滞納家賃が魔法のように消えてなくなった話
ロンドンから電車で2時間くらいのところにある、ノーリッジというところに住んでいたときのお話。地元のイギリス人のかれは、長年大きな庭つきの、3LDKの広い家に住んでいた。リビングは20畳くらいあったのではないかと思う。しかし、20年前の話だし、ノーリッジだし、市の中心からはすこし離れていたので、そんなに高い家賃ではなかったはずだ。かれはそこを、友人とシェアしていた。
貧乏な学生のかれは、それでも家賃が払えなかった。かれが住んでいるその一帯には、富豪の大地主がいて、その辺の家を全部所有していた。家賃は大家に直接ではなく、代理店というよりは代理人に毎月払い、代理人が大家に納める、という仕組み。自動振込(Direct Debit)もまだなかったか、少なくとも彼らは使っていなかった。
かれは博士課程の学生だったが、おそらく大学生のころから住んでいたのだろう。この代理人のおじさんは理解があって、学生のかれの家賃を、何度も待ってくれた。そうしている間に、家賃を払っても払っても、それが滞納家賃の足しになるくらいで、払いきれないくらいに、積み上がっていっていた。たしか3000ポンド以上はあった。当時の日本円に換算すると、60万円である。
あるときわたしがこの家にいると、ルイ・ヴィトンのバッグを持った、30代くらいの女性が、現れた。わたしが最初にイギリスに住んでいたのは、90年代後半のことだが、それ以前の日本では、ヴィトンのバッグは、そこらじゅうで見た。しかし、イギリスに住むようになってから見たのは、それが初めてだった。
ちなみに、妹が遊びに来たとき付き合ったことがあるが、当時ロンドンのヴィトンショップは、行列のできるレストランみたいな状態だった。名前を書いて店内で待つのだが、客はほとんど日本人、でなくても中国人か韓国人。
ヴィトンを買うイギリス人もいるのかと、このとき初めて知った。
この女性は、地元の大地主の娘だった。これからは代理人をやめて、わたしが直接家賃を徴収します、と彼女は宣言した。次の家賃から、家賃は彼女に直接払えばいいのだった。
これはなにを意味するか。つまり、それまで溜めていた家賃は、スッパリなくなった、ということだ。今ロンドンに住んでいると、3000ポンドは2ヶ月分の家賃とちょっとくらいでしかないので(ポンドも安くなっているし)、インフレを感じるが、当時の感覚では、かなりの大金である。その借金が、このヴィトンのお姉さんの降臨とともに、消滅したのである。
滞納家賃がどこに消えたのかは、わからない。代理人が工面して毎月ちゃんと払っていてくれたのか、それともそのへん一帯を所有している大地主が、どんぶり勘定だったのか。
なんともおおらかな、まだ昔の面影のあるイギリスならではの、話である。イギリスで物価や家賃がどんどん上昇していったのは、ちょうどこのころ首相になったブレア政権以降のこと。たぶん今ノーリッジに行っても、こんな話はないだろう。いや、田舎に行けば、まだあるのかもしれない。
#イギリス #ノーリッジ #田中ちはる