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寝ても覚めても:関西弁と、ドッペルゲンガー(分身)について

大阪に本社のある日本酒製造会社に勤める亮平(東出昌大)は、東京に転勤になったばかり。姫路出身で、大学までずっと大阪だった。会議で言いたいことを言っていい、と言われて、実際に言うと、上司に怒鳴られた。外に出てタバコを吸いながら、ああ、大阪に帰りたい、と亮平はいう。

川崎生まれの濱口竜介監督は、転勤族の父親について、全国を転々とする子ども時代、青春時代を送った。移動するたびに、人間関係が中断した。人生とはこういうものなのだ、人間関係は維持できるものではなく、自然に終わるものなのだ、と思ったという。

濱口はジョン・カサヴェテスの『ハズバンズ』(1970)に、大きな影響を受けた。カサヴェテスの映画では、人々が感情のままに、唐突な行動、破壊的な行動に出る。日本社会では、これは受け入れられない。思いつきの考えを口に出さず、しずかに言葉をえらびながら話す濱口は、そこに自分の許されない分身をみたのだろう。

東大を出て助監督の仕事につき、商業的な現場が合わずに東京芸大で北野武、そしてとりわけ黒沢清の指導を受けて映画の勉強をした濱口は、15年の東京生活ののち、移動したくなった。そして東北大震災の現場に赴き、かれらの話を聞きつづけ、それを撮った。ここでかれは、ひとが自由に自己表現ができる場所をつくる、ということを学んだ。

大阪弁は東京弁より、突発的に感情表現することに適した方言である。と濱口は思っている。実際、そうかもしれない。自分は典型的に東京タイプだが、と。しかしこの映画に出てくる女優にも男優にも、兵庫出身の渡辺大知をのぞけば、関西人は、いないようだ。

埼玉出身の東出昌大は、朝ドラ『ごちそうさん』で大阪弁を話さなければならず、そのために訓練した技を、ここでも披露している。主役の朝子つまり唐田えりかは千葉出身だが、彼女の喋り方は関西弁だが棒読み的な感じ(これは濱口の映画手法に関連しているが、それはここでは触れない)であり、映画の中でもいわゆる関西人ぽいところは、微塵もない。大阪の朝子の親友、春代(伊藤沙莉)は関西人しゃべり全開だが、伊藤は千葉出身である。

彼らが大阪弁を話すのは、原作の柴崎友香が、チャキチャキの大阪人だからである。しかし濱口も、俳優も、大阪人ではない。そのミスマッチによってこの映画には、独特の言語ないし身体表現が、成立している。

東出昌大は、亮平と麦の一人二役である。地に足のついた本当にいいやつな亮平と、浮世離れしていて、すぐにふらっといなくなってしばらく帰ってこない麦。
朝子と同じように棒読みで話すので、関西弁をしゃべっているようにも聞こえない。パリコレのモデルから俳優に転身した東出は、自分は麦にちかいですね、という。ちなみに唐田は、朝子はほとんど自分、なのだそうだ。

当の朝子や、彼女の最初の恋人である麦が、現実から浮き出た空気感をびんびんはり出すなか、「大阪人」たちが関西弁で、庶民的なツッコミを入れまくる。どちらだけでも、この世界は成りたたない。だから東出は、一人二役でなければならない。麦と亮介は、ドッペルゲンガー(分身)だからだ。

朝子は夢のような存在である麦と付き合っていたが、麦は急に失踪した。その傷を癒すため、東京に移住するが、そこで麦と同じ顔の亮平と会ってまた、ショックを受ける。震災をきっかけに心をひらくようになり、亮平と一緒に生活するようになる朝子。

しかし、亮平としあわせな結婚生活をはじめた矢先、朝子の前に突然、麦が現れた。朝子はかれの手を取って、一緒に失踪してしまう。

この突発的な行動は、日常的には許されることではない。麦のようにふらっと失踪して、オーロラを見てきましたなんていう人も、現実にいないとは言い切れないが、春代が最初に朝子に言うように、「あれはやめとき。あんたが泣かされるだけや」、である。

麦は、アンドレ・ブルトンのナジャのようだ。つまりシュルレアルな、つかみどころのない存在である。夢の世界に心を惹かれる人間が、麦に一目惚れされたら、そこに一途につきすすむしかない。だから朝子は、麦についていく。日常生活では許されないこと、つまり心がときめいたらその衝動にしたがうこと、突発的行動を実行にうつすことを、彼女はとりあえず、してみなければならない。

フィルム・ノワールなら、主人公の男の欲望を刺激し、道ならぬ道に誘いこむ女はファム・ファタル(運命の女)といわれ、引っかかった主人公は破滅する。しかしこの映画は、そういう見せしめ的フィルム・ノワールではない。世界観は、人間が通過儀礼を経て再生する、コメディのものだ。

麦についていったのは、彼女にとって、麦への恋心を本当の意味で清算し、亮介にしっかり向かい合うための、禊ぎのようなものだった。もちろん、彼女がそれを済ませたからといって、亮平が戻ってきた彼女を、すんなり受け入れるはずもない。

結婚後のかれらが借りた家のちかくの淀川はにごっていて、きたない。しかしそのきたなさ、自分の心のカオスにとことん付き合い、それを通過しつづけることでしか、その水が本来持っているはずのきれいさは、みえてくるようにはならない。

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