昨日の夢
母が夢に出てきた。
昨日は母の月命日。亡くなって、4年と5ヶ月、夢に出てきてくれたのは、2回目。
ほんとは草津に遊びに行っている父の代わりにお墓へ行こうと思っていたけれど、
「週末は雨が降って寒いから、お墓参りはやめておきなさい。」と、珍しい、違和感を覚えるくらいのLINEを父からもらって、特にイベントもなく退屈な雨の土曜日を過ごしたところだった。
夢では、2つの場面が交錯していた。
飲食店の、居酒屋みたいな場所で、2階に上がるところ
明るめの木目の階段、前を上る、父の足、靴下、足の裏。
登った先に、失望が待っていた
これだけしか集まらなかったんだ
Tおばちゃまもいなくて、もちろんYおばさんもいなくて。
後、Yさんたちもいなかった
来れないのなら、皆、連絡ひとつくれればいいのに。
普通、こういうのって、前々から伝えているのだから、万事繰り合わせてくるものなのに
予定はあけとくものなはずなのに
薄情な人たち
もう一つは、14歳まで生まれ育った、三宿の家。
夜中で、部屋の電気は消えていて、私はリビングからそのまま繋がる主寝室で、
母と一緒に寝ていた。
母は、ないていた
私は、母に腕まくらをしながら、泣く母に覆い被さり、守るように抱きしめていた
私はその母が、今の母ではないことをわかっていた
今の母は、からだの自由がきかなくて、自力で体を動かせないことも
こんなに頬に肉がついていないことも知っていた
もっと言うと、おでこの丸みが、本当の母と違う。
この母は、幻想だということを知っていた
母は眠り、思い出したように泣き、泣き止んで眠っては、また思い出すように泣いていた。
母がかわいそうで一緒に泣き、しばらくした時、
子ども部屋だった方から、暗がりの中、父がやってきた
夜寝る時のいつも通りの格好、パジャマを着た父がやってきた
私は、「今日は、ママと一緒に寝たら」と泣きながら伝えた。
きっと、一蹴されると思いながら
父は、少し表情をゆるく崩しながらうなずいた。もしくは、「そうだな」と、小さく言っていたかもしれない。
私は、向こうにあるリビングを通り越して台所の灯りをつけた
リビングの電気だと、明る過ぎて、母の目が覚めてしまうと思ったから。
シンクの上の、紐を引っ張る蛍光灯
引っ張っても、ちか・ちか・ちか
なかなかつかなかった
(嗚呼。もうつかないんだ、もう、ここには住んでいないから。電球を変えてないんだ)
蛍光灯の奥には、母のいつものタッパーがずらりと見えた。
(早く、この家のものを処分しないといけないな。量が多くて少し面倒だな)
意外にも、父は電話中だった
手に電話を持っていて、電話越しに、兄の声が聞こえた
もう40にもなるのに、高くて澄んだ声
そっか。時差か。
兄は今も、アメリカにいるんだろうか
父は、私と変わって、主寝室へ入る。母のそばに行く父を見て、ホッとする。
私は、父から電話を受け取り、兄を話すことにした。
兄と話しながら、場面が変わる
冒頭の居酒屋
前をあがる、父の足
兄に、弱音を吐いた
なんと伝えたかは覚えていない
これだけしか集まってくれてないんだ、ということを言ったのだと思う
とっさに、凄まじい後悔が押し寄せてきた
父は、ここにいる
じゃあ、母は。ここにいる母は、幻だ
では、ホンモノの母は一体どこにいる?
それが、どうしても、思い出せない
思い出せず、そのことに焦りと恐れを感じる
どこだっけ。施設?病院?今、母はどこにいるんだっけ?
私は、父のことばかり心配して、ここのところずうっと、
全然、母に会いに行っていないじゃないか
すっかり会いにいくのを忘れてしまっている
なんてことしちゃったんだ。
母は、四肢は動かないけれど、まだ意識はしっかりしている
きっと、寂しがっている。
顔を見に、会いに来てくれるのを待っているはずだ
どうしよう。会いにいかなくちゃ
そこで目が覚めた
とても悲しくて、そして焦る気持ちで、目が覚めた
あまりの夢の鮮明さと、
私が、今この瞬間この現実には、
まったく夢に出てこなかった、夫と、子どもと、犬と寝ていることを思うと、
ずいぶん遠くまで来てしまったんだなと感じる
否応なしに
この変化を受け入れなくてはいけない
そして、子ども部屋から父が来た時、私はものすごく安堵したんだよな、と思ったり、
もう25年も離れて暮らしている兄が、夢に、しかも私が弱音を吐ける頼れる存在のように登場したのは意外だったな、と思ってみたりして、心を落ち着かせていた
そしてそこで、ハッとした。
母はもう、死んだんだ。
そう、
もう既に、4年5ヶ月前に、亡くなった。
そっか。だから私は、会いにいくのを忘れていたわけじゃなかった
母に寂しい思いをさせているわけじゃなかった。よかった。
安堵した。
最近は、赤の他人の自殺に巻き込まれて、相当鬱々としていた私は、
いろいろ突き詰めると、生きることは無意味だとおもっていた
そこを這っている、蟻と同じ。
生きるため、もっと限定すると、食べるために、あくせく働いている。
貨幣経済のもとでは、食べものを手に入れるために対価を得ることが本質で、
仕事の内容(やりがい)も、学びも、遊びも、ワインも、エルメスも、本質的なことではない。
ほんとは、個々に、人は名前すらなくてもよくて、
冬がやってくるか、誰かに踏み潰されるか、何かで死ぬその時までの、無意味を繋ぐ気休めに過ぎないと。
全部が本質ではなく、空虚な暇つぶしだと
それでも、この夢を見る前に、仕事を引退した父のことを考えていて。
私たち家族のために働いてくれたこと、お金を稼ぎ続けてくれたことは、
本当に大変だったと思うけれど、
家族の「ために」働くということが、父のやりがいになっていたとしたら、それはそれでよかったな、と思っていた。
誰かの「ために」働いたり、尽くすことは、無意味で空虚な暇つぶしに、価値や、高尚な意味合いや、大義名分をもたらしてくれるのかもしれない
夢の中での私も、
母に尽くしていたしな
社会は、自分らしく生きろというけれど、
それは突き詰めると無意味を意味してしまわないのだろうか
自分のためだけに生きていても、物語は生まれないような気がして
それは、強烈に大切な人じゃなくてもいい
不特定多数でもいい
隣のあの人でいい
「誰か」に尽くした時、「誰か」を守りたいと思った時、
彩り溢れる情景や、落日に涙するほど心震える感情が生まれてくるんだと、思う。
過去に1度だけ夢にうなされたことがあって、
夫に起こされたことがある。
夫はしょっちゅううなされている笑
起こしてあげるのが正解なのかな
それとも、所詮は夢だから、そのまま寝かせておくのがいいのかな
でも自分がうなされた時、夫に起こされて、すごく安心したのを覚えている。
「怖い夢を見たんだ」
そう伝える相手がいたことに感謝したのを覚えている
最近大切な人を大切にする、そんな基本的なことができていない。ダメだな
夢を書き留めたくてあくせくP C開いて、朝の4時。外もまだ暗い、まだ一眠りできる。
起きたらまず、父に電話しよう。誰かの役に立つことをしよう
そう思って再び眠りについた。
そしたら、また母の夢を見たけれど。起きてすぐに書き留めなかったから、内容を覚えていない。
さっき父に電話した。
4年5ヶ月、やっとママが、夢に出てきてくれた、2回目だと言うことを伝えたら、
俺なんてしょっちゅうだよ、しょっちゅう出てくるよ、と嬉しそうに嘆いた。
きっとずっと、ほんの少しでもいいから、母の話をしたかったんだろう。
夢の中で母が泣いていた話をしたら、
「俺は、あの人が笑い過ぎて涙流してるところしか見たことないよ」と父は言った。
本当だ、確かに。私もそうだ。
笑い過ぎて泣いてるところしか思い出せない。
だから母が死んだ時、父は一度も私に涙を見せなかったのかな
で、やっぱりあの夢の母は、ニセモノだったんだな。