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言葉に迷うということ

普段何気なく使っている言葉の中にも、様々な偏りや価値観が潜んでいることに気づく。

たとえば「普通」という表現。「普通こうするでしょ」という意味合いの「普通」だ。この文脈で使われたとき、使った人がどうであれ「みんなこうしているんだからつべこべ言わずこうしようよ」というニュアンスを感じてしまう。

ちょっと毛色は違うが「食べられない」も使わないようにしている。私は納豆が大の苦手だ。昔は「私、納豆食べられないから」というような言い方をしていた。あるとき、「食べられないんじゃなくて苦手なだけだよな」とはっとした。

「脳死で目の前の作業をこなす」も絶対に使わないようにしている。考えることを放棄している表現や疲れ果てているが作業をするときの表現として、ついつい「脳死」という表現が浮かんでしまう。現実の医療現場で深刻な意味を持つ言葉を、安易に使うべきではないと感じる。

それぞれ使わない意味合いは異なる。価値観が合わないので使わない、正しい表現じゃないから使わない、言葉として受け入れられない人もいるだろうから使わない。

価値観が合わないものは思い浮かぶこともない。見聞きしたときに気になる程度だ。しかし、とあるニュアンスを表現したいなというときに浮かぶ言葉の中に、使いたくないなと思う言葉が浮かんでくることはよくある。

もっと語彙力があればなあ、表現力があればなあと思う。そう思いながら辞書を引いて思考を巡らせる。まるで暗いトンネルの中で出口を探しているようだ。

この苦しみも言葉に潜む小さな偏りや価値観を意識し続けることなんだと思う。言葉、表現は、個人の思考を表すだけでなく、見聞きした人にも影響を与える。明日はもっといい表現ができる。そう信じてやっていきたい。


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