子どものつむじは甘い匂い
子どもが2歳になってよくしゃべるようになった。突然「やっぱ蚊だよね〜」とギャルめいた抑揚と内容のあってない発言をしたり、紫陽花を「ハクサイなの!」と言い張ったり、日没後に深い青になる空をみて、「あおのじかんだよ」と教えてくれたり。
そういう子どもをみていると、ますますおもしろくなってきたなと嬉しい一方で、もう完全に赤ちゃんではないな、とも思う。かつては赤ちゃんだったのに、その期間は終わって、子どもになった。赤ちゃんだった娘はいなくなってしまった。
ちょっとさみしくて、赤ちゃんの娘は娘で、成長していく本体とは別の、たとえばAI型人形みたいな動く記録媒体として、存在し続けたらどうなんだろうって想像してみる。でもすぐに無理だと思って、取り消す。
生きてるものには揺らぎがある。食べた後にポンポンにふくれるお腹。お風呂上がりのツヤツヤプルプルのほっぺた。寝起きのなんとなく不快そうなはっきり開ききらない目。叱られた後のきゅっと結ばれてへの字になる口。はしゃぎまわって遊んだ後のおでこに張り付いた湿った前髪。だっこしたときにちょうどわたしの鼻の下にくる、つむじから漂う甘い匂い。
たった数時間で、数分で、肌の質感も、目の大きさも、匂いも、クルクルくるくる変わる。その変化にそのつどハッとする。速度も量も大人よりもずっと多くて密度が高い、みるたび変わっていくものが、五感を刺激する。
これを精巧に再現するなんて無理だろうし、精巧になるほどちょっとしたズレに違和感を感じて、虚しくなりそう。それで隅っこに追いやられて埃をかぶって、たまに引きずり出されて遊ばれる子どもの似姿を想像すると不憫で、ないほうがいいなあと思う。
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これまで子どもを育てて意外だったのが、「こんなに大変だったなんて親に感謝」と思ったことが、全くなかったこと。むしろ、「こんなに楽しませてたなんて感謝してほしい」と思ったくらい。親孝行はもう充分に終えてたんだと知った。
実家が遠い核家族で、出産と同時に知り合いの全くいない土地での生活が始まって、子どもは寝ないし授乳はうまくいかないし夫は夜遅いし週末も出張でいないといった大変さは普通にあって、今もあるけど、それはこっちの問題だった。
やってられるか!とぜんぶ投げ出したくなることと、子どものかわいさやおもしろさは別の次元にあった。
わたしの感情がどうであるか、気づくかどうかとは別のところに、生き物にとって水が必ず必要なように、若い水気に満ちた生命は揺るがない価値として存在してるような、なんか、そういう感じなのだ。
子どもは今、世界で一番わたしのことが好きだと思う。わたしの想いよりも子どもの想いの方がよほど強そうだと思う。
わたしが座っていると膝に乗っかってくる。向き合って座りあい、わたしの首の後ろに腕をまわして、わたしの頰を包み込んで、ふうっと顔を近づけてくる。生暖かい生き物の匂いがする。娘なのに、なんだかドキドキしてしまう。
わたしと同じ向きに座るときは、首を逸らしてわたしの顔を下から見上げて、のぞきこんで、鼻にしわを寄せて、思いっきり笑う。耳の後ろから、汗が煮詰まったような匂いがする。
離れている時間が長くなると、また抱きついてきて、ぶちゅうっと口づけてくる。わたしを補給するみたいに、じいっとくっついて、頰と頬を寄せて、満足すると離れる。顔からよだれの匂いがする。
親の愛は強いものだと言うけど、もしかしてそれ以上に、幼少期の子どもが保護者へ向ける愛情の方が強いんじゃないだろうか。その時期の子どもは「わたしの愛情の方が強い」なんて言葉にしないし、ましてや文字として残さない、そしてだいたい忘れてしまうだけで。
わたしはすぐイライラするし、自分のやりたいことと子どものお世話との間でモヤモヤするし、誰か変わってほしいと思うし、ちょっと離れたいと思ったりもするけど、子どもはどれだけずっと一緒にいても、全然わたしに飽きる様子がない。感情的に怒ってしまっても、泣きながら抱っこを求めてくる。
おかあさん。おかあさん。おかあさん。おかあさん。おかあさん。
こちらがうんざりするくらい呼んで、なんでもかんでもみてみて、あそぼうあそぼうと言って、とにかくぶちゅぶちゅしてくる。
ちょっと通りを歩いて帰ってきただけで、「おさんぽたのしかったねえ?」と満遍の笑みを向けられると、かなわないなって思う。
子どもから向けられているものの方がずっと大きくて、まっすぐで、絶対的な気がする。
愛情って与えるイメージがあったけど、たぶん違う。わたしは、与えられるものに応えてる。それで応えるほど、愛情が出てくる。抱っこするほどかわいくなる。あたたかさを感じるほど滲み出てくるものがある。その繰り返しでどんどん好きになる。
この関係はいつか必ず終わる。子どもには興味を向ける対象がいくらでも出てきて、わたしのことを考える容量はとても小さくなる。こちらに蜜月の記憶を焼きつけてから、離れていく。想像される未来は、わたしのほうからの一方通行、永遠の片思い。でもそれでいい。振り返らないで、前だけ見ててくれればいい。
前っていうのは、花でも、木でも、昆虫でも、動物でも、子どもでも、大人でも、技でも、組織でも、事業でも、街でも、料理でも、研究でも、何でもいいので、何かと大事に向き合って、生活すること。要は楽しく生きてくれればそれでいいってことで、意外と簡単じゃない楽しく生きる力は、一緒にいる時間のなかで身につけさせてあげたい。
子どもの身体の大きさはわたしの懐にちょうどフィットするサイズ。その大きさと高めの体温がかわいい。
抱っこする時、子どものつむじはいつもわたしの鼻の下にある。あたらしい汗の匂いなのか、それがどうも甘い。耳の後ろの匂いも甘い。よだれの匂いも甘い。
わたしたちの睦みあいは、いつかは必ず終わる。それがわかっているから、余計に甘い。
だからわたしは、子どもの匂いをくんくんスウスウ嗅ぎまくる。鼻からすぅーっと身体に満たす。いつまでできるかわからない限られた時間を、甘い匂いも一緒に、身体に貯めるみたいにする。
【連載】子どものつむじは甘い匂い − 太平洋側育ちの日本海側子育て記 −
抱っこをしたり、着替えをさせたり、歯を磨いたり。小さい子どもの頭はよくわたしの鼻の下にあって、それが発する匂いは、なんとなく甘い。
富山で1歳女児を育児中の湘南出身ライターが綴る暮らしと子育ての話。
前回の記事:ケロヨン堂は芳香剤の匂い──正しくないものと子ども
【著者】籔谷智恵 / www.chieyabutani.com
神奈川県藤沢市生まれ。大学卒業後、茨城県の重要無形文化財指定織物「結城紬」産地で企画やブランディングの仕事に約10年携わる。結婚後北海道へ移住、そして出産とともに富山へ移住。地場産業などの分野で文筆業に従事しつつ、人と自然の関係について思い巡らし描き出していくことが、大きな目的。
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