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日本沈没は本当に起こるのか?希望をもつために必要なこと

さて、日曜劇場「日本沈没」がこのタイミングで放送されるのは、原作が刊行された1973年と現在がオーバーラップするからだと思う。

1973年といえば、全くもって関係のないことだが、私が生まれた年だ。

この年はオイルショックで原油が高騰し、トイレットペーパーを買い漁る国民の映像が記憶にある。ちょっと前のコロナ初期に起きたマスクやトイレットペーパーの買い占めを思い出す。

では、この混沌とした時代に「希望」の光を照らす未来は本当にあるのか。

答えは、YESだ。

もっとも、希望がない未来に絶望するくらいなら、黙っているより行動したほうがよいという単純な結論なのだが、ドラマでも議論されることとなる「移民」に対して日本国民の4割は「移民したくない」らしい。

主演の小栗旬は中国での移民計画を「ジャパンタウン構想」として希望の道筋を広げたのだが、最終回を待たずに自分の見解をnoteに書いておこうと思う。

さて、本当に日本が沈没し、移民しなければならない状況が起こったときジャパンタウン構想などと言っていられるのだろうかという疑問が残る。日本の都合で移民させていただく身としては少々生ぬるい気がするのだ。

このドラマがコロナ時期に放送される意図を考えると、日本政府への希望ばかりがフォーカスされ、個人の行動力が損なわれる気がしてならない。

自分は今なぜこの土地で暮らすのか?言葉も文化も違う土地で暮らせるのか?環境の変化に対応できるのか?生きていく上で必要なスキルは習得しているのか?

生まれたときから何不自由なく育ってきた日本の恵まれた環境がなくなったとき、私は生きていけるのだろうか?

大げさに聞こえるかもしれないが、このドラマは良い意味でも悪い意味でも考えさせてくれる。地震が多発する昨今の日本列島とドラマがリンクしなければ良いと願うばかりだ。

いや、願っていても始まらない。希望の人という重責を果たすことはできないが、希望を捨てず絶望しないことはできる。

他人は変えられなくても、自分は変わろうと決意することはできる。倒れても倒れても、また立ち上がればいい。

日本が沈没しようがしまいが、生きていく上で、けっきょく場所は関係ないのだ。

場所が関係ないのはコロナになってからのリモートワークにも通ずることで仕事も生き方にも当てはまる。できないのではなく、やろうとしない。肝に銘じておこうと思う。

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