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コーラス

最近、生命力が湧いてくるような体験をしています。それが今、7歳の娘の小学校のPTAの活動で行っているコーラスです。

コーラスは、小学校のPTAの係のひとつにある文化委員でのれっきとした仕事なのです。1年に一度、地域の文化委員の集うPTAのお祭りがあり、そこで出し物、つまりコーラスを披露するというのが文化委員の役目なのです。PTA同士の文化交流の会ということなのでしょう。

9月頃から週一回、週末にぼちぼち練習が始まって、ついに本番まで、あと3週間ほどとなりました。その練習自体は私にとって薔薇色の時間でした。

夕方からちょうどご飯どきに行われる練習時間だから、子どもにはおにぎりとジュースとゲームを持たせてついてきてもらいました。

毎週の練習は、子どもに嫌と言われないかな、夕飯の時間だから負担をかけないかな、など心配がありましたが、子どもは子どもで、ゲーム動画でしか観たことのないゲームの「マインクラフト」通称マイクラをやっているお友達と遊べるし、自分の持っているゲームをさせてもらえるからと楽しみについて来てくれました。持参したおにぎりを、普段1年生はまだ入れてもらえない音楽室で食べる特別感も、子どもにとっては楽しいようでした。子どもは子どもで楽しみを見つけてついて来てくれて、それも母の心を楽にして、心から音楽を楽しめるようにしてくれた一因として大きかった気がします。家族に嫌がられたら、それは苦痛でしかなくなっていたことでしょう。

わたしは今、コーラスの練習を死ぬほど楽しんでいます。練習日の、音楽室で最初の一声目を放った瞬間から、幸せが、ほとばしる!!ピアノの伴奏の生の音を聴くのも、ただの声出しの発生練習も、パート練習も、仲間が歌っているのを聴くのも、楽しい。ただただ楽しい。日頃の硬くなった心が解けて解放されていくのを感じる。ああ、私ってそうだ。私ってこうだった。そう思いだす。

わたしは、子どもの頃から音楽が好きでした。特に歌うのが堪らなく好きでした。もうものごころついた頃から好きでした。カラオケは今も一番の趣味で一人カラオケだって全然いける。子供を産んだら、その時間も滅多になくなったけれど。歌は私の心の栄養でしかない。

歌が好きなのに、激しく後悔した経験もあります。中学3年生の時、選択教科で体育と音楽を選ぶというものがあり、迷わず音楽選択を選んだものの、人数が多くて抽選になってしまいました。抽選はくじ引きで見事に当たりをひき、音楽選択を勝ち取ったのに、私はそれを自ら手放したのです。バカだ。今思えば、人生で5本の指には入る、自分の人生の誤選択です。

音楽選択の抽選では、クジにはずれて泣き出す女子がいました。その時、わたしはその子に対してびっくりしました。泣くほどやりたかったの?私はそんな風に思えないな、かわいそうだな、と。なぜかその子に当たりくじを譲らなければならない気がして、あたりくじを譲ってしまいました。

当時担任だった、先生にも言われたことは今も覚えています。
「いいの?お前やりたかったんでしょ?やりたいことは手放さなくてもいいんだぞ」的なことを。私は手放してしまったのです。本当に好きだった合唱を。今でも後悔して後悔しきれないほど、心に残っている出来事です。先生、あなたの言うことは本当でした。手放すべきじゃなかった。それから後、その譲った子は、真面目に歌わないでよく喋ってるよ。と聞かされた時の私の後悔はもう今の私もみていられない。

歌はいつもそばにあった。歌手になりたいななんて思ってボイトレに行ったりそいたこともあった。だけど、夢として実現させるところまでは、行かなかった。高校の時、親が看護師になったら?と勧められた道をそのまま進んだ。途中で辞めようとはしなかった。時々歌手を夢見たけれど、看護学校を辞めてまで、看護師を辞めてまで、進む方法も力も知らなかったし、道を選ばなかった。だから、なんだかいつも掴めないまま、やりきれないまま、燻った思いが残っている、歌うということに対して。

コロナでカラオケは遠のいたし、育児でカラオケの時間なんてもう忘れていたし、カラオケがやりたいことの上位から廃れていた最近でした。なんなら忘れられていました。だから、子ども小学校に上がって、PTAはポイント制で、いつか何かをやらなくちゃいけなくなるから、早いうちに何かやっておいた方がいいよと言われて眺めていた係の中に、文化委員の仕事に「コーラスへの参加」の文字を見て、一瞬で心がときめいたのを感じました。これならやりたいかも。そう思ったのはわたしにとっては必然のことでした。歌にこんな機会で触れられる、楽しいだろうな。そう思いました。

しかし、ひとつ難関がありました。実は、このPTAのお祭りの日、東京では文学フリマが開かれる日でした。私はすでに、その日文学フリマを予約していました。この仕事をとれば、文学フリマには参戦できない。たいして売れないんだから行ったって仕方ないじゃない。そんな思いで予約していたことも事実です。でもいくこと自体に意味がありました。しかし苦渋の決断で、わたしは歌いたい気持ちを優先させることにしました。私にとっては大切な文学フリマの予約だったけれども、それ以上に、コーラスへの参加が私の心を煽りました。今しかできないこともある。何より、私の心が湧くのを抑えきれなかった。結果、文学フリマは諦めて、文化委員に立候補することにしたのでした。

そんな選択の上、コーラスの練習に参加しています。最初は文学フリマを惜しい気持ちもありました。しかし、練習を重ねるうちに、もう、大変。音が、歌が私を解放するのです。自分から発せられる音楽が、空気を振動させて、部屋に響きます。ずっと歌ってなくて思うように出ない私の掠れたヘタレた声。そんなの関係ない。
歌えることが素晴らしい。
ああ、生きている。歌は私の心だ。
そう、思いました。

きっとこの体験も、文章になって昇華する。文章の機微となって帰ってくる。だからいいんだ。小説を書いて思った。人生の経験以外にかけるものはない。説得力を持つものはない。だからいいんだ。これが今は大切なんだ。そう信じて、とにかく楽しんでいます。

今日も練習で、みんなしっかりパートの音を覚えつつあり、合奏が楽しい。乱れたハーモニーが整うのが楽しい。旋律に心が躍るのが幸せだ。家族で過ごす以外に、文章を書く以外に、人生で幸せなことってそんなにない。そこに並ぶくらい、コーラスは楽しいものでした。

歌は私にとって大切なんだ。そう気づかせてもらえて尊い体験に今、身を置いています。幸せです。実は、10月は風邪でひと月歌えなくて、今日久しぶりに思い切り歌えたのもまた大きいかもしれないですね。

ああ、ただの歌、されど歌、わたしの命を湧かせるもの。残り少なくなった練習期間大切に過ごしていきます。


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