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金魚と君とぼく(短編小説)
ぼくの家には金魚がいる。
金魚の「きんちゃん」と娘が名前をつけた。
きんちゃんは娘が縁日でとってきた。
急に家に連れてきたものだから、お祭りの後、帰った家で、飼い方をネットで探してあたふたと準備をした。
といっても、あたふた動いていたのはぼくの嫁で、ぼくはネットで検索してあげただけ。娘は娘で、きんちゃんの居場所を作る嫁の様子を、懐に潜り込んで眺めたり、傍でヤジを飛ばしたり、ぼくと一緒に金魚の飼い方の動画を見つめたまま動かなくなったりした。
とりあえずの水は軟水のミネラルウォーターで代用できるらしく、家にあったミネラルウォーターがそれで、家にあった大きめのタッパーに入れて、金魚を移し様子をみた。
きんちゃんはタッパーに移される時に、ビチビチと体を激しく上下にしならせたけど、チョポンと水に戻ると、スイーーっとまた何事もなかったように泳いだ。きんちゃんは、細長い体でヒレが大きくないだいだい色の金魚だった。
でっかいぎょろっとしたまんまるの目ん玉は、こっちが見えてるのか、見えていないのか、わからない目をしていた。
ミネラルウォーターで飼えるのはせいぜい一日で、翌日には、水を換えた方が良かった。嫁はカルキ抜きした水を作ると言って、鼻息荒く、2リットルのペットボトルに水道水を入れて、ベランダに出した。その水は天気の良い日なら日に当てれば3時間ほどでカルキは抜けて使えるくらい簡単に作れた。ぼくは全くやらなかったけど。
金ちゃんが家にやってきて、あたふたと世話を始めた日からはや二年が過ぎた。きんちゃんはそのうち死ぬだろうと思って、酸素の機械も保温機も水槽も何も買わなかったのに、生きた。冬には寒かろうと簡易的にダンボールでタッパーの周りを一部囲ったりしたけど、それくらい。せっせと一週間に一度くらい水をかえて餌をやっていただけ。でもそれでも生きた。
その間に、きんちゃんの隣には、いろんな虫がやって来ては絶命し、近所の公園に埋められた。娘が世話する虫たちは、きんちゃんの隣の席を親切にもどんどんあけてくれたけど、嫁の世話するきんちゃんは大御所のようにその場からどっしりと動かなかった。
嫁はある日、そんなきんちゃんを見て言った。
「金魚なんて、感情も記憶もないんだろうね。ただここにいて、水があるから泳いで、餌があるから食べる。わたしのことが目に映ったとしても何にも考えたりしないんだろうな」
「そりゃそうだ、ただ生きてるだけだろう。見えるだろうけど、記憶もないしわかってないよ」とぼくは答えた。
「そうだよね」妻は別にどうと言ったこともないというように笑った。
それでも妻は、きんちゃんの面倒をみた。ほっとくのは可哀想だからと、水が濁れば一週間よりも早めに水を換えて、時々忘れるけど、餌をあげた。肩入れした愛情はないけど、可愛がっているようにみえた。
ぼくは実は、きんちゃんがこんなに生きると思わなかった。娘に、生き物の生き死にを教えたかっただけだった。だから気まぐれに縁日から金魚を持ち帰るのを娘に許したんだ。きんちゃんは生を教える担当だったのかな。死は、その隣に引っ越してきては、次々にその場を明け渡す、虫たちに役割を担ってもらったみたいだ。
きんちゃんの、ぼくらをみているけど、ぼくらをずっと知らない、まるい目ん玉をみていたら、きみの瞳をみているような気がした。
ぼくがいくら手を差し伸べても、きみには遥か遠く届かない。きんちゃんではないよ。同じ人なのに。きみはぼくを目の前にして、ぼくに目もくれず、心のひとつも信じなかった。
*
「おはようございます。はい、おくすりです」
ぼくは彼女に今日のくすりを渡した。彼女がくすりの袋をあけて、口に入れ、水を口に含み、嚥下する喉を確認するまでがぼくの大切な仕事だ。
彼女は何も言わず、その四角い透明の、丸井錠剤が4つ入った袋をうけとり、自分で破って、薬を手のひらに出して口に放り込む。そして水の入ったコップに口をつけて飲み込んだ。
彼女はぼくに一瞥もくれないまま、座っていたベッドの上でまた前をジッと見て黙っていた。
ぼくがその場を離れると、まだその姿勢のまま前を向いていた。
彼女の瞳はぼくなんか少しもうつしてはいない。目が座って、動かない。暗く沈んで、目の前を見ているようで見ていない瞳。
ぼくは精神科に勤めていた。ナースマンだったころ。もうずっと前だ。ぼくは、ひとからよく相談ごとをもちかけられることが多かったし、コミュニケーション力も高かったし、人の心がよくわかる人間だと思い込んでいた。ぼくこそが心の弱った人たちの心を知って癒すことができる。そう信じて疑わなかった。だから看護学校を卒業すると、卒業して数年後にはみんなの反対をよそに、意気揚々と希望の精神科に転職した。
だけど、ぼくのそんな思いはどうしようもなくバカな間違いだったと、転職してそう日がたたないうちに気づいた。
ぼくがいくらフレンドリーに話かけようと、そばに寄り添おうと関係なかった。
ぼくのいた病棟が閉鎖病棟で、自傷行為のある人を自殺しないように見守る病棟だったから、余計だったのかもしれない。
ここに来た人たちは、心がバランスを崩すとかそんなレベルじゃない。心が壊れた人たちだ。自分の力では自分が死ぬのをとめらない。薬物治療を行うことが死なないための唯一の防衛線。死に際を常に彷徨っていた。
ぼくが癒すとかそんなレベルじゃない。ぼくは共感力が強かったから、そんな患者さんたちの、そんか風になるまでの経過を把握しただけで、心を囚われた。可哀想な身のうち、残酷な現実に真っ直ぐたちむかえば立ち向かうほど、ぼくの心も蝕まれた。ぼくは強烈に心をそっち側に持っていかれ、見事に病み、挫折した。ぼくはナースマンをやめた。
*
人は時々間違える。相手を思ってしていることが、必ず相手のためになると思うことがある。相手に届くと思うことがある。そして、その相手を思っている気持ちが正義であればそれが全て正しいと思うところがある。
そんなの思い込みだ。
その人の傷はその人にしかわからない。でもわかろうとしなくていいし、わかろうとした方がいい。踏み込んだほうがいいし、踏み込まない方がいい。どちらの境界も、本当は当人にしかわからないのかも。傷を癒すにはまわりの力だけでは無理なこともある。ただそのループから出てきてもらうのを待つだけのこともあるけど、一生出てきてくれないこともある。
ただ、どんなときも間違えてはいけない。その人の傷はその人だけのもの。ぼくには到底わからないものなんだ。そばにいて、君が確実に毎日薬を飲んで、死なないように、いつか回復してくれるように見守ることだけだった。
ぼくはきんちゃんの何も見てない目を見て、君の瞳を思い出す。