Juneteenth
アメリカの独立記念日は、7月4日。1776年の7月4日に英国から13州が独立して、アメリカ合衆国が誕生した。毎年各地で大きな花火が上がり、アメリカ中が自由を祝ってお祭り騒ぎになる日だ。
でも、その日すべてのアメリカ人が自由になれたわけじゃなかった。
それから90年後、1862年の9月22日にエブラハム・リンカーン大統領が奴隷制度を禁止するまでの間、黒人は過酷な仕事を無償で強いられ、反発すればリンチされ、逃げれば捕まり殺され、まともな人間として扱われることはなかった。しかも最後まで黒人奴隷解放に抵抗したテキサス州のプランテーションにこのニュースが届いたのは、それからまだ3年も後の1865年6月19日。だからこの日が黒人たちにとって本当の独立記念日。Juneteenth、ジューンティーンスと呼ばれる大切な日だ。
でもそのことを私は、恥ずかしながら今年まで知らなかった。ジューンティーンスという日の存在なんて、これまで誰も教えてくれなかったし、それに関する情報だって、見たことも聞いたこともなかった。日本の教科書にももちろん掲載されていなかったし、アメリカでも知らない人の方が多かったと思う。
それほど黒人差別が世界中でシステミックに浸透していたことすら、私は最近まで気づかなかった。アメリカで黒人が犯罪を犯したり暴動を起こしたりするたびに私は、「そういうことをするから黒人のイメージがどんどん悪くなるんじゃないの?」とさえ思っていた。
ニュースでひどい事件が報道されるたびに、「どうか犯人が黒人でありませんように」と、私は真剣に願ったりもした。
なぜなら私は、ワシントンDCの大学に通っていた時、同じクラスで知り合った黒人の男の子と、一回めの結婚をしたからだ。その頃流行った言葉に「できちゃった婚」というのがあったが、まさに私の結婚はそれだった。
「結婚なんて、子供ができて仕方なくするものよね」なんて、若かった私は生意気なことを言っていたけど、私の母は「なんでよりによって相手が黒人なの」と悲壮な面持ちだった。
そういう黒人に対する差別が日本にあることは重々承知していたものの、当時のアメリカでは、マイケル・ジャクソンやプリンス、マイケル・ジョーダン、ウィットニー・ヒューストンと、大活躍する黒人が枚挙にいとまなく、南部の田舎はともかく、都会ではもう人種差別なんてそれほど深刻ではないだろうと、無知な私は勝手に思い込んでいた。
私の祖母がいつか「肌の色とか、人種とか、そんなこと関係なく愛し合った人たちには、神様がごほうびに美しい子供を授けてくれる」と言った通り、私はカーリーヘアにパッチリした目のかわいい女の子を産んだ。
娘を連れていると、メトロに乗っていても、デパートを歩いていても、見知らぬ人たちから「なんてプリティな赤ちゃんなの!」と、私はしょっちゅう声をかけられた。そしてほとんどの人たちは私のことを、アジア人のベビーシッターだと思っていたようだった。小柄で丸顔の私は、いつも中高校生にしか見られなかった。
その頃私の義母はまだ40歳で、学校の先生をしていた。義母の再婚相手で前夫の継父だったジョージは、ベトナム戦争に出征した経験を持つ空軍の退役軍人で、ワシントンDCのオフィスで働いていた。彼らはいわゆる黒人のミドル階級で、大半の黒人たちに比べたら、教育もあり、食べることにも困らない、幸せな暮らしをしていたはずだと思う。
前夫の母方の祖父母は、ワシントンDC郊外のバージニア州に住んでいた。広い敷地に赤煉瓦造りの家があり、裏庭では時折野生の鹿を見ることもあった。私の前夫は、幼児の頃に両親が離婚してから小学生の時に母親が再婚するまでの間、その祖父母の家で暮らした。
厳格な祖母は、まだ子供だった私の前夫が何か悪さをすると「庭から枝を拾って来なさい」と言い、その枝をムチ代わりに孫の尻を打ったと言う。細い枝を拾ってこようものなら、枝の代わりにベルトを使われるから、程よい太さの枝でなければならなかったと、前夫は私に思い出を語ったが、それって今だったられっきとした「児童虐待」だ。
後に何かの本で読んだのは、奴隷として主人から日常的に鞭打たれていた黒人たちが、同じように自分の子供たちを鞭打ってしつけるようになり、両親や祖父母に鞭打たれた子供たちは、同じようにその子供たちに鞭打つようになったのだろうと言うこと。でもそれは黒人社会に限ったことではなく、今でも世界中のあらゆる場所で続く、暴力の連鎖だ。
前夫の祖母は、誰に鞭打たれて育ったのだろう。
そして、私はなぜもっと彼らから昔話を聞かなかったのかと、今本当に反省している。私は子供たちを日本語で国際人として育てたけれど、長女と長男には、半分黒人の血が確実に流れているのだ。ご先祖様は遠いアフリカで動物のように捕獲され、奴隷船に乗せられて来て、家畜のごとく競りにかけられ、白人が富を築くために無償で働かされた黒人だったのだ。
私が覚えている前夫の祖父母は、いつもきちんと身なりを整えて、真面目に、丁寧に暮らしていた。毎週教会に行き、庭で野菜を育て、グリーンビーンズや豆を瓶詰めにして保存し、全粒粉のパンを焼き冷凍し、家族が集まる日には、それらが全て温められてテーブルに並んだ。
前夫の祖父は、私たちの娘が生後4ヶ月ぐらいの時に亡くなった。お葬式は、バージニアの片田舎のだだっ広い農地の中にポツンと建つ教会で行われ、初めてそんな風景を見た私は、「これはまさに映画カラーパープルの世界だ」と感動した。
黒人のお葬式はちっとも湿っぽくなくて、牧師さんの一言一言にアンティーやアンクルたちは「イエッサー!」「アーメン!」「ハーレルーヤ!」といちいち反応し、だんだんエスカレートして、しまいにはエレキギターを片手に歌い始めた牧師さんと一緒に、参列者も聖歌隊も手拍子足拍子の大合唱で盛り上がった。
赤ちゃんを抱っこしたティーンエイジャーのアジア人ベビーシッターにしか見えない私は、そこで熱唱されるゴスペルを一曲も知らず、かなり場違いな感じで、でも興味津々で、硬い木のベンチにおとなしく座っていた。
今年、ミネアポリスで白人の警察官がジョージ・フロイドの首を膝で押さえつけ、公衆の面前で窒息死させるという悲しく残虐な事件が起き、そのビデオがSNSで広まったことがきっかけとなり、「ブラックライブスマター(黒人の生命も尊い)」という人種差別反対運動が再燃。数多くの若者たちが肌の色に関係なく立ち上がり、新型コロナウイルス禍がまだ収束されない街でデモを繰り返した。
ここには書き切れないほどの黒人差別が、アメリカにはまだきっちり残っている。肌の色だけで「危険人物」とみなされ、乱暴に扱われ、殺されることだって多々あるという理不尽なシステムが公然とある。
私は、大人になった息子がバンドのツアーで本土に行くたびに、どこかで警察官に職務質問されて嫌な思いをするんじゃないかと不安だった。でも今考えてみれば、嫌な思いどころか、どこかの街で、公衆の面前で、道端で、いとも簡単に殺されていたかもしれないのだ。
ハワイに住む日本からの日本人は、自分が白人側だと思っているフシがあるけれど、日本人も米国本土に行けば、当たり前のように白人から差別を受ける。
だけど今、黒人だけではなく、ネイティブアメリカンも、アジア系もラテン系も白人も、たくさんの若者たちが「ブラックライブスマター」にフォーカスし、とにかくこのシステミックな黒人差別を止めなければならないと、心をひとつにしている。ただ、そんな素晴らしい動きがあるのと同時に、それに対抗する白人至上主義者の大きな組織もある。内戦を恐れる声さえ聞こえてくる。
今、私たちが力を合わせて戦うべき相手はウイルスだというのに。
450年もの間、ずっしりと重く見え隠れしながら続いてきたこの差別の鎖を、私たちはこの時代で断ち切らなければならない。そのためには、この暗黒の歴史から目を逸らさず、大切なことを学びとらなければならない。そしてそれを子供たちに教え続けなければならない。
Happy Juneteenth.
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?