巻き込まれてあちらこちら?1989年10月、上海→北京→青島
前回の続き
アフリカ人学生たちのボイコット
留学した学校は理工系大学のため、
本科で学ぶ多数派の学生は、
アフリカやアラブ諸国出身者が多く
留学生食堂のメニューは
イスラム教徒向け(ハラル)仕様で、
中国なのに、豚肉抜き。
朝食はナンに似たパンケーキと紅茶、
昼食や夕食は牛肉やマトンによる
煮込み料理が多かったです。
餃子も豚肉ではなく、牛肉。
最初は面白かったですが、
一ヶ月過ぎると正直飽きて来ました。
そして、アフリカ出身の学生たちによる
待遇改善抗議活動が始まりました。
留学生食堂の食事をボイコットすると言い出し、
多数派の彼らが食事をしないために、
日を追って提供される料理が、いつ作りましたか?状態に。
実は当時、中国各地の大学でアフリカ出身の学生たちと、
確執が発生していた様です。
アフリカ・マリ出身、ウスビ・サコ京都精華大学教授が、
留学先の南京で1988年に襲撃事件に遭遇されたとの事です。
抗議行動を逸らしたら?
アフリカ人学生達と日本人は関係ないので
普通に食堂に行っても良いのですが、
一部の学生達に「何で食堂に行ったんだ?」と難癖をつけられて
面倒臭い。
そのため暫く、日本人学生達が集まって、交代で自炊をしました。
当時の上海は、生鮮食料品が自由に買える
スーパーマーケットなどは皆無で
学校の近くの市場で、野菜や肉類を購入。
上海語が分からないと、ぼったくられるという
ワイルドな世界でした。
鶏肉は、生きた鶏を購入し、その場で締めてもらうという
これまたワイルドな世界でした。
自炊は面白いけど、手間暇がかかり過ぎ。
毎晩本格的に料理を作るのは大変でしたが、
当時チキンラーメンに似た
インスタント麺が買えたため、凌ぐことが出来ました。
そのため、夕食は近くの某大学の留学生食堂に
行くようになりましたが、
既に同じ学校の欧州人学生達がおりました。
授業に殆ど出ない、スイス人男子クラスメートを見つけて、
あんた授業に出ないでそこにいるの?と言うと
「えへへへ。バレちゃった?」的な反応…。
急遽北京・青島旅行
食堂問題で巻き込まれる日々の中、
北京行きの火車票(列車チケット)が人民料金で買えるから
行かないか?と誘われて、旅行に参加。
1988年1月以来、2回目の北京に行きました。
日本人留学生男女5人のまったり旅行。
初めて行った北京は1988年1月。
日中もマイナス気温と超寒かったけど、高級ホテル滞在。
2回目の北京は1989年10月下旬から11月上旬。
晩秋ですが、安宿の上、
4ヶ月前の天安門事件の影響が残る雰囲気が、
更に寒々しかったです。
当時の留学生にとって北京の楽しみはKFC!!
1987年に中国一号店が、北京に開業しました。
因みにマクドナルドの中国初進出は1990年
一号店は深圳東門店だそうです。
北京から日帰りで天津へ
天津も上海と同じく戦前に外国人が住んだ租界がある都市です。
8月後半に行った、ラストエンペラー追跡旅行の締めとして
天津に行きました。
ラストエンペラーの主人公、愛新覚羅溥儀は
紫禁城(故宮)を追われて、満洲国の皇帝即位までの間
天津の日本租界に住んでいました。
青島経由で上海戻り
上海から北京への往路は、5人グループでしたが、
帰路はそれぞれバラバラ…。
早めに上海に戻った人、
北京で延泊した人、
蘇州に寄ってから上海に戻った人、
私は北京から火車一泊で青島に行き、
青島から船一泊で上海に戻りました。
青島も戦前の外国人租界があった都市。
上海や中国東北地方(満州)とは違う趣きの
ドイツ風の素敵な建物が多い街。
寒かったですが、凄く歩きました。
青島→上海への船の甲板で、海を眺めていると、
生まれて初めて大海を見たと、
興奮した様子の中国人男性が話しかけて来ました。
大人の人でしたが、広い中国は、一生の内で
海を見ない人も多いのかもと思いました。
因みに留学生食堂問題は
旅行から帰ると、平常に戻っていました。