「看護の力」を通して教えあうこと。
月に一度数日滞在し、教育顧問をさせていただいている病院で「看護の力」を読んでいただいての感想文をお願いした。ターゲットは新人でも中堅でもない、そこそこの年数(ここではここまでが限界。)のスタッフ。
お題は「看護の力」(川島みどり先生)。
60年以上看護師としていろんな経験と工夫と、「手当て」をしてきた筆者の取り組みと気づきがどれほど伝わるのだろうと、かなり冒険的な実験的なものだった。
大学の先生などは、当たり前とお考えになるであろう「文献に触れるということ」。
今の現場の看護師においては、日々の仕事に疲れ「看護の書籍」に触れる機会がとても少ないように感じている。特に、疾患・技術系のものに関しては、まだしも、「看護観」や「看護理念」や「看護倫理」に関わるものを読んで、「何の役に立つのだろう」と思う若い世代も多いのかもしれない。
例えばゲームのように、「ここまで行ったらクリア」のような、目に見えて実感としてわかるものがないから、「できるようになった」指標がわからない、ということもあるのだろう。
また逆に、これは昨今の傾向だろうが、「感情論」に寄りすぎて、
「患者に意思決定させるべきだ」「家で最期を迎えるべきだ」のような、「何だ古い医療をしているな、今のトレンドはこうだ」というふうな、一見「個別性」を追い求めているようでいて、「誰かの意見」を、頭だけ据え変えて、借り物を着ていることに気づかずに声高く述べようとする看護職ももう一方で増えている気も、する。
あくまでも、「そんな気がする」と思うだけだ。
今回、感想文を書いてもらう中に当たって、
この豊かな表現力と経験と愛に満ち溢れた書籍の中から、彼女らが何を摘み取って、自分の花瓶に花を生け、もしくは、別の畑に種を植えて欲しいという願いを込めて、抄読会を学びの場とした。
彼女らの意見に、その言葉に、書籍の中に隠された「宝」を一緒に見つけるように紐解いていった。
私は現場教育において「考えさせること」をとても大切にしている。
結論やアウトカムが少ないと言われた看護の世界において、遅ればせながら、大学化が進み、高学歴化が進む中で、データ化、アウトカムを求めようと急ぎすぎて、何かが削ぎ落とされて、「考えること」を放り出してきていないか、と思うようになった。
筆者が歩んできたその功績は、「看護専門学校」卒業のナースが、現場で工夫し、シェアし、地肉とし、患者さんや地域にもたらしてきた道のりである。
筆者は、工夫し、寄り添い、治療だけではなし得ない、「より適切なケア」を自己満足ではなく、「より本人らしくあるために」考え、謙虚に諦めず挑み続けている。
その視線と気づき、そのものが「看護」なのだろうと私は思っている。
看護の力を信じること。
ケアの本質を探ること。
考えることをやめないこと。
もっともっと、スタッフと考えていこうと思います。