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毎日更新勢の書く筋力

こんにちは、noteは、気が向いた時に更新勢です。千縁です。

先日、文章を読み手に伝わるようにちゃんと書く練習をすると決めたものの、今日は書くことが思いつかなかったので、noteで日頃から感じていた不思議について、つづってみたいと思います。

わたしは、日頃からnoteを毎日更新することを目標にしている方たちが不思議だな、と思っていました。

なぜなら、好きで自分に課して毎日更新しているのに、毎日の投稿は、辛い苦しい行為だと訴えている人が多いからです。

自分が自分に課してしまったから。という理由しか、見たことがなく、続けることが苦しい、でもやめられない。しかしやめてみたらすっきりした。というような投稿があります。

だから、やめたらいいのに。と、思ってしまうのと同時に、苦しみながらも書き続けられる能力に、感心もしています。

わたしなら、いい訳してすぐやめちゃう。家事が育児が、と。やめる理由には充分だから。それに、毎日書く理由が見当たらないから。

だから不思議だなと思う。毎日更新する意味、何か並々ならぬものを感じずにはいられないのです。

毎日必ず書き続ける意味ってなんでしょうか。

普通に考えて収益化がかかわっている?Googleのアルゴリズムにはテキスト書いてなんぼみたいなところありますし、noteもそういうこと?

それ以外は、なんだろう。自分を追い詰めるのが好きなドエムなのかな?

なんだろう。なんかどこかの誰かと、1日でも更新が途切れたらたち消える危ない契約でも交わしている?

なんだろう。会えない恋人に送る、ふたりだけがわかる秘密のメッセージを伝えるプレイ、とか?

なんだろう。脅迫観念のように文字を書いてないと落ちつかない病気になっているとか?

なんだろう。なんだろう。もの書きたるもの、毎日書いてなんぼの根性論かな?

なんだろう。なんだろう。なんだろう。千縁です。…。

ひろしみたいに言っても、ダメか。笑


いや…。

正直、わからんでもないのです。純粋に書かないと劣るからが正解なんだろうと思うのです。

書く筋トレ、これに尽きるんだろうと思うのです。不思議でもなんでもない、おそらくわたしの嫉妬の話です。

書くには短かったとしても、ネタを探し、構成し、オチをつくる必要があります。毎度、毎日、これをやらねばならないですよね。文章化するには時間もいります。それを限られた時間の中で行う。ひとりひとりの1日の持ち時間のキャパは違うから書ける文章量に違いはあるにしても、1本つくりきる労力はありますよね。しかし、そんなこと毎日やっていたら、やっぱり文章の作成能力、書く筋つくんだろうなぁ。

実はもうひとつ大切だと思うことがあります。文章を作成する時に、わかりやすく書くには、読み手にわかりにくい用語を用いる場合には、その言葉の説明とその意味が正しいかを調べないといけない。そこが面倒だな、とわたしはいつも感じてしまう。このひと人工程が、丁寧に記事1本作成する足枷になる。そこを避ける記事にすると、自分の内面を掘る、自分の体験を記録する記事が多くなるんだと思います。

だから、特に自論を展開するような記事を毎日書いている人たちは本当にすごいと思う。論を説明する準備の説明、本題、展開、オチ。今の私には、1日1本は到底無理だわ。

でも、丁寧に書く、これを決めたってことは、書く筋を鍛えたいと思い始めたっていうことなんだろうと思います。毎日書かずとも、そうやって、1記事を積み上げて作る作業を少しずつやっていきたいな。

しかしですな、

最近、丁寧に文章を書く練習をする練習をちゃんとしますと宣言してしまったからか、なんだか読まれるのが恥ずかしくなりました。

ちゃんと文章を書きます、って自分にラベリングしたということは、読み手の読みやすい文章となるように書くってわざわざ宣言したのだから、書いてんの?あ、はーん、ちゃんと書いた文章でもこんなもんなのね、って値踏みされるのが怖いんだろうと思います。だから恥ずかしいんだろうな。

今まで感情に赴くまま書いていたのは、まるで土砂降りの雨のあとに溜まったバケツの水をひっくり返すような、作業だったんだと思います。感情がたまれば書く。書いた文章の体裁はめちゃくちゃで、思いのままぶちまけただけ。溜まったバケツをひっくりかえして空にしただけの芸のない水まき。綺麗に整備された庭のししおどしのように、庭の全てが計算されているような、あそこまで体裁が整っている文章でなくてもいい。子どもが学校でもらってくる学校のお知らせのプリントみたいな、最低限のことを正しく、簡単に伝え、隅っこに市の鳥の情報とかちょこんと乗せているのを発見して、くすりと笑えるような、そんな易しさでいい。

わたしにできる範囲で書く筋トレ続けていきます。



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