ボスニア紛争から28年
(2023.12.28 改稿)
『ふつうの人達は誰も戦争なんかしたくなかったの。なのに、気がついたら戦争が始まっていた。そんなことにならないためには、一体どうしたらよかったんだろう。』ボスニア人の少女(8歳)の言葉
今朝、ABCオーストリアのニュースで28年前のスレブレニツァの大量虐殺の映像が流れた。
第二次世界大戦後、最大の民族虐殺と呼ばれるこのスレブレニツァの虐殺はボスニア東部で起きた。
私がこのニュースを見て違和感を覚えたのは、
過度に、「セルビアは悪者だ。」という説に組みしている人々がいるということである。
セルビア兵の残虐行為とかなり違う事実が情報として発信されている。
筆者にとってセルビアは第二の母国。
セルビアに家族がいる。
28年という月日は紛争で家族を失った遺族にとって数秒前の出来事である。
傷は永遠に拭われることがない
再び伝えていかなければならないことがある。
そう悟った。
私は居ても立ってもいられず、
経済学者でセルビア難民支援の第一人者、暉峻淑子先生に電話をした。
※セルビアとの出会いについて詳細は以下の記事↓
何故戦争は起きるのか。
何故民族対立は起きるのか。
日本から眺めていれば遠い国だと思っていた。
改めてこのセルビアで感じたのは、
「ボスニア紛争は決して他人事ではない。」
ということである。
民族の対立という点だけに目を奪われると、
ボスニアのような他民族国家ではない日本には関係のない話、となってしまう。
けれど、私がセルビアの難民キャンプやガン病棟を訪問して学んだことは、どこの国にも通じる普遍的な事実だった。
**
「戦争とは誰かが仕掛け、敵意をあおらなければはじまらない。」**
では、誰かとは一体誰なのか。
それは自分達の政治目的のために、人々に他の民族や国家などへの恐怖心を植え付ける政治指導者やメディアであることが多い。
恐怖や不信、異なる考え方を受け入れない〝不寛容〟は戦争をしたい人々にとってはとても好都合なのだ。
それは、過剰な防衛や先制攻撃などの引き金になりやすいからだ。すでに世界中でそのような戦争が起きているし、日本でも充分に起こりうることだろう。
関東大震災で在日朝鮮人の人達を虐殺したのは99年前。中国や朝鮮半島を侵略したアジア太平洋戦争が終わったのは、つい82年前のことなのだ。
ボスニアと単純に比べることは出来ないが、日本でも大都市の多くでは、隣人同士の交流が薄くなり、個人がそれぞれの空間に閉じこもるようになっている。
その結果、自分とは異なる価値観やライフスタイルを持つ他者に対し、寛容よりも不信や恐ればかりが増大している状況だ。その意味でも、ボスニア紛争後、人々が戦争の傷跡を乗り越え、平和を取り戻そうとするプロセスから、日本人が学べることは沢山あるように思う。
セルビア人の友達(当時12歳)の言葉。
「何故こんな民族紛争が起きたのか分からない。あれよあれよという間にクロアチアでもボスニアでも民族主義者が台頭し票を集めた。私達の心の中には敵対的な感情はなかった。」
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ボスニア人の少女(当時8歳)の言葉。
「ふつうの人達は誰も戦争なんかしたくなかったの。なのに、気がついたら戦争が始まっていた。そんなことにならないためには、一体どうしたらよかったんだろう。」**
この少女達にとっての答えは何だろうか。
今改めて、彼女たちの言葉から戦争について考える時間を持ちたいと思う。
私自身の精一杯の答え。
それは、集団ではなく、ひとりひとりの個人を見ることだと思う。
所属する集団ではなく、人間同志として交流することだと思う。
人間の心と心の反響を確かめ合うことだと思う。
恐怖や不信をあおる動きに対して、ひとりひとりの個人がいかにそれに抵抗し、相手を人として見つめ続けられるかどうかが、戦争を防ぐ重要なカギなのではないかと思う。
28年前、神戸の被災地とセルビアの紛争地域の子ども達を繋いだプロジェクトの資料がここにある。子どもたちの笑顔と笑顔の間に、壁がないことを知る。
交流の足跡を辿りながら気づいたことがある。
同時代を生きる私たちには
山を動かす力が本当は備わっているということ。
山を動かせるのは連帯と友情があってのことなのだ。それがある限り、私達は人間を信じることができるし、どんな困難も乗り越えていくことができる。それは人間社会の原点であるはずなのに、カネとモノがある社会では、その原点に触れる機会はなかなかない。
次世代への平和の種まきを、実践していきたい。
実践できる仲間との出会いを育てていきたい。
米光智恵
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