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短編小説 ケーキのサンタは死んだ。
「お母さん、サンタが居ない」
それは、息子の声だった。
十歳になったばかりの息子の声は、クリスマスケーキの箱を開けた瞬間にはそぐわない低さで、仄暗い現実を纏い、微かな絶望さえ孕んでいた。
クリスマスケーキ。
幸せの象徴たる、白い円柱の輪切り。その響きは、明るく神聖な言葉の粒。
異国の文化だと言うのに、刷り込みにも似た得体の知れないときめきに心踊る人も多いだろう。しかし、脳内に膨らむイメージと現実との差異は、この十数年で事の他大きく深くなった。
言うなれば、クリスマスケーキの上の生態系。その崩壊である。
砂糖菓子の身体を輝かせ、時にはトナカイやチョコレートの家まで伴っていたサンタは、もはや絶滅して久しい。三頭身が二頭身になり、ついには頭だけになった時、ケーキのサンタは砂糖という媒体を離れた。味気ないプラスチックの空洞に成り果て、今日が終わればゴミと散ろうとも、ケーキのサンタは健気に使命を全うし続けた。しかし、十数年もの時間をかけてサンタを蝕み続けて来た現実が今日、ついに最悪の形で牙を向いたのだ。
実家の母が毎年、孫のためにと贈ってくれるクリスマスケーキ。私も息子も、親子二代に渡り、この店のケーキこそクリスマスの象徴だった。
しかしサンタは、無残にも消えた。クリームの上に、足跡一つ残す事無く。
おそらくもう二度と、この店のクリスマスケーキに戻る事はないだろう。
ケーキのサンタは死んだ。
ケーキのサンタは生まれない。
少なくとも、我が家のクリスマスケーキからは絶滅したのだ。
そして現実の牙は、ケーキのサンタだけでは飽き足らず、息子の笑顔さえも噛み砕いた。
この世界は、甘くて幸せなケーキの上という、末端の末端から綻び、崩れ始めているのかもしれない。
キッチンの戸棚。観音開きのその扉は今、まるで異界へ繋がる門のように私の前にそびえ立っている。全てはこの時のためだった。そう脳内に囁いてくるのは、天使か悪魔か。取っ手を握れば、扉は微かに軋みながらも逆らわず開いていく。中から漏れ出る薄暗く湿った空気の向こうに、記憶に刻まれていたとおりのシルエットがぼんやりと浮かび上がった。
クッキーの丸い缶。
私は今、ついにこれを使うため、ここに立っている。恐る恐る手に取ると、指先から伝わる冷たさが背筋まで一気に駆け上がった。浅い呼吸を繰り返してそれに耐え、意を決して蓋を開ける。バクンッと吠えるような音がした瞬間、ガラゴロと悲鳴をあげる中身。
缶の中には、三人のサンタが無造作に転がっていた。
「サンタ…!取っておいてくれたんだ!」
…音を聞きつけたのか、息子が駆け寄って来て我に返る。
ケーキのサンタがプラスチックになってからと言うもの、捨てるのも忍びなく、毎年つい取っておいたのだ。同じような風貌で、同じようなをした、プラスチックのサンタたち。絶滅してもなお、存在を証明し続ける動物の剥製を見ているような気分だ。
…それでも、サンタに変わりない。無造作に一つ選んで、手渡してやる。
息子は、宝物でも扱うように両手で受け取ると、そっと胸に抱き、テーブルへと駆けて行った。すぐさまケーキの上に迎えるようだ。
その笑顔は、まるで暗闇に灯された蝋燭のように、鈍く目に染みた。
息子のクリスマスケーキのサンタは、もう増えない。
この空き缶の空洞は、これ以上満ちる事は無い。
中学生や高校生になれば、サンタなど気にも留めないだろうか。でも、四十近いこの年になっても、私はサンタの居ないクリスマスケーキが寂しい。どうしようもなく寂しくてたまらないのだ。『サンタが居ない』と呟いた息子の声を聞いた時、きっと私は、本人よりも絶望し悲しかったのだ。それは、私が女で、母親だからだろうか。それとも、私が恵まれた子どもだったからなのだろうか。
「お父さん!早く、早く」
弾むように明るい息子の声が、玄関の冷気と共にキッチンへと滑り込んできた。予約していたチキンを手に、夫が帰って来たようだ。
こうしてはいられない。鍋に仕込んでおいたクリームシチューを温めるべく、IHコンロのスイッチを入れる。
ケーキのサンタにどれだけ思いを馳せようと、我々に出来る事など何もない。いつも通りの穏やかで幸せなクリスマスを、ただ過ごすのみ。
やがて、夕食も終盤に差し掛かった頃。
クリスマスケーキにナイフを入れる前に、実家の母とビデオ通話を繋ぐ。
「おばあちゃん、今年もケーキ、ありがとう」
息子は、ケーキのサンタの事は言わなかった。それが、子どもなりの気づかいであったのかは分からない。無邪気にはしゃぐ孫を前に、母もまた、普段より浮かれているように見えた。その少女のような笑顔に、在りし日の母と自分が重なる。
「…大晦日には、また連絡するね」
そう伝えるだけで、精一杯で。
思い出が胸から溢れ出てしまいそうで。
私も、ケーキのサンタの事は言わなかった。それが気づかいであったのかは分からない。
尊い犠牲の上にそびえ立つケーキは、墓標の様に白く、今年もきっと変わらず甘く。
その中央に広がる平野には、誇らしくサンタの剥製を掲げて。
私は笑う。思い出の中の、母の笑顔を精一杯真似して。
まるで、末端の綻びなど見えていないかのように。
ざくり。握りしめたナイフを容赦無く突き立てれば、柔らかな地層の奥に埋まるフルーツの感触。いつもなら小気味良いと感じるそれも、妙に生生しく。この特別なケーキの上から、間引かれたものと、そうでないもの…両者の存在をいっそう瑞々しく浮かび上がらせるだけ。ざくり、ざくり。せめてもの花向けと、追悼を分かち合うために。ざくり。
胸に沈めた細やかなこの絶望も、年が明ければ一時忘れるだろう。そして再びクリスマスが巡って来ても、きっと息子はたいして落胆などせずに、自らあの缶を開け、プラスチックのサンタをケーキに飾る。息子の中では「そういうもの」として、当たり前になっていくのだ。そしてその姿を、毎年、私だけが仄暗く見つめ続けるのだろう。
まるで、業。これは私が背負うべき業なのだ。
それでも、きっと、これで良い。
これこそが、私が願い、守るべき最善の幸せなのだから。
MarryXmas
ケーキの上のサンタ。
きっと日本のどこかで、まだあなたはひっそり生まれ、必死に生きているのだろう。
その小さな存在に、我々人間の営みと、現実の事情と、世界の在り方を背負って。
MarryXmas
ケーキの上のサンタ。
この世に一人くらい、あなたを思い、幸せを祈る人間が居たっていいでしょう?
だって、今日はクリスマスなのだから。
終わり
(2023年12月28日公開/2024年4月29日加筆)
■あとがき
最後まで読んで下さりありがとうございました。
先日のクリスマスにあった事、思った事を短歌にしたのですが、そこから更に着想し短編を書いてみました。結果、タイミングがずれてしまいましたが、来年まで残してもお蔵入りになりそうなので投稿します。
ここに短編小説を載せるのは初めてなのに、どうにも薄暗い話だな。
…こう見えても今年は、本当に実り多き一年でした。楽しく幸せだった仲間たちとの日々を糧に、来年も色々書いていきます。
良いお年をお過ごしください。
新年は、うれしいご報告からスタートできそうです。
たておきちはる