[試し読み]紅の石使い 第1話 天空の砦
吹き荒ぶ風が顔を刺す。千切れそうなほど髪がうねる。感覚を失うほど皮膚が冷えていく。息をすることさえままならず、全身に大きな獣がのしかかるような風圧に耐え、薄く瞼を開くと、灰色の雲間を真っ逆さまに落ちていることを確信した。
*
そのときリックは迷子になった仔羊を探していた。父に言われ、数頭の羊を連れながら空を眺めていたときのことだ。リックの碧い目は白い半月が浮かぶ空を映し、ますます碧くなった。
流れる雲を目で追っていると、白い鳥の群れが滑らかに飛んで来るのが見えた。大きな翼を持つその鳥は、海の向こうにある北の大陸から風と雲を連れて来る。昨日は冷たい雨も降り、この小さなヴェレーガル王国にも、間もなく冬が訪れるのだろう。
リックはふと、神話にある四神のことを思い浮かべた。慈愛に溢れた春の女神プランターパに、繁栄を司る夏の神サマーロ、豊穣をもたらす秋の神オータモと、深い智慧を持つ冬の神ヴィータ。
秋の神オータモは馬に乗り、颯爽と駆ける騎士の姿で描かれることが多かった。彼がこの地を去った後は、賢者のヴィータが静かに動き出す。吹く風はオータモが馬で駆け抜ける足跡で、その足跡に乗ってヴィータの遣いである白い鳥がやってくる。
「オータモ様、今年は米も麦も、良い実りを迎えることができました。それも、夏にサマーロ様がたくさんの太陽の光を大地に下さったから」
サマーロの名を口にしたところで、リックは春に届いたカミツレの白い花束のことを思い出した。物心がつく以前から、誕生日には必ず見事な花束が自分の元に届く。しかし丁寧な祝いの言葉が書かれた葉書にはサマーロという名しか記されておらず、今年もまた、夏の神の正体はわからないままだった。
次第に遠くなる鳥たちの姿は、カミツレの花弁に似ていた。ぼんやりと彼らを見送り、羊たちに目を戻すと、春に生まれた一頭の仔羊がいなくなっていることに気がついた。
リックはたちまち青くなり、水飲み場や陽あたりのよい丘、もしや戻っているかもしれないと小屋まで戻ってみたりもしたが、迷子の仔羊を見つけることはできなかった。仕方なくそれを父に話すと、父は呆れたような目をリックに向けてため息をついた。
――本当によく探したのか。お前も、もう十三になったんだ。数頭の羊を世話するくらい満足にできないのか。もう一度、よく探してくることだ。
でも、と言いかけたリックの口を塞ぐように、父は冷たく言い放った。
――見つけるまで帰って来るな。仔羊が、そう遠くには行けないはずだ。
父の言葉に腹の底から沸々と込み上げるものを抑え、口を閉ざして家を出た。
リックにとって、父はいつも頼りになる大きな存在だった。しかしその強さと厳しさが、近頃の自分には重荷にしかならなかった。心の拠りどころである母は三つになったばかりの弟の世話に忙しく、以前ほど自分に構ってはくれない。
――お前が突然、たったひとりで知らない世界に放り出されても生きていけるように。
それが父の口癖で、リックは幼い頃から様々なことを教えられてきた。おかげで大抵のことはひとりでこなせるようになったが、今にして思えば、父は自分をどこか知らない遠くの土地に行かせるつもりなのかもしれない。
そう思うと喉のあたりにぐっと何かが詰まるような苦しさを覚え、目が潤んだ。顔を上げて大きく息を吸い込むと、一目散に駆け出した。
黄金色の草原を走る風を追い越し、葦の茂みをかきわけて進んでゆくと、昨日降った雨が作ったのか、泉のように大きな水たまりができていた。
リックはそれの淵に勢いよくへたり込むと、肩で息をした。もやもやとした黒い塊が胸の奥で渦巻いているようで、わけもなく叫びたくなる。空を仰いで深呼吸すると、目の前にある穏やかな水面に視線を落とした。
鮮やかな天空が映り込んだ水面は、空を見下ろすような眺めだった。静かに雲が流れ、その雲を追い駆けるように飛ぶものがある。目を凝らすと、それは翼を生やした馬だった。
普段は空を飛ぶことのない動物にも翼を与え、悠々と天空を駆け回ることができるのは、特別な力を持った石使いたちだけだ。王都にあるスクーロという場所を拠点に活動する彼らを、そこから遠く離れたこの土地で見かけることはめずらしい。
リックは馬の背に乗る者の姿を見ようと顔を上げたが、その姿はどこにもない。不思議に思って水たまりに視線を落とすと、急に強い風が吹いた。風は水面に波を立てると空を消し去り、リックの体にまとわりついた。
巻き上げられる砂に目を細め、体を舐めるように吹く風が通り過ぎるのを待っていると、水の底でちらちらと光るものがある。風が過ぎ、水面が再び空を映しても光るものはそのままで、引き寄せられるように水中へ手を差し入れると、硬いものが指に触れた。
それはリックの掌にすっかり収まるほどの、小さな丸い何かだ。握って引き上げようとすれば、ぐんと重みを増してますます水に沈みこむ。慌てて手を離そうとしたが、それは掌に吸いついたまま、ずるずると体を引き込んだ。
やがて浅いと思っていたはずの水たまりに、右腕がすっかり飲み込まれてしまった。それでもなお引き込まれて沈んでいくことに、言いようのない恐ろしさが込み上げた。
「助けて、父さん!」
思わず叫ぶと、リックは小さな空に転げ落ちていった。
*
自分は水たまりに落ちたはずだった。それともあれは、水たまりのふりをした本物の空だったのか。考える間もなく、眼下に石造りの堅牢な建物が見えた。
それは灰色の空中にぽっかりと浮かぶ、今にも崩れ落ちそうな古い砦だった。周りには砦になり損ねたような巨岩がいくつも浮かび、渦巻く風の中で人形のように翻弄されているリックの体は、吸い寄せられるようにそこへ向かっていた。
言いようのない恐怖にざわざわと鳥肌が立ち、強く拳を握りしめると、湿った右手に何かがある。気付くと同時にそれが強い光を放ち、ふわりと温かいものがリックの体を包む。その瞬間、リックの意識はすとんと抜け落ちた。
◆
「厄介なことばかりだ」
それは聞き覚えのある声だった。背中にひんやりとした石の感触と強い痛みを感じ、リックは目をきょろきょろさせて辺りを窺った。
「生きているか?」
声の主が、リックの顔を覗き込む。真直の黒髪を後ろで束ね、鋭い三白眼は漆黒の瞳。それと同じ闇夜のような燕尾服を着た痩身の男を見て、リックは思わず飛び起きた。
「父さん!」
リックは父の顔にほっとしたが、男は怪訝そうな顔をした。
「誰が父さんだ。俺に子供はいない」
ぎらりと光る目で睨まれ、冷たく言い放たれた言葉はリックの胸を突き刺した。しかし男の顔をよく見れば、父より随分若いことは確かだった。
「あなたは、アロモ・ノヴェンブロではないのですか?」
「いかにも。俺はアロモ・ノヴェンブロ伯爵である。しかしそなたのことは知らんし、そなたのような大きい子供がいる歳でもない」
彼が言う通りとても十三になる子供がいるようには見えなかった上に、伯爵と名乗られたことにも面食らった。父に爵位があるなど、聞いたこともなかった。
「偶然かもしれないけど、僕の父の名前はアロモ・ノヴェンブロと言います。母の名前は、マルグラント・ノヴェンブロ……」
「マルグラント!」
アロモは勢いよくリックの両肩に掴みかかると、じろりとリックの顔を覗き込んだ。
「俺とマグの間に、子供ができるのか?」
驚きと戸惑いと、少しの嬉しさが入り混じったような顔でアロモが言う。
「そう、それで僕の名前は、リック・ノヴェンブロ」
「リックだと? 信じられんが、するとそなたはずっと先の世界から来たということか。確かにそなたの目の色は、マルグラントから受け継いだものに違いないな。その銀色の髪も、俺とマグの髪色が混ざったのか……」
リックの空色に光る瞳を見て、アロモは微笑んだ。しかしその笑顔にリックが安心したのも束の間で、アロモは顎に手をやると、みるみる考え込むような顔になった。
リックを半眼で睨むと眉根を寄せ、次に首を捻り、何を言っているのか聞き取れないほどの小声でぼそぼそと独り言を呟くと、最後に目を閉じて、ふむ、と頷いた。
「何がどうなっているかはわからんが、俺とマルグラントは未だ婚約中の身だ」
「ほら! 婚約って、結婚するってことでしょ」
「何事もなければそうなるはずだった。しかし最悪の事態が起こってしまったのだ。そなた、自分が今どこにいるのかわかっておるのか?」
思い出すより早く、全身がざわざわと粟立つ。自分は空に転げ落ち、空中に浮かぶ砦に激突するはずだったのだ。
砦の入り口は断崖の絶壁を思い出させた。目の前には灰色の雲が広がり、大きな獣の唸り声に似た風が吹き荒れる。知らずと足が竦み、じりじりと後ずさった。
「僕、さっきまで空を落ちてたはずなんだけど」
「そうだな。そなた、天井を突き破って上から落ちてきたぞ。よくぞ無事だったものだ」
「父さんが助けてくれたんじゃないの?」
すると、アロモは憮然とした表情になった。
「父さん、という言い方はまだ早いのではないか? 俺のことはアロモと呼んでくれ。決してそなたのことを信用したわけではないからな」
先程とはまるで別人のような言い方に、リックは急に心細くなった。しかしそれを悟られぬよう胸を張り、改めてアロモに向き直る。
「僕がどうしてここに落ちて来たのか、僕にもわからないんだ。僕はただ、羊を探していただけなのに。アロモはどうしてこんなとこにいるの?」
アロモは目を細めると、品定めをするようにリックのことを見た。
「話すと長くなるが、簡単に言えば、ここに閉じ込められている。この砦はスクーロを裏切り、王室と通じていた石使いたちが総力を挙げて造ったものらしい。地上とは時間の流れが違うらしく、随分ゆっくり流れているようだ。おかげで腹も減らないが、地上の時間に換算すれば、もうひと月は閉じ込められているはずだ」
突然出てきた王室や石使いという言葉に、リックは混乱した。国を束ねる王室のことも、石を操り不思議な力を使う石使いたちのことも、自分とは程遠い世界のことだった。
「どうしてそんなことに……」
「この国の第三王子だったサメロの仕業だ。奴がマグを攫い、マグを盾に俺から紅の石を奪ってこの砦に閉じ込めた」
「サメロって……そんな、何で国王陛下が母さんを攫う必要があるのさ」
「国王陛下じゃない、今は王弟殿下だ。奴は俺から紅の石を奪うためにマグを攫った」
「紅の石って、そんなに大事なものなの?」
リックが驚いて尋ねると、アロモも驚いたように目を見張った。
「そなた、紅の石を知らないとはどういうことだ。俺の子供なら、当然石使いの血を引いているだろう。そなたも石を持っておったではないか。ほれ、拾っておいたぞ」
アロモはするりと、胸元から小さな硝子玉のようなものを取り出した。
「これ、石?」
「そうだ。しかし、無色透明でこれほど小振りものもめずらしい。装飾品として使われる石にしては大きいが、石使いが持つにしては随分小さい……」
リックはアロモから石を受け取ると、天井の隙間から僅かに零れる光にかざした。石は向こうが見えるほど透き通っていたが、目を凝らすとその奥が七色に光っているようにも見える。隣で同じように石を見つめていたアロモは、ふうむと感嘆の声を出した。
「色を持たぬ石は初めて見るな。俺がスクーロから出た後に見つかったのか? 大きくはないが、特別な力があるのかもしれん。そなた、俺から石のことを教えられなかったのか。これでも俺は世間から、当世一の石使いとも呼ばれているのだが」
「石使いの話は聞いたことがあるけど、僕は石使いじゃないし、石を見たこともない。それに父さんが石使いで伯爵だったなんて、一度も聞いたことがないよ」
「元の身分が何であれ、紅の石使いになれば爵位を下賜される決まりだ。大体そなたの父である俺が石使いでないなら、俺は一体何をしているのだ」
「農夫だよ」
「農夫だと!」
アロモの剣幕に、リックはびくりと身を引いた。しかし自分のいた世界では、父は王都から遠く離れた田舎に住む普通の農夫に違いない。
リックが王都を訪れたのは昨年父に連れられて行った夏至祭のときが初めてのことで、スクーロや石使いの話題も世間話程度にしか父と母の口に上らず、まして父が石使いだったなど教えられたこともなかった。
「どうして俺が農夫をしている? 石使いじゃないのか? そなた、やはり俺の子供ではないな! 人違いだ」
「違わない! 僕は絶対、あなたの子供だし」
リックは必死に首を振った。ここで彼に見捨てられてしまっては、二度と元の世界に帰れないような気がした。アロモはそれを無視して虚空を見つめ、首を振ったり頷いたりしていたが、ようやくリックに振り返った。
「ひとつ聞くが、それならそなたの世界で紅の石を持っているのは誰だ」
リックはじっとアロモの黒い目を見据えた。知っているようなふりをしても、この男には逆効果だ。うそぶいて知ったかぶりをすることを、父は何より嫌っていた。
「そもそも、紅の石が何なのかわからない。見たことも聞いたこともない。僕がいた世界には、紅の石使いなんて呼ばれる人はいなかったと思うし」
「紅の石使いがいない……」
「紅の石って何? それって、普通の石と何か違うの?」
アロモは無言のまま、踵を返して靴音を響かせると暗がりに消えた。リックは仕方なく、よろよろとその後を追いかけた。
アロモに付いて塔の端までやってくると、彼は無残に折れた杖を手に、床をコツコツと叩いていた。もはや杖とは呼べぬ棒切れのようなそれを、コツコツ、コツ、コツ、と音楽を奏でるように動かすと、やがてぴしゃりと岩の割れる音がして、床に蜘蛛の巣のようなひびが入る。
「俺も、ただぼんやりとここに閉じ込められていたわけじゃない」
「ここから出られるの」
「俺ほどの石使いともなれば、どんな石でも使いこなせる。この砦を形成する岩の中にも、僅かながら力を持つ石が含まれているからな。これは滅びの印だ。各所に施せば、砦そのものが内から崩れ落ちる。しかし、そなたは俺より早くこの砦を出ることができるかもしれないぞ」
アロモはにやりと笑い、リックの虹色に光る石を見た。
リックは再び、断崖の絶壁に立っていた。眼下には砦に付かず離れず、小島のような岩がいくつも浮かんでいる。アロモはリックの肩を抱きながら、空中へ足を踏み出そうとした。
「石があれば飛べる。そなただけでも先に地上に下りたらいい。俺に付き合っていては、外に出られるのがどれほど先になるかわからないからな。その石は、懐に仕舞っておけ」
アロモは至極落ち着いていたが、リックの鼓動は早くなった。
「石を使ったことなんてない。それに、ここには動物もいないじゃない」
石使いが動物に翼を与えて空を飛ぶことは知っている。しかし実際に見たのは数える程度で、どれも遠くに飛ぶ姿だ。水面に見た翼を持つ馬も、今や幻のように思えた。
「動物の力を借りて飛ぶのは二流がやることだ。一流は石さえあれば飛べる。そなたなら大丈夫だ。何しろ、超一流の血を引いているのだからな!」
アロモはリックの肩を抱いたまま飛び降りようとしたが、リックは必死に脇の壁にすがりついた。頑なに動こうとしないリックの頭に、アロモはふわりと手を置いた。
「そなた、マルグラントのことが心配ではないか?」
「もちろん心配だよ。どんなふうに攫われたのかも気になるし」
リックの言葉に、自信に満ちていたアロモの顔から表情が消えた。
「先頃、長く病を患っていた国王グランダが崩御し、第一王子のオルトドクが次の座を継承した。それに際して催された即位の儀に、俺とマグも招かれたのだが……」
多くの人間が集まったその場所で、突然マルグラントの姿が見えなくなった。アロモが第二王子のフェーロに声をかけられ、ほんの一瞬目を離した隙のことだ。気配まで忽然と消えて慌てていたところに、サメロから声をかけられた。
――先程、体調を崩されたようです。別室でお休みになっておられますよ。
柔らかな口調のサメロに案内され、連れて行かれたのは城の地下だった。
「今にしてみれば、そのときなぜ疑いもせずのこのこと後を付いて行ったのか……」
相手がサメロなのも悪かった。母親が王の愛妾だった彼は王室でも異端の扱いを受けていたが、三人いる王子のなかではとりわけ優れた人物で、部下である家臣たちからの信頼も篤い人格者であることは、世間も認めていることだった。
「俺も、まんまと騙されていた。人当たりがよく社交に長けていた上に、見目麗しい好男子だったしな。そのような王子が血筋のせいで王位に就ける望みも薄く、厄介者扱いされていたことを憐れにさえ思っていたのだ」
マルグラントは気を失ったまま、地下牢に捕われていた。姿を確認したときには既に遅く、自分の周りを大勢の石使いたちが囲んでいた。彼らは呻くように呪いの言葉を呟くと、各々が持つ石を一斉にアロモへ向けた。そしてアロモが自分の力を使わんとするより早く、サメロが先に紅の石の力を使い、呪文に止めを刺したのだ。
「サメロ自身が石使いだった。よもや、王室に石を使える者がいたとはな。石を使える素質があるとわかれば、たとえ王族でもスクーロが放っておかないはずだ。自分に素質があることを、今までひた隠しにしておったのだ。スクーロに行かなかった奴が一体誰から石の使い方を教わったのか知らんが、俺から紅の石を奪い、手下に引き込んだ石使いたちを使って、この砦に封じ込めた」
「そんなの、僕の知ってる世界と全然違う……」
リックが住んでいたのは、王都から遠く離れた国境近くにある小さな村だ。村にある大きな建物といえば聖堂ぐらいのもので、果てのない空と大地しかない場所で育ったリックにとって、スクーロや石使い、そして王室のことは、おとぎ話のように現実感のないものだった。
「そなたの来た世界がどのようなものかは知らんが、すべて事実だ。そして俺は一刻も早くマグを救い出し、サメロから紅の石を取り戻さねばならん。そのために、そなたも力を貸してくれ」
「でも、僕は石の使い方を知らないし」
「いつまでもここにいることの方が危険だ。いくら時の流れが遅いとは言え、出られぬ限りは緩やかに死へと繋がっているようなものだからな」
アロモは冷たく乾いた指先で、つるりとリックの頬を撫でた。
「何がどうして、先の世界から自分の子供がやってきたのかはわからん。しかし理由があるのだろう。そうだとしたら、ここに留まっているべきではない」
アロモはリックの肩を抱えると、「行くぞ」と言って勢いよく灰色の雲に飛び込んだ。雲が視界を遮ることをものともせず、空中に浮かぶ岩から岩へ、飛ぶように空を駆け下りる。しかしリックは息をすることもままならず、かろうじて目を開けているのがやっとだった。
「しっかりしろ。ここから先は、そなたひとりで行くのだぞ」
アロモは空中でリックの体を離そうとしたが、リックはアロモの体に縋すがりついた。
「やっぱり、無理だよ!」
「こら、俺にくっついたままではいかん!」
下からの強い風圧に、リックは固く目を閉じた。しかし次の瞬間ぴたりと風が止み、地面に足が着いている。ゆっくり目を開けると、そこは先ほどまでいた砦のなかだった。
「だから、俺にくっつくなと言っただろう!」
「どうして? さっきまで空を落ちていたのに!」
「それが俺にかけられた呪いだ。塔から飛び降りて地上に下りようとしても、体が勝手に戻されてしまう。俺にしがみついていたから、そなたも一緒に戻されてしまったのだろう。俺がここから出るには、この塔ごと破壊する必要があるんだ」
「無理だよ、飛べない……」
リックがその場にへたり込むと、アロモは乱暴にリックの肩を掴み、すぐに無理やり立ち上がらせた。
「たとえば鳥になることを想像してみろ。自分に翼があって、その翼を動かすのではなく、大きく伸ばして風に乗る」
「腕を広げるの」
「腕が翼になると思っても、背中に翼があると感じても構わん。とにかく自分が空を飛ぶということを想像しろ。まずはそこからだ」
リックが目を閉じて思い浮かべたのは、白く美しい渡り鳥の姿だった。彼らの真直に伸ばした翼は体に不釣り合いなほど大きく、飛ぶというより空中を滑っているように見えた。彼らの目に映っているのは、自分のよく知る故郷の空と大地だ。
あの一羽になり、同じように空を滑ることができたらさぞ気分がよいだろう。経験したことのない空の世界へ思いを馳せるうちに、不思議と恐怖はどこかへ消えた。リックが深呼吸をして目を開けると、アロモは驚くほど優しい顔になっていた。
「もう大丈夫だろう? そなたは飛べる。しかし飛べたからと言って、力に溺れてはならん。力は使うものであって、使われるものではない。石は強い力を持っているが、使いこなすにはそれに負けぬ強い心が必要だ。ひとつ、石の力に支配された人間の特徴を教えてやろう」
するとアロモは、リックの下瞼をぐいと引っ張った。
「目の色が変わるのだ。持つ石と同じ色になる。そうなってはもう遅い。その者は心を奪われて己の志を失い、やがて命を落とす。そして石は奪った心を糧かてに、更にその強さを増す。ゆえに石使いと言えど、身の丈に合ったひとつの石しか持てんのだ。弱い者が強い石を持てば、たちまち身を崩すからな」
「僕が持ってるような、色のない石の場合は?」
「そうだな……目に色がないと言ったら、失明か」
リックは自分の懐にある石が、急に重さを増すような気がした。
「そんな不安な顔をしなくてもいい。今のところ、その石からは禍々しい気配など感じない。それどころか、まるでそなたのことを守っているようだ。ただ心に留めておけ。石に頼り過ぎてはならない。心を強く持て。それからもしそなたが本当に先の世界から来て、この国の行く末なんかを知っているのだとしたら、それはあまり口には出すな。本当なら俺の子供だということも、知らずにいたほうがよかったのかもしれない……」
アロモはそこまで言ってから、何かを思い出したようにさっと顔色を変えた。
「ときにそなた、先刻サメロのことを国王陛下と言ったか」
言われて気まずく頷こうとしたリックの頭を、アロモが乱暴に掴んだ。
「いや、よい! もう何も俺に教えるな! 先のことを知り、それが自分の望む世界でなかったとすれば、変えようとする奴もいる。現に今、俺はサメロのことを殺してやりたいほど憎いと思っているのに、そんなことを聞いたら下手に殺せなくなるではないか。世界の道筋はひとつではない。むしろ、無限にあると言ったほうが正しかろう。何かひとつが狂えば、そなたが生まれない世界もあり得るのだ。己の言葉ひとつで自身の存在を消しかねんということを、よく肝に銘じておくのだな」
リックはひとりで砦の淵に立った。凶暴な風が吹く灰色の空を見ても、もう足は竦まない。
「行けるか」
リックが静かに頷くと、アロモはリックの手を取った。骨ばった力強い手に引かれ、次々に岩を渡る。最初はもつれるように重かった足が、やがて軽やかに動き出した。
砦の真下にまで来ると、下にある雲の切れ間から、一列に並んで飛ぶ白い大群が見えた。
「うまい具合だ。気の早い鳥がもう渡りを始めている。まだあれほど数が多いということは、ここは王都より北のはずだ。あれは南下する間に少しずつ数を減らし、最後の数羽は王都を通り越して国境近くにある湖まで飛ぶ。風を読み、王都まで一緒に連れて行ってもらうといい」
「わかった。アロモ、きっとまた会えるよね?」
リックの不安を取り去るように、アロモは笑顔で頷いた。
「ああ。その石を手放さずにおれ。地上に下りたら、その石の気配を辿ってそなたを探そう。下に降りて行く場所に困ったら、書見塔のヴィントを頼れ。書見塔は知っているか? この国に古くから伝わる膨大な書物を蔵した知識の宝庫だ」
「うん、少し斜めになってる古い塔でしょ」
リックは揚々と返事をした。王都の地理については、夏至祭に行った際、父から詳しく聞かされていた。
「その通り。マルグラントは元々書見塔の司書で、総司書ヴィントの弟子だった。ヴィントは俺がこの国で最も頼りにできる人物だ。奴なら必ず力になってくれよう」
「わかった。王都に行ったら、書見塔のヴィントさんのところに」
「それから、スクーロの連中には気をつけろ。人目のつくところでは、石を使わないことだ」
「でも、スクーロの人たちならアロモのことも助けてくれるんじゃないの?」
「いいや、絶対に余計なことはするな。関わると厄介なことになる」
アロモの顔が険しくなり、みるみる機嫌が悪くなるのがわかった。リックは大人しく空へ飛び下りようとして、もう一度だけアロモを振り返った。
「心配するな。そなたが俺の息子なら、きっと大丈夫だ」
アロモはにやりと笑い、自信たっぷりに頷いた。それは今までに何度も見たことがある父の顔だ。リックも笑顔で頷くと、勢いよく岩を蹴って空中に飛び出した。
◆
リックの背に現れた白い翼は風に乗り、伸び伸びと大きく広げられているようだった。
「すごい……!」
地上では決して見ることのできない眺めに、リックは初めて世界の広さを知った気がした。景色を遮るものは何もなく、遥か遠く、王都の向こうにあるオーザ山脈まで見渡すことができる。
既に先へ進んでいた鳥たちを追いかけるよう、リックは翼を強く羽ばたかせた。すると体がぐんと前に出てすぐ鳥たちに追いついたが、酷く疲れもした。横に並んだ彼らを見ると、どれも垂直に羽を伸ばし、見えない床の上を器用に滑っているようだった。
「君たち、頭がいいんだね」
リックが呟くと、隣にいた鳥が答えるようにグワァと鳴いた。
王都から東にあるオーザの山々は、この国にとって天然の城壁になっていた。山向こうにある他国の侵攻を阻み、海を越えた先にある西の大陸で生み出される嵐や雪雲も、オーザの山を越えることはできない。東から定期的に吹く海風を受け止めて作られる雨雲は大地を潤し、豊かな土壌を育んだ。
六つの国がひしめく小さな大陸で、さして大きくもないこの土地がヴェレーガルと名付けられ、大国に頼ることなく豊かに発展できたのは自然の恩恵に因る所が大きかったのだと、いつか母から聞かされたことを思い出した。
王都には遠くから見ても特徴的な三つの建物が立っていた。都の中心にある小高い丘に悠然と聳え立っているのが国王の住む城で、そこから離れた北の端にある、若干傾いているように見えるのが書見塔だった。残りのひとつがスクーロで、それは城から東にずっと離れ、ほとんど都の外と思われる場所にある。城とも塔とも区別がつかないそれは、空中に浮かぶ砦に似ていた。
リックが眼前に広がる光景を食い入るように見つめていると、それまで優雅に飛んでいた鳥たちが、急にざわざわと羽ばたいて列を乱した。あたりを見回すと、ひゅ、と何かが空を切るような音と共に、一羽の鳥が苦しむような鳴き声を上げた。
それは弓矢だった。翼を射られた一羽の鳥が、破れた凧のように落ちていく。リックは秋の終わりであるこの時期に、渡り鳥を待ち構える狩人が多くいることを思い出した。
狩人は鳥が来る季節になると、短い期間に何羽もの鳥を鮮やかに仕留めていた。弓の名手である彼らはリックの憧れでもあったが、狩られる側に回るとこれほど恐ろしい者もいない。
身の危険を察知した鳥たちはぐんと高度を上げ、リックも必死で背中の翼を羽ばたかせた。すると狩人は諦めたのか、それ以上矢が放たれる気配はなかった。うるさく鳴いていた鳥たちも落ち着きを取り戻し、すっかり列を組み直す。
「ごめんね。でも僕たち人間も、生きていくには仕方のないことだから」
ほっとして鳥たちに微笑むと、風を切る音と共に鋭い痛みが走った。リックはすぐに自分の翼が射抜かれたことを理解して下降しかかったが、痛みを堪え、震えるように翼を羽ばたかせた。
リックが嬉しかったのは、鳥たちが自分を守るように飛んでくれたことだ。彼らは列を崩して散り散りに飛び回り、示し合わせるようにけたたましく鳴いた。
「ありがとう。さっきは僕と同じ人間が、君たちの仲間を殺してしまったのに」
呟きながら、リックは自分の意識が薄れていくのを感じていた。
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