【好きなことを仕事に、そのまえに】
好きなことを仕事にって風潮が強くなってきて、
気づかないうちに私も【好きなことを仕事に】してることに気がついた時がありました。
でも【好きなことを仕事に】が正義みたいな風潮には
疑問が生じてる。
好きなことを仕事にしたい人と、
好きなことは仕事にしたくない人といることを知ってからは。
*・゜゚・*:.。..。.:*・''・*:.。. .。.:*・'・*:.。. .。.:
前者の場合は私もだけど
好きなことをし続けた結果、それが嫌いになってでもいいぐらいやり抜きたい場合。
どうにかこれを四六時中やっていられる方法はないか?と模索するほどハマっている場合に生じる
例えるなら毎食スイーツを食べたいぐらいスイーツが好き、みたいな。胸焼けしても構わない感じ。
後者の場合は
好きなことだからこそ、なんのしがらみもなく純粋に楽しみたいんだ、と程よい距離感がほしい場合。
ビジネスになると楽しめる部分と楽しめない部分と出てくるから、楽しめる部分だけを味わいたい場合。
例えるなら大好きなスイーツはおやつの時間にとっておく、みたいなこと。
【好きなことはあるけどそれはお金にならないんだよな〜】って
ことが巷ではよく聞くワードとなっているけど
絵を書くことが好きだとしても
どーやってお金になるのか?て感じですよね
その時点で何か、
経歴的なコンプレックスや、
他の先駆者との比較心に自分が負けてしまっているのかもしれない
もしくは【好き】の中でも【とびっきり好き】ではない可能性もあるから【好き度合い】も難しいんですよね。コロコロ変わる場合もあるし。うーん
そんな中、
ピカソなんて15万品の作品を描いたらしいですよ
(1日5作品っていうスピード)
数打てば当たるみたいな言葉もあるように
アウトプットしていかなければ当たるにも可能性が低く、
好きなことを仕事にするために努力というか、
変態ともみえるぐらい、【ずば抜けた時間の使い方】をしているなぁとも思えてきた。
私のことだと四六時中、お顔のことを考えて生きてきたつもりではいるのだけど、失ってきた時間ももちろんたくさんあってですね、
15年前からアメブロなりアウトプットをしてきたりして、
当時の彼(現夫)とスキーに行った時も私だけ温泉の横の休憩所でブログ書きたいからと言って彼がスキー終わるのを待っていた。
昔から一緒にスキーを楽しむ気のないとんでもない女なのだけど、そんなことは彼と私の中では当たり前でした。
誰かとランチ、映画、ドラマ、ライブ、旅行、
の楽しみ方をほとんどせずに35歳まで生きてきたんですが、
側から見たら【つまらなさそうな生活】かもしれないけど私はそっちの道を選んできて、とても楽しくて、会ったことない人から共感してもらったり
研究してきたことをして喜んでもらえることで自分が満たされていって、おそらくだけど、ずば抜けて時間をかけてきたのかもしれない。
※今は、過去失ってきた旅行の楽しみ方とか、
他者(子どもとか親とか)との共有する時間とかも
人生の中で必要なのかもと思えるようになったのはここ近年のハナシ
話が逸れたけど、好きなことを仕事にしたい!何しよう!ってところから思考がスタートしてしまうと、
【お金になることの中で好きなこと】という限定的な中で選んでしまうから、過去や今までの概念、普遍的なことのしがらみがどーしても邪魔をするような気がする。
好きなことなら、
もう【やってる】とも思うんですよね。
お金のことで言えば、私もどれだけの間、お金にならなかったか
今となってはもうわからないほどだし、
今大丈夫でもその先の保証はどこにもないし
ボーナスもなければ老後の生活もイメージできないままです。
ええ。
技術があっていいねと言われることもあるけど
技術だけあっても生きていけないことを重々承知しているから、
うかつに喜んで天狗には到底なれないのですね。
こーやってアウトプットに時間を使って、
そして奇跡的に読んでくれる人がいて気持ちが循環している。
これがお金にならなくても時間を投下できるのは
好きだからできること。
好きのチカラはすごい破壊力だと思ってる。
【お金になりそう!】で始めた仕事はお金にならなかったら嫌になるだろうし
【これ大好き!】で始めた仕事は飽きたら嫌になるんだろう
【長く続けられそう!】で始めた仕事はこのままで本当にいいのか?と常に疑問のまま生きていくことになる
どのみち、どーせ迷いながら変化して生きていく生き物なのだから、なんだって良いじゃない、楽しければ。って思うようになりました。
好きなことを仕事にするという題名は、結果的に
そこに固執しなくても良いんじゃないか?という
ふわっとした終わり方(⌒-⌒; )
#好きなことで生きていく
#好きなことを仕事に
#すきなことをすきなだけ
#好きなことで稼ぐ