そして己に嘘をつく
万愚節とかエイプリルフールとか、言い方は何にしても、よりによって4月1日という日にそれらしい嘘をつく文化が僕は嫌いだ。
会計年度の初日であるがゆえに、人の異動や制度の変更、そのほか4月1日になったからこそ解禁できる情報だってたくさんあるだろう。
そんな日であるにもかかわらず、企業やインフルエンサーまでもが罪のない――いや、罪がないからこそタチが悪いのだが――嘘を発信しているのは嘆かわしいことではないのか。
そりゃあ、「ペンギンが空を飛んだ」だの、「ビッグ・ベンがデジタル時計になる」とかいうのは、一見して、あるいは少し調べれば嘘とわかるわけだが、いったいに単純な僕は、そんなくだらないジョークに対しても最初の一瞬で「まじかよ」と思ってしまうのだ。
この「まじかよ」から「いやいや、そんなわけねぇか」へ至るのに、さしたる時間は要しない。とはいえ、現代において膨大な量のインプットに接しなければならない身の上からすれば、この須臾もけっこうなストレスである。
そもそも、いくら誰をも傷つけないにしろ、意図的に事実と異なる情報を流す態度が、僕は気に入らないのだ。
* * * *
僕もそこそこいい年になりつつあるわけで、周りでも栄転したとかいい学位を取ったとかいう報告が聞こえてくるようになってきた。特に驚いたのは、中学の同級生から薬学博士が出たことだった。
かつて進学を志望した身としては、やっぱり修士とか博士とかっていうのは強くあこがれるし心の底から尊敬する。同時に、僕も専門課程でガクモンに注力してみたかったなぁ、と羨むことだってある。
この愚痴はここでも散々書いたと思うけど、僕は学部を卒業する直前、いろいろ都合がつかなくなって進学するのを辞め、ギリギリのところでどうにか1年間海外で働く算段をつけた。
その旨を教授にメールで報告したときに、「多少の自負はあるでしょうが、才能は有ります」「いま置かれた状況で知的トレーニングを続けて、経済的・時間的余裕ができたら学位に変換すればいい」と言っていただけたのはほんとうに嬉しかった。
嬉しかった、のだが、残念なことに僕は自分に才能がないことはわかっていた。言語学とか国語学の才能がどうとかいうよりも、そもそも研究者としての資質が欠如していたのだ。
いろんなことを調べて理解を深め、データをまとめたりすることは楽しいし、過程を楽しめるのならばそれなりに向いているという側面もあったのかもしれない。けれども、研究者として研究を生業とする以上は、一定の成果を出していかなくてはならないわけで。
データを的確に読み解き、それをベースにして緻密に論理を組み立てていった先に、誰も知らなかった新しいことを発見する、というプロセスがどうにも苦手、平たく言えば、論文が上手く書けなかったのだ。
あの不出来な卒論を読んだ教授なれば、そんなことは百も承知、二百も合点だったろうが、それをオブラートで幾重にも包んで、僕が日本語教育というフィールドで勉強し続けられるように背中を押してくださったのだろう。
もう何年も挨拶に行っていないが、お元気でいらっしゃるだろうか。
独り暮らしも落ち着き、それなりに余裕が出てきたと言えば出てきたからかはわからないが、ちょっと研究とかお勉強とかをやり直してもいいのかなという気の迷いが、このごろ浮き沈みしている。
先の才能のくだりにしても、そうした能力は修士課程で改めて培っていくべきものなのかもしれないし、博士ならいざ知らず、修士はとりあえず地道に頑張ってさえいれば、絶対に修了が望めないほどの難度ではないだろうと思う。
しかし、元より自分のことが嫌いな僕に、自信なるものを持てるはずもない。自信がなければあらゆる出願が不可能になるわけで、言うなれば社会人として第一に持つべきチカラが欠落しているのである。
ここ数年、どうにか務まりそうな仕事のクチもひとつならずあった。そのたびごとに一念発起とばかりに履歴書を書き始めては自分の不甲斐なさに絶望し、時には幾筋かの涙を落としつつ、けっきょくは破り捨ててしまった。「俺だったらこいつは採らねえな」と。
そんな詮無いことばかり言っているうちに、気づけば方向転換のきかない齢に差し掛かっている。見方によっては、もう手の施しようがないフェーズにいるのかもしれない。
先の教授はメールの文末で「生業が決まらない限り、何者にもなれない恐怖は消えません」とおっしゃっていた。
その恐怖が、まさに今、僕に牙を剥いて襲い掛かりつつあるのである。
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