出産は実家近くの産院でしました。 その後は確か、生後2ヶ月くらいまで実家でいさせてもらっていた。 シングルマザーのうちの母は、基本仕事でいないため何かを手伝ってもらうことはなく、一日中かわいい赤ちゃんとの時間を穏やかに、かつ睡眠不足で過ごしていた。 沢山の友達がお祝いをくれた。 みんな色々考えて選んでくれて、その気持ちがすごく嬉しかった。 直接会いに来てくれる人もいて、なんともありがたかった。 とてもありがたみを感じながら、赤ちゃんとの日々の生活では、沐浴が個人的に大変
出産1ヶ月前ぐらいまではアルバイトを順調に続けていたが、実は妊娠したての頃はつわりがひどくて働くことができないほどだった。 ほとんど固形物は食べられなくて飲み物しか飲めず、気がついたら7キロほど痩せていた。 産院では何も言われなかったので、そんなものか…?とか疑問に思ってはいたが、つわりが終わったころ、食欲も体重もすぐ元に戻ったので、やはり心配することはなかったのだと思った。 楽しく働きながら過ごした妊娠生活も、いよいよ出産が近付いてきたころ。 予定日にまだまだ生まれ
退職して晴れて自由の身になった私は、高校の時バイトをしていた職場に戻り、フリーターになった。 正直、同じ時間働いていてもフリーター時代の方がお給料は多くて、どんだけ薄給だったのかと思う。 バイト先は、もともと大好きなお店だったということもあるが、働く人たちが少し変わって以前よりもより良い環境になっていた。 抜群に居心地の良い環境で働き始めて約1年後、妊娠が発覚した。 お相手は付き合っていた人で、結婚を考えていたこともありすんなり入籍もした。 体調は母子ともに安定して
牛丼屋さんと秘書の仕事のWワークは、体力的に少しきつかったがどちらも楽しく働いていた。 ただ、社長のセクハラを除けば。 セクハラは入社前日におでこにキスをされてから、毎日のように色々あった。 肩から腰のあたりをマッサージと称して触ったり、歩く時や車での移動中は恋人つなぎをしてきたり、出張の際は同じ部屋に泊まらされて体中マッサージといって触られまくったり… どれも嫌で嫌で仕方なかったが、20歳前後の私は「社長」にそれを嫌と言えることができなかった。 高校の時のアルバイ
牛丼屋さんのアルバイトを頑張ったことで成人式も無事終えたので、次なる目標は「一人暮らし」 母のことはこの時はまだ嫌いになってはいなかったが、やはり一人暮らしというものには憧れるものである。 子どもの頃から「渡辺篤史の建もの探訪」という番組が好きだったり、インテリア系のお店や雑誌には目がなかった。 予算がそこまでないので理想の部屋には程遠かったが、一人暮らしをすることで理想の暮らし方はできていたと思う。 成人式の1ヶ月後、新居での生活が始まった。 友達を呼んだりバイト先
秘書として働いていたころ、20歳になり成人式に参加するかどうかの話になった。 周りの友達はみんな参加すると言っている。 だが私は、仕事上なかなか休みが取れなかったことと連休は来客対応で忙しいため仕事を休むつもりはなかった。 振袖は買っても借りても高いというイメージがあったし、貧乏性の私には敷居の高いイベントだと考えていた。 しかし、ある仲の良い友達にこう言われた。 「一生に一度なんだから出たほうがいい」 私は衝撃を受けた。 「一生に一度」と「仕事をする」を天秤にか
卒業後、すぐに就職した私は地元の小さな小さな会社で働いていた。 接客対応などをしながら、メインは秘書の仕事だった。 仕事は忙しく薄給だったが、仕事柄、色々な会社の偉い人や普段会えないような高貴な仕事をしている人にも出会えたので刺激的でやりがいのある日々を送っていた。 だがここでも一難あるのである。 それは、社長のセクハラ。 入社初日におでこにキスをされてから、 「あ、やばいココで働きたくない。」とは思ったものの、まだ18歳の私はなんの知恵も勇気もなく「すぐに辞める」と
高校3年も不登校ではあったが、先生たちのおかげでなんとか卒業させてもらえた。 部活では、最後の段位試験で一つ上の段を取ることができた。嬉しかった。 大した思い出のない鉛のような生活が続いた高校生活だったが、今も付き合いのある友人もできたし、良かったと言える。 家の中に母の姿は少なくて、新しい彼氏をとっかえひっかえのイメージばかり。 出会い系サイトに登録して「相手が体の関係を求めてくる。そんなのうんざり。」と私に愚痴ったり。ばかばかしい。 母親に対しては、理解不能な部分
不登校ながらも、2年生を無事終えることができ、3年生に進級することができた。 「あと1日休んだら進級できない」と先生たちに言われながら、お情けをかけてくれたところもあったと思うが、なんとか進級できた。 だが、相変わらず身体は鉛のように重たくて、2年生と同様に、3年生も学校には半分くらいしか行けなかった。 入っていた部活にも、あまり顔を出すことができず、罪悪感は色々なところから私を襲ってきた。 そんな罪悪感とプレッシャーが、余計に身体を重くしていたのかもしれない。
学校は、2年生の頃から休むようになった。 私は親のふりをして、学校に休みの連絡をしていた。 母はあまり家にいなくて、そんな私のことに気付いてなかった。 担任の先生は、単位を心配して学校に来るよう連絡をしてきていた。 当時、単位のことや学校のことなど無知だったため、動けないままに休んだり遅刻したりして学校には半分くらいしか行けていなかった。 担任の先生はいよいよ単位を落としそうになっている私を心配して、補習を受けるよう促したり、この授業はあと何回休んだら進級できないこと
友達は多くはなかったが、同級生や幼馴染の子と仲良かったりと悪くない高校生活を送っていた。 部活とアルバイトと家事で忙しくも充実した日々を過ごしていた。 はずだったが… ある日、学校に行くことができなくなった。 理由は自分でも分からない。 行きたくても身体を起こすことができなかったのだ。 ここから、私は不登校になっていく。
私が中学3年生の終わり頃に出て行った母の彼氏。 それからというもの、穏やかな日々が続いていた。 私は、高校生になった。 高校では、入る気はなかったが部活に入りアルバイトも始め、働いたお金はいくらか生活費として母に渡していた。 また、家での食事づくりやお弁当作りも私が担当していた。 これは小学6年生の頃から続けていた。 なぜなら、母は何をしていたのか、いつも帰りが遅かったり帰って来なかったりしていたので私が食事を作っていた。 小学6年生から高校生の間までよく続いたもん
金髪ヤンキー彼氏からの心理的虐待や母との大喧嘩は毎晩続いていたが、薄暗いアパートからは引っ越すことになり、近くの団地に住むことになった。 この団地はどうやら母の名義で借りてるらしく、喧嘩になると彼氏に出ていけと偉そうに言っている。 ついこの間までは自分が言われていたので、言い返しているつもりなのか。 とにかく毎晩のように私たち子どもが怯えるような大喧嘩はやめてほしい。 その彼氏はいつも色々な事で…主に理不尽なことで怒っていたが、一度兄に直接手を出したことがある。 住ん
前の男性からの連絡を無視できずに前の家に通い、虐待され続けるという自分でも意味のわからない日々にようやく疑問をもつようになってきたのが中学2年生の頃。 きっかけは覚えていない。 次、電話がかかってきたら、行くのを断ろう。 だって、相手は車椅子に乗っていて、こちらの家は階段しかないアパートで、下半身付随で自由に動けないのだから、来れるはずがない。 恐怖を感じながらも、そう自分に言い聞かせて次は断る。そう心に決めてその日を待っていた。 そうしてある日、その男性から電話がか
母の彼氏と暮らすようになったからと言っても、前の男性との関係が切れた訳ではなかった。 何かと用事を見つけては、家に電話がかかってきて、前の家に呼び出された。 電話に出なければいい。 家に行かなければいい。 本当ならそうしたかったが、4年かけて積み重なった恐怖の洗脳はそう簡単には解けなかった。 電話がかかってくると無視できない。 呼び出されたら行かないといけない。 そうして家が変わっても前の男性の虐待は続いた。 私が中学2年生になるまで、合計9年間の長い年月だった。
ある日から住むことになった母と母の彼氏との家。 日当たりが悪くて階段や踊り場も薄暗いアパートだった。 どうやら私たちは、書類上はそこに暮らしているのではなく母の実家に暮らしていることになっているようだった。 だから、友達に住んでいる家のことを話せなかったし、内緒にしなきゃいけないと言われていた。 このアパート自体も苦手だったが、やはり母の彼氏は苦手だっだ、というか嫌いだった。 見た目や職業なんかどうでもいい。 雰囲気や、性格が怖くて偉そうで自分勝手で嫌いだった。 暴