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阿拉伯咖啡の招待。1990年1月、上海
前回の続き
春節が早い1990年1月
年末年始の廈門旅行から上海に戻った1990年1月。
この年の春節 (旧正月) は1月27日のため、
1月半ば過ぎには早くも授業が終了。
廈門から戻ったばかりですが、
日本に帰国する前に、どこかへ旅行に行こうか?
長めの仕上げの旅行を考えながら、
落ち着かない日々を過ごしました。
旅行に行ってから、一旦上海に戻って帰国するか?
或いは旅行先から直接日本に帰るのか?
色々悩みましたが、大回りになるため、
旅行先から上海に戻らずに日本に帰国をする事にしました。
コーヒーの招待
当時滞在した学生寮は、留学生楼だけの独立した建物でした。
![](https://assets.st-note.com/img/1728730950-uhVzl8gafNRUMTeQsS7FibEm.png?width=1200)
最上階は办公室(職員室)
私が滞在した時は、6階が女子学生専用でした。
本科が理工系で、本科の女子学生もいましたが、
全体的に女性が少なかったです。
7階は日本及び欧米出身の男子学生が滞在しましたが、
イラク出身の本科の学生たちもいました。
そして日本人の学生たちと仲が良く、
共に過ごす事も多かったです。
そして上海出発の前の日
イラク人の友人に、
明日学校を出て、帰国する事を伝えますと、
「コーヒーを飲みに部屋に来ないか?」と誘われました。
片付けなどがひと段落した後、彼らの部屋に。
淹れてもらったコーヒーは、今まで飲んだことのない、
独特なスパイスが入った不思議な味でした。
そして、慌ただしい日々の中、コーヒーを眺めながら
一瞬のゆったりとした時間を過ごすことが出来ました。
その後、中東の他、イスラム圏の国々を旅行する機会がありましたが、
コーヒーよりもお茶を主に飲む国が多く、
あの時に飲んだ様なアラビックコーヒーには、
未だ出会う事が出来ません。
そして、この年1990年8月に、湾岸戦争が勃発し、
日本は多国籍軍の直接参加はしませんでしたが、
イラクが全面的に悪いという風潮になりました。
コーヒーを招待してくれたイラク人の友人たちの無事を、
人づてで知ったのは、2000年を過ぎてからでした。
(湾岸戦争勃発時、イラク国内に入れなかったそうです)
大回りの帰路の出発
1990年1月下旬某日、
学校を出発して、虹橋空港へ。
![](https://assets.st-note.com/img/1728747675-1rSjlB0GJK39ibaRq7ydDmnW.jpg?width=1200)
約2340キロ
春節前の移動ラッシュのため、鉄道チケットの入手が難しく
また、鉄道の場合、上海ら昆明まで、当時は3日かかるため、
飛行機で移動しました。約3時間のフライトですが、
虹橋空港に着いてチェックインしようとした時に聞いた言葉は
「未だ昆明を出発していないので、いつ出発できるか分からない」
当時の中国国内線、アルアルでした。
帰国までの大回りの旅行が始まりました。