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留学生樓は放任主義?、1989年9月上海

前回の続き


最初の格闘


半月の中国東北旅行から上海に戻ると、既に9月。
留学生楼(寮)は前学期からの学生、新しい学生などが入って来ました。

私が通された部屋は2人部屋。
旅行の疲れを癒すために、部屋で休みたかったのですが…。
少なくとも6月から、人が入らなかった部屋は
汚すぎる…
なので人が住める状態にすべく、格闘の日々を暫く過ごしました。
6月までいた学校の施設は質素でしたが、人の手が入っていましたが
ここの学校は「自分の事は自分でやりなさい」と言う様子。
実は寮の費用もかなり安かったので、自力でやるしかないです。

短波ラジオを持参しましたが…

6月までの留学で遭遇した有事に対して、
短波放送(国際放送)が聴けるラジオが必要だと痛感して
今回は短波ラジオが聴けるラジオを持参しました。
これで日本語放送を気兼ねなく聴くことが出来ます。
しかし、1989年8月後半から9月にかけて、
NHKの国際放送で連日流れたニュースといえば…。
宮崎勤逮捕についての詳細を刻一刻と報道。
インターネットが無かった当時、音声のみの報道でしたが、
毎回毎回の報道にうんざり。
折角持参した短波ラジオですが、憂鬱になるので
次第に聞かなくなりました。


オリエンテーションと遠足


授業開始の少し前でしょうか?新入生のオリエンテーションがありました。
日本人は5-6人。6月までの継続の学生を含めても10名居なかった記憶。
語学留学生は欧州が多く、
理工系の大学のため、本科の学生は、アフリカやアラブ出身の学生が多かったです。
つまり、中国とアフリカ諸国との一帯一路は、
80年代後半から既に始まっていた
わけです。

学校の手配で遠足がありました。
行き先は上海郊外松山区の余山教会
上海の教会に入ったのは徐家匯天主教堂から2回目。
当時は、国際都市上海の名残をぼんやりと感じておりました。

Sheshan Basilica (佘山扶助者聖母大殿)

授業開始


9月からの学校の語学クラスは
・初級、・中級、・上級の3クラスのみの
緩い区分けです。
4月の時点で全く話せなかった自分ですが、中級クラスへ。
果たしてついていけるのか?でしたが、最初の頃は勉強しました。

中々来ないルームメイト

他の日本人学生の部屋には既にルームメイトが入り
他の国の学生たちの部屋もルームメイトが入りましたが
授業が始まってからも、私にはルームメイトが入らず
このまま一人部屋かしら?と思っていた矢先、
9月の下旬にルームメイトがやっと入りました。
イタリア北部出身の女性です。





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