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花ひらく広島のサッカー文化(1)

エディオン ピースウイング広島 スタジアム
#️⃣サッカー文化#️⃣ピースウイング広島#️⃣サンフレッチェ#️⃣


はじめに

2026年の北中米W杯2次予選、日本vsシリア戦を観戦しました。

満席の大観衆が見守るなか、英語、シリア語、日本語の選手紹介のアナウンスが流れるのを聞き、紛れもないA級国際試合の雰囲気だと実感しました。これで広島のサッカーが世界にデビューしたと思うと感無量で涙が出ました。思えば、被爆後79年に及ぶ長い道のりです。

原爆投下後には、70年間草木も生えないと言われました。しかし、サッカーの芽は翌年には芽生えたのです。戦争中に中断していた蹴球の第25回全国中等学校選手権大会が復活し、次の26回大会では広島高師附中が優勝しています。

高師附中(現広大附属高校)に続いて、27回大会は鯉城(現国泰寺高校)が全国優勝しました。
さらに第5回国民体育大会は修道(修道高校)が全国優勝して、サッカー王国広島の礎を築きました。

新スタジアムは、先進的なテクノロジーを駆使したクオリティースタジアムです。世界遺産の原爆ドームと繋がり、世界平和を推進する新たなエンジンとなることを期待されます。

本稿では、サッカーがいかにして被曝少年を廃墟から立ち上がらせ、郷土と国家の栄誉を担うまでになり得たか深く掘り下げて見ようと思います。

サッカー文化には固有の超流動性があり、苦も無く分断の壁を乗り越えます。平和を願うものにとっては頼もしい存在です。


1.被曝少年サッカーの興隆

全国中等学校選手権大会は大正時代から行われ、広島では広島高等師範学校の人脈でサッカー文化が根付きました。サッカーを校技とする有名校がひしめき、全国でもその名は知れ渡っています。

わたしは、終戦後まもなく廃墟の中を通学し、サッカーの試合があれば応援に行ったものです。

この時代の広島サッカーの様子は、「原爆少年のサッカー魂」という今子正義氏の労作があります。わたしたちの目線で、被曝にめげず再起する少年たちの様子が詳しく描かれています。

新制高校サッカーの全国大会は、新年に全国高校サッカー選手権大会があり、秋に国民体育大会があります。

広島の強豪校はなんと言っても、戦前から実績のある広大附属高校、国泰寺高校、それに修道高
校の3校が抜きん出ており、サッカー御三家と呼ばれていました。少し遅れて、山陽高校が加わ
り、どこが出ても全国大会で埼玉、静岡などの強豪と優勝争いに絡めていたように思います。

ちなみに、前掲の今子正義氏の著書によると、これら4校の東京五輪前までの17年間の戦績は、
次のようです。

・広大附属高校  全国優勝3回、2位2回、3位2回
・国泰寺高校   全国優勝1回、4位1回
・修道高校    全国優勝6回、3位2回
・山陽高校    2位2回、3位1回

2.日本リーグからJリーグへ

1968年のメキシコ五輪で、日本代表は奇跡的に3位を獲得、日本サッカーは世界デビューを果たしました。

これを契機に日本のサッカー熱が高まり、1965設立の日本リーグ(JSL)が母体となってJリーグ(日本プロサッカーリーグ)が発足し、本格的なプロサッカーの時代が始まりました。

広島では、JSL1部で5回優勝している東洋工業サッカー部が母体となり、サンフレッチェ広島が誕生しました。

Jリーグ発足当初はサンフレッチェ広島は上位に行けず低迷していましたが、森保一監督になって
2012年、2013年と連覇、さらに2015年にも優勝して都合3回優勝しています。

アジア大会広島のために新設された広島広域公園のビッグアーチで初優勝の瞬間を見守りました。
ガンバ大阪との決勝戦は、3万人の大観衆と共に応援したのです。
Jリーグも広島時代が到来したと実感して、天にも登る心地でした。

森保監督は、被爆した長崎市の出身ですが、広島の東洋工業(現マツダ)に就職してサッカー選手のキャリアーを積み上げられた方です。現在は、日本代表監督となり2026年の北中米W杯の予選を戦われていますが、世界平和には特別な関心を寄せて居られます。


3.国際大会サッカー

平成5年(1993年)のアジア大会広島では、真新しい広島広域公園ビッグアーチでサッカー競技が行われました。広島で国際試合が行われたのはこれが初めてです。

平成14年(2002年)の日韓W杯では、広島もゲーム開催地として手を挙げ激しい誘致活動も虚しく広域公園のビッグアーチはFIFAの規定に沿わず涙を飲みました。
しかし、これが新しいサッカー専用球場の新設機運を盛り上げ、活発な署名運動が展開されて今回のピースウイング広島の実現につながりました。

サンフレッチェ広島が優勝した時にはACLチャンピオンリーグに出場し、広島でも試合が行われました。成績は振るわず、まずかに2015年には3位になっています。A CLで好成績を上げるには厳しい日程に耐えるターンオーバが欠かせません。育成主体のクラブでは限りがあるようです。

最後に、今回の2026W杯2次予選の開催です。サンフレッチェの選手が2名出場しました。
今後は、W杯本戦があればピースウイング広島で観戦できるでしょう。


4.サッカー伝来の3ルート

サンフレッチェ広島の公式サイトによると、サッカーが広島に伝来したルートは次の3ルートがあります。サッカーは英国で発祥し、明治6年(1873年)に東京の海軍兵学寮に来た英国海軍教官団によりもたらされました。これが次に述べる3ルートで広島に伝来したのです。

・第1のルート

東京高等師範の教授がサッカーの「心身両面の教育的価値」を認め、校友会に蹴球部を設けて海軍兵学寮と積極的に交流試合を行った。東京に次ぐ2番目の広島高等師範は東京高等師範からサッカー指導者をスカウトして普及に務めたので、広島高校、広島一中などで盛んになった。特に、広島一中の校長は英国のパブリックスクールで「紳士のスポーツ」として盛んなことを知り、普及と技術向上に努められた。

・第2のルート

東京の海軍兵学寮は、広島の江田島に移転した。広島高校と広島一中は積極的にこれと交流試合を行い、チーム強化を行ったので、サッカーは地元中等学校で認知され盛んになった。

・第3のルート

第一次世界大戦では、日本は連合軍としてドイツが領有していた青島を攻撃し戦勝した。ドイツの守備兵545人を捕虜として、似島収容所に収容した。ドイツ兵は収容所内でサッカーチームをつくって無聊を癒していた。広島のサッカー愛好者はドイツチームと交流試合を行い、最新のサッカー技術や戦略を学んだ。

このようなプロセスを経て、広島はサッカー王国を築くことになりました。
サッカーは「国家の壁」を越え、軍部、教育など「社会の壁」を越え、「敵味方の壁」さえ越えています。他に例をみない浸透力です。

おわりに

最後までご覧頂き有難うございます。次の投稿では「サッカーの平和理念」を考えます。

サッカーは明治6年(1873年)に英国海軍教官団によって日本にもたらされ、今日では、FIFAのW杯で優勝をうかがうほどに成長しています。

広島の「ピースウィングスタジアム」に続き、長崎でも「ピーススタジアム」が今秋完成します。J2のVファーレン長崎は現在J2の第2位にあり自動昇格圏にあります。来期には「平和ダービー」が実現しそうです。

以上



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