栄養だけでは生きていけない
先日、9日ぶりに富士宮の家に帰り、庭に出てみてその雰囲気の変化にびっくりした。
ご存知の通りの猛暑が続く日々だったが、近くに住む母が早朝にせっせとお水をあげにきてくれていたので、枯れてはいなかった。
だが、明らかに何かが違う…
成長はしているけれども、ぐったり、どんよりしているのだった。
各ブロックを点検して、伸びすぎた枝を剪定したり、枯れ葉を取ったり、お花の具合を見たりしながら庭全体を回ってみた。
特に畑のブロックはジャングルのようになっていて、作物たちが重なり合うようにぎゅうぎゅうになっていたので、呼吸しやすいように思い切って剪定してみた。
根本のあたりも混み合ってきていた枝をハサミでカット。
しばらくやってみたら、少しは風通しも良くなり、重なり合った下の方につぶれていた枝ものびのびと腕を伸ばすことができたようだった。
1日しか時間がなかったので、(しかもめちゃ暑いし)できる限りのお世話だけだったけど、やっぱり来てよかった。と言うか、これはまた来ないとダメだな、、、と痛感した。
朝、いくら母がせっせとお水をあげてくれたとしても、ここは私の庭。
あるじの意識が向かなくなった庭は、亡霊のようになりかけていた。
ただお水をもらうだけではなくて、あるじの私が庭と向き合っていないとだめなんだなと。
これと似たようなことを、少し前にも感じたことがある。
プロの作ってくださった植栽スペースではなくて、私の自由に植えてくださいと開けておいてもらったフリースペースにハーブや野菜の苗を植えて、それらが育っていくのを観察するのに夢中になっていた頃。
私の足はどうしても自分で植えたフリースペースの方に向いてしまっていた。
初めての体験、目の前でどんどん成長していく植物たち。面白くて仕方なかった。
ある日、ふと気がつくと、なんだか元々プロが植えてくださったスペースと、自分のお世話しているスペースで、なんとなくだが雰囲気が違うのだ。
プロのスペースは植物の配置もバランスよく、季節ごとにあちらこちらでそれぞれの花が咲いたり、紅葉を楽しめたりと美しく計算し尽くされていた。
しかし、なんだか元気がない、、、と感じる。寂しそうとでも言えば良いのだろうか、しょんぼりしているのだった。
それで「あ!」と気づく。
庭に向かう私の意識は、自分で色々とせっせとお世話を続けているフリースペースの方にほとんど向いていた。
プロの植栽スペースの方は、半ば義務的にお水を撒いていただけだったかも、、、と。
それは寂しそうに見えるはずだ。もしくは、私の中の罪悪感がそんな風に感じさせたのかもしれない。
「うわ〜!今までごめんね!」と心の中で謝りつつ、それからはプロのスペースの植物たちにも意識して話しかけながらお水をあげたり、観察をするようにしたら、なんとなくだが(自己満足かもしれないが)元気を取り戻してきたように思う。
今回、9日間も家を離れてみて、ダラダラと伸び切ってうなだれてしまった植物たちの姿を見て、同じことを思った。
私たち人間だって同じだと思う。
必要最低限の栄養があれば、命は続くかもしれないがそれは果たして生きていると言えるのだろうか。
ウキウキと心が踊ること、目標に向かって心にハリを持つこと、大好きなものに囲まれて癒されること、周りの空気や景色を感じながらのびのびと体を伸ばすこと…。
そんな心の栄養もきっと必要で、だからこそ私たちは人間らしく生きていられるのだと思う。
マッサージをはじめとして体の学びを始めた頃によく引用されていたフリードリヒ2世の残酷な実験の話はあまりにも有名。
「神聖ローマ帝国の皇帝フリードリッヒ二世(1194~1250)は、人類の言語の起源を確かめたいと思って、一つの実験を行った。人間の言葉をいっさい聞かずに育った子は、人類の根元語を話すに違いない、と思ったから、皇帝は生まれたばかりで捨てられた赤ちゃんを何人か選んで、保母や看護婦に養育させることにし、そのとき赤ちゃんに話しかけたり、あやしたり、機嫌をとったり、愛撫したりしては絶対にいけないと厳命した。入浴や食事など生命維持に必要なことはもちろん許したが、人間的接触を禁じたのである。
この実験の結果は出なかった。なぜなら、実験に使われた赤ちゃんたちがあまり大きくならないうちに全員死んでしまったからである。愛情や人間的出会いがないと、人間は生きることができないのである」
子育てでも、虐待と同じくらい問題になっているのがネグレクトだが、それは動物や植物にも言えることだし、私たちが他者ではなく自分自身の体と向き合う上でも忘れてはいけないことなんだと、今日も友人たちと話していて思い出したのだった。
限りある命、花のような短い人生、せっかくなら楽しく生きよう。刹那的じゃなく、喜びを思い出したい。自分自身にもっと意識を向けながら。
庭から体へ話が飛んでしまったが、「意識ってやっぱり大切なんだ」と思い出させてくれる出来事だったので、忘れないように書いておくことにした。