ちいさな家の旅
小さい頃、「ちいさいおうち」という絵本が大好きだった。
長い間、家族とまちの歴史を見守ってきた小さな家が、都市化・経済化の波にもまれながらも、最後はまた新しい新天地へ引っ越すというお話。激しい変化に翻弄されるおうちは、そのまま荒波を生きる人たちの感情でもある。いまでもまた新しく買って、息子と読んでいる絵本です。
家は通常、土地に留まり旅をしない。
でも土地や家族の歴史や風景を見守り、そこにあり続けることで、旅をし続けてきたのかもしれない。
今回THEDDO.の事業を通して、そんなことを考えました。
風景と人の気持ちは、どう変化していくのか
最初は家と土地(しかもたくさん)を遠隔継承することが不安で先行きが見えない中、数人の仲間が一緒にやろうと言ってくれて。少し草を払うとこれまで見えなかった場所から家が見え、少し風景が変わってきた。雑草を焼く焚き火もまた楽しく。もう少し頑張って家の100年分の不用品を、捨てるもの・残すものに仕分けながら処分していくと、風景だけではなく自分の気持ちが変わってきた。私はここが大きなターニングポイントだったと思う。
100年分の布団や湯呑みや、そのほか信じられないものたちが次々と出てきてはどんどん仕分けしていく過程で、本当に色々なことを考えた。祖父母の代には基本的に「モノを捨てる」という概念がなく、繕い続けてずっと使い続けてきたこと。だから捨てる、ということがなく、もう使えないものでもずっと取ってあった。それらを見ながら、いかに日々自分たちが「捨てすぎている」かも再認識した。私の場合は普段東京に住んでいるため「明日もまた来られる」という"遊び"がなかったのもよかった(あれば初めて出会う記憶たちと遊んで終わってしまっていたかも)。もう今回の滞在で「やるっきゃない」という異様な集中力で、いま考えてもどうやったか思い出せないほど一気に片付けは進んでいった。
またこれまで知らなかったたくさんの家族の風景(祖父母も曽祖父母も、写真の裏にラブレターのようにたくさんの情報を書き残してくれていて、私は初めて自分の最古のご先祖と対面することになった)を発見し、私はそこに確かにこれからまた進んでいくために必要な「自分の根っこ」のようなものを確認することができた。
同時に鹿児島の夏は暑く、作業環境は過酷を極めていたので、次第にイライラしてきた(笑)なんでこんなものまで取ってあるんだよっ!捨てとけよ〜〜〜!!!と、この感情が意外と大事で(笑)この心理的プロセスを経て、私は完全に悲しみや後悔や未練や「自分が生まれても住んでもいないこの家を、本当に私が手を入れて良いんだろうか」という迷いを、季節とともに変わりゆく家を見ながらサヨナラできたことが大きかった。
家の歴史は人の歴史
そしてとても大きかったのは、「一緒にやろう」と言ってくれた人たちの存在。一番大変な片付けの作業は現地の仲間2人(いずれも移住者)と、関西から駆けつけた、同じくこの家を愛する70代の叔母(この家生まれ育ち)。どう考えても100年分のモノを処分し片付け草刈り竹刈りするには人手が足りていないし、振り返っても大変だったのだけれど、いま思うとこの家の第二の人生(家生?)はここから始まっていたと感じる。
昔の家の茅葺き屋根が、20〜30年ごとに地域の若者たちが寄り合い維持・改修されていったように、親族だけではなくあらゆる人たちの手を借りて家という場が残り続けていくこと。家というのはもちろん暮らしたり滞在したりする物理的な機能を果たす場だけれど、同時にそこに通う人たちの風景や記憶や、目に見えない情緒的な価値を生む場でもある。家のこともどこまでできるかわからないけれど、もしかしたらこの家にいろいろな人が、住まなくても通ったり訪れたりワイワイやっているだけで、少しだけ歴史が更新されていくかもしれないし、ただ家が空き家になって廃屋になっていくさまよりも、みんなが少しずつ明るくなれるんじゃないか。そんな仮説を持つようになった。
人が通うことで再び息を吹き返す家
そんな少しの仮説と、山ほどの課題を抱えて始まったTHEDDO./スッド。
年明けに講演会と空き家を改修するワークショップを実施し、蓋を開けてみると・・、同じような課題を持つ方、夢を持つ方、興味がある方。地元にずっと住み続けている方、Iターン移住者の方、多拠点居住の方。年代もさまざまで、でもみんなそれぞれに地域の豊かな暮らしを再編集したいという思いに溢れている。THEDDO.をきっかけにそんな方々と出会えて、私は危うく泣きそうでした(笑)
そしてこの家からこんなにたくさんの笑い声が聞こえてきたのはいつぶりだろう。さまざまな方の知見を持ち寄って、家がどのように地域固有のユニークな建て方をされているか。いま現在、最も頭痛のタネとなっている瓦屋根の雨漏りは、建てたご先祖の意匠(こだわり)が詰まっている場所でもあること。親族じゃなくても、この家で過ごし私の知らなかった家族の記憶を話してくれる人たち。私はこれまで家の歴史の終わりしか見つめてこなかったけれど、初めて家を建てた4代前のじいちゃんの思い入れや、家が建った時の清々しい始まりの気持ちに出会った気がした。
みんなで襖や畳・床板を剥がし、この家の元々のあるべき姿を見つめ直し、この家だけではなくこの地域やコミュニティや、そして何よりも自分たちのこれからの暮らしを見つめ直す時間は、なんとも言えず「いまここにしか」なく、そして過去や未来とも繋がっている、かけがえのないものでした。
ここから始まるものがたり
そんなスタートを切ったTHEDDO./スッド。
まだまだやるべきことも山積みで、どこまでできるかも不透明だけれど、自分たちの手で風景や暮らしをかたちづくっていけることって、何て楽しいんだろう。私は東京に戻ってきてから、仕事に追われながらもずっとあの家や大隅半島のことを考えています。
また今年も海外のインターン生が来てくれたり、さまざまな機会をつくっていこうと思っているので、よろしくお願いします。(講演会&クラフトワークショップの記事もまたオフィシャルで書く予定です!)