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樺沢紫苑著『 幸せの授業』を読んで

以前から疑問に思っていることがあった。

例えば年収も家族構成も同じような二人の人がいたとする。

一人は日々を嘆いて、疲れたという言葉を口癖に、愚痴ばかり言っている。

もう一人は仕事をこなし、家族や友人を大切にしながら、日々を充実して過ごしている。

両者の違いは何だろうか、と。

生きてきた環境や性格だろうか。

どんな考え方にシフトしたら生き生きと自分らしく過ごしていけるのか、たくさんの人を観察し、無数の本を読んだけれど納得した答えは出てこなかった

けれど、明確に答えをくれた本と出合った。

樺沢先生の新刊「幸せの授業」だ。

この本では、精神論や哲学を通じて、人類が常に追い求めてきた「幸せ」の定義を、非常にシンプルに位置付けている。

それは

幸せとは脳内で幸福物質が分泌されている状態である

幸せの授業

というものだ。

なるほど、と思った。

人間は、生物であり、肉体を誰もが持っている。
その肉体に作用している幸福物質の量で幸せが決まるのであれば、身体に差があるように、個人ごとに違っていてもおかしくはない。
本では主な幸福物質は次の三つであると書いている。

・セロトニン→心と体の健康
・オキシトシン→愛やつながりの幸せ
・ドーパミン→成功やお金

しかも、この3つの幸福物質はただ出ればよいものではなく、順番が大切なのだと書いてあった。

このことを頭に置いて読み進めるうち、私は一人の女性のことを思い出していた。

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彼女は家族のために一生懸命に働いていた。
会社からの期待も大きく、同期の中でも一番早く役職に就いた。
職場はハードで、残業は当たり前、時には会社に泊り込むことさえあった。

家に帰ると疲れ果て、ストレスを紛らわすために毎晩、寝静まった家で一人、酒を飲み、オンラインゲームに没頭した。

何か強い刺激的なことを続けていないと、心のバランスが取れなかったのだ。

当時の彼女は、積極的に家族との時間を取ろうともしなかった。

家族を顧みることはなかったが、そんな彼女でも家族は支えてくれた。
比較的に家に早く帰宅できた夫とその両親が子どもたちを育ててくれた。

彼女は働くことで家族の使命を果たし、お金を得ることで家族とつながっていると考えていた。

そんな時、彼女を病が襲った。

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お気づきの方もいるかもしれない。

彼女というのは7年前の私のことだ。

思い出した、と書いたのはすでに私の中で終わって、思い出になっている出来事だからだ。

その後、私は入院し、手術をした。

目が覚めた時、私は酸素マスクをしていて、体中に点滴をつながれていた。

点滴の管は私の動きを制限し、腕を動かそうとするも、力は入らない。酸素マスクは不可欠な生命維持装置であるにも関わらず、ただ鬱陶しかった。

体が思うように動かせず、自分の無力さを痛感しながら私の心は不安と焦燥でいっぱいだった。

横になりながら、周りの世界との隔たりを強く感じ、閉塞感が私を孤独にさせた。

その後の回復していく過程を、私ははっきりと覚えている。

酸素マスクが取れたときの清々しさ。

ふらつきながらも自分の足で歩いてトイレに行けるようになった時の喜びは、これまでの人生で感じたことのない種類のものだった。

足裏に触れる冷たい床の感触、それがこんなにも心地良いとは、健康だった頃には想像もしなかった。

立ち上がるたびに、自分の体重を支える足に感謝し、その動作一つ一つに深い意味を見出していた。涙が自然と溢れ出た。

車いすに乗って看護師さんに散歩に連れて行ってもらって見上げた空は、今まで見た中で一番青く、美しかった。

一連の経験を通じて、私は健康の大切さを深く実感した。以前は当たり前だと思っていたことが、いかに貴重で、ありがたいものかを痛感した。

けれど、私の術後は状態が良くなく、入院は1ヶ月にも及んだ。

その間、私が何よりも感謝したのは、夫の存在だった。

夫は、家のあらゆる家事を引き受けてくれた。彼は毎日、疲れ切った顔をしていたけれど、それでも仕事帰りに私の病室に顔を出してくれた。
彼の目には、睡眠不足の影が濃く落ちていたが、私の顔を見るといつも優しい笑顔を見せてくれた。夫はいつも、私が何か必要なものはないかと気にかけ、私の心配をしてくれた。
容態が落ち着くと息子たちもかわるがわる訪ねてきてくれた。

その時、私は家族の大切さを深く感じた。

家族の無償の愛と支えがなければ、私はあの困難な時期を乗り越えられなかったかもしれない。
家族の存在は、私にとって大きな安心感と力の源であり、彼らの毎日の訪問は私の心の支えだった。
おかげで、私は孤独感を感じることなく、回復に専念することができた。

1ヶ月の入院生活は私の価値観をがらりと変えた。
健康と家族のありがたみを、身をもって知ったからだ。

それからは睡眠をたっぷり7時間以上とり、毎朝有酸素運動を日課にして、お酒も週に1、2度家族と楽しむときに飲む程度になった。

早めに帰宅して家族と夕食を共にすることを楽しみにし、感謝の言葉をいつも伝えるようになった。
お互いの趣味を尊重しながら日々を過ごし、共通の趣味である温泉旅行に定期的にいくようになった。
そのうえで、家族に応援されながら、私は夢を叶えるべく行動している。

今私は、とても、とても、幸せだ。

昔の自分から今の幸せである自分に至る道を「幸せの授業」と照らし合わせると、すべてが腑に落ちた。

私はドーパミン的幸福(成功)を追い求めて、家族との関係も顧みることもなく、身体を壊した。
そのあと、セロトニン的幸福(健康)とオキシトシン幸福(愛やつながり)に目覚めて今を生きている。

この本に記されている、幸せを求める順序が間違っていたのだ。
タイムマシンで過去に戻れるなら、昔の私に説教しながらこの本を手渡したい。

この本は過去の私だけでなく、今の私の考え方を変えてくれた。

なにか幸せだな、と思うことがあると「今感じている幸せは何だろうか」と考え、意識するようになった。

どちらかというとドーパミン的幸福にシフトしやすい私なので、お金やお酒、ゲーム、衝動買いに心が揺れたときには一度立ち止まって、これはドーパミン的幸福だからと、自分を戒めてから進むようになった。

また最近朝散歩を始めるようになり、さらに注意して、幸せな風景を自分の中にすくい上げられるようになった。

例えば、近所の庭にたわわに柑橘類が実っていて通るたびに良い香りがするとか、通学途中の中学生の笑い声が心地よいとか、だ。

今まで気が付かなったことが私の目に、耳に、心に、飛び込みやすくなってきたことがとても心地よくてうれしい。

この本に書いてある、「幸せ発見力」のレベルがまた一段上がったのだと思う。

自分に合った幸福物質の出し方は人それぞれで、個人にしかわからない。

けれど、この本には幸福物質の出し方を見つける方法がこれでもか、というほどたくさん載っている。

「幸せの授業」はまさにタイトル通り、究極で、最もわかりやすい「幸せへの手引書」だ。

私ももっともっと読み込んで、さらに「幸せ発見力」のレベルを上げようと思う。

この本を書いてくださった樺沢紫苑先生、ありがとうございました。


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