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エスカレーターに安寧を

僕は生まれてこの方、住所を東京より外に置いたことがない。
とはいえ別に「江戸っ子」だの「水道育ち」だのと威張るつもりは毛頭なくて、ただ拠点を大きく動かすのが億劫だっただけの話だ。

で、そんな僕でもごくたまに関西へ訪うことがあるのだけど、大阪へ行くたび、エスカレーターでは目を白黒させてしまう。
ご存知の方も多いだろうが、かの地では左側を空け、右側に立つというのが広くスタンダードとされているのだ。

東京に生まれ育った僕は、(おそらく多くの方と同じように)「急ぐ人のために右側は空けるべし」と教え込まれてきた。

こういう庭訓は習慣に深く刷り込まれるものだから、大阪のみならずロンドンやフィリピンへ行った際にも、降り立った直後なんかは左側に立ってしまい、時として通行人から注意を受けたりしたものだった。

左右の別はあるけれども、「片側を空ける」というのは、急いで歩きたい人と止まって休憩したい人とを分けるためのルールだから、まあ合理的な発想だろうと思う。

ところが近年、これに意義を唱える声が大きくなってきているみたいだ。

ある主張に曰く、接触の危険があるから、歩くのならば階段を使うべきである、と。

確かにエスカレーターは高さもあるわけだし、ぶつかって転げ落ちたりしたら、かなりの大ごとになる恐れがあるだろう。

歩くことを是、としてしまえば駆け上る輩が出てくることも想定されるし、それならば全員立ち止まったほうが安全、というのは筋が通っている。

また、半身に障害があるなどして右側に立ち止まるしかない人の場合、関東では邪魔扱いされてしまうこともあるそうで、健康な人間は階段を使うべき、という主張の根拠となっているようだ。

ツイッターあたりを見ていると、それをかなり強い声色で訴える人が見て取れる。
人によっては敢えて右側に立ち、後ろから「ちょっと」などと言われても完全に無視を決め込んだり、歩いて通りゆく人を怒鳴りつけたりということもあるとか。

日本エスカレーター協会(なんでも団体があるのだなぁ)の公式ページを見ると、ここでも歩行禁止が訴えられていた。
片側に負荷が集中することによる機械の不調を防ぐためだとも聞いたことがあるけど、やはり目先の理由として、歩行に伴う危険が前面に押し出されている。


双方の主張にはそれぞれの理窟があるわけで、どちらが絶対的に正しいとは決められないように僕は思う(人道的に、とか、経済的に、とか、重視する観点が異なっているわけで)。

ただひとつ言えるのは、長年しみついてきた慣習を塗り替え、老若男女に周知を図るのは容易ではない、ということだ。

いくら少数の有志が根気よく注意を続けたところで、新宿駅のエスカレーターで左側にズラリと列が伸びているのを変えることは出来ないだろう。
(駅の貼紙でも、どちらが良いとははっきり言及していないような印象である)

もし、「エスカレーターの歩行禁止」を全国的に徹底するのであれば、例えば駅員が常時エスカレーターにつきっきりで、長期間にわたり両側に立つよう促し続けるとか、それくらい根気のある活動が必要だと思う。
ちょうど車の交通を、右側通行から左側通行へと一斉に変更した沖縄の730みたいに。

それができないとなると、右側を歩けば人に注意されてしまい、かといって多くの人は右側に立っていられるほどの勇気もなく、
右側には無意味な空隙が、左側には空虚な列が、それぞれ伸びていく現状を一向に打破できない。

誰も得することのない、実にむなしい現状である。

ちなみに世界基準でいうと右側に立つ大阪式を標準とする国が多い(もちろん論理としては逆、大阪がグローバルスタンダードに倣った)ということで、僕が実見して記憶している中では、フィリピンのショッピングモールは、大々的に「左側を空けましょうキャンペーン」を実施している。

また聞いた話によると、タイではMRTで「歩行禁止」が、スカイトレインで「左空け」が推進されているそうで、こちらも相当にややこしい。

まあ日本で片側空けのマナー(?)が定着したのも案外最近のことのようだし、その気になれば改めることはできなくもないだろうが、混在している今の状態が一番このましくない。

どっちでもいいけど、ちゃんとしたスタンダードを決めておかなければ、それこそオリンピックの折などは、無用な諍いのもととなってしまうのではないか。

と言いつつも、下等なる一市民の僕に成せる術はなく、すごすごと左側の長い列に加わるしかないのであった。

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