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精神が言うことを聞かなくなった

ずっと誤魔化して生きていた気がする。
初めてこころのもやもやを感じたのは、小学校6年生の時だった。給食がいきなり食べられなくなった。ミートスパゲッティ。どうしても食べることができなくてトイレに駆け込んだ。吐くことはなかったがなぜか涙がとまらなかった。自分がおかしくなってしまった。絶望した。今になれば小学生の絶望なんてかわいいものだと思うが世界が狭かった分、絶望はたしかに絶望の形をしていた。
2、3週間給食を食べられなかった。担任の先生が明らかに様子がおかしくなった私に必死に声をかけてくれたがいまいち何に悩んでいたのかわからなかったから何も話せなかった。

そんなことをしているうちに中学生になった。ここから私の精神は本格的に崩れていった。スクールカウンセラーを勧められたが、相談室が玄関の近くにあって、そこに入るところをみられたくないと断った。大きなプライドだけはあった。そもそも中学生の私はテンションが高くてちょっと変なやつで通っていたからスクールカウンセラーを受けるなんて世間的にだめだった。
本当は世間なんて外のものに言い訳にして自分がおかしくなっていることに目を向けたくなかったんだと思う。うっすらつけた腕の傷だけ増えていった。割れ物を扱うように学年の先生たちは私に声をかけた。この頃には私に対して怒る人はいなくなっていた。それでもみんなと同じように関わってくれた担任と学年主任さんありがとう!

高校生になった。ここで私は変われると信じていた。高校生活は順調だった。先生たちは嫌いだったけど、それ以上に友達と過ごす時間が楽しかった。今でも遊ぶ友達が3人いる。大切な人たちと過ごす時間は幸せだった。
ある時、体育教師に『お前がわがまますぎて、みんなが困ってるのわかるか?』そう言われた。そこから私の精神はドミノ倒しみたいに一気に崩れ落ちた。自分のことをわがままだと感じたことは一回もなかった。友達にも言われたこともない。気を遣って言わないだけかもしれないけど。
自分がみんなのことを困らせている、それが頭から離れなかった。人に対してすごく気を遣って生きていたはずだったのに私は人を困らせていた。事実かどうかはわからないが当時の私には威力は十分だった。市販薬に走った。1錠や2錠じゃない。それこそ10錠、ひどいと20錠、一気に口に入れた。頭がふわふわする。そんな状態で学校に行き、授業中は寝て、寝たら怒られる授業は保健室で寝かせてもらった。いよいよ体調がよくない、そして友達の強い勧めで、精神科に連絡を入れて診てもらうことにした。明日は受診だ、そんなこと思っていた矢先、親に『精神科の予約、キャンセルしといた。』そんなことを告げられた。そうか、親が好きな私はきっと少し勉強ができる元気で明るい子なんだ、そう思った。
そう思ってからは早かった。20g食べると中毒で死ぬとネットに書いてあったスイセンの茎を食べることにした。わんわん泣いて必死に口に詰め込んだ。死ねなかった。20g食べる前に吐いてしまった。生きることも死ぬこともできないのか、少しむなしく同時におもしろくなった。なにも感じないようにした。そうすれば少しはうまく日々を過ごせた。高校の頃は今でもあまり思い出したくない。きっとそれくらいにはつらかったし、毎日なんとかやっていた。それでもなんとかなったのは今も一緒にいてくれる友達のおかげだよ。ずっとラブだよ。ずっラブ。

大学は地元を離れた。そして学生相談の先生に紹介状を書いてもらって生まれて初めて精神科に行った。幼い頃からの体験を全て話した。私に最初に付けられた病名は適応障害だった。そこで勧められたのは認知行動療法だった。要するに考え方を変えて行こう!とする治療だった。考え方なんて変わらなかった。どれだけ頑張っても、自分の世界と他人の世界の境界線を引けなかった。知らない人でも亡くなったら信じられないほど悲しくなったし、日々のニュースすら聞けなかった。結局、精神科に入院も2回した。保護室に入れられた時は、出してほしいと看護師さんに懇願したが叶わなかった。

そんな状態で社会人という世界に足を踏み入れた。この頃には病名は双極性障害、解離性障害に変わっていた。もう社会人として扱われるようになって3年と半年になるが正社員を経験したことは一度もない。福祉就労として就労継続支援A型に2度勤めたが結局続かなかった。体調不良が原因だった。
何かを始めようとしても、体調が邪魔をする。切るスタートはとことんブレーキをかけられる。
ブレーキを踏む感じではなくて、いきなりサイドブレーキをひかれるみたいなイメージだった。
危険行為が原因で警察に何度も保護された。今も体調は万全だとは言えない。

どうしていきなりこんなことを書き始めたかと言うと、そろそろ人生を一度振り返ってみてもいいかもと思ったからだ。幼かったころうまくできなかった言語化をしてみたいという気持ちもあった。『生きてきた証』そんなことを言うと大袈裟かもしれないが、それを残してみたかった。
今日、日食なつこさんの"やえ”という音楽を聴きながら夜の町で自転車を漕いでいた。"ぼくこそやえのさくらかもしれない"そんなフレーズのところで道に飛び出した私と幾分スピードを出しすぎていた軽自動車があわやぶつかるという出来事があった。3いや2メートル、ギリギリ接触を免れた。私も悪いし、相手も悪いからお互い謝って事態は収集した。そんな出来事の中、記録に残したいそう思った。ただの自己満だけど、それもいいや。

ひとつだけ伝えたいことがある。
こんな私だけど毎日やっていけるのは、間違えなく周りにいてくれている友達のおかげだってこと。次会う約束をしてくれる友達、電話をしてくれる友達、ドライブをしてくれる友達、そんな友達がいてくれるだけで日々を生きる活力になってくれる。本当にありがとう。大好きです。これからもよろしくね。こんな世の中だけど、無理はしないで欲しいけど、なんとかやっていこうね。


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