日記:(その2)反AIと反反AIの共通点。どちらの主張も著作権の形骸化を招くと考える

以下その1のつづき~

著作権の根本は"保護"にあること。保護することにより世の中が"発展"すると考えれているから著作の権利が存在していると考える。

上記より、著作権の法案や条項は保護と発展に集約されている形が最も望ましいのだと考える。

上が原理自由主義者の考え方。

この考え方に照らし合わせて反AIと反反AIの学習データに対する主張を客観的にみていると、いずれも「保護することで発展する」という形になっていないように思える。

▼反AIの主張の問題点

著作者の了承を得ずに無断で学習データを利用する行為は厳しく規制すべき。
この考えによるかは定かではないが、学習データを開示する法案などが出来ている。

原理自由主義の立場から考えるとこの法案は愚策。

なぜなら発展を担うはずのAIの開発者に負荷をかける結果を招いているので
保護から発展に繋がってないどころか阻害になっている。

発展がなければ保護する意味も次第に失っていくのではないだろうかと考える。

▼反反AIの主張の問題点

学習データの無断利用に違法性はないのだから反AIは諦めるべき。
どうしても学習データに使われたくないのであればインターネット自体を辞めるべき。

これは著作者の「自分の作品を学習データに使われたくない」という意向/思想をないがしろにしていないだろうか。
つまり著作者人格権の侵害ではないのかと考える。

学習データへの無断への利用は著作者人格権の侵害だと書くと

「そのために大抵のサービスには"著作者人格権は行使しないものとする"という文言がある」
「著作者人格権の公表権、氏名表示権、同一性保持権のどれにも"自分の作品を学習データに使われたくない"は該当していない。
法を曲解している」といった反論意見があるだろう。

しかし以下のリンクから著作者人格権の成り立ちを考えたとき

著作者人格権とは社会的弱者に陥りやすい人達に公平さをもたらすため
年月をかけて著作権から分かれた権利なのだと推測する。

著作者人格権の思想を無視した考え方は、
"文化/文明の発展"とはいえず退化なのではないのか?

思想を保護しないままの発展は、経済的には一時成功しても
長い年月では文化/文明の衰退を招くと予測する。

上記をふまえて以下

▼原理自由主義者の学習データに関する考え方

著作者人格権は尊重されるべきだが、特定の人や団体に負担が掛かるようなことがあってはならない。
著作者自身も含め、分散や相互作用で公平に負担して著作者人格権を保護すべきと考える。

具体的には拡張子(.noai)を作成して、世界に浸透させる。

学習データに利用されたくない著作者は自身の著作データを拡張子(.noai)で書き出して
ネットワークにアップロードする。

開発側は、拡張子(.noai)のデータは取り除いてから学習データに利用する。
また追加学習で拡張子(.noai)を取り込めないよう開発する。

拡張子変換ソフトなどとのいたちごっこになることは予想されため完璧とは
いかないまでも、抑止は期待できる。

・・・・・・っとここまでが学習データに対しての考えになります(;´・д・)ツカレタ~

その3では学習モデルから生成される物に対して、どのような問題があるかとその対策案を書き記していきたいと思います。

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