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読みもしない本を集めること

よく勘違いされるのだけど、僕は読書家ではない
もっというと、日常生活においてほとんど本を読まない。

というと、「はて、こいつは古本のコレクターを名乗っているのではなかったか」と訝しがる御仁もあるかもしれない。いかにも僕は戦前の日本文学を中心に収集しているコレクターであり、今年に入ってからの6か月で既に297冊(総額約27万円)もの本を買っているほどの狂いっぷりである。

でも、僕が「本を読まない」というのは謙遜でも韜晦でもなくて、たとえば直近できちんと読了した本は、と聞かれてもすぐには思い出せないくらい、読書という習慣から遠ざかっているのだ。(たぶん、先々月読んだ森見登美彦『夜行』だとは思う)

「では何のために本を買うのか」と問う声もあるだろう。
これについては、かの登山家マロリーの名言よろしく、「そこに本があるから」と答えたいところだが、それではミもフタもないので少しひらいて言うと、本は必ずしも読むためにあるものではない、という考えが僕の根底に存在しているのである。


収集対象を別のものに置き換えてみよう。
例えば骨董コレクターは、刺身を盛るために古伊万里の皿を買うわけではないし、切手コレクターはたくさん郵便物を送るというわけでもない。ミニカーなんて所詮は子供のおもちゃだし、空き缶だったらぶっちゃけゴミだ。
それでもそれらを集めようとする(ほとんどの場合いい年した)人がいるということは、やはり物体としての魅力がモノを言っているためではないかと思う。

たとえば装丁。古本者の中にも、本のデザインに惹かれている人は多いようだ。
僕にとっても、著者が直々にデザインしているとか、有名画家の木版画が刷られているとかいった魅力は、購入を決意する要素としてはやはり大きい。
また粗末な紙質の本――仙花紙本(せんかし・ぼん)と言われたりする――であったとしても、それは戦争前後の紙不足によるものであるから、時代を楽しむという意味ではこれも味わい深いと言えるかもしれない。

上に挙げた本はコロンタイ/内田賢次訳『グレート・ラヴ』。
決して有名な作品ではないけれども、かの恩地孝四郎による装丁は、色彩とかフォントとか、デザイン性に優れていて実に美しいと思う。

装丁だけでなく、本じたいの来歴も面白いポイントだと思う。
分かりやすい例が署名本、つまり著者の筆跡が入った本で、その本を書いた本人が一度は手に取った歴史がある、というのは何となく嬉しくなるものだ。
また送り先が有名人だったりすると、その愛おしさはぐんと跳ね上がる。その本の著者が親しい相手に本を送り、巡り巡って僕の手元にたどり着いて、いまその現物を撫でているのだという感慨に浸るのは、古本好きの気持ち悪い側面だと我ながら思う。

これは漱石門下の小宮豊隆が、同じく門下の内田百閒に宛てた献呈署名本である。ビッグネームだからといって本の内容がどうこうなるわけでは決してないけれども、この宛先のこの本は確実にオンリーワンなわけで、価値が認めやすいという意味から言っても、僕は署名本を集めるのが好きだ。


僕の思う本の魅力としては一部を紹介したに過ぎないが、いずれの本も「読む」という目的を大きく逸脱した意図のもとで買われていることがお分かりいただけただろう。
いや、ぶっちゃけ、綺麗な本は触ると汚れるし、署名本・初版本は開くと傷んでしまうから、読むなんてとんでもない蛮行、とまで思っていたりする(もちろんそこまで厳しい取り扱いをしない本もたくさんあるわけだが)。
それでもこういう本を集めたい、架蔵したいと思ってしまうのは、ひとえにコレクターの性、としか説明のしようがない。

* * * *

最後にちょっと宣伝(布教?)を。
来週の金土と、神保町の古書会館で「七夕古書大入札会」が開催されます。ふだんは業者しか入れない入札会ですが、この期間だけは一般の人が無料で入場でき、出品された本・資料に触れることが許されるのです。

もちろん商品なので丁寧に扱うことは求められますけれども、やはり本は触ってナンボという側面も大きいですから、文学・本好きの人はぜひ足を運んでみてください。
太宰の書簡とか、芥川の署名本とか、今年もいろいろ面白いものがありますので、いまから楽しみです。
(貧乏人ゆえ、もちろん入札はできません。見るだけでガマン)

出品目録は以下からどうぞ。


本に関する投稿ばかりが続いているので、次は何か別の話題をと思っています……。

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