とにかくはじめよう。
今日は2021年1月7日(木)。
別のブログを持っているけど、今はそちらは保留。
心と気持ちを新たにして、日々思うことを書いていくことで、
「表現する」「言葉で伝える」に挑戦。
そうすることで、新たな視点を持ったり、世界が広がったりと、自分の内面の成長を眺めてあげられるといいなと思っています。
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さて、1日目は何を書こうかな。せっかくの初日なのだからすてきなことを書きたいのだけど、少し前からどうしても頭から離れないことがある。
「恐怖」についてだ。喜怒哀楽の感情の中でもたぶんダントツ1位で取扱いが厄介なヤツだと思う。
数日前にふと浮かんだのはこんな言葉「恐怖は盲目」。
恋の盲目とちがって恐怖の盲目は逆方向に一目散というか、恐怖を厄介だなと私が思う理由は、何かに恐怖しているとき、自分のことを全うだと思ってしまっているなぁと自分自身の過去を振り返って思ったから。恐怖することによって自分自身を正当化すると同時に生命防御装置が働く。全身全霊で大事なワタシを守ろうと頑張ってくれる。恐怖は生きていくうえで必要不可欠だ。恐怖がなかったら戦争が起こっていても「あはは〜」とかいいながらあっさりと死んでしまう。
だけれど、日常生活や人とのかかわりの中で、この防御装置にスイッチが入ると、ちょっと厄介。そうなると相手の気持ちなんかには到底なれない。恐怖はいのちを守るために働く防御装置なのだけど、あまりにフォーカスしすぎるとさらに恐怖を連れてくる。自分を守るための防護服が強固すぎて自分自身が身動きがとれなくなる、みたいなものかなぁと思う。
「恐怖しているわたし」を見守ってあげる外側の目がないと、恐怖はどんどん増幅する。でも、少し離れて見守ってあげると、「うん、うん。こわいよね。そりゃそうよね。」と絶対安心な人(=自分です。)がついていてくれるから大丈夫。
今はそんなところを眺めています。
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