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そばで見守るということ

こんにちは!徐々に寒くなってきましたね。

寒さと不安の感情はリンクしているそうですよ。心細くなったら温かいものでも飲んで、ゆっくりお風呂につかりましょう。

さて今回は、「気になる子」が周囲にいるとき、「189に電話する以外で私達にできることはないの?」ということについてお話したいと思います。


これについては、「自分ができる範囲」と「他者に頼る(他者がやるべき)」ことと、分けて考えたほうが良いと思います。

何か力になりたいとおもうと、関わるうちにあれもこれもやりたくなってしまったり、もっとできることがあったんじゃないかと思い悩んだりすることがたくさん出てきます。それは仕事として関わっている私達にも同様にある課題です。

しかし、一人の力でできることには限界があります。すべてのことを自分ひとりができるわけではありません。むしろ一人でなんとか解決しようとして二者の関係にはまり込んでしまうと、支援の輪から孤立化してしまうので危険です。

なので、前回の記事では「周囲の人との共有」や「189ダイヤルの活用」、そして「専門家の介入」についてお話しました。専門的な支援は、専門家に支援させてください。

ですが、普段近くにいる方にこそお願いしたいこともあります。

それは、「そばであたたかく見守ること」だと思います。


具体的に言うと、「偏見や好奇の目でみない」「困っていることに気づく」「拒絶や否定をしない」といった態度で見守ることです。

どうですか? それだけ?と思いましたか? 私は、簡単なようで意外と難しいことだと思っています。

虐待を受けた子は、虐待の影響や愛着形成がうまく行かない影響などで、いわゆる問題行動と言われる「こまった言動」の現れることが多々あります。 (もちろん、実際に周囲の方へご迷惑をかけてしまうことはあるのですが、そのイメージもあってか)中には、偏見の混じった対応や、悪意を孕んだ好奇の目や噂を向けられることもあります。 (以前、児童相談所設置の市民説明会の様子がニュースになったこともありますね) そして、関わりを避けられたり、放置されることもあります。 また、子どもは大人の反応をよく見ているので、親などがこういった態度でいると、その子どももまた相手に対して同じ態度をとってしまうことも多いです。

人は自分に余裕があるときには、他者に親切にしたり、物事をフラットに見たり、細かいところに気づいたりすることは出来やすいと思います。しかし、自分に余裕のないときにも、変わらない態度で接することができる方はどのくらいいるでしょうか。(正直、私はキャパが小さいので難しいです)

余裕のあるときには受け入れられるけど、余裕のないときには突っぱねられたら?被虐児のように人との関係性が不安定な子が受けるダメージは、そうでない子より大きいことが多いです。

もちろん、支援者が自分を犠牲にしてまで支援する必要はないと思います。そういうときはどうしても良い支援ができにくいからです。これはプロの支援者でもよくある課題です。(そして意識的に修正するにはかなり労力がいる場合があります)

だからこそ、「自分のできる範囲」で、「なるべく変わらない態度」で、あたたかく見守ってほしいのです。

「自分を変わらず受け入れ、見守ってくれる安定した環境が傍らにある」

というのは、被虐児に関わらずどの子にとっても、とても大切なことだと思います。

何か積極的な介入ができなくても、こういった心持ちや態度で接するというのが、実は大変有り難いし、それ自体立派な支援のひとつなのだと思っています。


最後に… 中島みゆきさんの「糸」という曲、私もとても好きなのですが、「織りなす布はいつか誰かを温めうるかもしれない」「織りなす布はいつか誰かの傷をかばうかもしれない」という歌詞は、まさにこの支援の輪と同じイメージがします。 一人ひとりにできることは少しのことでも、社会全体がそれを編み続けていければ、きっと暖かく優しい布で包みこむことができるのではないか、と私は思うのです。




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