
心理的安全性とは何か?
「心理的安全性」というワードを知っているだろうか。近年、しばしば耳にすることも増えたのではと思う。
「心理的安全性がある」という表現が意味するのは、提案をしたり、質問をしたり、懸念していたり、失敗したことによって、罰せられたり、恥をかかされたりすることがないと信じている状態のことだ。
「こんなことを言ったら怒鳴られてしまうかも」
「わからないけど恥ずかしくて質問できない」
こんな心理状態にあるとき、心理的安全性がないと言えるだろう。
私はソフトウェアエンジニアとして働いている。今までは数人のチームで仕事を進めてきた。約10年ほどこの仕事を続けている中で「心理的安全性」というワードを知った。
意見や質問を素直に発言できる環境をいい環境だと感じる人は多いだろう。その一方、懸念を覚える人もいるのではないだろうか。
「反対意見を出してはいけないということなのだろうか」
「どんなことでも受け入れろということなのか」
「怒鳴る必要がないのはそうだけど、違うと思ったら違うと言ってはいけないのか」
実際に私もこのモヤモヤを感じた時期があった。「議論の全てがだめだ」と言われている気がしたのだ。
しかし、このモヤモヤは「心理的安全性はなぜ必要なのか?」ということを知ったときに解消された。
心理的安全性は、真実を避けずに難しい話し合いをするため、助けてもらったり、協力したりするためにあるものだ。はっきりと意見を言ったり、厳しいフィードバックをしたり、良い行動と良い議論をするためにあるものだ。
「絶対に指摘すべきことだ」と思ったとしても、それが受け入れられない、さらには怒鳴られる、とわかっていれば言い出すことは難しい。この一つの意見がより良いものを生み出す鍵だったかもしれないのに。
だからこそ「この環境では私の意見は、一つの意見として誠実に扱われる」と信じられることは重要だ。逆もまた然り。「この発言は私自身を攻撃しようと思って言ったことではない、課題を解決しようとしているのだ」と思えることも重要だ。
ここに辿り着けたのは、数年前のとある公演を聞いたからだ。中山ところてんさんの Developers Summit 2019 Summer での『心理的安全性の構造』という公演だ。
あのタイミングでこの公演に出会えたことは本当にラッキーだった。満員で立ち見をしながら必死にスマホでメモしたことを覚えている。
この公演を聞いたことで、心理的安全性は「何でも受け入れる場」ではなく、「率直な議論ができる場」なのだと理解できた。もし当時の私のようにモヤモヤしている人がいたら、この考え方が少しでも役に立てば嬉しい。