三、四年はなんとか耐えて 5年生でクラス替えになった 私はまたKちゃんと同じクラスになって Eちゃんとは別のクラスになった 私は、正直嬉しかった 1番古い幼なじみと今度は2人だけで 同じクラスになれたのだから ちなみに、五年生の担任の先生は 白髪混じりだったが 40歳過ぎぐらいの スラっとした当時は珍しい紳士的な とても優しい感じの先生だった 昔、コスタリカに住んでいて 日本では高校の体育の先生という 謎の経歴で いつも理科ばかり授業し ガリレオガリレイが好きで 実
3年生になってクラス替えがあり また、Kちゃんと同じクラスになった それに、Y子ちゃんの幼なじみだった Eちゃんとも同じクラスになった 結局3、4年生は、 とりあえずその2人と一緒に居た でも、また私はEちゃんとは Kちゃんを何度か取り合う事を何度かした 女子の3人グループは難しい 勿論私だけ、はぶられる事は何度もあった どうやら KちゃんとEちゃんの母同士 近所の裁縫仲間らしく 当時、今でいうサロペットが その裁縫仲間で流行っていた KちゃんとEちゃんは そのお
Y子ちゃんが、亡くなってからは 仲のいい友達は結局2年生が 終わるまで出来なかった クラス替えが3年生であるから もう、そこは割り切っていた 普段から疲れやすいのは そうだったが 熱は滅多に出なかった 母は、熱がないと絶対 学校を休ませてくれない性格だった 2年生の12月頃、私は珍しく風邪をひいた なかなかな治らず 近所にS内科という町医者へ 診てもらっていたが 医師が結構な年配のおじいちゃん先生だった と言っても当時60歳ぐらい だったのだろうか 熱が下がらず
Y子ちゃんが水難事故で亡くなり 緊急全校集会で召集され 夏休み入ってまたすぐ学校へ行った 彼女の机には 花が置いてあった クラスで1番仲良しだった私に クラスメイトは、何も話しかけてくれなかった 普段から、Y子ちゃんと ニコイチだったから 他に仲のいい友達はクラスに居なかった 私は、更に彼女が居なくなった現実を 突きつけられ 正直学校へはもう行きたくなかった その後、体育館でY子ちゃんの事故の一件で 水の恐ろしさ川で遊ぶことの禁止を 校長に説明され午前中に下校し そ
Y子ちゃん家に着いたら すぐ和室に通され そこにY子ちゃんが布団で寝ていた その顔は、ほんのり笑顔で ただ寝ているだけの様だったが 鼻の穴にも口にも 綿が入っていて正直怖かった 私の知ってるY子ちゃんじゃなかったから 涙は出なかった 近所の人もたくさん来ていて 皆、啜り泣きしていた そうすると、Y子ちゃんのお母さんが 「絵恵ちゃん、Y子の手触ってあげて。 もう、冷たくなってしもて、嘘みたいやろ。 今まで仲良くしてくれてありがとうね。 Y子も絵恵ちゃんと遊んでもろて ホ
その日の夕方に Y子ちゃんが病院へ運ばれた事を知った私は 両親に病院へ行きたいと言ったが 「今行っても、会えへんから 落ち着いてからにしぃ」と母に言われ 腑に落ちないまま 夕食を食べてお風呂に入った すると、急に母が風呂の扉を開けて 「絵恵!Y子ちゃん亡くなったやて! 今からY子ちゃん家に行こか」と えらい勢いで言ってきた 母は、Y子ちゃんもよく遊びに来て知っていたし 彼女のお母さんの事も 子供会の行事でよく知っていた 私の2番目の兄と Y子ちゃんの兄も同級生だった事もあ
その日の昼過ぎ頃から Y子ちゃんは、兄姉とその友達と 彼女と同じ隣保の同級生で 違うクラスの幼なじみのEちゃんと 子供6、7人と付き添いの保護者と 近くの川へ遊びに行っていた 地元でも有名な大きな川で その川の橋の真下で 川遊びをしていた Y子ちゃんは その橋の橋脚まで浮き輪なしで 泳いでみると言って泳いで行ったと みんなは各々遊んでいてY子ちゃんが その橋脚まで誰も見ていなかったのだ 足がつく浅瀬から橋脚までは、 12、3mぐらいだっただろうか 橋脚の付近の深さは、
そのキャンプから数日経った夕方 私は、両親が家の端にある 小さな畑を借りていた キュウリだったか トマトだったかを獲っていた頃 すごい台数の救急車や パトカーのサイレンが鳴り響いていた 私は、今までにない胸騒ぎがした それから、小一時経った頃だろうか 収穫した野菜を家に持って帰ると 母が誰かと電話をしていて 血相変えて私にこう言った 「Y子ちゃんが、○○川で溺れて 病院に運ばれたんやって!」と 私は、その時まだ8歳で あまり事の深刻さを 理解できていなかった そ
そのキャンプの日の キャンプファイヤーが終わった後 寝るまでに自由時間があった 私は、班の友達の KちゃんやHちゃんらと毛布を敷いてから トランプをして遊んでいた すると、テントの外が騒がしく テントから頭を出して 外を覗いてみた すると、Y子ちゃんたちの班の子達が 何故か、ギャーギャー騒いでいた 私は、その時とても うるさくて、すごくイラついた 私は、テントから顔を出し Y子ちゃんを呼びつけた 私も正直そこまで ハッキリとは憶えていないのだが 「うるさいねん!静か
Y子ちゃんとは、とても気が合い Kちゃんよりも気を使わずに まだ気が楽な友達だった その代わり、よく喧嘩もした だけど私は、サバサバした ポジティブなY子ちゃんが 大好きだった 小学校2年生は持ち上がりで 2年生も同じクラスになった 2年生の夏休みに入ってすぐ 町内の子供会でキャンプに行った Y子ちゃんとは 子供会では、隣保が違うので 班が違いテントも別々になった 私はまた、KちゃんとHちゃんと 同じ班になり 飯盒炊爨やキャンプファイヤーも 一緒に行動をした その
小学校へ入学して KちゃんともHちゃんとも 違うクラスになった Y子ちゃんという クラスが同じ新しい友達が出来た ちょっと、おてんばで活発な ショートカットが似合う 元気な女の子だった 私から、話しかける事はまずないので Y子ちゃんから、 話しかけてきてくれたのが キッカケだったと思う 彼女とは、同じ町内だったが ウチよりまだ北側の山の方だった ちなみに同じ幼稚園だったが クラスも班も違うから 存在は知っていたが 接点が全くなかった 学校の帰りはいつもふたりで 2
保育園の頃から、 土曜の午後は絵画教室へ通っていた いや、通っていたと言うか 保育園が外部の画家の先生に 場所を提供していたので 土曜の保育の後は、 そこの絵画教室へ行っていた 保育園へ入るまでは 家でずっと絵を1人で描くのが 好きだった様で 母は、私をそこへ通わせる様になった 初めて教室で描いたのは 赤ちゃんが抱っこしてそうな二等身程の 絵を八切りの画用紙に描いた すると、珍しく 母はすごく褒めてくれた 当時は嬉しかったけど 今思い出すと、気持ち悪い絵だ そこの
私が保育園へ行くまで 母は、家で内職をしていた 昔、主流だった釣り針の内職だ 母の妹からのルートで コンドームのゴムをハサミで切って 蛍光色のビーズを釣り針に通し そのゴムをくるくる回し くくりつける作業だった 母は、ご飯の時間以外は 朝から晩まで居間でその作業をしていた 因みに、そのゴムがコンドームだったのは 母の妹で私の伯母から大人になってから聞いた それでも、今で換算すると 20万円程稼いでいたという 結構な収入だったようだが やはり、私は母に 誕生日プレゼ
幼なじみのKちゃんと 同じ保育園に行き 同じ幼稚園に行った 因みに、Hちゃんは 幼稚園から一緒だった 私の地域の昔は 一年だけ、保育園へ行き その後一年だけ幼稚園へ通くスタイルだった 保育園は、バス通園だったが 幼稚園は2キロ以上あるところにあり 毎日、親が1人旗当番で付き添いし 男女4人程の班になって 30分以上かけて登園していた 班では、2人1組になり 逸れない様に手を繋いで行っていた 30分も人と手を繋ぎっぱなしは 手に汗もかくし、自由もきかない 結構私的にはキ
近所にKちゃんという 私と同い年の女の子の家族が 家を買って引越しして来た 家族構成は 割と近くの会社に勤める 会社員のお父さんと 専業主婦のお母さん 頭が良かった3つ上のお兄ちゃん Kちゃんだった たまたま、引っ越して来たばかりの時に その家の前を自転車で通りかかったら 庭にいたKちゃんのお母さんに 急に話しかけられた 「ちょっとまって!お家近いの?いくつ?」 みたいな事を突然話しかけられ 「うん、、、4歳、、、」ぐらい 答えたと思う すると、Kちゃんのお母さんは
私は両親と兄2人 あと、母方の祖母と暮らしていた 祖父は、私が生まれるだいぶ前に 癌で亡くなっていた 母は、一男五女の兄妹の四女だった 二つ上の姉の三女が 18歳で結核で亡くなっていた 因みに、その三女は 姉妹の中で1番の才色兼備で 私の名前の「絵恵」(仮名)は その三女の「絵恵子」から 「子」を取って名付けたと言う 話は戻り、なぜ四女の母が 祖母と暮らしていたのか まず、長男の嫁とは折り合いが良くなく 長女の婿も、次女の婿の事も あまり好きではなかった様だった