美術館女子の企画記事を見てきた感想
美術館女子 東京現代美術館×AKB48チーム8小栗有以:読売新聞http://www.yomiuri.co.jp/s/ims/bijyutukanjyoshi01/
私は美術品を見るのが好きだし、美術館を眺めるのも好きだ。
それは多分に「ぶらぶら美術・博物館」に影響されてのものだから、カジュアルにアートと人の接点を増やしたい、という考えはわからなくもない。
単独や複数で美術館を訪問する若い男性もほぼ見たことがないから、アイドルを使って興味を持って欲しい、というのも、頷けなくはない。
ただ……
美術館×AKBじゃなぜいけなかったんだ???
というのが、大変に純粋に疑問である。
この企画、要はアート×アイドルのグラビアコラボだ(と私は理解している)。
モデルの小栗さんを私は全然知らないので、添えられた言葉が彼女の本心なのかはわからないが、「アイドル」としてひとつの正しさだと思う。
インテリジェンスに自負がなくても、ばかばかしいような感想しか言えなくても、アートは受け止めるし衝撃をくれる――そうハードルを下げるための企画なのだろうから。
実際、映えスポットとして美術館を楽しむことと、キャラクターのモデルとして刀に会いに行くことと、音楽家がかつて暮らした家に見学に行くことは、私にとってまったく等価だ。気になるものがあるのなら、被害を出さない範囲で、好きに楽しめばいい。
それぞれの楽しみ方は、ただの異文化であって、性別は関係ない。
だが、「女子」「男子」という言い回しは、見た目の属性ですべてを縛る。
今回の企画が致命的なのは、そこだ。
「美術館女子」という言葉を生み出すことで、新たな蔑視を生み出す危険があること。
ハードルを下げるために選ばれた言葉が、見た目にその属性を持つすべての人間に、”そういうもの”だと色付けさせること。
その被害が真っ先に突き刺さるのは、これまで美術館に通い、美術品に親しんできた「見た目が若い女性に見える人々」だということ。
要するに、今一番お金を落としているだろう知的好奇心旺盛な女性たちが、”ミーハー心だけの無知な輩”として十把一絡げにされている現状を、それを促進するリスクを本当に思いつかなかったのか??? というのが、私にはすごく疑問だし腹立たしいのだ。
アートと人をつなげるため、「アイドル」として仕事を果たした、小栗さんにも失礼ではないか。
楽しみ方は自由だ。
ばかばかしくても接点が増えれば、沼の縁までやってくれば、学芸員たちは自分の沼に落とす機会を逃さない(偏見)。
関連知識を深めるのも、斜に構えて解釈を作るのも、ウィーンの美術館で見た若い男性たちみたいに「猫じゃ」「猫」と眺めるだけなのも、それぞれに楽しい。
性別はまったく、関係ない。