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是枝裕和の映画作法と、おもしろい映画を撮るように生きること
是枝裕和監督は姜尚中氏との対談(『SWITCHインタビュー 達人達』)で、映画の演出で間違いなく大事だと思うことは、「観察」することと、自分の内側に積み重ねていく「記憶」、そこからの「想像力」である、といっている。
現実の生活者であるとか、風景であるとか、実際に起こっている事象であるとか、そういうものを「観察」すること、そのデッサンをどう描くかということが、重要であるという。
是枝監督のデビュー作(TV)は、水俣病の和解訴訟で患者と国が対立していた時に、双方の板ばさみになって自殺した、環境庁の企画調整局長のドキュメンタリー番組だった。それはノンフィクション、つまり現実の人生の記録である。
しかし現実の人生を撮ることは、いうまでもなく、客観的であるということではない。取材対象とのシンクロニシティ、共振がないと、面白いものは書けないからだ。
つまり対象のライフストーリーを、ある意味自分の物語として追体験していく、人ごとではなく、自分ごととして創造していくというプロセスがないと、真にせまったドキュメンタリーは撮れない、書けない、ということである。ここに芸術と人生の、逆説的真実がある。
是枝監督のメソッドとしておもしろいのは、台本通り撮るだけではない、ということ。その外側にあるはずのより良いものを求めて、台本に書いていないことでも、撮りまくるのである。
そうした多くの映像から編集をしていると、自分が意図していなかった新しいものが、見えてくる瞬間がある。それによってまた、次のシーンやセリフが変えられていく。
こうした編集機と撮影現場との間のキャッチボールにより、世界に潜むリアルな様相が、あらわになってくる。映画が「生き物」として、着地していくのだ。
フィクション、虚構、小説の場合にも、同様のことが起こる。書き手、作り手が、対象となんらかの距離を保ちながら、自分ごととして、つまり共振しながら書いていくことで、「リアル」な作品が生まれてくる。
さらにいえば、読み手も心に共振をもって作品を読むことで、同様に創作者となっていく。
こんなふうに重層的に、人生を素材にして、創造されたものだから、映画はおもしろい。
そしてそういう創造は、映画を撮らないひとでも、実際にやっていることである。
たとえば身内が亡くなって、喪に服す。その衝撃を乗り越えるためには、自分で主体的に、自分の物語を創造していかなければならない。
それができないと、その出来事を、誰かのせいにすることになる。自分の物語としてそれを受け止めることができなければ、人が自分に押し付けた運命だという解釈になってしまうからだ。
それではいつまで経っても、自分の作品になっていかない。
人間はみな、物語作者である。自分のまわりの世界を見回して、どのネタをどんなふうに自分の物語に取り入れていくか、作っていくか、と考えながら、生活していくこと。
自分の人生で起こっていることを、「観察」してみる。そしてそれを自分の内部の「記憶」と結びつけながら、重層的な物語のエピソードとして有機的に関連づける。そしてそこから「想像力」を働かせて、映画を撮るように、自分の物語を作りあげていく。
そういう視点や認知を持つことで、人生はよりドラマティックだったり、ハッピーだったり、それぞれ自分の身体と調和する作品に、進化していく。
そう考えると、おもしろい映画を撮るように生きることが、できるかもしれない。
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