おもちゃたちの在り方
『トイ・ストーリー』は大好きなシリーズだ。①(以下丸数字はシリーズ中のナンバリングを示す)をいつ観たのかは覚えていないが、少なくとも②は2000年に映画館へ足を運んだ。
それと前後して数回海外旅行に行ったときに、作中に登場するおもちゃを買ってもらったのも懐かしい。といってもバズ、Mr. & Mrs. ポテトヘッド、スリンキー、スケッチ、くらいだったろうか。
ハッピーセットで補完しつつも全キャラはさすがに集められなかったけど、どれもがいかにもアメリカンなおもちゃだ(『トイ・ストーリー』以前から存在したものも多い)から、僕にとってこの作品は欧米文化、とりわけアメリカ文化に興味を持ちだすきっかけの1本と言っていいのかもしれない。
(以下、シリーズの内容に触れます)
で、③を観たのはなぜか公開後ずいぶん経った2015年のテレビ放送でのこと。
折しも父親の病気の関係で家を引き払わねばならず、それこそおもちゃを大量に捨てなくてはならないという状況下で観たものだから、非常に心に刺さったのを覚えている。
特にウッディたちがゴミ集積所に迷い込んでしまい、もう助かる道はないと抵抗を諦め、最後に仲間と寄り添おうとする場面はつらかった。「俺がいま捨てるおもちゃたちもこういう気持ちなのだろうか」と。
個人的な事情はさて措き、③はシリーズの集大成というべき傑作だ。
おもちゃたちの目線/世界を描くことに終始しているのは共通だが、①ではいい子供と乱暴な子供、②では遊ばれるおもちゃとコレクション≒遊ばれないおもちゃ、③では成長しおもちゃを必要としなくなった大人と次の世代の子供たちが、それぞれ対比されていると思う。
よくよく考えると、ウッディは50年代のおもちゃなのに前の持ち主について言及がないのは不思議だが、ともあれアンディを慕ってきたおもちゃたちの物語は、ここで幕引きを迎えたのである。
だからこそ、④の製作が決まったときは驚いた。いっときFBに流れた『BTTF4』のようにガセネタであることを疑ったくらいだった。
あれだけ綺麗に終わったのだから、この上続編を繰り出すというのは、蛇足というか屋上屋を架すというか、ともかくも晩節を汚すことに違いないとずっと思っていた。
だからというわけではないにしろ、どうも劇場へ足を運んでみようという気が起こらず今まで観てこなかったのだが、ようやく腹を括ってディズニープラスで観てみることとした。
結論から言うと、④は作らなくてもよかったのではないかと思う。
確かに人気シリーズの魅力的なキャラクターたちであることは確かなので、③を観終えてなおウッディたちの活躍を観たいと思う気持ちはよくわかる。僕だってそうだ。しかし、③までのまとまりを考えると腑に落ちない部分があまりにも大きい。
やはり一番の問題はラストシーンだろう。①-③であれほどまでに大事に遊んでくれる持ち主を求めていたのに、④に至って急にアイデンティティを獲得したがごとく自立して、野良おもちゃに"なり下がる"のは、僕はどうしても納得できない。その目的がおもちゃたちの解放であったとしても、これまでウッディを愛してくれたアンディやボニーが浮かばれないというものではないか。
他にも、ギャビー・ギャビーがウッディを脅迫に近いかたちで言い包めて、彼の大切なものを取り上げたにもかかわらず、ハーモニーに持ち帰ってもらえず悲しみに暮れたことですべて許されている(?)というのも、個人的には引っかかったりする。
もちろんいい所がないわけではない。
第一、映像美が実に優れている。
①は世界初のフルCGアニメーションとしてギネスブックにも載ったことのある歴史的な作品だが、1995年の時点ではやはりポリゴンが粗く、特に人間の表情にぎこちなさが残っていた。逆に言うと、本作はおもちゃを主人公とすることで、メインキャラの表情が多少固くても不自然さを感じさせず、技術面での拙さをうまくごまかすことができたのであろう。(余談ながら、世界をすべて「紙」に設定した64のゲーム『マリオストーリー』でも同様のことが言えると思う)
その後1999年、2010年、2019年という風に、振り返れば実にちょうどいい間隔を刻みながら制作されているので、本シリーズを追いかけるというのは、CG技術の発展をクロニクルとして見ることにほぼ等しくなるのだ。
その意味で、④の冒頭、RCが雨水に流されているシーンは出だしから圧巻であった。またキャラクターたちの表情は柔らかくなり、それぞれのテクスチャもよりはっきり見て取れたのが印象的であった。
それからストーリー的なところでいくと、フォーキーが生を受けるいきさつは、本シリーズの根幹をなす要素だと感じた。あの世界においておもちゃは自我を持つわけだが、ではおもちゃとそうでないものの区別はどこにあるのか。子供の想像力が大いに介入するであろうその答えが、ここに示されているのではないかと思う。
念のために再度明言するが、④がアニメ映画として非常によくできていることは疑いようがない。しかし、シリーズすなわち続きモノとして考えると、④は①-③の直線状に位置付けるべきではないとも思う。
だから本作は、トイ・ストーリー三部作の後日譚であるところのスピンオフと捉えるべきだと個人的には考えている。
* * * *
ところで、今回④を観るにあたってはきちんと①から観返したのだが、唐沢・所の名吹き替えには敢えて頼らなかった。①と②に関して言えばセリフを一言一句覚えてしまっているシーンも少なくなかったし、幼少期に観た吹き替えで楽しみたいと思わないでもなかったが、今の気持ちとしては作品を作られたままの姿で堪能したいと思ったのだ。(現状、とりわけ新作について、僕は基本的に吹き替えで映画を観ることはない)
で、観ているとやっぱり発見はいろいろある。吹き替えとか字幕に訳出されていないニュアンスはもちろん無限にあるわけだが、印象的だったのは②でのプロスペクターのセリフだ。
自分がかつて子供たちの人気者で、テレビ番組の主役まで務めたと知ったウッディは、その番組Woody's Roundupが唐突に打ち切りになったことに戸惑い、その理由をプロスペクターに尋ねる。
ウ「いいところなのに打ち切りなんてひどいぜ! どうしてさ!」
プ「2人も、ヒーローはいらない。ロケットが上がると、子供たちは宇宙のおもちゃに夢中になった」
こうして改めて考えてみると、言っていることはわかるがなんとなく消化しきれない印象を残すセリフである。
この部分は日本語できちんと記憶していたので、今回英語で視聴した時に「ああ、そういうことだったのか!」と膝を打った。この部分の英語のセリフは以下の通り。
W: That was a great show! I mean, why cancel it?
P: Two words, Sput-nik. Once the astronauts went up, children only wanted to play with space toys.
注目頂きたいのはプロスペクターのセリフ1文目。直訳すると「2音で説明しよう、スプート・ニクだ」てな感じ。そう、スプートニクというのは1957年にアメリカ全土へ「スプートニク・ショック」と呼ばれる衝撃をもたらした、旧ソ連の打ち上げたロケット(正確には人工衛星)である。
技術史に残る重大事件であったからこそ、子供たちの視線が大きく舵を切ったというわけであり、この一言が時代背景や彼らの境遇に重々しいリアリティを与えているのである。
字幕には「スプートニク」と表示されるものの、僕が慣れ親しんできた吹き替えに訳出されていないのは疑問である。スプートニクの衝撃が日本ではイマイチピンとこないというのがあるかもしれないし、"Two words"という表現が訳しにくいというのもある。また厄介なことに、プロスペクターは"Two words"と言いながら指を2本立てており、これが「2人も、ヒーローはいらない」というやや突飛な吹き替えの原因とも言えそうだ。
とまあ、そういうような小さな発見はちょこちょこあるわけだが、これはかなり親しんできた作品だから気づけたことだ。初見の作品について今から英語と吹き替えを比較して楽しむということは、もうおそらくそんなにできない。
つくづく幼少の時期にたくさんの作品に触れておくことは大切だと思ったことであった。
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