看護師の1.17
あの頃、皆さんは何をされていましたか。
まだ生まれていなかった、でしょうか。
1995.1.17。
私たち関西に住むこの世代は、「震災」といえば、阪神淡路大震災をイメージします。今は、「震災」といえば、東日本大震災をイメージするかもしれません。
当時私は淀川キリスト教医病院の脳外科病棟で副主任をしていたと思います。
当日の朝は、大阪市内のマンションで、なぜか天窓から見える景色が赤く燃え上がり、気になって早く目が覚めました。
そしてその時。
下から、ドンっと突き上げるような反動で、地震とは思わず、大きなトラックがマンション一階にぶつかったのかと思いましたが、数秒で、違うと理解しました。
丈夫な都会のマンションです。ありえません。
そして、窓の外を見ると、停電で真っ暗でした。
マンションん向かいの商店のガラスが割れて飛び散っています。
何が起きた?と言う感じです。いわゆる「揺れる」感じはしなかったんです。
おかしいと思い、ひとまず、なんだか慌てて、ストッキングを必死ではいて、
洋服を着たことを覚えています。
そして余震。繋がらない電話。公衆電話に走り、実家に連絡、病院に連絡。
大阪市内の病院は大きな被害はなく、しかし、実家の大阪南東部は、なぜか玄関の横の壁が亀裂が入ったようです。
しばらくして、見えたテレビで見えた燃え上げる神戸市長田の街。
つい最近まで一緒に働いていた兵庫医科大学病院のスタッフが実家に遅めのお正月休みで帰っているはず。
時間と共に焦る。どうにかして一旦実家に帰った。電車が止まっていて、市バスやいろんなものを乗り継いで、実家の安全を確認してから、大阪市内の病院に向かいました。よかった、病院は大丈夫。
当時、点滴ボトルはガラスのものも多く、それが数個棚から落ちて割れただけでした。震源地近くは、どんなに大変だったろう。
安心したのは束の間。
医師がほとんど阪神間在住だったことに気付くのは時間がかかりませんでした。
各科の医師が出てこられない。
脳外科も、レジデントの若い医師が一人。あとはみんな神戸や芦屋や御影から、出てこれない。
とにかく、頑張ろうと、彼を支える看護師たち。
当日、病院はインフルエンザの大流行もあり、外来も病棟もパンパン。
医師の定期処方の手伝い、医師の指示も看護管理職が確認する、手術はICUの医師の協力のもと最低限、対応できる術式で乗り切りました。
1週間後、脳外科部長が、神戸の(当時初めて知った)マンション敷地の泥状化現象が起きた現場で、家族を守り、その家族をマンション住民に託して、(お子さんはまだ小学生だったかと)何時間も歩いて、大阪市内まで出てきてくれました。
彼の姿を見た時の現場の安心感はなんと表現すればいいだろう。
いまだに思いつかない。
レジデントの医師は、すでにあまり食べられない眠られない状況から、顔が真っ青になって仕事をしてくれていたから、部長に抱きついたのを覚えています。
歩いてたどり着いた彼は、砂や埃でまみれ、とても疲れておられて、
そして、たった一言、彼の一言、、、
「ここは暖かくて、明るいな。。。。」
先輩の主任ナースが温かいコーヒーとお菓子を出すと、それをじっと見つめて
「子どもたちに食べさせてやりたい」と涙を滲ませられたときに、テレビを通してでなく、その言葉の重さを感じました。
その後、当時初めて知った、クラッシュシンドロームという言葉が、病院に飛び交いました。倒壊した家屋の下敷きになって、その後救出されても急激に腎機能が悪くなり死んでしまう、と言う現象を初めて聞いて、びっくりしたのを覚えています。今なら、普通に一般の方もご存知ですよね。
神戸で、透析室が壊滅的になった病院の患者さんをこちらの透析室でお受けすると言う受け入れが始まったり、空いた部屋に、箪笥に挟まれて全身に打撲の跡が見られる患者さんをお受け入れしたりと、通常では考えられない動きが始まりました。その患者さんは、夜に、ベッドで横になれません。またタンスが落ちてくるかも、天井が落ちてくるかもという恐怖で眠れないのです。
車椅子で廊下で寝られる患者さんに付き添った夜勤をいまだに忘れられないです。
その後、とても大好きだったチャプレン先生の御影の素敵なお家が倒壊して出てこれないお話が入ったり、、倒壊した家にいた医師のご家族がバラバラの病院に運ばれ、どこにいるかわからない心配のまま医師が出勤してくれたり、毎日、申し訳ない、ありがたい、と言う気持ちになるお知らせが入ってきながら、休まず働いていました。
家族がどこにいるかわからないと言う状況で、大阪市内の正常に稼働する病院で治療に従事する医師たちは、当時たくさんおられたと思います。
日に日に、家族が見つかった、婚約者が見つかった、など、いいお知らせも入ってくるようになりました。
携帯電話が一般的でなかった時代です。情報は、NHKで毎日呼びかけられる、不明者の名前の呼びかけでした。
私の部署のスタッフも、結婚時間近の彼と連絡が取れないと不安でいっぱいな中勤務にあたってくれていました。連絡があったときに師長さんに抱きついて泣き崩れていました。
兵庫医科大学の仲間たちも、大変な思いをしていました。
文頭に書いた、長田区の友達は、ずっと連絡が取れませんでした。
1週間後、勤務先に連絡があった、と主任さんから私にご連絡をいただきました。
宝塚市から当時の婚約者が自転車で、手のひらをマメでいっぱいになりながら、彼女の家族を長田まで探しに行って見つけてくれたそうです。
幸い、家はかなり半壊状態であったものの、あのすごい火事には巻き込まれず、皆様が無事だった、と言うことに胸を撫で下ろしました。
生活面では、ガスの復旧がめどが立たず、また、西宮市も古いマンションは倒壊していました。お風呂に入るのもお風呂屋さんに3時間〜4時間並んで、数分で出ないといけないと言う状況。仕事もあるのに、疲れが取れません。
友人に連絡して、大阪市内のマンションのお風呂場を開放しました。
お風呂上がりに彼女にシートパックを渡したら、彼女はずっと泣いていました。
勤務の継続も大変な状況と聞きました。13階建てのエレベーターが壊れていたり、壁に亀裂が入って外から見える部分があったり、もちろん停電で、寒いのでナースは、アウターを着ての勤務です。
患者さんは、転院受け入れをしてくれるところに順次転院。でも、退院するはずの家が、倒壊している人はどうしたのでしょうか。
残った患者さんをナースがケアをするのですが、お水が来ないのです。
トイレも流せませんから、10棟以上ある建物の中から、一番遠くにある建物までトイレをしに行かないといけないので、ナースも大変、寝たきりの患者様は、バルンカテーテルかオムツになったと聞きました。
お食事は、おにぎりや缶詰。
数日経って、ボランティアさんが、バケツリレーでお水を上に上げてくれたりはしましたが、診療がまともにできるわけではありません。
ナースは順番に休みをとり、開店休業状態になったと言うことでした。
阪神電車沿いの街は、私が若い時代を過ごした街とは全く形相が変わっていました。とても恐ろしくてしばらくいけませんでした。
そんな中、私は、4月に結婚を控えていました。
夫には、結婚式の打ち合わせの一部をお願いし、エステはキャンセル、親との温泉旅行もキャンセル、ほとんど休まずこなし、式の前日まで過ごしていました。
メイクの方が一生懸命マッサージをしてくださったのを覚えています。
挙式は、4月。
兵庫医科大学病院のスタッフ、淀川キリスト教病院のスタッフもたくさんきてくださる中で、開催をするかどうかギリギリまで悩みました。
しかし、被災した方から、「是非ともやってほしい」と言っていただき開催しました。とても温かい挙式になりました。
結婚後、
震災離婚という言葉をたくさん聞きました。
倒壊した、ぐちゃぐちゃになった部屋に、夫婦とも帰るのが怖くて、そのまま離婚した話や、自分の気持ちを相手にぶつけられず、相手にも気を遣ってしまい、苦しくなってしまったケースや、いろいろ聞きました。
すごい状況で、いろんなことに気がついてしまい、普段の自分の我慢のリミッターも超えて、どうしようもないことがたくさん起きていました。
ボランティア元年といわれた、1995年。
大災害が来たら、自衛隊が来る、ボランティアが来る、など、いろいろとそのときに構築され、その後の震災の対応はとても早くなったという印象を感じます。
今朝のニュースでは全国版では、数秒。近畿のキー局の放送局では、特集を組んでいました。
医療職として、家族がいるものとして、母として、妻として、娘として。
いろんなことの価値観が変わったあの日を、私はちゃんと覚えておかないといけないと思っています。
大阪はあまり被害がなかったね、といわれていた、大きな病院でも、
神戸から、患者のために、私たちスタッフのために、歩いてきてくれた先生や、
家族を思いながら手術にあたってくれた先生の医療人の姿勢を思うと
今の自分は恥ずかしくないかな、と考える時間は大切です。
こういったことを思いながら、心から黙祷を唱えた、朝は、
28年目です。
以下、写真館や映像を残しておきます。
まだ当事を思ってフラッシュバックされる方などは、見ないようにしてください。
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ギャラリー阪神大震災(朝日新聞のサイトから)
こちらは写真館です。
特集「阪神大震災」(朝日新聞の特集ページの画像です)