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いつも綺麗の足枷。
近所には、いつも綺麗にしているママさんがいる。綺麗にしているのレベルが頭3つくらい飛び抜けている。
一般人とモデルとは言わないが読者モデルくらいの差は確実にある。
街で見かけてすれ違ったら明らかに、あ、あの人見たことないけど、タレントさんかな?とか、思うくらいの、頭から足先まで、自分スタイルの確立されたいつも綺麗な人。
このいつも綺麗というのは、庶民的で気さくで嫌味のない綺麗なママのヒエラルキーのトップに立つような人。
もともと目鼻立ちは綺麗に整っていて小顔の美人さん。スタイルもよく細くスレンダーな体型。髪もいつもツヤツヤで綺麗で整っている。
服だってファストファッションじゃない。着ているものは流行の形や色を取り入れているけれど、必ずリボンやピンク、白、といったラブリー要素が品よく嫌味なく取り入れられている。おしゃれだけど奇抜じゃない。ほんもののおしゃれさんって感じがする。
遠くから見てもオーラがすごくて、近くに寄るのが憚られるくらいのオーラ量だ。並大抵ではない。
このママにもし道で対面したら、彼女は必ずあげたままの口角を笑顔に変えて挨拶してくれる。とてもフレンドリーな人。わたしのような薄汚い主婦にも穏やかで優しく対応してくれる。不機嫌な顔などみたことはない。いつもふんわりと幸せそうなオーラを纏っている。
この人のすごいところは、見せかけだけを磨いているのではないところだ。
子どもがふたりいて、その子どもがふたりともまた子どもらしく育っているのにフレンドリーで明るい。
子どもを育ててみて、子どもの言葉や所作や性格は親の日頃の影響が大きいことは、身をもって体験している。悪い言葉を使えば、すぐに真似をする。その姿を見て、自分の言動や行動を省みることは少なくない。親は子どもに育てられているといわれる理由のひとつだろう。
我が子が一年生になった頃、まだ登下校に慣れていないころ、彼女のお子さんが道で会えば、嫌な顔せず、学校に連れて行ってくれた親切な子だ。
おそらく、彼女は、世間体や見せかけだけではなく、子どもや家族に対しても、常に穏やかに明るくフレンドリーに接しているのではないだろうか。子どもが本当にいいこに育っているのが何よりの証拠だろう。
非の打ち所がない綺麗な人。
彼女はわたしから見てそういう人。こんな人会ったことがない。本当にそんな人が世の中にいるんだな。そう思った。人生で高い徳をずんずん積んでいるから、もうオーラが半端ない。道で見かけるだけで、夕飯には夫に、彼女に会ったことを報告する。今日もリボンついてた。今日も綺麗だった。など。
もう人生が綺麗だ。綺麗に生きることが、彼女を作っている。綺麗が彼女の生きる道。清く正しく美しく。素晴らしい。
それに比べてわたしはなんだろう。若い頃はそれなりに可愛かった。色が白かったし細かった。長身で顔も大きくないから、磨けば、その彼女みたいに生きれる素要はあるはずだ。
なのに、なんだ。産後のほっそりからぶくぶく太り、すっかり中年おばさんまっしぐら。背中は丸くなってカブトムシの背中みたい。腕はプロレスラーかと思うほど。足も見事な大根がついている。髪もちぢれてまとまりにくい。ああ、なんだこの差は。服なんてもちろんファストファッションメインだし、ご飯の残り物だってたべる。炊飯器の調子がおかしいから、ご飯をたいて時間がたつとおかまについた米が乾いてはりついた米だって、こそいで集めて雑炊にしたりする。ダイエットしなきゃーといいつつ、夫に焼肉に連れて行ってやる、好きなだけ食え、と言われたらもちろん食べすぎるし、帰りにみんなでゲームやろう、お菓子を買ってやるから持ってこい!って言われたら、お腹いっぱいだよーなんていわずに、ジャイアントコーン買ってもらうし。
書いてて恥ずかしい。あの綺麗な彼女はそんなことしないだろうな。
あ、ゴミ袋ないわ、って、ボサボサの頭に帽子を着てごまかして、もう季節も冬に近いのに、素足に履き古したサンダル履いてコンビニ行ったりしないだろうな。
ああ、ああ、わたしって恥ずかしい。
どんな愚女なのだ。はぁ。
でもわたしにはできない。いつも綺麗なままでいるなんて。
家族と喧嘩して、着のみ着のままかけだしたいし、道でいけすかんやつがいたら、堂々と注意したいし、好かれない人に嫌われたっていい。疲れたときは疲れた顔して歩きたい。悲しい時は泣きながら歩きたい。鼻歌歌ってるのを聞かれて引かれたっていい。自分の身なりにかけるお金より、本を作ったり、イベントに参加したい。子どもに旦那に美味しい食べ物を運びたい。経験にお金を積みたい。
わたしはどうも彼女のように綺麗には生きられない。わたしはたぶんわがままなのだ。彼女はきっとある意味、とても利他的で、献身的なんだろう。夫の望む妻、世間の羨望を浴びる女性、優しくて賢い母。そのどれも待ち合わせ、遂行する、いわばその道のバリキャリだ。かないっこない。
そんな彼女が乱れることはないのだろうか。夜な夜な悩み、苦しむことはないのだろうか。貼り付けた口角の裏に悲しみはないのだろうか。
それは、絶対にある。みんな何かしらある。人間だもの。そこは、彼女の実力がものをいっている。バリキャリだもの。パンピーにちらつかせるわけない。そうだ、彼女は綺麗のプロフェッショナル。
わたしはこれからも、道で歩く彼女を見るたびに、神様を見るように崇めるだろう。道で話をすれば、まるで天皇陛下にお言葉を頂いたかのように、その言葉を敬うだろう。
そして、すこしでも見習いたいと思っている。それは本当に。彼女はまるで歩くファッション誌。そう、わたしは愛読者のスタンスで。