面を慎重に登った。登りながら、どのタイミングでレスキューを呼ぶか…レスキューを呼んだ場合に想定される出来事は何か…職場にどう報告したらよいか…「『30代男性、遭難』と翌日のニュースになるのだろうか」そんな細かなことを考える余裕が出てきた。しばらく戻ると別ルートの自分がつけた足跡を発見した。「うおおおおおお!」と思わず声が出て踊り上がった。
その後はノンストップで60度以上の急斜面を転げ落ちながら下っていった。実際、転げ落ちる力を利用すると最小限の力で短時間で下れる。非常に危険な下山であるが陽が暮れるまでの勝負だった。下山中の記憶はほとんどないが、途中、尻を着いた時に視界に入った遠くの山は暗く、雪混じりの空は怪しい色をして、そこは人が入っていく領域ではないというメッセージを発していた。「はっ」と我にかえり、気持ちを落ち着かせようと、避難小屋で水筒にいれていたコーヒーをゆっくりとのんだ。日が暮れるまで、タイムリミットは1時間。さっきまでいた山頂は遠く雪雲に隠れ、ずいぶん下まで降りてきたことが分かった。「何とかなる」と根拠のない自信が生まれ、鹿のように飛び跳ねて、最速でかけ降りた。
17時前、元いた登山口まで到着した。闇が自分の背中のすぐそこまで迫っていた。永久に何もかものみこむ闇が。その闇から逃げるように息を切らし走った。体中は泥まみれであちこちが痛みボロボロだった。車を停めたスキー場の駐車場が見えた瞬間、涙がぽろりとこぼれた。あたりはすっかり暗くなり、透明な透明な青い火が燃えているような空が見惚れる間もなく闇に落ちていった。