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【006:六箱 紫苑】1章『コッペリウスの箱庭』
~~~雑記~~~
ご覧いただきありがとうございます。久々の新作になります。
ダウナー男子を書きたくなって書き始めたんですけどね。なんでかな。最終的にサイコパスに軟禁?洗脳?される系の話に仕上がってて・・・おかしいなと首を傾げているところです。気弱男子は書けない病気でも患ってるんかな・・・。
まあ書いちまったもんは仕方ねぇよ、って感じで、読んでやっていただけたら嬉しいです。
~~~~~~
数ある作品の中からこの小説をお選びいただきありがとうございます。
この小説はひとりえっち専用ノベルです。
作者の独断と偏見による「できるだけ妄想しやすい」作風を心掛けています。
特徴としては以下の通りです。
・目次の『*』マークは致してる部分です
・ヒロインに名前はありません
・心理や動作の描写をできるだけ細かくしています
・めちゃくちゃにイジめられたい人用の内容です
もちろん、上記のことをご了承の上普通の小説として読んでいただいても作者としては嬉しい限りです。その際はぜひ背後からの視線にご注意ください。
今作は有料部分の文字数が多い(8,000字程)ため398円での販売になります。
あなたのめくるめくリラックスタイムの一助になればと思います。
【本作のキーワード】
・人形作家
・ダウナー
・サイコパス
・囲われる
・不気味
・執着と変質的な愛がひどい
・ガチの緊縛プレイ
・盗撮
・同じ年
・スローセックス
・連続絶頂
・ポルチオ責め
・中出し
1話
夜風の気持ちいい夜だった。
だから、帰ったらベランダで缶チューハイをぐいっといってやろうと決めていた。
20時半。
少々残業をしてからの帰宅が最近は常だ。手にはコンビニの袋。中身はお弁当とジャーキーとチューハイのショート缶が2本。スナック菓子を買いたい欲をぐっと堪えて大人なおつまみにした。トランス脂肪酸を飲むよりは、保存料たっぷりの乾燥した肉の方が幾分ましな気がしたのだ。あれ、でもコンビニ弁当の時点でアウトか・・・?まあいいや。もうそういう小難しいのを考えるのはよそう。肉体疲労も精神疲労も既に限界値だ。
ぷらん、ぷらん、とコンビニ袋を揺らして歩く。コンビニでエコバック使う人はいるんだろうか。袋いらないくらい小さい買い物の時か、既に買い物済みでなんか適当なビニール袋をぶら下げている時以外、あの白いぺらぺらの袋を断ったことがない。何かと便利なんだよな、あの袋。何かと・・・って言っても9分9厘、ゴミ袋にしか使わないのだけれど。
ヒールを引きずるようにエレベーターに乗る。
疲れた。
すごく、とても、心の底から疲れた。
8のボタンを押してから閉のボタンを押す。あとはもうエレベーターの壁に寄りかかって、ホラー映画のワンシーンみたいに流れていく同じ景色を眺めてぼーっとしていた。スマホをいじる気力もない。
がこん、と少し揺れてエレベーターが止まる。
両開きのドアが目の前で開いたのを合図に、体を引きずるようにして歩き出し、誰も待っていない自分の部屋へ向かう。
靴を脱ぎ捨て、キッチン兼廊下を突っ切りながらバッグを落とし、部屋に入って電気をつける。流れるようにテレビを付けてそのままソファーに沈んだ。
「あ゛~~~~~~・・・・」
眠いなぁ・・・いっそもう寝て目覚めなくてもいいな・・・眠るような死ってどれだけ幸せなんだろう。もうしんどい。疲れた。もう疲れた。
あ゛ー、でもどうせ明日も目が覚めてしまうし、目が覚めたら会社へ行くのだ。分かってる。そうして会社へ行くのなら、化粧したままなのも、シャワー浴びてないのも、ソファで寝たことも、明日の朝死ぬほど後悔するに決まってる。
彷徨わせた視線がローテーブルの上に投げ出したコンビニの袋から覗く缶チューハイを捕らえる。
そういえばベランダで飲もうと思ったんだった。
それは、私がやりたいことだ。これをしなければきっと私の精神が死ぬ。
深いため息と一緒に立ち上がってバスルームへ向かった。
動き始めてさえしまえば、寝支度を整えるのはそう難しいことじゃない。なんせやることはいつも通りの事なのだ。メイクを落としてシャワーを浴びたらすっきりするし、楽な部屋着に着替えればほっとするし、温めたお弁当からいい匂いがすればお腹が空いていたことも思い出した。
大して中身を見もしないYouTubeをテレビで流しながら、お弁当を食べる。自炊するのがいいよな、と思ってはいるのだけれど、どうしても疲れて帰ってくるとコンビニ弁当に逃げがちだ。別に料理は嫌いじゃない。嫌いじゃないというか、少し前までは好きだったはずなんだけどな・・・。
テレビ画面から聞こえてくる人の声が煩わしくなってきて、焚火の音を延々流す動画に変える。ああ、平和だ。もう喋り声なんて聞きたくない。
食べ終えたお弁当の容器を捨て、冷蔵庫から冷やしていた缶チューハイを一本取り出してベランダへ向かう。
がらりと開いたサッシからふわ、と僅かに涼しい風が舞い込んだ。
ああやっぱり、今日は夜風が気持ちいい。
8階まで飛んでくる虫なんてそうそういないので、大して警戒することもなくサンダルを突っ掛けてベランダへと出た。がっしりとしたコンクリート製の塀はかなり厚みがある。缶くらい置けそうではあるけれど、この高さから何か落として下の人に当たったら大怪我では済まないだろうからそういう使い方はやめておこう。胸の上あたりまであるその塀に背中を凭れるように寄りかかり、プルタブを押し込んだ。
プシュっ!
小気味のいい音を立てて飲み口が開き、ぐいっと大きく傾けて喉を鳴らすようにひと口目を飲み下す。
「あーーー・・・」
大きく息を吐く。おっさんくさいとかどうでもいい。誰も見ていないのだから関係ない。
喉の粘膜がじわりと熱を持つ。それを冷やす為にもうひと口チューハイを飲み込んだ。
誰もいない静かな夜だ。
音なんて、遠く車の走る音が聞こえるくらいだ。8階の高さまで届くような大声を出している人間が、住宅街に出没することなんてほとんどない。そして今夜もそんな奇人はいないらしい。素晴らしい事だ。
街の明りが少し離れたところに見える。こうして離れて見る分には綺麗だけど、あそこで働くのはひどくしんどいものだ。
ああ、仕事辞めたい。
常に脳の片隅を占めるその思考が暴れ出す。
嫌なことなんて生きていれば掃いて捨てる程ある。そんなことは分かっているのだ。
もっと前向きになれとか、スキルアップしろとか、転職しろとか、恋愛しろとか、そんな真っ当なアドバイスは友人や親どころか、CMやらショート動画からすら流れてくる。
五月蠅い。
そんな簡単に踏ん切り付けられれば悩んじゃいない。
うじうじ悩んでいるのは、そうして一歩を踏み出したところで、その未来に何の保証もないと知っているからだ。
ひとり暮らしする分には何ら困らない給料を貰えて、一応年休もあって、福利厚生もそれなりの会社。生きていけるのだ。嫌いだけど、ここにいたら生きていける。ただ、毎月同じルーチンワークを繰り返して、同じような愚痴を言って、人間関係に気を回すことに心底疲れている。
でも、転職したら天国みたいな人間関係の会社へ入れるのか?そんな訳がない。配属部署も決まらないうちにそこの人間関係がどうかなんて分かる訳がない。よしんばいい関係の場所へ入ったとしてだ。いつ何時、どんな些細なきっかけで、その人間関係が壊れるかもわからない。
それなら、今更新しい人間関係を作るために四苦八苦した所で・・・そう思ってしまうのだ。
くそめんどくさい人間関係はなくならないというのに、友人関係はじわりじわりと希薄になっていく。
結婚したくらいなら関係もあまり変わらないけれど、子どもができたとなると話が変わる。もはや独身のこちらとは住む世界が変わってしまう。どんなに仲の良かった過去があっても、だ。所詮その関係は過去のものをベースにしていて、こちらが子どもを育てるどころか真っ当にパートナーもいない状態では話が合わないのも仕方がない。それは別に、どちらが悪いとかそういう訳ではないのだ。好きだからこそ、妙な亀裂を生みたくなくて距離が生まれる。それだけのことだ。
最近じゃ親とも疎遠になりだしている。顔を合わせればお相手はどうだの、早く結婚しろだの言ってくるのだ。やめてくれ。今そういう事を考えたくないって言ってるじゃないか。
新しい友人を作る?
なんだその面倒な作業は・・・。そもそも信頼ってどうやって積み上げるんだかもうよく分からない。大体、飲みに行った場所で友達になりましょうなんて声掛けてくるやつのほとんどはねずみ講的なあれでしょ。冗談じゃない。
じゃあ恋人?
それも同じだ。マッチングアプリなんて手軽なものがあるけれど、そこに蔓延るヤる気しかない男をどう見抜けばいいって言うんだ。多少自己肯定感は満たされても、結局その相手はほとんどが私の気持ちとか心とか、そういうのが欲しいわけじゃなく、ただ股を開く女が欲しいだけなんだろう。それでセフレにでもなってみろ。ただの泥沼だ。
それになんだか疲れたのだ。喧嘩して仲直りしてまた喧嘩して、でも好きで・・・。そういう感情の乱気流に翻弄されるのはひどく疲れる。だというのに人肌は恋しいのだから嫌になる。ソフレとか割と本気で欲しいけど、ベッドに横たわっても手を出して来ないヘタレ男とか、それはそれで嫌だ、という恐ろしく我儘なことを考えてしまう。
強いて言うのなら、既に2、3年付き合った後のこなれた関係の恋人が欲しい。我ながら滅茶苦茶だ。
またひと口、缶を傾け嚥下する。冷たい液体が喉を下り、次の瞬間じわりと酒気が喉の粘膜を焼く。
ひゅう、と吹いた夜風が洗いざらしの髪を弱く攫う。街灯りと排気ガスに光を奪われた夜空は、飲まれてしまいそうな闇色だ。孤独そうな三日月が遠くで冷たく浮かんでいる。
何の気なしに塀から少し身を乗り出して下を覗き込む。
道路が随分細く見えるくらいには高い。
ここから落ちたら人生終わるかな・・・終わるな。なんせ8階だしな。引っかかりそうな街路樹もないし、さすがに助かるまい。
いっそ酔いに任せて落ちてみるか?いやでもなぁ、痛いの嫌だし怖いのも嫌なんだよな。リストカットなんて冗談じゃないし、首を括る覚悟を決める程、追い詰められてもいない。飲んだら眠るように死ねる薬とか売ってたら、もしかしたら使うけど、生憎とそんな優しいものは売っていない。
はぁ・・・死ぬのもしんどいなぁ・・・面倒くさい・・・。
「あの・・・飛びます?」
「は・・・」
突然話しかけられて心臓が竦みあがる。思わず手にしていた缶を握りしめ、ぺこっという間抜けな音が響いた。
え、なに。え、え。怖、お化け?いや、え?私割とそういうの無理なんだけど。
「・・・飛び降りますか?」
もう一度声を掛けられてようやく、蹴破れると噂の壁で隔てられた隣の部屋のベランダから声を掛けられているのだと気が付いた。盛大にため息をつく。なんだ。人間か。よかった。めっちゃびっくりした。
「お化けかと思った」
「えっ!あ、すみません・・・いきなり・・・」
気弱そうな、若い男の声だった。
あ、お隣って男の人だったんだ、と言うのが最初に沸いてきた感想だった。
隣の部屋は私が引っ越してくるより前から埋まっていたけれど、特に挨拶とかはしていないのでどういう人が住んでいるのかは知らない。生活の時間帯が違うのだろう、特にすれ違ったりしたこともない。人がいる気配は何となしに感じてはいたけど、意識したことはなかった。
姿は見えない。壁で遮られているのだから当然だ。それでも、同年代であろう男性がこうも弱弱しい声で謝ってきていると思うと、どうにも拍子抜けしてしまう。恐らくは私が下を覗き込んでいたから、飛び降りるんじゃないかと心配して声をかけてくれたのだろう。お節介だなと思うけど、まあ隣の部屋が事故物件になるのも嫌だよな。
「そ、その。ボクも前に、飛ぼうかなって思ったんですけど・・・いざ足を掛けたらすごい高さで・・・怖くなっちゃって・・・だから、あの・・・飛ぶつもりなら、結構怖い、ですよ?」
「・・・あははっ」
不謹慎だと思いながら、それでも笑うのを堪えられなかった。だってその声色に、自殺を止めようとかそういう雰囲気はないのだ。言葉通り、ただ単純に怖いことを伝えようとしているだけ。それだけだった。
アルコールのせいか、そのことがやけに面白くて笑いが止まらない。ちょっと苦しいくらいに笑ってしまう。はー、と大きく息を吐いて笑気を吐き出した。
胸に渦巻くのは、初めて言葉を交わした姿も見えない男への親近感だった。
「はー・・・笑ってごめんなさい。私も、ちょっと怖いなって思って」
素直に答えると、壁の向こうから微かに笑い声が返ってくる。
「いえ、それは全然・・・なんかこう、中途半端に高くて怖いですよね」
「そうそう。痛そうですよね、なんか」
ふわり、甘い匂いが漂ってきた。ちらりと隣のベランダを見ると、電子タバコを持った手だけがベランダの外に力なくだらりと垂れ下がっているのが見えた。彼が吐き出したであろう白い煙が夜風に吹かれて散っていく。電子タバコの充電残量を示す青い光が、暗闇の中でやけに目立って見えた。
「楽に死ぬ方法って・・・、意外とない、ですよね」
ぽつりと彼が呟いた言葉を肴に、またひと口缶を呷った。
「ですねー。しかもそういうの検索すると『ひとりで悩まないで』みたいなの出てきません?」
「嗚呼、あるある。あれ・・・電話する人って、いる・・・んでしょうね、多分」
「多分ね」
人と話すのに慣れていないような、辿々しい言葉運び。あまり外に出ない人なのだろうな、なんて勝手に想像した。これで案外外に出る人だったら面白いな。
もうひと口呷ったら、缶は空になってしまった。飲み切った缶を潰す。隣で、大きく煙を吐く吐息が聞こえた。
隣から漂うのはなんとなく知っている甘い匂いだ。お菓子の匂い。なんだろう・・・シナモンの匂いなのはわかるのだけれど・・・。
そう思いつつ、聞くほどの興味は湧かない。
「そろそろ寝ます」
「あ、はい、なんかすみません。いきなり声掛けちゃって」
「いえ、怖いって教えてくれてありがとう」
冗談めかして答えれば、薄い壁の向こう側から小さく笑い声が返ってきた。
潰した缶と一緒に部屋へ戻る。窓を閉めるだけで、簡単に今話していた人との繋がりが断たれる。
妙な高揚感と満足感があった。
顔も名前も知らない相手と隣り合わせで話すという冒険と、他愛のない話をしたい欲求が満たされた、そんな感じ。
また話したいなと、思う。
でも約束はしたくない。
ただきっと、明日の夜も天気が良かったのなら、ベランダでお酒を飲むのだろうなと思った。
そう思うだけで、どういう訳かその夜はよく眠れたのだから人間ってよく分からない生き物だ。
2話
朝は憂鬱だ。会社に行かなければならない。
台風でも来ていやしないかと外を見るけれど、外は嫌味なほどの快晴だ。深いため息をついてベッドから這い出した。
精神疲労が抜けないせいか、単に眠りの質が悪いのか、今の上司になってから目の下のクマが消えない。最低限コンシーラーで誤魔化して出社する。満員電車にどうにか乗り込んで、香水と整髪料と制汗剤、あとは汗と加齢臭が入り混じった最悪の臭いに揉まれながら、周囲の音を遮断する為だけにノイズキャンセリングのイヤホンを付け、SNSを渡り歩く。
毎朝見るのは、とある人形作家さんのSNSだ。鬼乃さんと言う、球体関節人形を作る作家さんだ。精巧な顔や手足のパーツは勿論、装飾もすべて自作と言うのだから驚きだ。
知ったきっかけはデパートの催事場だ。なんとなしにデパートをウィンドウショッピングしている時に、たまたま立ち寄った催事場で開かれていた展覧会。その入り口に飾られていた人形に一目惚れしたのだ。
醒めた表情をした吊り目の女の子。目の色は赤かった。額に2本生えた角は先端が赤く艶めいていた。黒い髪は豊かで、腰の下まで滑らかに揺蕩い、裾に大きな赤い月下美人の華が咲く、黒地の着物を着ていた。下駄を履き、手足の先は少し赤く色づいていて、それが全体の白すぎるほどの肌色を妙に色っぽく見せていた。
ぞっとするほど美しいその人形から、目を離すことができなくて・・・私はあっという間に鬼乃さんの世界の虜になった。
その展覧会には他の作家さんの作品も飾られていたのだけれど、私はもう鬼乃さんの作品をただただ舐めるように見まわしていた。彼女の作品は暗い日本家屋のような雰囲気の装飾を施された背景の一角に飾られていた。着物を着た上から複雑に緊縛されてる人形とか、結構際どいのもあったのだけれど、どの子も本当に美しかった。
鬼乃さんは、顔は勿論、性別も年齢も個人情報は何ひとつ明かしていない。ただSNSに時たま投稿される写真に写り込んだ手がとても滑らかで綺麗だったから、私の中では切れ長の目で黒い長髪の女の人のイメージになっている。完全に最初に見た鬼の女の子のイメージが乗り移っているのは自覚している。
人形1体の値段は目玉が飛び出るほど高い。車が買えちゃうお値段だ。だからものすごく欲しいけど、とてもじゃないが手は出せない。画集とか出てないのかと思って探し回ったけれど、残念ながらそういうものはなかった。探した結果行きついたのが、更新頻度がえらく低いSNSだったというわけだ。
その投稿がまあネガティブなのだ。いや、普段はそうでもない。
美しい手を作れたと思う、と言って色付け前の華奢な人形の手のパーツの写真が上がったり。
素朴な服を着せたい、と言ってカントリーな雰囲気をした人形サイズの優しい色合いの服の写真が上がったり。
箱買いしたカロリーメイトがなくなってた・・・、と言ってからの段ボール箱の写真が上がったり。
割とそんな感じだ。
ただ、作った人形を送り出した時は大分暗い。
寂しい、幸せになってくれるかな、はまあいいとして、あの子の乗ったトラックが事故にあう夢を見た、正夢だったらどうしよう、とか言い出すのだ。非常に鬱々しているのである。
人形の事をそこまで愛しているのだろうと思うと、私はその発送した後の言葉の羅列もなんだか可愛く思えてしまうのだ。そこまで愛して創っているからあんなにも綺麗な人形で、車みたいな値段でも売れるのだろう。そうやって夢中になれるものがあったらいいんだけどな・・・なんて、少し羨ましくすら思う。
今日も特に更新はない。まさかSNSで世界に向けて「おはよう」とか言うタイプの人ではないのでそれも当然か。
もう何度も見返したつぶやきを巡回して、なんとなくほっとして、私は出社する憂鬱感をわずかばかり紛らわせたのだった。
+ + + + +
今日も残業だった。
上司が、それはうまい具合に仕事を押し付けてくる人なのだ。上司の仕事を部下がするのは当然と思っているからか、それとも自分は家庭を持っているから独り身の私が譲歩するのは当然と思っているからか。こちらの仕事の目途が付いたと見なすや「これお願いできる?」と来るのである。
お願いできる?じゃねぇんだよ。手前の仕事は手前でやれや。と心底思ってはいるものの、じゃあ断れるか、と言われると難しい話だ。だってそれを言ったところでどうしろと言うのだ。転職の予定があるわけでもなし、給与とか福利厚生にはそれなりに満足しているから辞めたいわけでもなし。いや、辞めたくはあるか。辞める当てがないだけだ。というか、こんなに苦労してるんだからもっと給料寄こせよとも思う。
それでも、昨今の情勢を鑑みるにまあそれなりに貰っている、のだと思う。いや、決して高給取りではないのだ。誰かを養えるくらい貰っているかと言われたら全くそんなことはないのだけれど、私ひとりを生かす分には十分と言う話だ。
何が言いたいかと言えば、上司の機嫌を損ねて明日からの仕事をやりにくくするくらいなら、嫌な仕事であってもとりあえずこなしておこう、予定もないし・・・と言う感じだ。幸い、きちんと残業代は出る。
ただただ、虚無感や、理不尽な仕事による怒りや、疲労や、なんかそういう負の色々が澱のように胸の底に溜まって行って、それが腐って鬱屈した何かを生み出しているという、それだけの話だ。
それこそ、就職したての頃は、なにかもっといろんなものに意欲的だった気がする。もっとばりばり働いて、昇給して、いいところに住もうとか、そういうことを考えていた事もあったように思うのだ。
でも今ではもうそんな思いは擦り切れて、ただただ無為に日々を過ごしている。ある程度好きにできるお金があればもうそれでいいや。そんな投げやりな思考だ。ハッピーな予定もなく、輝く未来もない。まさに灰色の人生の見本と言えるだろう。
どうせ頑張ったところで評価されているかどうかも分からない。それを確実にするまで上に媚びを売れるかと言うとそこまでじゃない。
ずっと胸の奥に燻っている、泣き叫びたいような鬱憤と孤独。やり場のない怒り。それらをきれいさっぱり無くす方法があるのなら・・・。誰でもいい。どうか、教えて欲しい。
...
..
.
今日も夜風は涼やかで、やっぱりコンビニに寄って、そしてお酒を買った。
帰宅時間も判で押したように昨日と似たり寄ったりだ。体を引きずるように家に入り、一瞬ソファに溶けて、それからため息をつきながら寝支度を整える。そんなところまでまるきり一緒だ。
今日はもうお弁当を温めるのも面倒で総菜パンにした。食べ終わったら冷蔵庫から缶チューハイを取り出してベランダに出る。顔も名前も知らないお隣さんが、今日も出てきたりしないかという期待が胸の内で燻っている。そこまで大きな期待ではない。なんせ約束をしているわけでもないし、昨日ほんの少し話しただけの、それだけの間柄なのだ。いなくて当然。タイミングが合ったら少し嬉しいな。そんな程度の淡い期待だ。
ベランダの塀に背を凭れさせながら、スマホをいじる。鬼乃さんのSNSを見ると「山奥に引っ越したいな・・・でもひとりは寂しい」なんて呟いていた。
山奥か。いいなぁ山奥。現実的に無理だけどさ。でも、山奥のアトリエに籠る人形作家というのはなかなか絵になりそうだ。
その時。
ふわり、とシナモンの甘い香りが漂ってきて、私ははっと顔を上げた。我知らず、口角が上がる。
「・・・こんばんは」
「あ・・・こんばんは」
答えがなくてもいいように、気持ち小さな声で口にした挨拶には、遠慮がちながらしっかりと返事があった。そのことにひどくホッとしている自分がいて、なんだか可笑しかった。
「それ、美味しそうな匂いですね」
「あ、はい。シナモンロールの味と匂いのリキッドなので・・・美味しいです」
ああそうだ。シナモンロール。彼の言葉で納得する。砂糖が焦げたような、バターを溶かしたような、そういう香ばしい匂いが混ざっていてシナモンだけではないなと感じていたのだ。
しかし、電子タバコは詳しくないけれど、そんな味があるのか。煙草と名前は付いているけれど、まるで別物だな。煙草を「旨い」と表現するのはハードボイルドな渋いおじさんくらいかと思っていたけれど、シナモンロールの味がするならそりゃ美味しいだろう。
「そっか・・・電子タバコ、吸ったことないんですよね・・・」
「最近はビタミンを飲む、なんて謳ってるのもありますね・・・ほんとか知りませんけど」
「ビタミン・・・そんな栄養取れそうな感じなんですか」
「そういうのもあります・・・。ボクは、リラックス効果があるやつとか、使ってて」
「へぇ・・・」
煙草はどちらかと言うと覚醒させるイメージが強いから、本当に別物なんだな・・・。
「今度試してみようかな」
「いいと、思います」
しばしの沈黙。
夜風の音に、彼が煙を吐き出す吐息が混じり、それを聞きながらチューハイをひと口飲んだ。
「山奥、行ってみたくありませんか」
「え?」
なんでそんなことを言ったのか、自分でも分からない。
だから聞き返されて、私は慌てて言葉を繋げた。
「あ、いや。えっと・・・好きな作家さんが、SNSでそんなことを呟いていて、たしかになぁって、思ったんですよね」
「・・・、なんの、作家さんなんですか?」
「球体関節人形って、わかります?ビスクドールとか、ああいう感じの、結構リアルなお人形なんですけど」
「・・・わかります」
「それを造ってる作家さんで、鬼乃さんっていう方なんですけど・・・すごく、美しい人形を作る人で。とてもとても、私が手を出せるような値段じゃないんですけどね?だから見てるだけなんですけど・・・彼女が作る鬼の女の子に一目ぼれして・・・それからずっとSNS追いかけてるんですよね」
人形なんて引かれるかなと思ったけれど、意外とお隣さんはそういうのに偏見がないようだ。あまり人に話した事もないものだから、こうして自分のちょっとばかり特殊な推しの話ができるのは、単純に嬉しい。
「彼女・・・?女性、なんですか?」
「や、わかりません。ただ、すごく手が綺麗だったから、なんとなく女性なのかなって・・・私の中ではなってますね」
「なるほど」
また沈黙。
喋りすぎたかな、という後悔が胸に広がるより早く、彼が言葉を続けた。
「山奥に行ったら、面倒な人間関係全部切れますかね?」
「・・・そう、思って。私も。いいなぁって・・・現実的じゃないかなって思うんですけどね」
「どうして?」
「ふふっだって、もし実際山奥行ったら、きっと不便で泣いちゃう。それに、リタイアできる程貯金があるわけじゃないし、そうなると働かないとでしょう?ネットだけで稼げるアイデアはないし・・・そうなると、かえって不便なだけだもんなぁって・・・。あとは田舎特有の濃密な人間関係もしんどそうだし」
そう、私にとって山奥への引っ越しなんて言うのはおとぎ話だ。田舎暮らしのいいところだけを夢想して、実現するつもりなんて毛頭ない。それこそ田舎暮らしがしたいと言って思いっきり後悔するような話はいくらでも転がっているわけで、そのあたり、情熱的に田舎暮らしの良さを熱弁して実行できないくらいには、私は醒めていた。
「あ~、めっちゃわかります。人間関係面倒で山奥行くのに、結局煩わしいならやってられないですよね」
「ね。本当にそう」
「安定した収入があるのは当然として、暮らしやすい設備が整ってて、ちゃんと宅配物も届いて、電気も水道も電波も不自由なくて、それでいて周囲に民家はなくて、車を出したらそこまで遠くない場所に街があるのがベストですよね」
「あははっそう。それがベスト」
やけに具体的な理想図を聞かされてどんな夢物語だ、と思う。でも確かに、それができるなら最高だ。最高の引きこもり生活ができる。
「・・・今更ですけど、ボク紫苑って言います。六箱紫苑」
「あ、どうも。私は――――」
唐突に自己紹介され、私も名乗り返す。それにしてもシオンだなんて随分とオシャレな名前だ。優しい声にその名前はとてもよく似合っているように感じた。
気弱な雰囲気は抜けないけれど、どこか気安い雰囲気が出てきていて、どんどん彼と話しやすくなっていく。
「紫苑、ってすごくお洒落な名前ですね」
「うーん、でも、紫苑の別名ってなかなか酷くて」
「別名?」
「そう、鬼の醜草って言うんですよ。酷いでしょ?」
草、ってことは紫苑って植物なんだ。まずそこから初めて知った。
ぽちぽちとスマホで検索を掛ければ、薄紫色の小さな花弁をした可愛らしい花が出てきた。花弁は大分細いけれどガーベラに似た形をしている。マーガレットの方が近いか。たいして詳しくもない花の種類から何とはなしに似たような花を思い浮かべた。
「紫苑って植物なんですね。初めて知った・・・」
「ああ、たしかに・・・シオンって名前はそれなりにいるんですけどねぇ。由来知らない人も多いですよね」
逸話もすぐに出てきた。鬼の醜草、と言うのは元々「しこのしこぐさ」と読んだらしい。何の役にも立たない草と言う意味らしいが、なかなか酷いことを言うと思う。でも、他にも「思い草」なんて言葉もあった。両親の死を悼んだ兄弟が、兄は死を忘れるために勿忘草を供え、弟は両親を忘れない為に紫苑の花を供えた。その様を見て、墓守の鬼が弟の優しさに感心して予知夢を見る力を授けた、なんて昔話があるらしい。
何かと鬼と絡められる花みたいだ。
「初めて知ったけど、思い草って言い方もすごく素敵じゃないですか」
「まあ、でも。ボクは予知夢なんて見られませんけどね」
冗談めいた小さな笑いを含んだ静かな声。紫苑くんの声は、どうにも聞いていて落ち着いた。
「あなたの名前の由来はなんですか?」
「私は――――」
...
..
.
ぽつりぽつり、お互いの話をした。
名前の由来、実家の話、子どもの頃の話。大爆笑が起きるとか、声を荒げるとかそんなことはない。ただゆっくりと少し間を置きながらお互いの事を離す時間はとても穏やかで、心地が良かった。
仕事の話はしなかった。彼も、私もだ。聞かれないのをいいことに全く触れなかった。だってそんな楽しくもない話、したくなかったのだ。
聞いている限り、彼の家庭環境は恵まれていたように感じる。年の離れた兄が2人いて、末っ子の自分は両親が結構年を取ってからできたものだから非常に可愛がられたのだと語っていた。
「小さいころから家の中で遊ぶのが好きで、自分で言うのもあれだけど、大人しい子だったと思う」
「・・・うん、まあ、逆に紫苑くんが活発な子だったらびっくりしちゃう」
「ははっそうだよね。まあほんとそのまま大きくなった感じかな・・・。大人しいし、あんまり人に興味もないし、だからか学校に行くと結構イジめられてさ。あんまり学校は行かなかったんだよね・・・両親もそれを許してくれて、でも、家庭教師とかは呼んでくれて・・・今思うとすごい甘やかされてたなって思う」
「ふふっ確かに・・・。いいご両親だよね、すごく」
名前の話をしながらお互いの年齢の話にもなって、同い年であることが判明した。そこから敬語がなくなって、なんとなくお互いを名前で呼ぶようになった。彼のたどたどしい言葉運びは段々と滑らかになり、今では物静かだけれどしっかりとした口調で話している。恐らく本来はこちらの話し方なのだろう。もしかしなくても最初に声をかけてくれたのは結構緊張していたのかもしれないな、なんて思うと少し胸がほっこりとした。
「うん。兄たちもね。本当に優しいんだ。両親はちょっと前にふたりとも亡くなっちゃったんだけどね・・・」
「え、そうだったの?・・・・なんか、ごめん」
「ううん、病気だったしね。寿命だったと思うよ。母が先に亡くなって、父も追うように逝っちゃったからさ・・・最期まで仲のいい夫婦だったな」
彼の優しい声に、ほんの少し寂しそうな色が滲んだ気がしたけれど、確かにその口調はもう両親の死を納得しているもののように感じられた。
その声を聴いたら、思わず自分と両親の関係を考えてしまった。
今、私は両親に対してそんな風に優しい声で語れるような関係性じゃない。決して嫌いなわけではないけれど、ただただ、藻掻き苦しんでいる私の人生に、更に苦難を追加しないでくれ、とそれだけを思う。なんだかそれは、少し悲しくて、やるせなくて・・・。大切にしたい気持ちがないわけではないのだ。孫を抱きたい親の気持ちも分ってはいるつもりなのだ。ただ、今そこに気を使ってあげられる余裕がないし、私の人生は私に任せてくれと思ってしまう。
それを少し、ほんの少しだけ、申し訳なく思った。
私たちはお互いの顔を見ないままここまで話していた。
ふたりともベランダから少し身を乗り出したら、部屋の灯りもあるのだし、互いの顔を認識する事など雑作もないことだろう。でも、こうして顔も見ないで作り上げた関係が、顔を見られて崩れるのがすごく怖かったのだ。
寝支度を整えた私は何も繕えてはいないし、それはきっと彼も同じだ。
そうやって見た目を意識する辺り、たった二日で随分と紫苑くんを意識してるじゃないか、と内心で自分を揶揄する。
いやでもだって、仕方がないじゃないか。
柔らかい口調で、余計なことは聞かないで、静かに笑う彼との会話はここ最近感じたことがないほどに心地良かったのだ。決して、これは恋とかそういうアレじゃない。ただ少し、弱り切った心に優しさが染みただけだ。
だから変にイケメンで妄想したりするのは本当にやめろ。
よく分からない言い訳を並べ立てだした心にしっかりと釘を刺した。
「話してた人形作家とさ、直接やりとりとか、しないの?」
「へっ!?」
ちょっと考え事をしていたところに、唐突に鬼乃さんの話を放り込まれて素っ頓狂な声が出た。
ああもう、ほんと何考えてるんだろう。恋愛脳って感じでほんとに嫌だ。
チューハイのショート缶はとっくの昔に飲み切って、私の手にあるのはただの空き缶だ。アルコールで気持ちを誤魔化すこともできず、私は手の中で空き缶を持て余しながら、顔が熱いのに気づかないフリをして、彼の言葉に返事をした。
「しないしない。恐れ多いよ」
「恐れ多いって・・・なんでさ。してみたらいいのに」
少し上を向いて考えてみる。確かに憧れの作家さんとやり取りができたら、鬼乃さんと会話して彼女の世界観がどんな価値観から生まれたのか知れたら・・・。いや違うな。もっとシンプルに、好きな人にあなたの作品がどんなに素晴らしいかと伝えたい。そう思う。そう思うけど、彼女はあまり、そういうのを求めていないような気がして・・・。
分かっている。そう言い訳をしながら勇気を出せないのだ。
「でも、何言っていいのか分からないし・・・」
本当は、勇気がないだけだけれど。なんとなく、それを正直に言うのは恥ずかしかった。
「そっかぁ・・・」
ふーっ、と白い煙を吐き出しながらの彼の返事は、同意しているのかしていないのか、掴みどころのないあやふやな声色をしていた。
「話しかけてくれたら、きっと喜ぶと思うけどなぁ」
ぽつりと、本当に何とはなしに呟かれたであろうその言葉は、どういう訳か私の頭にこびり付いて離れなかった。
3話
『誰かと話したい、寂しい』
鬼乃さんのSNSにそんな投稿がされたのは、夕方の事だった。金曜日だから花金なんて事にはならず、相変わらず鬱々とした気分で残業を終えて帰る。今日は霧雨が降っていて非常に煩わしい。この天気ではベランダでの飲むのも無理だ。その事実に落胆を覚え、ちらりとお酒コーナーを横目に見つつ素通りしてレジへ並んだ。
昨日紫苑くんに背中を押されたものだから、私は非常に緊張しつつDMのボタンを押して、文章を作っては消して、違う事をして、そしてまたSNSを開いてDMの画面にして・・・と言うのを繰り返していた。帰りの電車に乗ってから延々、お風呂から、ご飯中から、今こうしてベッドに入っても、それを繰り返している。
お門違いも甚だしいとは分かっていても、どうにも紫苑くんが恨めしい。彼が「話しかけたら喜ぶ」だなんて言わなければ、私は絶対にこんなことで悩んではいないだろう。まったく、なんて余計な思考を植え付けてくれたんだ。あの声がよくない。耳に残る優しい声が、本当によろしくない。
「誰かと話したい、寂しい」という、鬼乃さんの気持ちはなんとなく分かるのだ。金曜日と日曜日と月曜日は、なんだかこう、心がざわざわしてしまう。
私も分かります・・・、なんて。でも私ごときがそんな風に声をかけるのはあまりに烏滸がましいんじゃないか・・・。その思考をずっとずっと繰り返している。
嗚呼もう、どうしよう。
ごろごろと狭いベッドの上を右に左に転がってみるが、まさか答えが出てくるはずもない。
「はぁ゛~~~・・・・」
腹が決まらない。要は怖いのだ。分かっている。私が意気地なしなだけだ。
いいじゃないか送ったって。別に迷惑なら返事なんて帰って来ない。それだけだ。送る内容だって彼女を傷つける内容ならいざ知らず、ただ共感を示して、彼女を心配する人間がいると伝えたいだけだ。だから、大丈夫。
悩みに悩んだ末、彼女の作品が好きないちファンである事、素晴らしい作品、中でもあの鬼の女の子が本当に素敵で大好きだという事、そして、どうしようもなく寂しい日もあるけれど、どうかご自愛くださいという事を綴った。読みっぱなしでよくて、それでいて鬼乃さんが少しでもほっこりしてくれたらと思いながら、何度も書き直した渾身の出来である。
そうだ。返信なんて来なくていいのだ。ただ、彼女が少しでも心穏やかになってくれれば嬉しい。
就職の面接をした時でもこんなに緊張しなかったかもしれない、と言うくらいに緊張しながら、私は送信ボタンを押した。はー、と大きく息を吐く。
やってやった。あるいは、やってしまった。
どっちの表現が適切かいまいちわからず、よく分からない不安が胸の中に渦巻く。見慣れた天井を見上げ、放心する。
やはり心情的には「やってしまった」かもしれない。嗚呼どうしよう。「何こいつ」とか思われたりしないかな・・・。
その時、ぴろん、と短い通知音が鳴る。びくっとして「いやそんなまさか、え、嘘・・・」と思考を混乱させながら、同時に期待を際限なく膨らませてスマホを見る。
通知を見れば、SNSのメッセージが届いたことを告げる文言が並んでいて、一瞬思考が停止する。言葉が出てこない。
あわあわしながら通知からSNSを開いてメッセージを確認すれば、まさかまさか、鬼乃さんからの返信が返って来ていた。
「嬉しい。どうもありがとう。少しお喋りに付き合ってくれませんか」と。
「~~~~~~~っ!!」
ごろごろとベッドを転がる。
馬鹿みたいに嬉しい。やだ、どうしよう。なんかもう告白がうまくいったみたいな嬉しさだ。喜びが胸の中でポップコーンみたいに跳ねまわっている。
それから、私たちは他愛のないやり取りをした。あんなにも更新頻度が遅いとは思えないくらい、彼女はさくさくと返事を返してきた。内容も案外普通だ。なんで作品を知ってくれたの?とか、どんな仕事をしているの?とか、そんな感じだ。あの鬼の女の子の人形――美月ちゃんと言う名前らしい――についても聞かせてくれて、既にお嫁に行っているけれど、既に彼女の作品を何体かお迎えしているおうちへ行ったようで大切にされているらしい。買う予定があったわけでもないけれど、既に手に入らないと知るととても惜しく感じるのだから人間の欲って不思議だ。
やり取りしていく中で、あんな呟きをするくらいしんどくなっている理由も明かされた。
彼女曰く、人形の制作が行き詰っているのだそうだ。というのも、現在入っている注文の依頼人が色々と細かい事を言ってくるタイプの人で、それに疲れ果ててしまっているらしい。一生懸命作ってはいるが、途中経過の写真を送って見せると「ここが違う」「ここはもう少し角度を・・・」みたいな注文がいちいち入るのだとか。せっかく注文をいただいているのだし、と頑張ってリクエストに答え続けてはいたが、もう何が正解か分からなくなってきているのだという。
変な人がいるものだ、と思った。だってその人は、彼女の創る世界観の人形が欲しいんじゃないのか。
指先の角度から視線の位置まで、何もかもを自分の思い通りに作りたいのなら、自分で創ればいいのだ。だってそうして事細かに指示されて作った作品って、きっともうそれは彼女の作品ではない。
もし鬼乃さんが生活に困っているわけじゃないのなら、お断りしてしまえばいいのでは?
やり取りがぽんぽん続くので、もうあまり考えず私は思ったままの事をメッセージに打って送ってしまった。
「うーん・・・」
そして既読が付いてから悩みだす。余計なことを言ったかもしれない。いやだって依頼を断るなんてきっとものすごく勇気がいるんじゃないか。そんな事に送信ボタンを押してから思い至ってしまったのだ。
私はそういう依頼を貰ったことがないからよく考えなかったけど、上司からのお願いすら断りづらいのだ。それが大金を払う人間からの依頼となればますます断りづらいに違いない。
じわじわと胸中に不安が滲みだしたその時、軽い効果音と共に彼女から返事が返ってくる。
「確かに、うん。それもそうかも・・・ちょっと考えてみる」という返信内容に深く安堵のため息を付く。何も知らないくせに知った様な事を言うな、とか言われてもおかしくないと思っていたので心底ほっとした。
元々私は、鬼乃さんのファンである。彼女とやり取りできるのが普通に嬉しくてテンションがハイになり、全然眠くならない。しかも返事がテンポよく返ってくるのだ。さらには金曜日とあっては、早く寝なければなんて意識は早々にどこかへ飛んでいき、やり取りは深夜を回っても続いていた。
そんな中で、彼女が結構本気で山奥へ引っ越す準備を進めている話になった。
資産家の父が亡くなり、別荘地にある別荘を一棟、遺産としてまるっと相続したのだという。ちょっとスケールが意味わからないけれど、まあそういう事なんだそうな。
普段あまり人はいないが、高級別荘地とあって道路は勿論、インフラもしっかりと整備されているし、すこし車を走らせれば大型スーパーやショッピングモールもあるという。何その夢のような立地、と言う場所だ。
しかも貰った別荘はその別荘地の中でも大分奥まったところにあるらしく、文字通り自然に囲まれた一軒家なのだそうだ。
彼女から送られてくるメッセージを読んで最初に浮かんだのは、ベランダの壁とシナモンロールに匂いだった。なんせ昨日紫苑くんと話した理想が全部詰まった様な話なのだ。無理からぬことだろう。
遠い世界の話過ぎて嫉妬のような感情はわかなかった。ただ、紫苑くんと世の中にはそんな世界があるんだね、なんてこの話を共有したい気持ちになった。
夢のような場所ですね。
そこでゆったりした気持ちで素敵なお人形を作れたら、きっと鬼乃さんの気分も穏やかになるんじゃないかな。
そんな風に返した。
煩雑な周囲の音を排除して、自身の世界に没頭して創った彼女の作品を見てみたいと思った。
ふと時間を確認してみれば、もうすぐ2時だ。
随分長い事やり取りをしていたみたいだ。こういう、時間が溶ける感覚は久しぶりで、妙な満足感と染みるような疲労感があった。
メッセージを告げる通知が鳴る。
枕を抱えるようにしてうつ伏せで寝ころび、少しうとうとしながら画面を開く。
「そうしたいなって思ってるんだ。でも、そこ結構広いし、独りで暮らすには寂しいんだよね。それに料理や家事が本当に苦手で・・・。
ねぇ、もし料理や家事が苦手じゃなかったらさ、家政婦として雇われてくれない?」
「・・・・。・・・・・え゛!?」
言われている意味を把握するのにしばし時間がかかり、理解したらしたで思わず現実でも声が漏れるくらい衝撃を受けた。いやだって、こんなの衝撃を受けるだろう。すごい軽めのノリで「家政婦しない?」ときたら誰だって驚くはずだ。
そんな馬鹿な。だって私普通の家事しかできないし、料理だって別に何か特別すごい技術があるわけじゃない。だから無理で・・・――――。
疲れ切った頭が深夜のテンションで高速回転する。
でも・・・でもこれってすごく魅力的なお誘いなんじゃないか?
家政婦として雇ってくれるという事だよね?
理想郷みたいな山奥の別荘で?
いや待て待て。どの程度の事を期待しているんだろう。ちょっとまずそこからだ。
私、普通の家事しかできませんよ・・・?
そう返すと、すぐに返事がきた。
「普通ができたら十分だよ。ほんと全然片づけられなくてさ。それより、一緒に住むなら価値観の合う人がいい」
それは、その提案は、かなり滅茶苦茶だと思う。うまくいくかなんて当然分からない。むしろ心配事が山積みのような、そんなオファーだ。それを前向きに考えだしている自分に、必死でブレーキを掛ける。落ち着け。落ち着け。これで本当にいいのかよく考えるべきだ、と。
普通の家事しかできない。
料理も、プロのようなものが作れるわけではない。
それは再度伝えたら、逆に「こちらが支払える金額もそこまで高額ではない、このくらい」と、金額を提示された。それは当然ながら今の給与よりもぐっと下がった金額だった。代わりに、お風呂とトイレは共有することになるけれど、部屋は別荘にあるひと部屋をまるっとひとつ無料で貸し出すという事、食費は彼女と一緒のものを食べる分には負担してくれるという事、その他水道光熱費もあちら持ちで、とプラスアルファの条件を提示される。本当に一緒に住むつもりらしい。
別荘・・・、いや住まいになるのだから別荘ではないか。その家の写真も結構たくさん送ってくれた。モダンで綺麗な家だ。山奥にあるとは思えない、高級住宅と言った風情が伺える。すごくいいなと思ったのが薪ストーブがある事だ。
この部屋をあげる、と言われた部屋も恐らくは10畳以上はあった。何なら今の部屋よりも広々とした日当たりのいい部屋だ。当然ながら家具はしっかりそろっている。
正直に言うのならものすごく行きたい。
疲弊し疲れ切った現状の私には、とんでもなく素晴らしい提案に思えてならなかった。
なんとなく、某猫型ロボットの古い映画を思い出していた。テレビから流れる夢のような話に惹かれて、パパが旅行に行くことを決めるのだ。そして家におかしなトランクが届いて、開いて見れば派手な扉が現れる。その向こうには美しい砂浜があり、迎えの無人の車に乗って向かった先にはブリキでできたホテルがあるのだ。
そういえば、あの映画はリメイクされていない気がするけど、やっぱりあの迷宮の入り口の顔が怖すぎるのだろうか。それとも内容が現代には刺さりすぎる風刺だからだろうか・・・。
話が逸れてしまった。
何度も何度も、彼女が書いた雇用条件を読み直す。
この家政婦の仕事を引き受けたら、きっと職歴としては良くないんだろう。やっぱり合わないとか、辞めたいとか思った時は辞められるんだろうか。いや、やる前から辞める話を考えてどうするんだろう。でも、縁も所縁もない場所へ行くことになる。
きっと健全なメンタルをしている時だったら、断っていた。でも今の私は、この話がとんでもなく魅力的に聞こえてならなかった。
ちょっと、前向きに、検討させてもらってもいいですか。
そう返答をした私に、彼女は「もちろん」と快諾してくれた。
+ + + + +
土曜日。昨日遅くまで起きていたのが祟って、目が覚めたのは昼過ぎだった。久しぶりにものすごくすっきりとした目ざめだ。。寝て醒めて、昨日の話が夢じゃないかとメッセージを読み返す。夢でも幻でもないと分かると、興奮が沸き上がる。まだ何も決まっていないのに晴れやかな未来を見たような、それでいて崖っぷちに立っているような、明るいんだか暗いんだかよく分からない気分だ。
洗濯機を回さないとやばいと気づいて起き上がる。頭の中に「家政婦」のワードがあるせいか、家の中をきっちりしたくて仕方がなかった。
洗濯機を回しながら部屋を綺麗に片付けて、大したものが入っていない冷蔵庫を眺めて食材を買いに行こうと決める。そうこうしているうちに洗濯機に呼ばれたので、洗い終わった洗濯物を詰めた籠を抱えてベランダへ出た。
天気がいい。抜けるような青空に清々しい気分になる。
かたかたと洗濯物を干していると、隣の部屋からサッシの開く音がした。思わずそちらを見てしまう。まあ見たと言っても、そこには壁があるだけなのだが、紫苑くんが出てきたんだと思うとやはり気になるのだ。
声を掛けようか、どうしようか。
話がしたい。鬼乃さんとDMのやり取りをした話とか、家政婦の事とか、話を聞いてもらいたい。でも、迷惑じゃないだろうか。休日の昼間に話しかけたりして・・・。
悶々と考え事をしながら洗濯物を干していたら、「こんにちは」と声を掛けられた。その話しかけて当然というような、来やすい雰囲気に、なんでか胸がきゅっと竦んだ。
「こんにちは。天気いいね」
だから私も、私たちがこうして薄い壁越しに言葉を交わすことが当然の事なのだと言わんばかりに、挨拶を返した。なんなら少し不自然なくらいに、自然な感じを装っていた。
「ほんと、いい天気。洗濯物?」
「うん。紫苑くんも?」
「ううん、ボクはただの気分転換・・・」
東側にベランダが付いている私の部屋は午後になると直射日光は当たらない。お陰で抜けるような青空は見えるけれど、日照りが辛いという事はなく、洗濯を干すにはちょうどいい。
気分転換だと答えた彼に、私は早速昨夜の鬼乃さんとのやり取りを語った。我慢なんてできるはずもない。この話を聞いてもらいたかったのだ。
「昨日さ、鬼乃さんと連絡とったんだ」
「・・・どうだった?」
「すごく気さくないい人だったよ。夜中までやり取り続くくらい話がはずんじゃって・・・」
ひとつ呼吸を置く。こんな、顔も知らない相手に自分の今後の事を相談するなんてかなりイカれているなと思ったのだ。それでも、こんな荒唐無稽な話を相談できる相手が彼以外に思い当たらなかった。だって、否定も反対もされたくなかったのだ。
「ねぇ、紫苑くんさ、この前話してた山奥の・・・こう、理想的な住み方みたいな話、覚えてる?」
「うん、覚えてる」
「その、鬼乃さんからさ、割とこの前話した理想、みたいな場所で、住み込みで家政婦やらないか・・・って誘われたの」
「うん」
彼の返答は思っていたどれとも違った。
ただ短く「うん」と、それだけだった。否定もなく、肯定もなく、ましてや驚きもなく、ただただ「ふぅん、そうなんだ」くらいのテンションだ。
「えっ、びっくりしない?」
「うーんまあ、世の中色んな人がいるから・・・。あなたがどうしたいかだけじゃないかなって。迷ってるの?」
「うん・・・」
洗濯物を干す手はいつの間にか止まっていて、私は漫然と、目の前を眺めた。すっきりとした青空と、遠く見える密集して灰色に歪むビル群という相反する色合いをした景色を、ただただ眺める。
どうしたいか、が難しいのだ。したいことができるとは限らない。いや、したいことをするのはそう難しくないのだろう。ただしたいことをしたら、明日がどうなるか分からない。それがどうしようもなく怖いのだ。
要は、覚悟の問題だ。
「すごく、こう・・・魅力的なんだけどさ。でも、そこでずっといられるかも、分かんないし・・・家事も料理もさ、鬼乃さんが満足いくものを提供できなくて・・・それで追い出されたりしたらさ・・・そしたら私、何にもなくなって、どうやって生きて行けばいいか分からなくなっちゃうからさ・・・」
言葉が途切れる。
隣から大きく息を吐く音が聞こえる。風に乗った甘い香りが私を包み込んだ。今日も彼は電子タバコを吸っているらしい。
「・・・環境を変えるのって、勇気がいるよね。未来も不安ばっかりだし、どうやって生きてけばいいんだって、考えても考えても答えは出ないしさ」
紫苑くんは優しい声でゆっくりと話す。その言葉がじわりと沁みてくる。きっとその言葉は、巷に溢れた言葉で、別に目新しい事を言っているわけでもなくて。でも、彼が言うから、たった2日で価値観を共有できていると感じる紫苑くんが言うからこそ、素直にその言葉を聞き入れることができた。脳に染みたその言葉は、うまく言葉にならなかった不安を言語化してくれた。そう、そういう不安に駆られていて、その勇気が出なくて、困っている。つかえが取れた爽快感と、理解されている安心感に、どういう訳か涙が零れそうになった。
「ボクは・・・この世に絶対なんて、ないと思っていて」
「うん」
紫苑くんの言葉を聞きながら、声が涙で震えないよう小さな声で頷いて返す。
今の仕事は安定している。でもその安定した生活に不満たらたらで、贅沢な悩みだと思いながらも、何かもっとあるんじゃないか、何かがあるはずなのに・・・。そう思考を彷徨わせている。何かが起こることを夢想して、でも自ら藻掻く事はずっと昔にやめて、ただただ沼に沈んでいくように今を享受していた。そうやって、生きてきた。
なのに今、唐突に、まるで蜘蛛の糸のように、そこから抜け出すきっかけが舞い込んできた。
この生活から抜け出したいという想いと、このままでいいじゃないかという想いが絡まり合って渦を巻く。でも、ずっと欲していたはずのこのチャンスを棒に振ったら、私はもう二度と何者にもなれないんじゃないか。その不安が、いや、恐怖が、じわりじわりと胸の内に広がって、私を焦らせる。
「今できる事が明日もできるとは限らなくてさ。それは、個人でも会社でも、なんでも一緒かなって思ってて」
「うん」
「今すごく安定している会社がさ?10年後もそうだとは限らない。安定したままかどうかなんて、実は賭けでしかないんだけど、今安定してるとさ・・・それがずっと続くんじゃないかって、錯覚しちゃうよね」
彼の言葉にぞくりとした。
そうか。別に私、今も安定している訳じゃないんだ・・・。
結局、大きめのバランスボールの上にいるか、小さめのバランスボールの上にいるかの違いでしかない。いっそ、明日事故にあって仕事ができなくなれば、遠からぬうち、私は今の会社を辞める事になるだろう。会社も又、同じという事だ。何があるかなんて、誰にも分からない。
現状が今後もずっと続くだなんて、実のところ誰も保証などしてくれていないことを、そんなことは理解していると思っていたのに、本当は全然理解していなかったと気が付いた。
気が付いてしまった。
ぐらり、と鬼乃さんとの田舎暮らしに気持ちが大きく傾いた。
「どうせね、いつか死ぬんだよ。明日死ぬかもしれないし、来年かもしれないし、50年後かもしれない。そんなの分かんないけど・・・もう分かんないから、ボクは、刹那的に生きる事にしたんだ」
「刹那的・・・」
「そう。自分のしたいことして、生きて、死んだらいいかなってさ、思ってるんだよね」
嗚呼。
それもそうだ。
死のうかと考えながら10年後どうなるか分からない現状を味気なく生きるのも、明日をも知れないけれど、楽しい事が溢れていそうな事に挑戦してみて生きるのも、もうすべてがダメになって死ぬのも、全部全部、私が選べばいいのだ。
できないことなんて、何もないじゃないか。
「私、鬼乃さんのところ、行こうかな」
「うふふっ、うん。いいんじゃないかな」
羽が生えたみたいに心が軽かった。なんだか今なら、空だって飛べるような気がした。
4話
あの日から2か月。ついに今日、私は人生のリスタートを切る。
会社を辞めるのも、部屋を解約するのも、動き出したら驚くほどあっさりと簡単にできてしまった。私が辞めると言ったら、平静を装いながら慌てだした上司の態度に、実はちょっとすっきりした。なんだ、悪い事をしている自覚はあったわけか。引き留められたけれど・・・いや、むしろ引き留められたから、とても気持ちよく辞めることができた。もしかしたら、もっと前に上司に仕事を押し付けられている事実を、部長とか、総務とか、そういうところに相談していたら何か変わったのかもしれないけれど、たらればの話だ。特に後悔はない。だってもう全部投げ捨てる決意をしたから、気持ちが晴れやかになって、少し客観的に見えただけなのだと、私はちゃんとわかっている。
家を解約するのなんてもっと簡単だった。管理会社に電話を一本入れたら終わった。書類が送られてきて、それに必要なことを描きこんで返送しただけだ。家電はリサイクルショップに全部売り払って――大体は売れなくてただの廃品回収だったけど――、持っていく荷物――服や本やその他生活用品だ――はそれぞれ段ボールに詰め、何回かに分けて集荷に来てもらった。五月雨式に届いて構わない、と彼女・・・いや、彼が言ったのでお言葉に甘えることにしたのだ。
空っぽの部屋から出る。キャリーケースに3日分の服と化粧品だけ詰まっている。キーホルダーを外され、裸の状態になった鍵を「お世話になりました」と最後の確認のために来ていた管理会社の人に鍵を渡して、私は部屋を出た。
隣の部屋を見る。
そちらは1か月早く引っ越しを終えていて、既にもぬけの殻だ。
紫苑くんが、自分が鬼乃と言う名前で人形作家をしているのだと私に告げたのは、あの日の翌日の事だった。
+ + + + +
日曜日、洗濯物を取り込もうとベランダに出たら彼が「ごめん、ちょっとだけ話に付き合って貰えたりする?」と声をかけてきた。改まってなんだと快諾すると、彼はベランダの外に身を乗り出すようにしてひょっこりとこちらに顔を出した。
「っ!?」
当然びっくりした。なんせこちらは今の今まで彼の顔を認識していなかったし、何なら私は今部屋着だし、ノーメイクだし、とても人前に出る格好ではない。
覗きこんできた高さからして、彼はかなり身長が高いようだ。壁から覗いているのは顔と首と片方の肩くらいのものだけど、それでも彼が相当細い体をしているのは察せられた。長い前髪は、鬱陶しいのか真ん中あたりをひねって後ろにまわしヘアクリップで留めている。後ろの髪も長く、やはり邪魔なのかハーフアップにして後ろでお団子にしている。黒々としたストレートの髪だ。
日に当たっていなさそうな白い肌をしている。目の下のクマが酷い。目自体は大きく、鼻筋も通っていてなかなかのイケメンだと思う。むしろこれだけ適当な格好をしていて尚かっこいいなと思えるのだから相当だと思う。
「あの、これはさすがに言わないとだめだなと思って・・・」と言いながら、彼は私に細かい文字がたくさん書かれた書類を差し出してきた。ひどく自然に話しかけられてしまって面食らう。
あれ、私たちって初対面じゃなかったっけ。私のこの、超くつろぎタイムの格好見ても引かないでいらっしゃる・・・?
若干テンパりながらも、差し出されたものを無視できず、手を伸ばして受け取った。
それは『雇用契約』と書かれた書類だった。
頭に疑問符を山ほど浮かべながらも内容にさっと目を通してみると、どうやら家政婦として雇う、みたいなものだった。給与だったり、部屋を貰える話だったり、細々した禁止事項だったり、全部鬼乃さんと話した内容だ。紫苑くんには話していなかった内容まで全部盛り込まれていた。
思考が真っ白に染まる。ちょっと理解が及ばない。
「・・・・・・えっと」
「ボクがその・・・鬼乃、なんだよね」
そう・・・・・・ですよね。そういう事ですよね。だってそれ以外ないですよね。この内容見れば。
しばし固まって衝撃の事実をどうにか嚙み砕き、飲み込む。
「それであの・・・、すごく、あなたに来て欲しいけど、鬼乃を女の子って勘違いしたままっていうのは・・・さすがにまずいし・・・あ、悪いことしてやろうとかじゃないんだよ!ほんとに!」
ベランダで、それもまあまあな音量で話す内容ではないなと今更ながら思い至る。
「・・・あー・・・、とりあえず、こんな場所で話すのもあれだし・・・、ファミレス行かない?」
一瞬、うちに来る?と言いそうになって流石にそれはアレよな、と思い直してファミレスを提案した。紫苑くんは緊張した面持ちで頷くと「じゃあ、えっと・・・あの、」としどろもどろになっていた。視線が右往左往泳ぎまくっていて、こういう待ち合わせとかに慣れてない感じがものすごい。
「ぷふっ!」
気づけば吹き出していた。
いやだって、なんか、ちょっと恐怖に似たような緊張が霧散してしまうくらいに、彼の慌てようは可愛かったのだ。
「ふふっ、いや・・・ふふふっごめん。じゃあ、支度終わったらインターホン鳴らすのでいいかな。多分30分くらいで支度できると思う」
「わ、わかった。じゃあ、あの、うん。待ってる」
「うん。あ、これも、あとで持っていくね」
「うん、・・・ありがとう」
彼の返事を聞いて、くるりと背中を向け部屋の中に戻る。
窓をぴったりと閉め、カーテンも閉めた瞬間、緊張が解けた。ぶわっと一気に顔が熱くなる。
「・・・・・・」
な・・・なんか、思ってたのと違うーーーーっ!
もっとこう、なよっとしたような、こう、なんか、ポチャッとした感じで、背が低い感じの!!そういう想像をしていたんだよ私!!だってあんなに穏やかでさ!話しやすくってさ!すごいこう、価値観合う感じでさ!!そんなのカッコいい姿で想像なんてしちゃって、ごみ捨てとかのタイミングで顔合わせた時になんか違ったってなりたくなかったんだもん!!ちょっとだけ外で会ったらどうしようかな、仲良くなったりしてとか妄想してたのに、それがカッコイイとかだめだろ!!反則過ぎるだろ!!しかも、しかも鬼乃さん本人!?え、本人なの!?やばい、やばいやばいやばいどうしようっ!!!
顔が熱い。窓を背にしゃがみこんで熱った頬を両手で包む。意識して大きく息を吐き、気持ちを落ち着ける。
そうだよ。落ち着いて。これから家政婦をしようって言うのに何を考えているんだ。だめだめ。そういうんじゃない。そういうんじゃないから!
違う。これは恋じゃない。
恋なんかじゃない。
ふー、と大きく息を吐く。
そして私は、急いで身支度をした。ササッと準備した気軽そうな感じを出しつつ、それでいてこう、なんとなくお洒落に見せようと最大限努力した感じだ。
いや違う。全然、全然恋ではない。断じて。これはただ、そう、あの、身支度をしっかりしたかったというそれだけの話だ。
最終的に怒りに任せるような感じで、お気に入りだけど高いから大事に使っているでデパコスのリップを塗って、私は玄関を出た。
洗濯物を取り入れようとしていた事は、頭の中から完全に消え去っていた。
隣の部屋のインターホンを鳴らすと、慌ただしい物音が聞こえ、そしてすぐに紫苑くんが出てきた。髪型はそのまま、黒いちょっとヨレったロングTシャツと、これまた黒いダボついた感じの薄手のズボンという、驚くべきラフな格好だ。私の似非ラフな格好とは大違いの、真正ラフである。
白いスニーカーを突っ掛けて出てきた彼は、かなり背が高い。180・・・もっとか。猫背気味なのにこれだけ高いとなると190センチはありそうだ。
とはいえ細いからかあまり威圧感はない。ひょろっと縦に長くて、顔が青白いものだから、倒れるんじゃないかとちょっと不安になった。
「お待たせ」
「ううん、全然。行こ?」
意外なことに、彼が先頭に立って歩きだす。思いのほか積極的だ。
お昼時のピークは過ぎたとはいえ日曜日。ファミレスはそれなりに混雑していたが、それでも待つことなく座ることができた。
対面に座り、彼の前にメニューを開いて置いてあげると、小さな声で「ありがとう」と言われた。「あ、うん」と返しながら何とはなしに彼を見れば、私を見たりメニューを見たりと非常に落ち着きがない。何をそんなにおどおどしているのだ。
「・・・大丈夫?」
「あ、あ、うん、いや、うん。大丈夫。全然、平気」
平気ではなさそうだ。
「・・・その、―――ぃ―――ら」
「え?」
メニューで顔を隠しながら言われた言葉は、声が小さすぎて完全に周囲の喧騒に飲まれてしまっていた。
それでも、ちょっと照れた様子だったから、多分悪いことは言われてないのだろうと思う。もし、可愛いとか言われてたら30分ちょいで頑張った甲斐があっただなんて、自惚れた戯言を脳内で垂れ流す。
「っ・・・・ううん、なんでもなくて・・・あ、ボク、パンケーキにする」
あー、やめやめ。何を言ってるんだろう。ピンク色に染まりがちな頭を左右に振って気持ちを切り替える。彼の方はマイペースに自分のメニューを選んでいるし、私もそれ以上は触れないことにした。
「あ、ごめん。もうお昼食べてた?」
「うん。さっきカロリーメイト食べたから」
・・・・ん?カロリーメイト?
「え、待って。カロリーメイトだけ?」
「うん。ボクの主食カロリーメイトだから」
待て待て。
思わず額を抑える。偏食してそうな見た目はしてるけど流石によ。カロリーメイトは主食にはならんて。どう頑張っても小腹に突っ込んで無理くり体を動かすエネルギー食だって。
「・・・・野菜きらい?」
「うーん・・・好き、ではないけど・・・食べられないことはない、かな」
「なるほど。お肉は?」
「お肉は好きだよ。でも脂っこいの食べると気持ち悪くなるんだよね。だから脂身は嫌い」
色々細かいお好みがありそうだな・・・。
いやまあ、今はいい。今それを話すべき時ではないな。うん、すごい気になっちゃうけど気にしないでおこう。
自分の頼むメニューを――私はいたって普通に昼食だ――決めて、彼のパンケーキもまとめて注文する。
ウェイトレスさんがお水を持ってきて去っていく。それを見送って、お水を飲んで一呼吸置いた。
「ええっと・・・まずはあの・・・ごめんね。その、なんだか騙すみたいな形になって・・・」
「言い出せなかっただけでしょ?私も勝手に鬼乃さんは女の人だとばっかり思ってたから、それはもう、気にしないでもらえたら・・・紫苑くん、のままでいい?」
「うん、そっちはその、普通に本名だから・・・そう呼んでもらえたら嬉しい」
そう言って俯き加減に小さく笑った紫苑くんは、ぞくっとするくらい可愛かった。
「っ・・・・・なんか、背ぇ高くてびっくりしちゃった」
跳ねた鼓動の音なんて聞こえるはずがないと分かっているけれど、それでも、あまりにも五月蠅く跳ねるものだから聞こえるんじゃないかと心配になる。顔が赤くならないように冷たいお水を大きく一口飲み込んで、なんてことない風に会話を続けた。
「ふふっ。身長は高いんだよね。189センチあるんだ」
「高いねぇ」
小難しい話は、もう全部ご飯の後にしよう。
会話をして少し落ち着いてきたけれど、どうにも胸のざわつきが収まらない。でもそれが嫌じゃない。やめろ。考えるな。この人生の岐路に立ってるタイミングで恋に浮かれてる場合じゃない。
嗚呼もう!恋じゃない!違うったら違う!!
とりあえず、まずは会話をしよう。あれだ。なんとかブレイクってやつが必要だと思う、多分。正直こっちのハートがブレイクしそうだけど、とにかく場を温めなくてはならない。
私は少し結露しだしたグラスの表面を紙ナプキンで拭いながら、なるべく彼が話しやすそうな、それでいて私が聞きたい話を振ることにした。
「ね、いつから人形創ってるの?」
...
..
.
話は弾んだ。
そりゃそうだ。
壁越しの紫苑くんには、仕事以外の色んな話をしたし、画面越しの鬼乃さんには、仕事の話を色々した。もう正直、彼には私の人生の物語を本にして読んで聞かせた後みたいな感じなのだ。ベランダで話したときはお酒も入っていたし、鬼乃さんとやり取りしていた時は深夜テンションだったし、しかも同性だと思い込んでいたしで、もう今更隠さないといけないのなんて見た目くらいのものだったのだ。
なのに、その一等隠さないといけない部屋でだらけ切ってる姿も見られているわけで、そしてそれを見たうえで、彼は私に雇用契約書を渡してくれたわけで。
イケメン具合にテンパってお洒落はしたものの、多分その必要なんて全然なかったんだろうな、なんて喋ってるうちに思い至ったのだった。
逆に、私も紫苑くんの心の内側の、随分柔らかい部分を知っているんだと思う。紫苑くんがどんなに人形作りに愛を注いでいるのかも、行き詰っていた理由も、8階のベランダから飛び降りるのは怖い事も知っている。
知り合ってたったの4日だというのに、私たちはどうしようもなくお互いを知っていた。
食事を食べ終え、そのままドリンクバーを頼んだ。そうしてようやく本題である。
私は貰った『雇用契約書』をテーブルの上に出した。それを目にした彼が楚々と居ずまいを正す。
「あの、一旦ボクの話を聞いてもらっても・・・いい?」
「うん」
大分空気が温まった状態でなお、彼は恐る恐ると言った風に尋ねてきた。なかなか罪悪感が強いらしい。もうその点に関しては私はまったく気にしていないんだけどな。
これが契約を交わした後ならともかく、契約を交わす前に自ら全てを詳らかにしたのだ。本当に言いにくかっただけなのだろう。
「ええと、性別、というか、ボクが・・・鬼乃が男だってことを黙ってたの以外、本当の事しか言ってなくて」
「うん」
「別荘を貰って・・・引きこもるのにちょうど良さそうだから引っ越したいけど、でも少し寂しいのもあって、あと、家事が全然できないからあんまり広い家はちょっと困るよなって思って・・・それに信用できない人を家に入れるのもなぁ・・・って・・・」
「うん」
「その・・・ベランダで、お喋りするのが、すごく・・・心地よくてさ。しかもその人が、その、人形作家なんてニッチな世界に理解があって、しかもうちの子たちを綺麗って言ってくれて・・・。それが堪らなく嬉しかった」
「・・・うん」
紫苑くんは、照れたように少し俯きながら視線を逸らして喋る。それを見ているとなんだかこっちも恥ずかしくなってきて、落ち着いてきていた鼓動がまた早くなってしまう。
「その、こう・・・一応こんなヒョロガリでも男だし、ひとつ屋根の下は不安だよなと思って・・・部屋の中に鍵を付けるつもりなんだ。ほら、蝶番と南京錠でつける感じの・・・」
「あー、はいはい。わかる」
「うん。あれを部屋の内側に付けたら、とりあえずあなたの部屋のプライベートは安心できるかなって・・・。トイレは2つあるし、もちろんカギも付いてるし、お風呂場は、お互いに場所を把握してない状態で入らないとかしたら事故ることもないかなって・・・。もちろん、他にもこうしたい、とか相談してもらえたらできる限り叶えるつもりで・・・その・・・、どう・・・かな。一緒に、山に閉じこもってみない・・・?」
大きく息を付き、視線を落として契約書を眺める。
間違いなく、今私は人生の重大な岐路に立っている。
この契約書を破ったらどうなるだろう。それはきっと、とても良識的な判断だ。知り合って数日の異性と一緒に暮らそうだなんて、まあトチ狂っていると思われても致し方ない。私が友達から聞いたら確実に「どうした、病んでるのか」と尋ねる。実際、私のメンタルはそこまで健全ではないだろう。
でも、だ。
もしも契約書を破ったなら、紫苑くんとの繋がりは断たれるだろう。きっと彼はあの別荘へ引っ越し、そして私は気まずくてもう鬼乃さんのSNSを見ることもできなくなり、早く終わればいいのにと願いながら、行きたくもない会社へ行って、やりたくもない仕事をして、好きでもない人間の顔を毎日のように拝むのだ。
それでいいのか。
そんな人生を、今後も送りたいのか。
そう考えたら、もう答えなんて出ているようなものだった。
紫苑くんを知らなかったら。そして鬼乃さんを知らなかったら。彼とこの3日間、こんなにも濃密に話したりしなかったら。そしたら私は、未来に夢も希望も抱かずに、屍のように生きて行けたのに。
いいじゃない。いっそ都合がいいくらいに思ってしまえ。
少し気になっていた隣に住む顔も知らない男の人がまさかのイケメンで、しかもそのイケメンが推しだったのだ。それで話も合うし、必要としてもらえるし、家事をやったらお金まで貰える。
彼が言う通り、どうせいつかは死ぬのだし、責任だって自分で負う。誰に迷惑をかけるでもないのなら、馬鹿みたいな事をしてみたっていいじゃないか。
「一旦、週末に私のご飯を食べてみて欲しい。お金はいらない。お試しって事で、とりあえず今日の夕飯から作って届ける」
「っ!」
「鍵は・・・うん、あの、ありがとう。付けさせてもらいます」
「え、あ、」
「契約書、これ一旦持ち帰ってちゃんと読む。で、問題なかったら夕飯持っていく時にでもサインして持ってく」
目の前に座る彼は、何か言おうとして、でも言葉が生成されないらしく、はくはくと口を開けたり閉めたりしていた。さすがにそんな間抜けなことをしたらイケメンでも間抜けに見えるんだな、と思いながら私はちょっと笑って見せた。
「山、一緒に閉じこもりたいな」
「~~~っ、うふふっうん、閉じこもろ」
そうして私たちは柔らかく握手をしたのだ。
+ + + + +
あの日の夜、契約書に追加で生活をしていて不都合があれば両者相談の上項目を追加できる、という文言も入れて欲しいと付箋で書き込んで、料理をもって彼の部屋へ届けた。翌日の夜、文言を直した契約書を2部とタッパーを返してもらい、すぐにサインして彼に渡して契約は完了したわけだ。会社を辞めるよりよほどあっさりとしていた。
食事は何度か持って行ってある程度好みと嫌いなものは把握できたし、彼も美味しいと言っていたので問題もなく、バタバタ準備をして今日にいたる。
転出届は既に提出済みだ。
親や友達には今回の件は何も言わないでおくことにした。きっと止められると思ったから。それに紫苑くんに「親に言うのどうしよう」とぽつりと漏らしたら――あの後もベランダ飲みは続いていたのだ――「黙っていてもいいんじゃない?別に、連絡を途絶えさせるわけじゃないんでしょう?」と言われ、まあ、それでいいか、と思ってしまったのだ。
だって彼らの納得する説明をする気力がわかなかったし、どんなに説明しても受け入れてはもらえないだろうなと思ったから。引っ越しが全部終わって、何か聞かれたら答えよう。そう決めた。
少し特殊というか、紫苑くんから注文が入ったのは、転入届を出す時、住民票を家族が勝手に見られないよう手続きして欲しい、という事だった。昔妙なファンが付いて、家族のフリをして住民票から住所を知られたことがあったらしく、それがトラウマらしい。それは普通に怖い。そういう手続きは初めてなのでちょっとドキドキするけれど、まあどうせ役所には彼に連れて行ってもらうので問題ないだろう。
紫苑くんも住民票は家族にも見られないようにしているらしいけれど、年の離れたお兄さん2人は別荘の住所を知っているらしい。というより、2番目のお兄さんが経理関係とかの管理を全部やってくれているそうで、人形自体も都内にある事務所経由で発送しているという。
なので、彼の居場所を知るお兄さん2人以外は誰も私たちの所在を知らないという事になる。なかなかの閉じこもり具合だ。
待ち合わせの駅に辿り着き、改札を出る。駅のロータリーまで出ると、白いバンから紫苑くんが下りてきて手招きをした。車を買ったと言っていたけれど、かなり実用的なものを買ったようだ。いいと思う。田舎暮らしにおいて、荷物がたくさん積めるのはめっちゃ大事だ。
先に暮らしている紫苑くん曰く、インフラに関しては全く問題ないらしい。ただやっぱり、別荘として1週間くらい過ごすのと、実際暮らすのとじゃ訳が違う。草刈りとか都会じゃ見ない量と大きさの虫だとかが厄介らしい。
山の中なのだ。虫がいない訳がない。あとはコンビニが近場にないから、スーパーでしっかり買いだめしておかないと結構困るみたいだ。
もう少ししたら標高が高い場所だから普通に雪が降る、というか積もるらしいので雪かきも必要になってくるだろうし、そんな環境なら当然タイヤも変えないといけないし、薪ストーブも使うなら薪が必要だ。ついでに煙突の手入れも必要だ。
そんな感じの、都会では見舞われない苦労が山ほどある。田舎特有のねっちょりした人間関係を除いたとしても、田舎暮らしが楽なはずもないのだ。
それでも私たちは『世間』という場所から遠ざかって、ひっそりしたかった。
「ふぅっ!」
「お疲れ様。混んでなかった?」
荷物をバンの後ろに積み込み、助手席に乗って息を付く。ワクワクしながら来たけれど、大きなキャリーケースを転がしながら慣れない路線で移動するのはなかなか疲れるものだ。
「うん。全然!まあ、ド平日だしね」
「それもそっか」
言いながら彼が車を発進させた。
運転席に座る彼は、不思議なくらい男っぽかった。見たらきっと馬鹿みたいにドキドキしてしまうと思って、私は意識してそちらを見ないように、外の自然豊かな景色を眺めた。
役所に寄って無事転入届を出し、家族にも見られないようにきちんと処理してもらい、スーパーに寄って別荘へ向かった。
別荘地は山を切り開いた台地にあった。
広々とした舗装された道路が1本走り、その両脇にかなり間隔を開けて、思い思いの理想の別荘が建っている。どの家も距離が開いているし、間に木立と背の高い塀があるので、早々隣人トラブルなどは起こりそうもない。
私たちの住処となる建物はその別荘地の、大分奥まった場所にあった。
2階建てのかなり立派な家だ。ロッジとかそういう雰囲気ではなく、造りとしては普通の家・・・というにはちょっとばかり豪邸寄りな感じか。壁は柔らかいクリーム色の家で、白っぽいレンガがアクセントになっている。煙突も白いレンガだ。すごく可愛らしい。
しっかりとガレージもあり、紫苑くんは慣れたハンドル捌きで車を駐車した。かなり引きこもり体質な彼が、まさか運転が上手だとは思わなかった。
「こっちからも入れるけど、折角だし玄関から行く?」
ガレージから直接家の中へ入れるようになっているらしい。便利だ。便利だけど、確かに彼の言う通り初日だし、せっかくなら玄関から入ってみたい。トランクからキャリーケースを降ろす彼にうなずいて返した。
「うん。そうしよっかな」
玄関はガレージの隣だ。白い木の扉で、ちょっとメルヘンチックな鈍い金色の取っ手が可愛い。鍵を開けて中に入ると、ゆとりのある玄関になっている。玄関を入ってすぐ横にも扉があって、そちらがガレージにつながっている、と説明された。へぇ・・・と頷きながら家の中へと上がり、ふわふわのスリッパを履いた。
玄関を上がってから最初の扉を開けると、ものすんごく広いリビングダイニングだ。最初に目に入るのは薪ストーブだろう。黒いがっしりとした造りのもので、同色の煙突が上へと伸びている。薪ストーブがある場所は土間になっているので、一段下がっている。上がり框にサンダルがそろえて置いてあるし、薪ストーブの横側に引き戸も見える。「これはどこに通じてるの?」と聞いたらガレージだと教えてもらった。薪ストーブの裏側がガレージになっているらしい。
土間の隣には大きなテレビが設置されたソファーセットと広々としたラグが敷かれていて、その向こうに広いテラスと目隠し用の背の高い生垣と樹々が見える。
部屋を奥へ進むと6人掛けの重厚な造りのテーブルセットがあり、その奥に立派なシステムキッチンがある。
「・・・やばい。今時点で想定以上の豪邸なんだけど」
「まあ、お父さんお金持ってたからねぇ」
でしょうね。
ルームツアーは続く。1階は他に彼のアトリエとウォークインクローゼットと、洗面関連。2階には主寝室――ここが紫苑くんの部屋になる――と客室が2つ、収納用に棚なんかが設置された部屋がひとつ、それからトイレ、といった塩梅だ。
すごい。すごいし、これは掃除が大変だ。・・・頑張ろ。
「この部屋があなたの部屋になるんだけど・・・どうだろ?日当たりはいいし、風通しも問題ないと思う」
その部屋は客室のひとつで、とても素敵な部屋だった。ベランダに面している上、角部屋なのでお洒落な出窓までついている。ベランダから見えるのは階下にあるテラスと、その先の庭だ。出窓から見えるのも青々とした樹々である。
部屋は、10畳は絶対にあるだろう。天井も高いのでかなり広く感じた。設置型のクローゼットにダブルサイズであろう広いベッド、ドレッサー。それから紅茶を飲むか、読書をする以外で使うのが怖い、華奢な造りの――もちろん天板は硝子だ――2人掛けのテーブルセット。飴色の家具はどれも揃いの猫脚で、まるでドールハウスの部屋をそのまま大きくしたような可愛らしさだ。クローゼットの上には可愛いテディベアまでいる。
「すごい。もう、写真見せて貰ってたけど実物だともっと素敵。あのテディベアは?」
「あれはボクからのプレゼント。結構無茶なオファーだったのに、受けてくれてありがとう」
優しい声でそんなサプライズを告げる彼に驚いて振り返ると、柔らかな笑顔で私を見下ろす紫苑くんと目が合った。きゅっと心臓が締め上げられるような心地になって、息が苦しくなる。
「っ、作ったの?すごい。そんな・・・貰っていいの?」
「もちろん。あなたの為に作ったからね」
嗚呼だめだ。あなたの為に、だなんて・・・そんなのズルい。
やめて。あんまりドキドキしないで。仕事に色恋を持ち込んでいい事になるわけがない。これが恋なのは、さすがにこの2か月でもう認めているけれど、でもだめだ。この想いをあんまり大きく募らせたくはないのだ。私は仕事をしにここへ来たのだから。
それにしても、テディベアを作るなんて、さすが人形作家と言うべきか。ちょっと遠めに見る分には売り物としか思えない綺麗な造りだ。
「クローゼットの上じゃ触れないし、ベッドに置いてもいい?」
そう問いかければ、彼は「もちろん」とはにかんだ笑みを浮かべてテディベアを取ってくれた。
クローゼットの上なんて当然私は手が届かないけれど、彼はちょっと腕を伸ばしただけであっさりテディベアを取ってしまった。190センチって改めてデカいな・・・。
ベージュのテディベアはくりっとした目をしていて、すごく可愛らしい。大きさは、座った状態で肘から指先くらいまである。まあまあな大きさだ。ぽっちゃり体系の子で結構しっかりと重さもある。これはなかなか抱き枕に良さそうだ。
「この子は一緒に寝て貰おうかな」
「うふふっ、可愛がってもらえるとボクも嬉しいよ」
早くも、私の部屋には同居人ができたのだった。
「あ、そうだ。ホームセンター見てたらさ、わざわざ南京錠を付けなくても鍵かけられるの見つけて・・・これどう?」
彼が話しながら扉を閉めた。密室にふたりきりという状況に今更ながら少しドキドキしたけれど、努めて表に出さないようにする。
扉を見ると、ドアノブの上の、ドア本体とドア枠に鈍い金色の金具が取り付けられていた。ドア本体にネジでしっかりと固定された受け具に、枠側についている金具を回転させて差すことでロックするタイプのカギだ。
近づいて鍵がかかるか試しに触れてみるが、結構しっかりとした造りみたいだ。
「南京錠のカギって結構どれも小さくて・・・失くしたら大変だなぁって思ってさ。それならこっちの方が楽でいいかなって」
「うん。全然これで大丈夫。ありがとう」
確かに。というか、南京錠を掛けるにしたって、扉側に付ける金具は似たり寄ったりなのだからただ手間が増えるだけだ。それに気づいてくれてよかったと思う。
この2か月、いや実際ちょくちょく行き来した期間は1か月くらいか。その間に何か不用意な接触があったわけでもないし、非常に紳士的な距離感で過ごしてくれた。なので、正直鍵がなくてもいいくらいだけど、これがあることで、この部屋が完全に私のプライベートゾーンになるから、そこはありがたく受け取ろうと思う。
再度部屋の中へ視線を戻す。ベッドの足元には結構大きな段ボール箱が6箱ある。キッチン用品と本や漫画については「もしよければ片付けとくよ」と言ってくれたのでお任せしてある。キッチンは勿論だが、本に関しても、大きな本棚がリビングにあるのだ。
キッチンの設備も細かく見たいところだけれど、とりあえず、自分の部屋の床面積を著しく遮っているこの段ボール達を退治しなくては。
「前も言ったけど、今日明日はお休みね。掃除とかご飯とか気にしなくて平気だから」
「うん。ありがと。片付けしちゃう!」
「うん。ボクはアトリエにいるから、何か困った事とかあったら呼んでね」
「はーい」
私の返事を聞いて少し笑った紫苑くんは、そのまま部屋を出て行った。
大きく息を付く。
窓を開け放ち、緑の香りが濃い空気を杯いっぱいに吸い込んだ。開放感に満ち満ちている。
「よしっ!」
気合を入れ、私は片付けに取り掛かった。
5話
部屋の荷物の片づけは思いのほか早く終わった。
映画やドラマでしか見たことがないようなアンティーク調のクローゼットがすごくお洒落で素敵だ。和箪笥とはまた違った趣がある。若干使っていいのか迷ったけれど、使わない訳にもいかず、ありがたく服を並べさせていただいた。下に引き出しもついていたのも嬉しかった。けど、もうちょっと細かく仕切りが欲しいので、サイズの合うカゴとか買ってきてうまい事使いたいと思う。
今の季節に合わない服は、ベッドの下の収納に片付け、ちょこちょことある小物やメイク用品もそれぞれあるべき場所に収め、空になった段ボールは崩してガレージに持って行った。部屋に戻って基礎化粧品たちを持って下に降り、洗面所に収めると、私はそのままキッチンへ向かった。
いやだって。やっぱり気になるじゃない。あんな良さそうなキッチン。
1階に降りるとリビングダイニングの広いテラスに面した窓から夕焼け空が見えた。空が赤やオレンジに、雲が薄いピンクや紫に染まっている。都会でだって夕焼け空はもちろん綺麗なのだけれど、木々に縁どられた空というのはやはりなんとなく清々しく開放感があった。
キッチンを物色する。箱から出した荷物は、動画を繋ぎながら指示を出していたので、そう変な場所には入れられていない。でも背面の棚を開けてみて、並んでいるすっごいお高そうな食器とか、カトラリー類を見てちょっと楽しみになり、同時に怖くなった。これ洗い方とか紫苑くん・・・が知るわけないな。いや・・・逆に陶芸とか美術関連だし、もしかしたら知ってるかも・・・?一応聞いてみて、知らないようなら後で調べよう。
冷蔵庫はお洒落なビルドインである。かっこいい。家具は結構使い込んでいる感じがするけれど、こういう家電とか内装は割かし新し目だなと思う。リフォームしたのかな。住む側としてはとてもありがたい。しっかりと大きなオーブンもついてるし、電子レンジもいいのがあるし、電気ポットとかコーヒーメイカー、ミキサー、フードプロセッサーなんかもある。調理器具も充実しているし、なんていうか・・・私が知るレシピ程度であれば大体何でも作れそうだ。逆にこのキッチンで作れない料理って多分相当特殊だと思う。
それにしても、と視線を薪ストーブへ向ける。キッチンの立派なオーブンももちろん使うけど、あの薪ストーブを使いこなしたいなぁ・・・。キッチンの棚を物色してる時、鍋類をしまっている棚に大き目のスキレットとかルクルーゼとかあったし、多分あれは薪ストーブで使ってたやつなんだと思う。ゆっくり煮込んだスープとか、薪ストーブの中で焼くピザとか絶対美味しい。
まあ、今気にする話じゃないな。避暑地とはいえ、もう少し寒くなってからじゃないととてもじゃないけれど使えないだろう。
冷蔵庫や引き出しにはそれなりに食材がある。野菜の定期便を彼に勧めたのだ。スーパーが遠いし、定期的に補充された方が楽だよなと思ってのことだ。さっきスーパーに寄った際買ったミックスシーフードが冷凍庫にあるし、お肉類もいくつか冷蔵庫に入っている。あとで冷凍する用にジップロックへ移さないとな。
「さて」
私は棚の取っ手に引っかけていたエプロンを手に取る。今日の夕ご飯はシーフードピラフと野菜たっぷりのポタージュ、あとは鶏もも肉でもハーブ焼きにしておこう。紫苑くんに筋肉を付ける作戦始動である。まずタンパク質。それからタンパク質で、更に更にタンパク質だ。あとは野菜と良い脂質。これだ。もうこれしかない。あのがりがりの腕にちょっとでも肉を付けるのが私の使命だ。
というか、私もここのところずっとコンビニ弁当生活だったし、ここらで生活改善しよう。
ポタージュ用にあれこれ野菜を鍋に放り込んで煮込みながら、シーフードピラフの良さげなレシピを調べる。おいしそうな写真のレシピを読んでみて、特に足りないものもなかったのでレシピをチラ見しながらピラフを仕込む。ああ、スキットルで作れば薪ストーブでピラフもできるのか・・・。っていうかあれだよな。料理の夢を広げる前に、まずは薪ストーブの扱い方を覚えなくちゃだよな・・・。
料理の途中で、外がすっかり暗くなってきたから、テラスに通じる窓のシャッターを閉めに行った。それ以外は、淡々と料理を作った。なんならお肉の保存から明日の朝ご飯用に予約炊飯まで終わっている。
素敵なお皿軍の中の、比較的リーズナブルそうなところを使わせてもらい、盛り付けも完了した。
よしよし、となかなかいい出来栄えに頷いて、アトリエへ足を向けた。
ノックをしてみるが返事はない。
「紫苑くーん」
ドア越しでも聞こえるようにそれなりの声量で声をかけてみるが返事がない。ふむ・・・困った。いやでもな、勝手にドアを開けてなんかあってもあれだしな・・・。人形の部品が壊れたとか言われたら、ごめんじゃすまない。
そう思い電話を掛けてみる。が、音が後ろから聞こえる。あれ、と思ってリビングに戻ってみると、ソファの上に彼のスマホが放置されていた。なるほど。携帯されていないらしい。
これはもう仕方がない。
本当にそう思う気持ちはもちろんあるけれど、どこか、人形を造る彼の姿が見られる事にワクワクしていたのは否めない。
もう一度ノックをし、声をかけ、それでも返事がなかったので、私はついに、そっとアトリエに続くドアを開けた。
しゅー、しゅー、っという何か削るような音が小さく響いていた。彼は広い作業台の前にいた。椅子の上に胡坐をかき、背中を丸め、真剣な様子がその背中からも伝わってくる。ものすごく集中しているのは見ただけで理解できた。食事ができたからと、こうして集中して作業をしているのを遮るのは違うだろう。
私は、変に驚かさないよう、ある程度距離を置いて彼の手元を観察させてもらうことにした。視界に入らないよう、彼から3歩は離れた場所から、それも斜め後ろから覗くようにして彼の手元を覗き見る。
紫苑くんの手には小さな白い頭部が収まっていた。金属製の一見手術用のメスみたいに見えるヘラを持ち、真剣な面持ちで丁寧に丁寧に眼孔を削っている。しっかりと固まった紙粘土でできた肌地を削る音が、静かに部屋を満たしていた。
つい、彼の手元よりも彼の顔に目が行ってしまう。よく見るとまつ毛が長いな、とか目が大きいな、とか、前より顔色は良くなったな、とか・・・。
彼の視線を一心に受け止める、まだ眼球も肌の色すら持たない人形の頭部が、ほんの少し羨ましく思える。その羨ましいという感情を自覚した瞬間、少し笑ってしまった。
もちろん、恋をしてる自分の思考の馬鹿さ加減にだ。
人形の頭部パーツに嫉妬するだなんて、我ながら正気の沙汰ではない。
それにしたって、あの美しい人形たちは、こうやって人並外れた集中力の元、繊細に、慎重に、恐ろしく丁寧に作られているんだなと、改めて知って惚れ惚れしてしまう。
私は、彼の集中力を途切れさせたくなくて、その美しい指先が人形を整えていく様を見ていたくて、声を掛けぬまま息まで殺して、じっと彼の事を見つめていた。
15分ほどたっただろうか。
ふー、と大きく息を吐きながら、紫苑くんが顔を上げた。
集中力が切れたのだろう。人形の頭部とヘラを作業台に置いたのを確認した私は、今がチャンス、と彼に声を掛けた。
「紫苑くん、ご飯できたよ」
「ぅわぁっ!!」
思い切り椅子の上で飛び跳ねた彼があまりに可笑しくて、吹き出すのを堪えきれず口を押えて勢いよく横を向く。大きな目が驚いた猫みたいに見開かれているものだから、なおさら面白かったのだ。
「い、いつからいたのさ」
「15分くらいかな・・・。勝手に入っちゃってごめんね。あ、ノックはしたんだよ?あとスマホはソファに置きっぱなしで、声も掛けたんだけど集中してたから・・・」
謝りつつ、つい言い訳がましくなってしまう。彼の様子から怒っている雰囲気はないけれど、よく考えればアトリエなんて、作家の聖域だろう。嫌な気分になっていやしないかと、注意深く彼の様子を伺う。が、紫苑くんは特にそういう事を気にしてる風でもなく、驚きから脱したのか大きくため息をつきながら体の力を抜いて椅子の背もたれに凭れ掛かった。
「はぁ~・・・そっかぁ。ごめんね、全然気づかなくて・・・でも、つまんなかったでしょ。削ってただけだし・・・」
「ううん。楽しかった。えっと・・・たまになら、見に来てもいい?」
つまらないだなんてとんでもない。なんせ私は彼のファンである。こうして人形が造られていく工程が見られるなんて、嬉しいどころか贅沢以外の何物でもない。この広い家の掃除やらご飯の支度やらをしないといけないので、そうそうゆっくり見ている時間もないけれど・・・。
そう思って聞いてみれば、彼は照れたように笑って「もちろん」と返してくれた。
その答えが嬉しくて「ありがとう」と笑うと、私が大好きなはにかんだ笑みが返ってきた。もっと見たい気持ちと、心臓が持たなくなりそうだし、好きが溢れてしまわないようにするのが大変だからやめてくれと言う気持ちがごっちゃになる。そのどっちもをまるッと無視して、私はぱちん!と場を切り替えるように手を打った。
「ご飯!今日シーフードピラフにしたんだ」
「出前でもよかったのに・・・でもありがとう。楽しみ」
彼と並んで歩きながら、アトリエを出る。
ふと部屋を出る直前に、窓から離れた壁際の棚に1体の人形が飾られている事に気が付いた。雰囲気からして彼の作品だろう。白いシャツワンピースを着た子だ。なんとなく、髪型が少し前の私に似ている気がした。今度よく見せてもらえたりするかな。
...
..
.
紫苑くんはどの料理も「おいしい」と言って食べてくれた。表情や食べっぷりから、それがこちらに気を使ったものでないのが伝わってくる。
好きな――広義的な意味だ――人に、自分が作った料理を美味しいと言って食べて貰えるのが、私はとても好きだ。すごく幸せな気持ちが胸に溢れてくるから。こういう感情も、殺伐と仕事をする中で完全に忘れていたな、と改めて思う。
食事をしてからリビングのソファに移った。彼もお酒は飲めるので、今日スーパーで買ったお酒を開けながらのんびり過ごした。彼が先に引っ越してからの1か月も、毎日のように電話をしていたので正直改めて報告するようなこともないのだけれど、今日の移動中の話をしたり、明日は何を食べたいかなんて話をしたり、お風呂の順番を決めるじゃんけんをしたり――どちらもお先にどうぞと言うドリフみたいなやり取りが始まってしまったので――した。
お風呂のじゃんけんは私が負けたので、先に入ることになってしまった。家主を置いて一番風呂と言うのはなかなか居心地が悪いのだが、負けてしまったのだから仕方がない。
順番に入らないといけないので、お酒を1杯飲み終わったところでお風呂へ行った。この後紫苑くんも入ると思うといつもより大分入念に体を洗わざるを得なかったが、それ以外は広々としたお風呂に浸かれて至福の時間だった。
ホカホカしながら長そで長ズボンのスウェットという、色気皆無の完全なる部屋着に着替えてリビングに戻ると、紫苑くんはまだソファでくつろいでいた。ゲーム配信の実況をテレビで流しながら、ソファの上に転がってうとうとしている。なんだろう、こう・・・メインクーンっぽいんだよな・・・。毛が長くて、背が高くて大人しくて、時たま見せる気まぐれな感じが。
「上がりましたー」
そっと声をかけて近づくと、転寝から目覚めたように、深い呼吸を吐きながら彼が顔をもたげた。甘いシナモンロールの香りがふわりと香る。
「おかえり」
ゆったりと笑って、ごく自然にその言葉を口にした彼を見て、心底不思議な関係だと思う。
彼の事が好きで、でも、彼の前で可愛く装わなければという気負いはない。私のドロドロした内面も、まるで装えていない時の見た目も、もう全部晒しているから今更繕う必要がないのだ。とてもじゃないが出会って2か月の距離感ではないと思う。
これ以上なく近しい関係で、でも、恋人ではなくて、家族でもない。
私も、彼も、一緒に過ごすけれど、恐らくは意識して色気のあるような、異性を感じさせるような態度や格好は避けていると思う。手を繋ぐこともないし、不用意に近づきすぎることもないし、体を密着させるなんてことも当然ない。
ああでも、ひとつだけ――――・・・。
「ん」
「ありがと」
差し出された電子タバコを受け取って、ソファの隅に腰かけた。吸い口を咥えて思い切り吸い込む。甘いシナモンロールの味と匂いが口の中に満ちて、白い煙をフーっと吐き出す。
あんまり美味しそうな匂いがするので「そんなに美味しいの?」と聞いたら普通に手渡されて、なんだか間接キスがどうだとか中学生みたいなことを言うのも恥ずかしくて、吸ってみたのが始まりだった。
彼が吸っているものはCBDという成分が入っているリラックス効果の高い物らしく、確かにこれを吸った後は良く眠れるので、夜寝る前に2口3口貰うのが習慣になってしまったのだ。
この行為が異性を感じさせる行為であると共に、何の気なしに渡される辺り意識されてないんだろうな、という気持ちにさせる。
「じゃあ、僕もお風呂行ってくるね」
「はぁい。あ、私これ洗ったらもう部屋に上がるね」
ソファから立ち上がってぐっと伸びをした紫苑くんに、ローテーブルに広がったグラスやらお皿やらを指さして答える。彼も彼であっけらかんとした様子で頷いて返した。
「ん。ありがと。電子タバコそこに置いといて」
「はーい。おやすみー」
「うん、おやすみ」
紫苑くんにおやすみを言う事への違和感はもうない。彼が隣に住んでいる間はベランダ越しに、彼が先にこちらへ越してからは電話で、毎日行ってきたのだからそれも当然の事だろう。
もう二口、タバコを吸って、電源を切った電子タバコをローテーブルに置く。
「さて・・・」
夕飯の洗い物はもう終わっているから、グラスふたつと小皿を2枚、箸を2組洗えばおしまいだ。私はよいしょ、と立ち上がり、もう一度エプロンを付けた。
6話
飛ぶように時間が過ぎていく。
ここに越してきてから既に3か月の時間が経とうとしていた。
生活には随分と慣れてきたように思う。
丁寧に家事をして、合間に料理をして、たまにオセロで遊んだり、一緒に映画を見たり、ドライブに出かけたり、お散歩に行ったりする。
コンビニに甘え切った生活をしていたので、ないとなると結構不便を感じることも多いし、やっぱり虫にはちょくちょくビビっているけれど、概ね快適に過ごしている。
食材のまとめ買いとか、保存処理とか――大体ジップロックに入れて冷凍庫か冷蔵庫に突っ込むだけだが――も慣れてきた。
先月、薪ストーブは今のうちにメンテナンスしとかないとやばいという事で今回は業者さんに頼んだ。私が頑張ってやろうと思っていたのだが、煙突の煤払いは屋根に上らないとだめだという話をしたら、血相を変えた紫苑くんに真剣に止められ、結果、ストーブ本体は私が自分でやり、煙突は業者さんにお願いする、という事になったわけである。
まだ料理をするほど長時間付けていては暑いので使えていないが、朝の冷え込む時間は薪に火をつける練習がてらちょっと使っていたりする。本格的に使うのが楽しみだ。最近の動画閲覧履歴は火の起こし方とか調理の仕方で埋まっているくらいだ。気分だけなら既に薪ストーブマスターだが、実際使ったら色々失敗するんだろうな、とも思っている。
食生活どころか睡眠時間も早寝早起きになったおかげか、はたまた動く時間が伸びたおかげか、両方か。肌の調子はいいし、緩やかに体重も落ちているし、割といいことづくめだ。
逆に紫苑くんは多少肉が付いた。食事の影響は大いにあると自負しているけれど、脂肪じゃなく筋肉が付いているのは間違いなく彼の努力の賜物だろう。私が「部屋で筋トレ始めたんだー」なんて話を何の気なしにしたら「ボクもしようかな・・・」と言っていたので、多分やってるんだと思う。見たことはないので分からないけれど、体つきは変わってきているのでそういう事なのだろう。お陰で負けてられないな、と思って筋トレは続いている。・・・たまにサボっているのは内緒だ。
夕飯の後、ふたりでまったりソファで寛ぐのが習慣になった。元々、隣り合った部屋にいたころから夜にやり取りをすることが多かったし、なんとなくそうなった感じだ。
寛ぎ方は日によって違う。ハーブティかお酒をお供に、その日あったことを話したり、何も話さないでぼんやり動画を見てたり、お互い別々の本を読んでいたり、ボードゲームをしたり・・・。唯一、ひとつの電子タバコを共有するという事だけ、毎日変わらない部分だろう。
いや、私は自分のものを買おうと思ったのだ。夜だけだけど、毎日使うし。でも、彼に相談したら――――
「ずっと使う訳じゃないなら、もったいないし一緒でいいんじゃない?あ・・・一緒のはちょっと嫌?それだったら・・・」
「いやじゃない!いやじゃないよ大丈夫!」
――――と、なった訳である。すんごいしょんぼりしてくるからそれはもう慌てて否定してしまった。心臓ばっくばくだった。実際、別に常用したい、というほどでもない。なんなら彼が吸っているからちょっと吸いたい、くらいの気持ちなのだ。そんなわけで、私たちは相変わらず同じ電子タバコで煙を共有している。
私の1日のスケジュールは大体毎日同じだ。
日が昇るくらいに起きて、今日何をしようか手帳に書きだして、朝ごはんの支度をしながら洗濯機を回し、ふたりでのんびり朝ごはんを食べたら、1階部分を掃除して、お昼を用意する。お昼ご飯は一緒の時もあるし別々の時もある。彼に「お昼できたよ」とメッセージを送って、しばらく経っても来なければひとりで食べてしまう。それからまた掃除だ。外の草むしりをする場合もあるけど、どこかしらを綺麗にする。夕方になったらお風呂を沸かして、私が先に入る。で、上がったら紫苑くんにメッセージを送り、そのまま夕飯を作って、その間に彼がお風呂に入る。それから一緒にご飯を食べて、まったりして、大抵22時にはお互いの部屋にあがって、筋トレとストレッチをして、ごろごろしていつの間にか眠る、と言う感じだ。
まあ・・・なんていうか、老夫婦みたいな生活をしていると思う。いや、最初のうちは、夜更かししてゲームやりまくったり、徹夜して漫画を読んだり、海外ドラマの一気見をしたり、割と気ままに過ごしたのだ。1か月くらい。でも、大自然の清涼な空気に押されてじりじりと規則正しくなっていき、最終的にこんな感じで落ち着いた。お陰で精神は安定してると思う。最近ガーデニングとか結構楽しいし、ハーブとか育て始めたし・・・どうしよう。趣味まで老人っぽい・・・。
いやでも、働きに出るという行為がないし、余計な仕事を増やす上司もいない。というか、生活の中に登場人物が自分と彼しかいないものだから、規則正しい生活になるのは、当たり前と言えば当たり前の事だと思うのだ。
ちなみに、紫苑くんのお昼の行動は結構ばらばらだ。アトリエに籠りっぱなしの事もあるし、全然手を付けない日もある。なんならテラスの前に椅子を置いて、ぼーっと外の景色を眺めていることもある。全然動かないので植物みたいだった。
たまに見に来てもいいか、と聞いた割に彼のアトリエにはあまり入ることはない。元々鬼乃ファンの私としてはそこは聖域、という感じだし、下手なことをして制作中の人形に何かあってはまずい。あれから、彼がスマホを忘れることもなくて、メッセージを送ればきちんと返事が返ってくるので、アトリエへわざわざ迎えに行く必要もないのだ。それにやろうとすればやる事はいっぱいあるものだから、ついついそういう時間を取れないでいるのだ。
そんな生活の中で育つのは、何もハーブだけではない。こんな老夫婦みたいな生活をしていながら、ここに来たときはまだ淡い色合いだったはずの恋心は、今ではじりじりと熟れて、私の中で存在感を増していた。
だって。
だって、ここには彼と私しかいないのだ。
気持ちが育つのも無理からぬ話だとは、自分でも分かっている。
恋と言うのは豊かで愚かだ。ほんのちょっと彼に微笑まれただけで嬉しくて、幸せで、目に映るすべての彩度が上がったような気さえする。でもほんの少しの彼の反応を気にして、自分を責めて、世界が白と黒でできているような気になる。そして結局、翌日にはそれがただの杞憂だと分かり、私の世界はまた色を取り戻すのだ。
恋は落ちるものと言うのはまさにその通りで、私はこの井戸のような恋に落ちて、這い上がろうと藻掻いては落ちて、そして今はもう諦めている。
私は、どうしたって彼が好きなのだ。
でもやっぱり、どう考えたってこの気持ちは伝えられない。
愚かな恋心に支配された本能が、伝えてしまえと毎日私に訴える。でも臆病で賢明な理性がいつもそれを止めてくれる。だって、だって考えてみて欲しい。
敢えて女を見せるような格好をしたりはしない。それでも、ドライブに行くのなんて私にとってはただのデートで、多少おめかしをしたりするのだ。でも、彼は別に何か態度を変えるわけでもないし、夜まで一緒にいる毎日を送っていても、欠片も怪しい雰囲気にならない。
脈ナシここに極まれり、と言う感じだ。
こうしてひとつ屋根の下に暮らしているけれど、私は彼に雇われている身なのだ。気持ちを告げて楽になりたい気持ちを優先して、もう一緒に過ごせないなんてことになったら大惨事なのである。絶対言えない。
色々考えた。恋が熟れていく毎に、私も色々考えたのだ。いっそ違う恋を見つけようかとか、転職覚悟で想いを告げようかとか、手っ取り早く夜這いでも掛けてやろうかとか。本当に色々考えた。でも最終的に、こうして一緒に生活できて、紫苑くんを健康にできて、彼が作る人形を最初に見られる特権を持っていていいなら、例えこの恋が叶わなくてもいいじゃないか、と言う結論に落ち着く。それは何度脳内会議を重ねても変わらない結論だった。
それに、紫苑くんは死んだように生きる私に、違う生き方を示してくれたのだ。私の恋心ごときに、彼の平穏な生活が脅かされていい訳がない。
夫婦でもなく、恋人でもないけれど、友人と言うにはあまりにも生活のすべてを共有したこの共棲関係を、私は崩したくなかったのだ。
それでも、私もいい大人なわけで、どうしたって恋心に触発された肉欲を持て余す。
「んっ・・・ふっ、っ、はぁ、ッ」
ここへ越して来た時、彼がプレゼントしてくれたテディベアを抱きしめて、夜な夜な自分を慰める。前に彼氏がいたのも随分前だし、もう随分とご無沙汰なのに、どうしても体はそういう機能を失わないらしい。というかむしろ、最近健康的な生活を送っているせいでそういう面もある意味健全になったのかもしれない。会社員をしている時には感じなかったくらい、体が異性を求めている。
こんなの、絶対紫苑くんにバレるわけにはいかない。
「は、っ・・・ん」
ベッドに潜り、テディベアに顔を押し付けて、下着の上からクリトリスを撫でる。気持ちいいけれどどうにもイけない。ちらりとドアを見やる。鍵は外れている。鍵がなくても、彼が私の部屋を勝手に開けることも、ましてや勝手に入ってくることもない。分かっている。でももし開けられたら、という妄想をするとすごく興奮してしまって、たまたまかけ忘れた日から今日まで、私は部屋のカギを掛けられないでいる。
嗚呼本当に、これじゃ痴女だ。最悪だ。
ベッドに潜りなおして、膝を立ててうずくまり、背中から猫背気味の細いけど高さのある体が覆いかぶさってくるのを妄想する。彼の低い体温が私の体に触れて温まっていく。彼の手が体を這って、優しくクリトリスを撫でる。その妄想が加わっただけで一気に鼓動が早くなる。
「ッ!、ふ、くっ・・・・はっ」
喘ぐほどでもない。
でも、呼吸がほんの僅か止まるくらいの、自分で慰めるならそれで充分な絶頂感を得る。
それから、なにやってるんだろう、と虚しい気持ちが去来する。
電子タバコのせいか、軽い絶頂感のせいか、一気に眠気が襲ってくる。トイレに行って手を洗って寝よう・・・。すっきりしたはずなのに、ものすごく気落ちしながら、私は部屋を出たのだった。
+ + + + +
深夜を回った頃。きぃ、とほんの僅かな軋みをあげ、彼女の部屋のドアが開いた。そこから、背の高い影が入り込み、静かにドアを閉めた。
部屋の中には彼女の平和な寝息が静寂に混じって微かに聞こえる。
六箱紫苑は、ベッドで熟睡する彼女の横まで歩いていくと、慣れた仕草でベッドヘッドの淡い照明を点け、枕元に腰を下ろした。僅かにベッドが軋むが、彼女に反応はない。
女性に間違えられるような滑らかな手で、彼はそっと彼女の頬を撫で、包み込むようにして、親指で優しく少し開いた唇を押しつぶす。
「自分でスるの、気持ちよかった?」
彼女にプレゼントしたテディベアの目玉にはカメラが仕掛けてある。だから彼は、彼女が部屋で何をしているのか全部知っていた。自慰をしながら時たま、蚊の鳴くような小さな声で自身の名を呼んでいる事ももちろん知っている。まさか彼女も、カメラ越しに想い人が、自分の痴態を見て、自身を慰めているなど思いもよらないだろう。
今も、彼女がしっかりと眠りに落ちていることをカメラで確認してから、彼は部屋へ入っている。鍵が開いているのももちろん知っている。
だが「もし途中で起きたら」と、六箱は毎度妄想してしまう。彼はその張りつめた感覚が嫌いではなかった。プレゼントを開けるような期待と、バレてしまったらすべてが終わる緊張感を同時に味わえる事など、あまりないだろう。
「うふふっ、よく寝てる・・・よかったよ、あなたがよく効く体質で」
あんまり効果なかったら、睡眠導入剤とか試さないとだったし。
そう言いながら、六箱は彼女の唇を優しく撫でた。夜、一緒に吸うのが習慣化している電子タバコには、CBDという成分が入っている。リラックス効果や疲労回復などがあるとされている反面、人によっては接種後眠くなると言われている。彼はリラックス効果こそなんとなく感じているものの、そこまで強い眠気に襲われたのは二徹して人形を制作していた時くらいだ。
彼女の顔から手を離すと、六箱は薄手の掛け布団を静かに剥ぎ取り、ぎしり、とベッドを軋ませながら無防備に眠る彼女の上に覆いかぶさった。真っ暗な部屋、黒い影が彼女を覆い隠す様は、まるで闇が彼女を侵食するような不気味さがあった。
「可愛い・・・。ん・・・」
そっと彼女の両腕を捕らえて、頭の上に押さえつける。脱力しきったその手を抑え込む必要なんてないと分かっているから、抑え込む手にも力はあまり入っていない。添えるだけだ。
そして当然のように彼女の唇を奪う。その躊躇いの感じられない様子から、これが初めてではないことが伺えた。実際、1か月くらい前、彼女がカギを掛けなくなってから、こうして毎夜、部屋に忍び込んでいた。
乾いた粘膜同士が触れ合って、互いの柔らかい肉が推し潰れる。敏感な部分同士が触れ合う感触に、小さく喉を鳴らしながら、彼女の唇を食むように唇で挟み、しばらくその感触を堪能してからそっと離れた。
「・・・、っはぁ。柔っこい。ねぇ、好きだよ。好き、大好き。っ、ふ・・・ん、」
「ん、・・・っ」
「さっきのすごい可愛かった。ボクの事想像してクリちゃんパンツの上から触るの気持ちよかった?」
自身の欲望の塊をスウェット越しの彼女の恥骨に擦り付けて慰めながら、六箱は陶酔した表情で彼女に話しかける。
「ん、ぅ・・・ふっ」
スウェット越しとはいえクリトリスが刺激されているのだ。彼女が僅かに眉をひそめながら呼吸を乱す。それを嬉々とした表情で見下ろして、六箱は擦り付ける力が強くなり過ぎないよう気を付けながらも、腰を振るのを止めない。
「嗚呼もう・・・いっそ起きてくれてもいいんだけどな。ね、体疼くでしょう?夜な夜なこんな中途半端に触られてたら疼いて仕方ないよね。分かるよ」
柔らかく彼女の耳たぶに噛みついて、彼は吐息だけで囁いた。
ボクもそうだから。
そうして股間を擦り付けながら、彼は眠り姫をギュッと強く抱きしめる。捕食者の目をして長い手足を彼女に絡める様は、まるで狩った虫を食べる蜘蛛のようだ。
「んッ、ふっ・・・だめだ、射精ちゃう」
熱い吐息を笑い声混じりに吐き出して、よく眠る彼女の唇にキスを落とす。
もう少し。
あと少し。
彼女は自覚しているだろうか。友達や家族と連絡を取る頻度がどんどん減っていることに。SNSすら更新頻度をぐっと下げている事に。それをさり気なく、けれども意図的にコントロールしているのが六箱だという事に。
今、彼女を行方不明にするのはひどく簡単だ。当然、そんな事件性を疑われるようなことをするつもりはない。あくまで自主的に、彼女がこの箱庭から出たくないと思わなければ意味がない。それができないのなら単純に監禁するだけだ。できればそうはしたくない。
彼女は気づいていないけれど、初めて会ったのはマンションのごみ捨て場だ。
六箱は幼い頃から人形に執着したが、逆にそれ以外には何の感情も沸かない。勉強やスポーツはやろうと思えばいくらでもそつなく熟せてしまい、大して面白みは感じなかった。ただ、自身が美しいと感じる人形を作る事に関しては非常に熱意を持つことができた。
自分がサイコパスと呼ばれる存在である事は知っている。知っているというか、両親と兄たちが早くに気付いて、最初は療育を、最終的には周囲も彼自身も傷つけないよう、世間から隔離する方向の生き方を模索してくれた。元々の性質は大人しい彼だが、彼は法を破る事にも、他者を踏み台にするように利用することにも、あまりにも躊躇いがなかった。
家族が隔離を決めたのは小学生の頃の事だ。彼は、同じクラスの気の強い連中が、多少周囲で五月蠅く騒ぐ分には放っておいた。だが粘土をこねて人形を作っている最中に手を出した時点で、その存在を心底煩わしいと判断し、そして呆気なく殺そうと決めた。
平和的な解決を図る気はまるでなかった。だってそれは面倒だ。それよりも消し去ってしまった方が楽に決まっている。
とはいえ殺したことが露見すればマズいという事は、小学3年生の時点で正確に把握していた為、しっかりと事故に見せかける計画を立てた。実際、交通事故に見せかけて殺すつもりだったのだが、あとちょっとのところで大怪我で終わってしまった。そしてそれを彼が企てたと、周囲どころか本人にもバレなかったのだが、どういう訳か両親にはバレてしまった。
そう言ったことがあったので、両親はもう、無理に彼を世間に出そうとするのをやめ、家庭学習をしながら根気強くやってはいけないことを教え、そして彼が世間に触れて煩わされない環境を残してから死んでくれた。
六箱自身、両親や兄を含め他人を利用することに何ら抵抗はないわけだが、彼らが自分を愛していて、人形作りに励む事を心から応援してくれているという事をちゃんと理解していた。
そんなサイコパスな彼が今こうして彼女を落としにかかっているのは、単純に言うのなら彼女に惚れたからという、それだけの事だ。
ゴミ捨て場で見た彼女は、春の気持ちよい晴天の元、硝子でできたような透明感のある無感情な目をしていた。でもそれが、幾重にも感情が重なって重なって、あまりに重たくて感情がマヒしているだけなのだと彼には分かった。
それが、あのベランダで「飛ぶのか」と問いかけた1年ほど前の事だ。
彼女のガラス玉のような目に恋をして、そこに色んな感情が映るのを見たくなった。喜悦も、悲哀も、絶望も、憤怒も。その瞳を染めるすべてが見たい。できるならばその感情たちは自分が染めたものであるならなお良い。いや、そうでなくては嫌だ。
そう思った時、何が何でも手に入れようと決めたのだ。
兄たちは自分を大事にしてくれるけれど、それぞれ家族を持っているし、その家族と六箱を合わせようとはしない。当然だ。幼い我が子がどんな粗相をして彼の怒りに触れるか分かった物ではないのだ。彼らは弟を愛してはいるけれど、家族の事もまた愛しているのだ。
兄たちがいるお陰で、人形を作る事だけに専念できるし、兄たちにも収入を落とせる。ウィンウィンである。彼としても用意されたケージから抜け出してまで何かしようとは思っていなかった。でも、そのケージで運命の人を見つけてしまったのだから仕方がない。
だから彼は両親の死に際して、この別荘を貰い受けたのだ。当然、彼女と暮らす箱庭にする為だ。内装を整えたのは彼自身だ。馬鹿みたいに溜まっていた貯金を叩いて住みやすい内装を整えた。
ゆっくりと、慎重に。六箱は彼女の事を知っていった。ベランダを伝って彼女の家へ侵入して盗聴器を仕掛けたり、尾行して彼女の会社を探り、アルバイトとして清掃員になって彼女の職場での様子を探ったり、それはもうあらゆる手を付くして彼女の様子を探った。
そうして彼女の望むものを把握して、彼女の心が弱っているタイミングで接触を試みた。気弱な男のフリをして、彼女が望む異性の皮を被りながら。それはそんなに難しい事ではなかった。最初こそ多少オーバーに気弱そうな男を演じていたが、今ではほとんど素の自分を見せている。
じわり、じわり、彼女に必要な存在すべてに自分が成り代わっていった。親よりも理解があって、友達より楽でいられて、やりやすい仕事を与え、恋人のように傍にいる、そんな存在に。
自ら糸に絡まって、抜け出せなくなるように、彼女の周りに信頼と依存と言う糸を張り巡らせた。
「ねえ早く堕ちておいでよ・・・。綺麗に縛ってあげるよ?」
良く彼女は「メインクーンみたい」だなんて言って笑う。ジェントルジャイアントだなんてあだ名されるあの猫より、自分はラグドールの方が近いだろうと思うが、それを言ったことはない。「ぬいぐるみ」を意味するラグドール。その後ろでぬいぐるみを動かす糸繰こそが、恐らく自分の本質だと、彼はきちんと自覚している。
「麻縄も買ってあるんだけど、におい独特だし、鞣してあるけどちょっとチクチクするからさ。黒い滑らかな緊縛用のロープ買ってあるんだ」
小さな声で話しかけながら、彼はうっそりと笑う。
そう遠くない未来、彼女のすべてを手にできるだろうと確信して。
7話*
越してきて4か月が経とうとしている。
今日も今日とて穏やかな1日だ。
最近はもう毎日薪ストーブを使っている。温かいし、音もいいし、料理もおいしく出来て最高なんだけど、かなり空気が乾燥するので、料理してないときでも加湿器代わりにヤカンでお湯を沸かしている。
なんとなく私の中では薪ストーブと言えばキャベツたっぷりのポトフなイメージがあって、ついでにスープならそうそう失敗もしないだろうと思い、薪ストーブで作った記念すべき最初の料理は、ルクルーゼで作ったポトフになった。じっくりと過熱されたせいか野菜の甘みがしっかりとスープに出ていて非常に美味しかったし、野菜もたっぷりとれるので既に定番料理になっている。
ちなみに、焼き芋は炭化した。ピザはぎりぎり食べれるくらいの焦げ方だったけど本当にぎりぎりって感じだった。スキットルを使って焼いたチキンはめちゃくちゃ美味しかった。つまるところ、薪ストーブに関しては鋭意勉強中である。
今日のお昼は自家製サラダチキン――レンチンの簡単なやつだ――のサンドイッチである。スライサーで人参とキャベツと紫玉ねぎ、あともうちょっとタンパク質を入れたいと思ってゆで卵も追加して、なかなか豪勢な見た目になっている。パンは最近気に入っているパン屋さんのナッツ入りのブールだ。
「紫苑くん、お昼できたよー」
ソファでごろ寝をしている彼に声をかけるけれど返事がない。エプロンで手を拭きながら、そちらへ歩いていく。
「紫苑くーん」
小声で声を掛けながら、広いソファを回り込み、ローテーブルとソファの間に入り込む。彼の肩をそっと揺すってみるけれど、穏やかな寝息が聞こえてくるばかりだ。どうやら熟睡しているらしい。
私は、彼を起こさないよう静かにラグの上に座り込んだ。
こんなに近くで好きな人の寝顔を見つめられる事にドキドキして、嬉しくて、そして泣き出したいくらいに胸が苦しい。恋なんてしなきゃいいのにと、心の底から思う。でもどうしてもこの気持ちを消すことができない。いっそ時間をかけるごとに募り、そして彼への依存度が増してくばかりだ。
もう私は、彼がいない生活なんて考えられない。
「おーい。お昼だよー」
小声で声をかける。
我ながら甘くて優しい声色で、そして起こす気を感じられない小さな声量だった。
ねえ早く起きて。じゃないと、欲望に負けてしまう。まだぎりぎり、私と彼の距離は友人のそれのはずだ。きっと。
私の裏切られたい願いが叶ってしまったみたいに、彼は瞼を開かない。眠り姫よろしく、安らかな寝息を立てている。ゆっくりと上下する胸が、初めて会った時と比べると厚みを増したなと思う。彼も随分健康体になった。
こんなに熟睡しているなら、キスしてもバレないんじゃないか。いやでも、そんなことしたら色々抑えられなくなりそう。色々って何だろう・・・。自分で自分の思考に疑問を抱く。でも考えたところで答えが出ない。なんか多分本能的な色々だ。きっと。
それでもいいか・・・?
いいわけないか・・・。
好きだと、告げる事すら叶わない。
それは私が打算的で臆病だからだ。会社を辞めても、山奥へ引っ込んでも、それは変わりないらしい。
じわりと目頭が熱くなる。何の涙だろう。もう自分でもよく分からない。幸せと絶望が常に鬩ぎあっていて、感情が簡単にどちらにでも振れるのだ。でも泣いたって仕方がない。紫苑くんだって起きた時に目の前で私が泣いていたら困るだろう。私なら困る。
「っ・・・・はぁ」
湿ったため息をついて、涙を堪えた。
サンドイッチは別に冷めてまずくなるものでもないし、彼はこのまま寝かせてあげて、私は先に食べてしまおう。そう思って、立ち上がろうとした瞬間。
ぱちり、と目の前で彼の目が開いた。
不思議なくらい黒い瞳と、至近距離で見つめ合う事になり、予想外の事に思考が真っ白に染まる。
視線の先で、彼の目が溶けるように笑みを作った。
「っ・・・」
「おはよ」
起き抜けのせいか少し掠れた、幸せそうな色が混じった小さな声。
融点に達したチョコレートがどろりと溶け出すように、私の理性が溶けていく。例えもう一度冷やして固めたところで、きっと理性はもう同じ形にはなりようがないくらい、跡形もなく溶けていく。
その黒い目に吸い込まれるように、気付けば私は彼に口づけていた。その感触に自分で驚く。強く瞬いたせいで耐えたはずの涙が一粒、頬を伝って落ちて行った。
何をしているんだ私は。どうしようこんなはずじゃなかった。キスしちゃった。唇柔らかかった。温かかった。シナモンロールの匂いがした。どうしよう、どうしようどうしようっ!
思考が混乱する。
「ごめッ」
逃げ出そうとした。
勢いで立ち上がろうとした体が、下に引っ張られてがくんっと沈む。腕を掴まれていた。息を飲み、彼を見る。驚いた様子もなく、紫苑くんはひどく穏やかに、いっそ満足そうな顔をして、じわりと私の腕を引いた。
引っ張られて無理やり動いてしまうほどの力ではなく、でも、明らかに引っ張られているのが分かる程度の、そんな力の掛け方だ。抵抗しなければ引き寄せられてしまけれど、抵抗すればきっと簡単に振りほどける。
「っ、ごめんなさい」
「どうして謝るの?」
ソファに寝ころんだまま微笑む彼を呆然と見つめながら、ぼろぼろと零れていく涙をどうすることもできないで、私はむずかる様に彼の引っ張る力に抵抗した。ラグの上に座り込み、後ろに体重をかけて、それでいて、彼の腕を振り払おうとするわけでもない。
「だって・・・」
「嬉しかったよ?」
「え・・・?」
なんで。
なんでそんなに落ち着いているの。
そんなに穏やかに笑っているの。
なんで――――・・・。
「ね。もう1回して?」
いつも優しい声をしているけれど、今の紫苑くんの声はそこに甘さまで加わっていて、もはや耳に毒だった。ただ声を聴いているだけでぞくっと背筋が粟立ってしまうくらいだ。
彼が腕を引く強さは変わらない。あとは私の力加減ひとつだ。力を抜けば、それだけで私は、彼との距離をゼロにできる。
戸惑いが思考を占める。何かおかしい気がしている。それでも、ずっと押さえつけてきた恋を患った本能は、もう理性の手綱を振りほどいた後だった。
体から力を抜く。ふらりと彼の方へ体が引かれる。それに抵抗することなく、そのままゆっくりと目を閉じながら、彼の唇にキスをした。
腕を掴んでいた彼の手がゆっくりと二の腕を伝って後頭部に回る。頭皮に彼の指が這う感触と、唇から伝わる柔らかさと熱に心臓が壊れそうなくらい走っている。息を止めていた。鼻で息をするなんてできっこない。そんなのなんか恥ずかしい。だめだ、頭が馬鹿になってる。
息が続かなくて顔を後ろに引き、口から思い切り息を吸い込んだ。
「だめ」
それなのに――――。
「逃げないで」
「んぅっ、っ」
ソファから頭をもたげた紫苑くんが、後頭部へ回した手に力を籠め、そのままあっさりとまた引き寄せられて唇を奪われた。ぐっと引き寄せられた勢いを殺すために咄嗟にソファの背もたれに片手を付いた。まるで私が彼に迫ってるみたいな構図になって、ぐわっと顔が熱くなる。
待って。
ちょっと待って!
一旦離れたくて、でも今度はしっかりと力が込められていて、多少力を入れたくらいでは抜け出せない。
「んぅぁっ!?」
息を吸うのに開いていた口から、紫苑くんの舌が滑り込む。濡れた粘膜同士が触れ合った感触に全身が硬直して、産毛が総毛だった。
待って。待ってなんで。え、なに。待って。今なんでこんなにちゃんとキスしてるの私。
「んふ、っん、ぅぁ」
子宮がきりきりと締め上げられているように疼いて苦しい。切ない。だめ、こんな・・・やめなきゃ。でもやめたくない。
紫苑くんは、私を離さない割にがっつくようなキスはしなかった。しっとりと口の中を舐る。舌と舌を絡めるように舐められて、それだけでもうどうにかなりそうなのに、上顎を優しく舐められるのが信じられないくらい気持ちよくて、思わず腰がびくりと跳ねてしまう。
「んッ、ふ・・・、うふふっ可愛い。顔真っ赤になってる」
「はっ、ふっ・・・ぅ~・・・」
ゆっくりと唇が離れて、余裕そうな笑みの紫苑くんと目が合う。なんで。なんか、いつもと違う。目なんて合わせていられない。私は俯いて、自分でも赤くなってるのが分かるほど熱った顔を両手で覆った。
髪を梳くように、優しい手つきで頭を撫でられる。
なに。
どうしたの。
なんなの。
なんでそうなるの。
この距離感バグった感じはなんなんだ。夢?夢かこれ。いっそその方が納得いく。というか、紫苑くんって大人しくて優しくて純情なイメージだったんだけど、なんかこう・・・めっっっちゃ手馴れてない?
あれ・・・?
「なんで隠しちゃうの。もっと見せて」
「っ!」
顔を覆っていた手首を捕まえられ、顎の下に手を添えられて俯けた顔を持ち上げられる。相変わらずクマはあるものの、随分と血色の良くなった紫苑くんの整った顔がドアップに迫り、思考も動きも完全に止まる。
まっすぐに見つめてくる彼の目から逃れたい。こんなにじっと目を覗き込まれるなんてなかなかないし、ものすごく居心地が悪い。
「ねぇ。どうしてキスしてくれたのさ」
「ぅ」
ちゅっ
問いかけながら、目も合わせたまま唇に軽くキスされる。甘すぎる雰囲気に全然ついて行けてない。どうしてって・・・そんなの聞かれたってなんて言えばいいんだ。急すぎてまるで頭が回らない。全然答えを引き出せない。
「気まぐれ?」
「、ちがう!」
ちょっと寂しそうな表情で問いかけられて、私は即答していた。そんな訳がない。
私の返答に、紫苑くんはほっとしたように小さく息を付いて「じゃあなんで?」とかすれた声で囁く。それは教師が生徒に問いかけるような、既に彼は答えを知っていて、その内容を私に知らしめるような、そんな響きがあった。
言わないと決めていたはずの言葉は、全然口から出る準備をしていなくて、舌の根元で閊えている。
言え。
言ってしまえ。
はく、と空気を吸って、吐いて、もはや恐怖と言って遜色のない緊張感と、きっと受け入れてもらえるだろうという妙な安心感を同時に味わいながら、私は彼の目を見たまま告げた。
「好き・・・です」
それは蚊の鳴くような声で、しかも震えていて、まるで格好がついていなかったけれど、でも恐らく人生で一番シンプルな告白だった。
言った言葉がじわりと自分の胸に染みてくる。
嗚呼ほら、やっぱりだ。
言ったら戻れないと分かっていたのだ。言葉にしてしまったらもう、私は何にも言い訳できなくなってしまう。歯止めが利かなくなる。そう分かっていた。
紫苑くんは綻ぶようにゆっくりと笑った。冬の陽だまりにいるように、胸がポカポカする。
「ボクも、大好きです」
その返答が、涙が出そうなくらい嬉しくて。
大好きな彼の手が背中に回る。そのまま抱き寄せられて――――。
「っ、好き」
服越しに感じる彼の体温に、信じられないくらい鼓動を荒れさせながら、どうしようもないくらいの安心感を覚えていた。
やっぱり彼は、シナモンロールの匂いがした。
...
..
.
こんな甘い雰囲気で抱きしめられているというのにお腹が鳴る、という絵にかいたような間抜けな事をしでかして死にたくなりながら、ふたりでサンドイッチを食べた。彼はいたって普段通りで、美味しいと言って食べてくれたのだけれど、私の方は正直、味もよく分からないくらい緊張していた。サラダチキンをなかなかいい出来だと思っていたはずなのに釈然としない。
今現在、洗い物をしているのだけれど、彼が後ろから抱きしめてきていて、気が気ではない。もう心臓が口から飛び出そうだ。頭の中はさっきからパニックである。
今までのプラトニックな関係性はいったいどこへ消え失せたのか。不用意な接触なんてまるでなかったのに、こんな、背中からはぐされるとかこんな・・・接触過多がすぎる。不整脈で死にそうだ。
「ねえもう、恋人ってことでいいよね?」
「ひっ!」
ふいに耳元で囁かれて、思わず洗っていた木製のプレートを落とした。よかった、木製ので。これで食器を割ったらショックが大きすぎる。
彼の声を、吐息を、その温度を。耳と言う敏感な器官が余すことなく拾い上げ、うなじの毛がざわりと逆立った。大げさなくらい体がびくっと跳ねてしまう。
もうやだ。とりあえず、下着を変えたい。キスだけで馬鹿みたいに濡れちゃったのをどうにかしたい。なんか張り付いてて気持ち悪いし、濡れた音とかしたら羞恥で死ねる。
「ねぇってば」
背後から腰に回された腕に力が入って、背中に彼が密着する。同時に耳の軟骨に硬い感触が掠る。くすぐったいと気持ちいいの中間のような感覚がしたけれど、甘噛みされていると認識した瞬間、それが完全に気持ちいいの方へ振れた。
「ぁッ」
だめ。
だめ、待って。今、なんで。待って。可愛い下着とか着てない。服も全然かわいいのじゃない。
スポンジを持った手から泡が落ちるけど、でも動けない。
噛みつかれた耳にぬるりと温かい物が這う。舌だ。舌が、紫苑くんの舌が這って――――・・・。
「ゃ、ゃ、ぁっ」
耳の縁をゆっくりと舌でなぞられる。逃げ出したい。でも彼の腕を振りほどくなんてできない。びく、びく、と体が跳ねてしまうのが大げさな気がして、それすらも恥ずかしくて、必死で体に力を込めて全部を我慢しようとする。
「ボクたちって恋人だよね?」
「ふっ、・・・っ、ぁ」
そう、だと嬉しい。それでいいなら何よりだ。
それなのに、頷くのが怖いという矛盾。
頷いたらこのまま、その・・・致してしまうのだろうか。今日付き合ったばっかりで?・・・いや、正直その辺りは今更か。なんせもう数か月一緒に住んでいるのだ。お互いを知りあう期間なんてものは今更必要ない。
でも、それなら首を横に振るのか?
まさか。
それこそできるわけがない。なるのなら恋人がいい。一足飛びで夫婦でもいいやと思うくらいには好きだ。
ならもう、答えなど決まっているではないか。
ほんの束の間考えた後、私は小さくうなずいて返した。
でも、紫苑くんはそれでは許してくれなかった。
「ふふっ、だめだよ。ちゃんと言葉にして。こっち見て言って?」
何だってそんなに何でもかんでも目を見て言わせようとするんだ。もう完全にキャパオーバーなのに!!
羞恥が過ぎるせいで怒りが沸いてくる。その怒りに任せて頭を振って彼を耳から追い払って振り返り、キっと彼を睨み据えた。
「もう!や、ぅむ」
やめて、と言い切る前に唇を奪われる。彼の腕の中で、振り返った無理な姿勢のまま口付けられて呼吸がうまく出来ない。でも後頭部に手を回されてしまったせいで逃げられない。本気で抵抗すれば抜け出せるだろうけど、それを舌いとは思えないのだからどうにもならない。
啄むようなキスをしてほんの少しだけ離れた彼が、私の目を覗き込みながら強請ってくる。
「言って?あなたはボクの何?」
「恋、人・・・です・・・」
「うふふっ、よく言えました」
「ッ!」
お腹に回された手がゆっくりと下腹部を撫でる。少し圧迫するような動きで、まるで子宮を抑え込まれているような気になって、そうでなくてもきゅんきゅんして辛い下腹部の疼きがますますひどくなる。思わずお腹にある彼の手を掴む。
「あ、洗い物だけさせて!」
「はぁい」
思いのほか素直な返事を返した紫苑くんは、私の拘束を緩めてくれた。前を向き直れば、背中から甘えるように抱き着かれているという、さっきとまるで同じ体勢になる。ちょっと違う点があるとすれば、私の心拍数がおかしなことになってしまっている事と、下着がますます酷いことになっている事だろう。これではもう下手に歩けない。簡単に音が鳴りそうだ。気が気じゃない。
どうにか彼に離れて貰いたい。とにかく下着を変えなければ。もし、あの・・・このままシちゃうにしても、だ!それでも今時点でこのびちょびちょの下着はだめだ。どう考えてもだめだ。
サンドイッチを置いていた木製のプレートと、コップくらいしか洗うものがない。さっきみたいにまた耳を舐められたりしても堪らないから、ここで時間をかけるのが得策とも思えない。
洗い物をしながら、どうにか下着がぬれていることをバレないでやり過ごす方法を必死で考えていた。
でも、まるで答えが出ないまま最後のコップを洗い終えてしまう。やばい。どうしよう。今本当に動きたくない。
「ボクね、プレゼント用意してあるんだ」
「・・・え?」
洗い物が終わった私に、心なし弾んだ声が掛けられた。
ちょっと言われていることが分からなくて、首を傾げる。このタイミングでプレゼントって何だろう。いや、普通に嬉しいのだけれど・・・。
いまいち自分が疑問に思ったところがどこなのかぼやけていて釈然としないが、何かしら私の為に用意してくれたというのなら、嬉しくないはずがない。
「ありがとう」
振り返りお礼を言うと、すっと手を取られた。
「ちょっとさ、部屋へ行っててくれる?プレゼント、アトリエにあるから取ったらすぐに向かう」
「えっ、わ、私の部屋?」
「そう。待ってて!」
彼はかなりテンション高く私に言い捨てると、ぱっと体を離してアトリエの方へと小走りで行ってしまった。
完全に置いてきぼりを食らった私はしばしぽかんとしてから、いやむしろ好都合か、と息を吐く。これなら下着がぬれているのはバレないで済みそうだ。
なんだって私の部屋で・・・。
そこまでの甘い雰囲気とは違い、彼はとても楽しそうな、明るい雰囲気をしていた。なんていうかエッチな雰囲気ではなかったし、ぬいぐるみとか・・・もしかして人形とか?え、それはやばい。欲しいけど人形だったらどうしよう・・・なんか申し訳ない・・・。
プレゼントの内容に想像を膨らませながら、私はこっそりと洗面所に立ち寄って下着を着替え――一応ブラも可愛いのに変えたのは致し方のない事だ――2階にある自室へと向かった。
8話*
自分の部屋を見回す。服が散乱していたりするわけではないのだが、生活感溢れる感じにはなっていたので片付ける。窓を開けて換気して、ベッドメイクして、ブランケットを綺麗に畳みなおして椅子に掛け、なんとなく小物の位置を整える。
まだあの甘い雰囲気が体から抜けてくれない。ベッドに腰かけて、ギュッと自分の体を抱きしめる。
唇の感触、舌の感触、服越しの体温や、耳に吹きかけられた吐息の感触。
「っ、は・・・」
意識しなくても思考が勝手に彼の感触を反芻してしまう。思い出すだけでぞくぞくと背筋が震え子宮が竦む。ぼすっとベッドに倒れ込んでテディベアを抱きしめた。
嗚呼、だめだ。今考えるのはよそう。また下着を変える羽目になるのはごめんだ。
冷えた空気で換気された部屋が少し寒くなってきて、私はベッドから立ち上がり、窓を閉めて低めの温度でエアコンを付けた。そんなに温風をガンガンにするほど寒いわけではないが、ちょっとひやりとする感じだ。
ちょうどその時、軽いノック音が部屋に響いた。テディベアをベッドに転がしてすぐさま立ち上がると、ベッドに寝転んでいた形跡を払い、ドアを開ける。
「お待たせー」
「あ、ううん。全然」
ちょっと緊張しながら彼を部屋の中へ招き入れる。
紫苑くんは手に白い布の塊を持っていた。なかなか大きい。あとは黒い大き目の巾着袋ももっている。
「じゃーん」
言いながら、彼はにこにこの笑顔でその白い布を広げて見せた。丈の長いシャツワンピースだ。
「可愛い」
人形じゃないことに結構本気でホッとしていた。もし人形だったら、どうにか売り物に戻してもらわなくてはと考えていたくらいだ。なんせとんでもない値段である。
それは着やすそうなシャツワンピースだった。
差し出されたそれを受け取ってみるが、生地質としては綿で少し薄手だ。カーディガンとか合わせたら・・・いや流石にもう寒いか・・・。シンプルなデザインだし着回ししやすそうだ。
「うん、これなら緊縛が映えるなーって思って」
「・・・・え?」
言われている意味が本気で分からなかった。
きんばくがはえる・・・?
え、どうしよう。どの漢字を当てはめるんだ。何の話?
思考が完全停止して、ついぽかんと彼を見上げてしてしまう。
そんな私に構うことなく、上機嫌な紫苑くんは持っていた巾着袋の口を開いた。出てきたのは黒い縄だ。かなり長い。そしてどうやら半分に折った部分を結んであるようだ。それが4本も入っている。
そこでようやく、私の脳裏に初めて彼の作品を見た時にあった縛られた人形の姿が浮かんだ。すっと血の気が引いて体温が下がる。緊縛、の文字がしっかりと脳裏に浮かぶ。
つまり・・・ええと・・・私を縄で縛りあげる・・・って事?
亀甲縛り的な・・・こう、アレなアレだよね?
ずり、と半歩後退ったのは、多分本能的な恐怖からだ。
その私に、紫苑くんはとても優しくて穏やかな笑みを向ける。ぞくりと背筋が粟立った。興奮からではない。そこに在ったのは恐怖だ。何か異質な、得体のしれないものを目の前にしているという恐怖に体中が緊張で強張っている。
「鬼ごっこか隠れ鬼でもする?ボクはそれから縛っても全然かまわないよ。それはそれで楽しそうだし」
「っ」
怖い。
待って。選択肢が怖い。どういうことだ。逃げても隠れても無駄ってこと?
「ちょ・・・・え、あの・・・しば、る・・・の?」
「うん。あ、でも、いきなり複雑な菱縄縛りとか、吊るしとかはしないから安心して?簡単なのから慣れて行こうね?」
「慣れ・・・」
待って、ちょっと待て。全然追いつけてない。っていうか慣れるまでやるのか。え、本気で?それって毎回縛られるってこと?いやそれより、今これから縛られるのを回避ってできない感じなの?
「はぁ・・・そのちょっと怯えてる目すっごい可愛い・・・あなたの代わりにしてた子の表情もそんな感じに作り直そうかな・・・」
悩まし気に首を傾げて頬に手を当てながら、彼が思わずと言った風に呟く。ひゅっと風の吹き込むような音が私の喉から鳴った。
代わりって何。そう思いながらも、私の脳裏にはここへ来た日にアトリエでちらりと目にした、少し私に雰囲気が似ていると思った人形の事が浮かんでいた。
心臓が妙な脈を打つ。
彼を良く知っていると思っていた自分の思考に疑問がわいた。本当に知っているのか。今目の前にいるのは本当に私が知っている紫苑くんなのか。
こめかみのあたりにじわりと汗が滲む。多分・・・いや、間違いなく彼は私が知らない側面を持っている。だって、彼のアトリエや彼の部屋は「掃除しないで大丈夫」と言われているから立ち入っていない。よく考えてみれば、私は共有スペースにいる彼しか知らないのだ。
どうしよう、思っていたのと違う。どう見ても彼は危険人物だ。
彼はもう繕うのをやめたのだと、今更なんとなく気づいた。
でも、同時に自分がもうとっくに手遅れなんだと理解した。だって、彼を怖いと感じるのに、彼から離れ難いのだ。
怖い。間違いなく今の彼が怖い。理解ができない。
でもそれ以上に、彼に恋してしまっている。
一歩、彼が近づいてくる。
「っ」
びくっと体が震えてまた半歩後ろに下がった。でも、彼はそれを気にした風もない。脳内に警笛が鳴り響く。今すぐ走って逃げ出した方がいいと理性が訴えてくる。それに後退ったところで部屋の奥、ベッドの方へ行ってしまうのだから意味がない。
もう一歩。彼が私に近寄った。そもそもの歩幅と、そして私が下がるのは半歩程度なせいで彼が近づいてくるのは思ったよりも早い。
「逃げなくていいの?嗚呼、ふふっ目を瞑って数を数えようか?」
「っっ」
長い手が伸びて、優しく頬を撫でる。そのまま指先が滑り、後頭部を捕らえられても、私は彼を見つめたまま動くことができなかった。ずっと求めていたその指先を、振り払う事なんてできやしなかった。
騙されたという思いが強くあった。でもそれ以上に、私は彼を全然知らないという事実が悔しくて堪らなかった。
なんで。私が一番あなたの事を知っているんじゃなかったの。そんなの許せない。
こんな思考、異常だ。私自身、自分の感情に戸惑っていた。私は彼にこんなにも執着していたのかと、ちょっと自分が怖くなる。彼が露わにした異常性に触発されているのか。いやでも、もともとそういう考えがなければこんな考え浮かんでくるはずがない。
そこで気が付く。どんなに恐怖を覚えても、それでも彼への恋心がまるで萎えてなどいないのだと。恋人でもないくせに彼を独占していたと思っていた。なのにまだ知らない彼がいると知れば、そこも知らずにはいられない。欲しい、ちゃんと全部、彼が知りたい。
そうか。私もう手遅れなのか・・・。
その思考がストン、と落ちてきた。
さっきと同じで紫苑くんの手に入った力はそこまで強くない。本気で踏ん張れば抵抗できるくらいの力だ。それを分かっていて、それでも私は、自分で半歩踏み出すようにして彼の胸の中に堕ちた。
温かい腕の中に包まれ、とくとくと、穏やかな心音が耳を打つ。その温もりと、甘いシナモンの香りと鼓動に包まれる幸せを知ってしまった。逃れられる気がしない。
「つーかまーえた」
楽し気に、まるで子どもが遊ぶように言った彼を見上げた。彼の態度は普段とまるで変わらないように見える。少し・・・どころでなく強引に事が進められているのは間違いないし、それは全く普段通りではないのだけれど、喋り口調や表情はまるっきり普段と一緒なのだ。逆にそれが少し怖いくらいだ。
捕まえられる事をよしとしたのは自分だけれど、どうにも気に入らない。
「私痛いのは絶対やなんだけど」
むすっとしながら一応釘をさしておく。いやでも大事なことだ。痛くされて悦ぶタイプの特殊性癖は持っていないんだから仕方がない。
だが心配をよそに、紫苑くんはあっさりと私の言葉に頷いた。
「痛いことしようとは思ってないよ。無理のある体制もさせないし、初めてだから10分くらいで解くつもり」
「・・・そうなの?」
ちょっと拍子抜けするくらい安全面に気を使われていて逆に面食らってしまう。
「うん。あんまり縛りすぎるとうっ血したり、血栓できちゃったり危ないからさ。無理な体勢でいたら普通に関節痛めるしね?」
「な、なるほど」
ものすごい現実的な話をされて納得する以外ない。そもそも、そんな色々危なっかしいならやらなきゃいいのに・・・。いや多分それでもやりたい物なのだろう。危険性を理解したうえでこうして縄を持ってくるのだから、つまりはそういう事だ。
「あ、なんかセーフワード決めておきたいな。「やだ」って言ってるけどやめられたくないときってあるでしょ?」
「う・・・」
びっくりするくらい淡々とこれからするプレイの話をすすめられて目が白黒してしまう。だがもう彼の腕の中なのだ。逃げ場などない。そして私の返答がなくても、彼の中で話は勝手に進んでいくようだ。
「そうだな・・・もう絶対に無理ってなったら『リセット』って言って。そしたら止める。縄もすぐに解くし、どんな行為でもすべてやめる。いい?」
「わ、わかった」
そんなもの、頷く以外どう返せばいいって言うんだ。とりあえず、リセットと言う言葉は脳に刻み込む。・・・これは早々に音を上げてリセットって言っても許してもらえるものなんだろうか・・・。ちらりと彼を見上げると穏やかに、でも完全に獲物を捕らえた目で私を見る彼と目が合った。
・・・うん、許してもらえそうにない。
「じゃあ、これ着せてあげるね?」
完全に押し流されている私を、彼はそのまま押し切るつもりらしい。
私の腕に引っかかっていたシャツワンピースを取り上げた。もう例え彼が多少やばいヤツでも抜けられそうにない事は自覚したけれど、さすがにこのまま彼のペースに飲まれるとなんかやばいんじゃないか。その思いは強くあって、私は彼の腕の中から逃れようと身じろぐ。
「じ、自分で――――」
「だーめ。やらせて?いつもお世話されてる側だから、こういう時は全部ボクがしたいの。ね?」
「ぁ、」
爛れてしまいそうなくらい甘い声。視線も同じくらい甘い。だめだ。そうやって見つめられると、なんだかもう全部どうでもよくなってしまう。
「いいか」って思って全部許しちゃう・・・。
「可愛い・・・お口開けて?」
「ふ、ぅ・・・」
「ふふっ、まだ恥ずかしいの?いいよ、待っててあげる」
「っ!」
いっそ無理やり奪ってくれたらいいのに、彼は私が自発的に動くのを待つ。その方が恥ずかしいって絶対分かってやってる。前までなら天然なのかなとか思ったけど、もう思えない。
でも「無理やりしてよ」なんてもっと恥ずかしくて言えない。自分から行動するのに強制されているような、妙な理不尽さと興奮が、じわじわと私の体温を上げていく。
口を開くという、たったそれだけの行為が恥ずかしくて堪らない。自らの恥部をさらけ出すような、そんな気にさせられる。
それでも、見つめる先の彼は優しく微笑むばかりで全く動いてくれないから。
もう私自身、体の疼きをどうにかしたくて待てないから。
ギュッと目を瞑り、腹を括って恐る恐る口を開いた。
「偉いね。よくできました」
「ぁ、ふ、」
「でももうちょっと開ける?ほら、これじゃ指もまともに入らないからさ」
「っ・・・」
下唇を潰す指の感触。そこにほんの少しだけ込められた、顎を下へ押す力。それに誘導されるように、目を閉じたまま恐る恐る口を開く。
「ふふっ可愛いね。可愛いピンク色で、ぬるぬるで――――」
「んっ!ぁっ」
「すごく敏感で」
「ふっ、っっ」
心臓が爆発してしまいそうだ。
口の中に入ってきた指が、ゆっくりと下の歯茎を撫で、舌の裏という口の中でも特に柔らかい粘膜をそっと摩り、舌の横や上を嘔吐かないぎりぎりのところまで撫でまわされる。
「っ!ぁっは、ぁ」
頬の内側を撫でながら上顎を優しく撫でられた瞬間、びくっと体が跳ねてしまった。これが「愛撫」か、と思った。今まで私は本当に「愛撫」されたことはなかったんだと身に染みる。優しくて、でも堪らなく淫らな触れ方で、その感触に夢中になる。
口と言う器官が、こんなにも手軽に体内へ侵入を許す場所だなんて考えたこともなくて、戸惑いが強い。でも膝から力が抜けてしまいそうなくらい気持ちいい。
腰に巻き付いた彼の手が少し締め付けを強める。でもそれでよかった。体を支えられて、ますます口の中を撫でまわされる快感に流される。彼の黒いシャツを縋るように握りしめてされるがままになる。
「目、開いてて。ボクの事見て」
「んっ、ふぁっ」
「お口気持ちいいんだね。上顎がいい?びくびくするの可愛い」
「ぁぇ、っふ、ぁ」
恥ずかしくて、気持ちよくて、どうしたらいいか分からないくらいの興奮に体が支配されている。もう息が乱れるのも隠せない。口の端から涎が垂れるのを恥ずかしいと思うのに、口を閉じることはおろか、彼に縋った手を離すこともできない。
腰に回っていた手がするりと滑り背中を撫で上がる。
そっと目を開くと、思ったよりも近くに彼がいて息を飲む。
ぬるり、口の中に入った指が引き抜かれ、彼の唇が私の唇を覆い、ぬるりと舌が入ってきた。思わず体中の力を抜いてしまうほどの安堵を覚える。
嗚呼、私・・・すごくキスがしたかったんだ。
うっとりと目を閉じ、大人しく彼のキスを受け入れる。彼の両手が私の体の上を這い、服を剥ぎ取っていく。ゆっくりとトップスを脱がされ、ベッドに押し倒されて、それでもキスを続けながら、やっぱり丁寧にズボンも引き抜かれる。
丁寧な動きだったし、ずっとキスをしていたのにあっという間に下着だけにされてしまう。どんな早業だ。やっぱり絶対手馴れてる。なんで純朴な男だなんて勘違いしてたんだろう。
ベッドと背中の間に彼の手が入り込み、胸の締め付けが緩む。ずっと唇を離してもらえないせいか、心臓が走って呼吸が乱れているせいか、ちょっと酸欠でボーっとしていたけれど、流石にあれ、と思う。
なんか、ワンピースに着替える、的な・・・そんな話じゃなかったっけ・・・。
そう思ったのとほとんど同時に唇が離れ、彼が体を起こした。彼の温度が離れて行くのが少し惜しくて、ゆっくりと目を開く。私の腰の上に跨り起坐を付いて座った紫苑くんをボケッと見上げるけれど、その手に今の今まで付けていたブラがあることに気付き、正気付いた。
「っ!!」
「ふふっ隠さなくていいのに」
そんなことを言われて、はいそうですかと返せるはずもない。今日の今日まで欠片もそういう雰囲気にならなかった紫苑くんに、パンツ以外なにも身に着けていない体を見られているのだ。動揺しない方がおかしい。
ぱさり、とブラがベッドの下に落とされた。
「座って?」
言いながら、彼は床に落とされていた白いシャツワンピースを拾い上げる。私は身を捩る様にして胸を隠したままどうにか体を起こした。多分隠すのなんて今更なんだろうけれど、私の精神衛生上どうしても隠さずにはいられなかったのだ。
そんな私に何か言う訳でもなく、紫苑くんはボタンをすべて外されたワンピースを広げて私の後ろ側に回した。抱きしめられているような体勢で、なのに抱きしめられてはいないという微妙な距離感になんだかハラハラしてしまう。
「腕通してくれる?」
「ふっ、ッ、はっ、ぅ」
手を下におろせば、すぐに袖がある状態だ。そのままワンピースを引き上げられれば簡単に羽織った状態になるだろう。分かっている。でも胸を隠したい。だってまだ何にもしてないのに、部屋だってエアコンが付いていて温かいのに、乳首が立ってしまっているのだ。こんな、興奮しているのがバレバレな胸を見られるなんて恥ずかしすぎる。
私は苦肉の策として片手だけ降ろして袖に突っ込んだ。片方ずつ腕を通せばいいと、そう思ったのだ。
「だめ。そっちの手も通して」
「ぁ、でも・・・」
恐る恐る、伺うように彼を見上げる。妖しく、優越感を滲ませた、初めて見る彼の獣欲の滲んだ視線に動けなくなる。
「見せて」
優しい声音をしていても、それは命令だった。逆らえないと、そう思った。
寒くもないのに体を震わせながら、ゆっくりと腕を降ろす。体が緊張でカチカチに強張っていた。
「ああ。まだ触られてもないのに乳首立たせて・・・ふふっだから隠したかったんだ?」
「ゃっ、ぅぁ・・・っ」
事も無げに隠したかった事実を告げられて泣きそうだ。
「はっ、ふっ、紫苑くん・・・恥ず、かしい、からっ」
「うん、恥ずかしい事いっぱいしようね」
「ふっぅう、っ」
呼吸がうまく出来なくて苦しい。変に力が入って縮こまった体をものともせず、彼は私の体に服を着つけていく。両方の袖に手を通して襟元を持ち、ゆっくりと腕の線をたどる様に持ち上げて、鎖骨のくぼみの前で一番上のボタンを留めた。目を瞑ってしまえばいいのに、彼の指先から目を離すことができない。
ひとつずつ、丁寧に、小さな貝ボタンを留めていく。体が隠れたことにホッとする反面、立ち上がった乳首がワンピースを押し上げてしまっているのがものすごく恥ずかしい。それに、白い上に薄手の綿だから僅かだが色まで透けてしまっている。
パンツが隠れるところまでボタンを留めると、あとは開いたままにして、紫苑くんは少し離れて私をじっくりと眺めまわした。胸を隠したい。でも、でもさっきダメって言われたから・・・だけど――――・・・。
隠したい気持ちを抑えられなくて腕が中途半端に上がってしまう。ちらりと彼を見て、あまりに熱いまなざしを向けてきているのを感じて、とてもではないけれど見続けられず、そしてそれ以上我慢もできず、両手で体を抱くように縮こまって彼の視線から逃れた。
「ふっぅうぅ」
「可愛いっ、嗚呼もう本当に可愛い、素敵。可愛すぎる・・・嗚呼、ずっとこうしたかった・・・」
紫苑くんが絞り出すように呟きながら、縮こまる私を抱きしめる。いつもとは違う、少ししゃがれるくらい低い声は少し怖い。どろりと濁った劇薬のような感情が練り込まれている気がして・・・。なのに、いつものおっとりとしていて穏やかな様子とはかけ離れたそれが、異質で怖いと感じるのに、同時にずくずくと子宮を疼かせた。
心臓がバクバクと早鐘を打ったまま収まらない。緊張も解けないし、もういっぱいいっぱいで体が弾け飛んでしまいそうだ。
抱きしめた私を押し倒してベッドへ横たわらせた彼は、そのまま四つん這いになって私に覆いかぶさる。紫苑くんのぎらついた視線が私を舐めまわす。ゆっくりと近づいてきた彼が私と額を合わせ、両手で頬を包んだ。それはまるで世界と私たちとを隔てるような、いや、彼の世界に私を飲み込んでしまうような、そんな錯覚を覚える行為だった。
「はぁ、可愛い。好き。ずっとふたりっきりでいようね。あなたとボクのふたりきりで、ずっと、ずーっと・・・うふふふっ」
「ぅぁ、紫苑く、ぅ」
抱きしめたい。でも胸を覆った両手を離せない。だってやっぱり透けてしまうのは恥ずかしくて堪らないのだ。嗚呼でも、顔も隠したい。こんなに甘い視線にずっと晒されるなんて経験がなくて、もうどうしていいか分からない。
だめだ、私なんかおかしくなってる。それなりに恋はしてきたつもりで、恋人との過ごし方だってそれなりに知っているはずなのに。こんなに緊張したのは生まれて初めてだ。信じられないくらいドキドキして、頭の中が紫苑くん一色に染め変えられていくようで・・・。
額を合わせたまま、うっとりした眼差しを延々と注がれる。全身の血が沸騰しているんじゃないかと言うくらいもうどこもかしこも熱い。
女の人のそれのように綺麗だけど、意外と大きな彼の手が動く。片方は私を閉じ込めるように頭の横に突き、もう片方は優しく私の肩に添えられる。薄い布地の上から彼の少し低い体温がじわりと滲んでくる。彼が触れた部分から私の何かを侵される気がして、乱れてしまいそうな呼吸を必死で隠した。
「手ぇどけて?」
「ぁ・・・ゃ、でも」
「ふふっうん。でも・・・?」
至近距離で見つめ合ったまま優しく促されるけれど、どうしても恥ずかしくて躊躇ってしまう。どうせこの後もっとすごい事するんだろうし、なんなら縛られる予定だし、当然全部見られてしまうのだろうけれど、そんなことは関係ない。たった今、胸の奥で暴れまわっている羞恥心もまた間違いなく本物なのだ。
紫苑くんは、私を優しく見つめたまま、急かす訳でもなくゆったりとした調子を崩さない。まるでがっつかない。なのに、なんでこんなに追い詰められるんだろう。
「す、透けてる、から・・・」
シャツワンピースの胸元をぎゅっと握りしめて、蚊の鳴くような声で訴える。彼は、いつも通りの優しくて穏やかな、大好きな声でなんてことない風に答えた。
「うん。知ってるよ。それが見たいんだもの」
「ぁぅぅ・・・」
「だから手をどけて?」
優しく手首を掴まれて、ゆっくりと胸から引きはがされる。カメの歩みのようにゆっくりと、焦らすような動きだ。逆らえない。もう心臓が壊れてしまいそうで、あんまり苦しいからいっそ壊れてくれとさえ思う。
「はぁ、やっぱり。すっごく可愛い」
私の手をベッドに縫い付けた彼が、溶けるような声で囁いた。恥ずかしくて目を合わせられない。
「ちょうど少しだけ透ける感じにしたくてさ、でも肌触りのいい綿がよくって、結構拘ったんだ」
そっと手首を離されても、私は抵抗しなかった。恥ずかしいし、正直いつ枕元に置かれた黒い縄で縛られるのかと気が気じゃないけれど、夜ごと彼を思って疼いていた体は、餌を目の前にぶら下げられて我慢できるほど殊勝ではなかった。それでも、彼の方はどうしたって見られなくて、顔を横向きに逸らす。
「はっぁっ!」
顔を逸らしたのとほぼ同時に、服の上から優しく乳首を撫でられて、背筋がしなる。思ったよりもずっと刺激が強かったのだ。思わず視線を自分の胸に落とした。優しく、ワンピースの上から指の腹で円を描くように乳首の先端を撫で擦られている。
「顔赤くしてるの可愛い。気持ちいいと腰揺れちゃう?」
「ふっ、ぅぅ・・・言わない、でぇ」
目をギュッと瞑って首を振った。
言われなくたって分かっている。だってさっき変えたばかりの下着が、既に割れ目にぺったりと張り付いているのだ。もうさっさと挿入れてくれればいいのにという思いが沸き上がってくるが、流石にそんな事は言えなかった。
「かわい、ね、ちょっと座って」
「っ!」
ぐっと腕を引かれて再度ベッドに座らされる。いきなりの挙動にびっくりして目を見開き、その視界が彼の顔でいっぱいになり、座ったと思ったら口付けられていた。
「ふぁ、ン」
両手が肩に置かれ、口付けながら両手を掴まれる。肩から背中に滑り降りた手が、柔らかく両腕も一緒くたに巻き込んで抱きしめる。唇を食べるみたいに口付けられて、力の抜けた唇から舌が割り込んでくる。鼻から息を付きつつ、うっとりと目を閉じた。さっきから思ってるけど紫苑くんキス上手い・・・すごい気持ちいい。でもなんかちょっとムカつく。なんでそんなに慣れてるの。
でもそんな淡い怒り大して長続きもしない。
背中をとんとん、とリズミカルに叩かれながら優しい口づけを与えられて意識がふわふわする。嗚呼私ってなんて単純なんだろう。ものすごく幸せになってきた。
私の体から力が抜けると、彼の手がそっと背中を撫で、また肩へと戻り、そこから腕を撫でおろしていく。そうして優しく両の手首を掴まれて、ゆっくりと背中側に回された。肘を90度に曲げて背中側で腕を上下に重ねられている。そして手首をひとまとめに捕まれた。どくりと心臓が跳ね、うなじの辺りがざわついた。
多分この姿勢で縛られる。言葉にされなくてもそれが分かって、緊張せずにはいられない。
「この体勢きつくない?」
「っ、だい、じょうぶ」
「よかった。少しこのままでいてくれる?」
「ぁっ、ん」
キスしたまま頷いて返す。
紫苑くんが私から離れた。どういう訳かベッドの隅に押しやられていたテディベアをもってティーテーブルとセットの華奢な椅子に座らせてベッドの方を向かせている。無垢なぬいぐるみにこの先の淫らな行為を見つめられるというのはどうにも落ち着かない。
でも、それを訴えるより早く、戻ってきた彼が口づけて言葉を奪う。そして優しい笑みを残して後ろに回った。
緊張感がいや増すのを感じながらも、私は動かなかった。自分で不自由な格好を保つなんて、馬鹿げていると思う。思いながら、それでも動かなかった。
背中へ回った手首にそっと彼の指が絡む。息を飲み、思わず背筋を伸ばした。縄が手首に宛がわれる。思ったより硬いし、伸縮性はあまりなさそうだ。でも肌触りは滑らかだった。上下に重ねられた手首にぐるりと縄が回りひとつきゅっと縛られる。
抜けられる余裕はないけれど、決してぎちぎちに締め上げられているわけではない。
「これ、痛かったりきつ過ぎたりしてない?」
「あ、うん。大丈夫、だと思う」
「手、握れる?」
彼の手が、縛られた私の手に指を絡めてくる。相変わらず、彼の手は冷たい。でもそうして手を繋ぐのがなんだか不思議な感じがして、それでこうして気を使われて優しくされるのが舞い上がってしまうほど嬉しい。緊縛なんて滅茶苦茶なことをされているのになんだって喜んでいるんだと、ちょっと自分でも不思議だ。
「ん。指先冷たくなってないし大丈夫かな。痛かったりきつかったりしたらいつでも言ってね?」
言いながら彼の手が離れて行った。そして今度は縄が肩を少し下りた辺りから体の前に回される。それは腕を縛り上げている縄の端らしく、引っ張られると少し腕が持ち上がる感じがした。そのまま縄は反対の腕を回って手首から延びる縄にひっかけ、折り返して今度は胸の下に縄が回る。胸の上下に縄が平行に走っている感じだ。
また後ろに縄が回り、あとはもう何をされているのか、見えないので分からなかった。なんとなく結ばれたり、縄を通されたりしている感じから、手首を結んだ縄が背筋に沿うように走り、そこを軸にして縄を固定されていっているのは分かった。
彼が言った通り白いワンピースに黒い縄と言うのは非常によく映えた。ただ正直それはもう私にはどうでもいい。ただただ只管恥ずかしい。胸の上下を縄で挟まれているし、後ろで腕を組んだ状態だから必然的に胸を張る形になり、否が応でも胸が強調されてしまうのだ。それも乳首の透けた胸が。これはちょっとかつてない位の恥ずかしさだ。もう手は固定されていて何も隠せない事がさらに羞恥を呷る。
「どう?苦しかったりしない?」
「ふっ、ぁ、ぅ、苦しくは、ないけど・・・でもっ」
「でも?」
言葉に詰まる私を、紫苑くんは背後から抱きしめてくる。前に回された手が優しくお腹を撫でる感触に、なんだか少しホッとする。
耳の軟骨を柔く噛まれる。「ふふっ」と優しい笑い声が耳をくすぐって、思わず肩を竦めた。
「恥ずかしい?けど、すっごく綺麗。その恥ずかしくて堪らないって表情も含めて、もう完璧」
「っ・・・」
返す言葉を持たない私の頬に、ちゅっとキスを落として、彼の体は離れて行った。
「もう一本、かんぬき締めたら上半身はおしまいね」
「かんぬき?」
「そう。こうやって・・・」
言いながら、彼はもう一本新しい縄を手に取り、何やら後ろに縛り付けている。縄を通される毎に拘束が増す。もともと腕が抜け出せるような気配はなかったけれど、2本目の縄で固定されてもはや腕は身じろぎもできない。
しかも、前に垂らされた縄が胸の下側を走る縄をくぐって首の後ろに抜け、胸の谷間にV字を描いたような形になっている。さっきよりも更に胸が強調されてしまっているのだ。
無垢な白いワンピースの上を、黒い縄が這いまわり、その白い布から色づいて立ち上がった乳首が透けている。
あまりにも卑猥だ。
「ふっ、ぅぁ・・・」
「はい、これで上半身はおしまい。後手縛りっていうんだ」
「名前なんて別に覚えなくていいけどね」と本当にどうでも良さそうに紫苑くんは付け足した。それから「タイマー10分かけとくね」と言って私から手を放すことなく、スマホに話しかけてタイマーを起動させていた。
ちゅ、と可愛らしい音を立てて、優しく丁寧に首筋に唇を落とされる。そのまま、後ろから私に抱き着いた彼は、強調された乳房に、乳首を避けるようにそっと手を這わせ、耳元でくすりと笑った。
「見て、乳首ツンってして、ワンピース持ち上げちゃってる」
「ふッ、ぅ、ぁぅ」
揶揄する言葉に羞恥心を呷られて呻く。まだ大した愛撫もされていないのに、私はもう太ももまで濡れていた。少し動くだけで湿った音が鳴ってしまう。どうしよう。これじゃ私、縛られて感じる変態みたいだ。
「膝立ちできる?」
「っ、ぁ、・・・・ぁ」
「ん。ゆっくりでいいよ。腰支えてあげるから」
彼に優しく腰を捕まれて引き上げられる。もう抵抗する気力もない。だって彼に従っていた方が楽だった。こんな身動き取れなくされてしまって、私はもう、どうしたらいいか全くわからない。
「上手。ちょっとだけ脚開いて、そう、いい子だね」
「ふっ、ぁっ!」
脚を開いた動きでくちゅっ、と小さな音が鳴る。穴があったら入りたい。ぎりぎりパンツが隠れる部分までしかボタンが留まっていないから、濡れた太ももが見えてしまうんじゃないかと気が気じゃなかった。
「ああ、ふふふっもう濡れちゃってるの?」
「ひァッ!!」
不意に走った直接的な性的快感に声が裏返る。背後にぴったりと張り付いた彼の手が、何のためらいもなくシャツワンピースの下に潜り込み、濡れた下着越しにクリトリスを撫でていた。
「ぁっ!あっだめっ違うのっやっあっ!」
「何が違うのさ。下着気持ち悪いでしょ。こんなにびちょびちょに濡らして」
「ふーーーーッッ!ふッ!あ゛ッッやっやぁっ!」
「可愛い。コリコリしてる・・・縛られたら興奮しちゃった?乳首もだけど、クリちゃんまで立たせちゃったの?」
「ぁぅぅううぅぅッ!!」
楽しそうに耳元で確認してくる彼に何も言えなくて唸るしかない。
指の腹でゆっくりと円を描くようにしてクリトリスを撫でられる。下着越しなのにぬるぬるとよく滑っている。上半身は縄で緊縛されて動かせないのは勿論の事、更に膝立ちで背後から抱きしめられているこの体勢は、びっくりするくらい自由がなかった。クリトリスを撫でる彼の手をどかすことはおろか、まともに藻掻く事すらできない。逃げようと前のめりになろうとしても、肩を抱きしめられたらもう、それだけで何の抵抗もできなくなる。
「ァっぁッダメ、これだめッ、あっんぁっ!」
「どうダメなの?」
「だっぁっぁっぁっあっぁっアッ」
純粋な快楽はどんどん脳を侵していって、何も考えられなくなっていく。紫苑くんの肩に後頭部を預け、無駄でも尚逃げようとしていた体から徐々に力が抜けていく。
私の動きを封じるため、肩に回っていた手がするりと這い上がり、晒された私の首に当てられる。命を握られているような行為にどきりとする。なのに体に力が入らない。いっそ彼の首に額を擦り付けて甘えていた。
膣がひくりと時たま痙攣している。この動きは紫苑くんに伝わってしまっているんだろうか。わからない。でも、もうただただ気持ちが良くて、身を任せていたかった。
「イきそう?」
彼の声に揶揄うような色はなかった。あくまで確認するために問いかけているのが分かる、優しい口調。その間も彼の指は同じ速さでクリトリスを下着越しに撫でていて、私はほとんど吐息のような喘ぎ声が口から零れるまま、小さくうなずいて返した。
「ふふっ可愛い。いいよ、自分のペースで。ずっと撫でててあげるから」
「ふッ!ふっぁっはぁっアっ」
飼い猫でも可愛がるみたいに喉を撫でられながら、追い詰められていく。膣の痙攣の間隔がどんどん狭まっていく。彼の指に撫でられるクリトリスが、硬くなっているのが自分でもよく分かった。それを恥ずかしいと思う気持ちはきちんとあるのに、それを凌駕する快感に思考が止まってしまう。
かつてこんなにも丁寧に触れられたことがない。真綿で包むように、優しく丁寧に快感を積み重ねられる。なのに、愛撫事態は優しいのに、身じろぎすら許さないというような拘束をされる。そのギャップにどうしようもないくらい興奮していた。
「ぁっく、ぅ、あぁッイっ、イくっ紫苑くんッも、あっもうっ」
「ん。大丈夫。ぎゅってしててあげる」
首を撫でていた手が再度肩に回る。体が倒れ込まないように支えてくれたのだろうけれど、でも、そのギュッと抱きしめられた温もりが、むしろトドメになった。
「っく!ぅあ゛ッッ!ん゛ッぅっ!」
「あー、うふふっすっごいどくどくしてる」
「ふッうぁぁ、あっだ、はぁぁああっ」
絶頂したクリトリスを羽で撫でるような、触れるか触れないかのタッチで撫でられ続けて腰を悶えさせる。
「どくどくするの止まんないねぇ。ずーっと甘イきするの気持ちい?」
「はぇぁぁっあっアっ!ぁぁああぁあっ!!」
彼の言う通り、クリトリスがずっとどくどくしていた。それはつまり、絶頂感を引き延ばされている事に他ならない。でも優しいのだ。あくまで優しくて、ずるずると沼に引きずり込まれるように、体がどんどん快楽に従順になっていく。
かくかくと腰が揺れる。情けない動きをしているに違いない、と頭のどこかで思うのに、もう止める事なんてできない。
快感に浸っていると、ゆっくりとクリトリスから指が離れた。それを名残惜しいと思う反面、ずっと続く絶頂感に可笑しくなりそうだったのでホッとする。
「そのままボクに寄りかかっててね」
言われなくても今自力で立てる気はしない。
そして紫苑くんはくるり、と私の腰に縄を回した。
9話*
そして紫苑くんはくるり、と私の腰に縄を回した。
「ぁ、ぇ・・・?」
もう拘束は完成したのだと思っていた私はその動きに少し驚く。まだ縛るのか。
ぐるりと腰回りを一周した縄はおへその下からまっすぐ下へ延ばされ、そのまま恥骨の上を通りお尻の方へと抜けていった。びしょぬれのパンツの上から、縄でできた紐パンツを履いているみたいだ。ご丁寧にクリトリスの上に縄の結び目が当たるようにされて、しかも手首に結ばれた縄に連結するように縛られてしまった。
「ひぃっ!やっ!あ゛ッッ!」
「ん。クリちゃん擦れちゃってる?」
手首に股縄の縄を縛られて、少し身悶える度にクリトリスが縄の瘤に押しつぶされる。まだ脈打っている敏感なクリトリスが、指よりもさらに容赦なく甚振ってくるのだ。
「だめぇえっ!!だめっ!あ゛ッッ今だめなのッ!やっあっあッ!ひぅうっ!?」
「はぁっん、ほんと、可愛すぎる。大丈夫、優しくするからね」
「あ゛ッ!あ゛っ!乳首っ、ちくびぃやぁっぁああっ」
クリトリスだけだって全然ダメなのに、更に服の上からかりかりと乳首を擦られて悶絶する。当然更に身悶えるはめになり、上半身の動きに連動したクリトリスを押しつぶす縄もこすれて・・・という酷いループにハマる。
「うふふっ、ほんとに想像以上に可愛くってもうどうしよう。こんなに敏感でエッチな体隠してたの?ね、こうやってカリカリするのと、ちょっとぎゅーってするのどっちが好き?」
「ちがうぅっ、っ゛あぅぁあ゛!?ぎゅってしちゃやだぁあああ゛っ!」
「ん。ちょっと痛いの気持ちいいタイプ?じゃあほら。もう少し強くぎゅーってしたらどう?」
「ぎぅっ!ィ゛ッッ!あ゛あぁぁぁああッッ!」
少し痛みを感じているのに、なのに耐えがたいほど気持ちいい。どうして。なんで。乳首ってそんな滅茶苦茶に感じる場所じゃないはずなのに。
「気持ちいいよね。はぁっ、あー、だめだ。我慢できない」
胸から手が離れる。必死で呼吸した。苦しい。まだ服を着ているのに、こんな滅茶苦茶にされる事なんてあるのか。服の意味ってなんだ・・・。
背中に感じる彼の動きでズボンを脱いだのが分かり、息を飲む。縄をしたまま挿入るの?でも、まだパンツも履いてるのに。でも。でももう欲しい。ぐちゃぐちゃに濡れてしまって、慰めて貰わないとどうにもならなくなっている場所に早く挿入って来て欲しい。
「脚閉じてね、支えてあげるから大丈夫・・・そう、ちょっとごめんね」
「っっ!あっ熱、ッあ、はッ!」
彼の昂ったモノがぬちり、と太ももの付け根の隙間に押し込まれる。濡れた下着が張り付いて肌が冷えているせいか、彼の温度をものすごく熱く感じた。それ以上に、彼が私にここまできちんと興奮していたことに驚きと喜びを強く感じていて、脳にじわりと多幸感が広がっていく。
「あー、気持ちぃ」
耳元で熱い息を吐きながら、彼が囁く。前に回った腕がぎゅっと肩のあたりを抱きしめる。背中が彼の胸板と密着して染みてくる温もりに、何か、よく分からない衝動に胸を突かれて涙が零れそうになった。言葉にするなら歓喜が一番近いのだけれど、そこにきっともう逃げられないんだろうなと言うような、小さな絶望染みた感情が混ざった、とても不思議な感情だった。
「もう縄までぐちょぐちょにして・・・乳首ぎゅーってするのそんなに気持ちよかった?」
「あ゛ッッふぁあ゛ッッ!!だっ!ぁぅっあっイくぅっ!」
囁きながら肩を抱いていた手が少しずれ、両方の乳首をぎゅーっと摘ままれる。腰が跳ねるのと同時にクリトリスを縄の瘤に擦られ、更には割れ目の上を彼の熱に撫で上げられる。
ずっと甘く痙攣を繰り返していたクリトリスでさらに絶頂するという、意味の分からない現象に襲われる。
それなのに、イったのに、彼は私を虐めるのをやめてくれなかった。
それどころから、ゆっくりと腰を前後に揺すりだしたのだ。彼の出っ張ったカリが縄の瘤の下側を掠める度に、クリトリスを衝撃が襲う。更には割れ目の上を擦られて縄が少しナカまで食い込んでしまうし、そもそも、その熱がだめなのだ。その熱が、じわじわと子宮の方まで染みてきて、頭がおかしくなりそうだった。
「だめっ!だめぇっ!!クリちゅらいからぁあっ!」
「うん。辛いね。ごしごしされたら縄食い込んじゃうもんね」
「あ゛ーーーーっっ!!辛いっ!辛いのぉ゛っ!!」
「んっ、辛くて気持ちくなれて偉いねぇ。ボクもすっごく気持ちいい」
おかしい。会話が成り立たない。なんで辛いの褒められるの。これでいいの?でも、でも辛い。本当につらい。クリトリス爆発しちゃいそうなのにっ!
頭がおかしくなるんじゃないかと思ったところで、彼が腰の動きを止めて熱いため息を耳に吹きかけた。腰の動きは止めても太ももの付け根に挟まっているのは変わらない。お陰で染みてくる熱も、縄に押しつぶされたクリトリスの下側を彼のカリ首に押し上げられているのもそのままだった。
「はぁっ可愛ぃ~・・・ね。ぎゅーってされてからさ、やさしーく触ると気持ちいいの知ってる?」
「ぁ゛ぇ、っへぁっあッア゛ッッ」
やめて。耳元で囁くのもうやめて。頭茹っちゃう。ずっと背筋がぞくぞくしちゃってる。
薄いとはいえ服の上から優しく乳首を撫でられるのは、どう考えたって物足りない刺激のはずなのに、不思議なくらいその感覚に集中してしまう。じんじんと痺れている乳首を優しく撫でられると、確かに溶けそうなくらい気持ちが良かった。
「乳首こりこりだよ?ほら、こんなに押し上げちゃって・・・色も濃くなってきてる。カリカリされるのも好きだよね」
「はっぁっぁっぅああっしょれっしょ、ぁああっ」
「うん。先っぽカリカリするの気持ちいいもんね。そのうち乳首でイけるようにしてあげるからね」
胸を反らせた状態から動けない。乳首の先端を狙いしまして優しくカリカリと引っかかれると、胸の奥の方まで快感が突き刺さってくるようだった。腰が揺れるのを止められない。それがさらに私を追い詰める。腰をへこへこ動かしてしまう度、クリトリスを瘤と彼のモノに挟み撃ちにされているのだ。
そんなもの、耐えられる訳がない。
「あ゛ッッやだぁっ!お股ッ変になっちゃぅぅ゛ッッ」
「ふふっお股変になっちゃうの?お股のどの辺かなぁ。入口?ああ、おしっこの穴?」
「ちがっちがくてっ!クリ、ッッ!あ゛ッッ!」
「あははっ!もう最高。可愛すぎる。クリちゃんずーっと捏ねられててキツいよねぇ」
「ぅううぅう゛ッッおっぱいもおやだぁあっ!」
「うん、やだねー。腰ヘコ止まらなくて、クリちゃんしんどくてしんどくて苦しいもんね?」
「やぁあああっ!!あ゛ーーーーっ!!」
だめだ。
ダメだ私もう壊れる。クリトリスでずっとイってるの苦しい。辛い。辛いッ!!
「リセット」って言おう、そう思ったタイミングで、妙に軽快な音楽が鳴り響いた。10分が経過したのだ。ぴたりと彼の動きが止まる。
「もうかぁ・・・嗚呼・・・もっと縛ってたいんだけどなぁ・・・」
息も絶え絶えの私の頬に口付けながら、彼の手が背中に回された手首に触れる。
「はぁ・・・いやでも、ちょっとずつって言ったもんね。またあとでにしよっか」
「ぁウっ!」
酷く濡れた音を立てながら、彼の昂ぶりが私の脚の間から抜ける。クリトリスも割れ目も抉られるような動きにがくっと腰が跳ね、やっと終わるという安心感から崩れ落ちそうになるけれど、紫苑くんの腕が絡みついて私の体を支えるので体勢が崩れることはなかった。
背後で縄を緩めていく動作が伝わってくる。
ぼーっと、彼に身を預けていた。衝撃的なキスから、恐らく1時間と経っていないだろう。なのに、私はもう取り返しがつかないほど、紫苑くんに堕ちていた。
そもそも恋には落ちていたけれど、ここまで取り返しがつかないことにはなってなかったはずだと、そんな風に思う。もう少し、まだ逃げる余地がどこかにあった様な気がする。
でももうだめだ。
彼に服従する快感を知ってしまって、抜け出せる気がしない。自由を奪われることで、彼から「逃げ出せない」という言い訳を与えられた恋心は、もう完全に暴走して、まるで全身に転移した病巣のように私を蝕むのだ。
縄がすべて外された。ぱさ、と乾いた音を立ててベッドの枕元に置かれた縄をぼーっとしたまま何となしに見つめていたら、視界が反転した。
ぼす、と後頭部が枕に埋まる。
まだ与えられた強烈な快感と興奮に思考も体も痺れていた。
腰の上に彼が跨って見下ろしている。潰れてしまうほど重たくはないけれど、身動きが取れないくらいには体重を掛けられていた。
彼の綺麗な手がシャツワンピースのボタンへと伸びる。ちいさな貝ボタンは対して抵抗するでもなくボタンホールを抜けていき、そのボタンが外れた場所から順に、服が肌蹴ていく。
私を淡々と裸に剥いていく紫苑くんは、やっぱり不思議なくらいいつも通りの穏やかな笑顔だった。とても今しがた人を縄で雁字搦めに縛り上げていた危険人物とは思えない。
彼と私の呼吸の音だけが、昼下がりの明るい部屋に満ちている。
「ねえ、コッペリウスって知ってる?」
「え・・・?」
唐突に問われて、私はただただぼーっと、大好きな彼の事を見つめていたことに気が付いた。コッペリウス・・・聞き覚えのない単語だ。私は「それは何?」と視線だけで問い返した。
紫苑くんはどことなく遠くを見るような、私を俯瞰して見下ろしているような視線でこちらを見たまま静かに言葉を続けた。
「『コッペリア、あるいは 琺瑯質の目をもつ乙女』っていうタイトルのバレエの演目なんだけどさ。自動人形のコッペリアと、コッペリアを作った人形師のコッペリウス。あとはコッペリアを人形だと気づかないで浮気心を見せるフランツと、それに嫉妬する恋人のスワニルダが主な登場人物かな」
ひとつ、ふたつ、とボタンをはずしながら、彼は静かに語り続ける。ボタンを見るために少し伏し目がちになっている彼はぞっとするほど綺麗だと思った。
「コッペリウスが街へ出かける時、鍵を落としてさ。それを拾ったスワニルダが友だちと一緒にコッペリウスの家に忍び込むんだ。その前の日に、窓辺で本を読むコッペリアに見惚れていたフランツに嫉妬して喧嘩していたから、気になってたんだよね」
恥骨の上にあるボタンまで丁寧に外された。もうとっくに裸の胸が晒されているのに、あまり羞恥は感じていなかった。抵抗した方がいいのかな、とよく分からない疑問を抱いて腕を少し持ち上げて、けれど今更意味もない事だと思ってそのまま力を抜いた。ぽすん、とシーツが柔らかく波打つ以外、何も起こらなかった。
「そうして彼女は、コッペリアが人形だと気づく。一緒に忍び込んだ友人たちはみんなコッペリウスに見つかって追い出されたけれど、スワニルダだけは気づかれなかった。そして彼女は恋人のフランツが、コッペリアに会いにベランダから忍び込んで、コッペリウスに捕まるところに出くわしてしまう」
彼は優しく私の腕から袖を抜いた。その手つきがあまりにも優しくて、それに浸っていたくて、私は人形のように横たわったまま服を剥がれる行為をただ受け入れていた。協力もしなければ邪魔もしない。
するり、片腕から袖が引き抜かれた。
「コッペリウスはフランツから命を引き抜いて、愛しのコッペリアに命を吹き込もうと考えた。でも結局、それは失敗する。忍び込んでいたスワニルダに邪魔をされてね。挙句大切なコッペリアすらも壊されてしまう。周囲にとりなされて結局結婚することになったスワニルダとフランツを祝福する、みたいな終わり方のもあるけど、ボクはコッペリウスが、壊れ果てたコッペリアの前で立ち竦むってラストが好きなんだ。そっちの方がリアルでしょ?」
もう片方の腕からも袖を抜かれ、もう履いている意味もなさそうなパンツ以外、何も身に着けていない。紫苑くんは力の抜けきっている私の手を持ち上げて、その指先に恭しく唇を落とした。乾いた唇が中指と薬指の第二関節に触れて潰れる。彼を見上げたまま、結局何が言いたいのかが分からなくて首を傾げる。
「コッペリウスは、他に人間がいる場所にいたから愛しい人を壊されてしまったんだと思うんだ。本当に愛していて、大切なら、きちんとしまっておくべきだと、そう思わない?見せびらかそうとするからいけない。もし彼がずっとどこかへ閉じこもっていたら、コッペリアとコッペリウスは末永く仲良く暮らしましたで終わった話さ。そうでしょう?」
息を飲む。
目を見開く。
私の心に、また一滴、黒いインクのような恐怖が滲む。滲んだ黒が私に問いかけてくるのだ。
いつからだろうか・・・。
いつから、私をこの別荘に連れてこようと計画していたのだろう。
いつから、この白い衣装を用意していたのだろう。
いつから、私を恋人にすると決めていたのだろう・・・?
今この瞬間すら、紫苑くんの表情は穏やかで、その表情になんの嘘くささもない。
今さっき彼を異常な人間だと認識したはずなのに、どうやらまだ認識が甘かったらしいと気が付いた。
・・・でもじゃあどうするって言うんだ。
もしもコッペリアがコッペリウスの元から自ら離れたとして、整備してくれる人のいなくなったコッペリアは永遠に動き続けることができるのか。
胸の奥で小さな恐怖が熾火のように燻りながら、それでも私は諦めるように、受け入れるように大きく息を付き、意識して強張った体から力を抜いた。
コッペリアは、きっともう彼がいなくてはきちんと動けない。私を作ったのは彼ではないけれど、歯車のように働き、摩耗し、油切れの人形よろしく心の動きを無くしていた私を、整備してまともに動くようにしたのは間違いなくコッペリウスなのだから。
今更、この箱庭から出たところでどうしようというのだ。そもそも出ようだなんて、もう思えない。
だってここには、私が求めていた心の平穏がちゃんとあるのだ。
彼の手中から指先を引き抜いて、両腕を持ち上げて伸ばせば、彼は聞き分けのいい猛獣のようにその首を垂れた。彼のうなじに腕を絡めて軽く引き寄せながら聞いてみる。
「末永く・・・一緒に暮らせる?」
紫苑くんは少し上目遣いに私を見ながら満足そうににんまりと笑う。今まで大人しいメインクーンだと思っていたけれど、とんでもない。これは得体のしれないチェシャ猫みたいな存在だと考えを改める。
軽く首を振って私の手から抜け出した彼は、黒いロングTシャツの裾を掴み、随分と雑な仕草で脱ぎ捨てる。私の服を脱がせた時とはえらい違いだ。
別荘へ越して来て健康的な生活になったとはいえ、そもそも色白である彼の、更に服に隠れている部分となるとますます白い。この数か月でがりがりだった痩せた体にはうっすらと筋肉の影が浮かんでいるが、それでもちょっと危うさを感じる程細くて、そして妙に色気があって、ぞくりとした。
彼の手がベッドに投げ出していた手首を掴み、頭の横で磔にする。
「他に選択肢は用意してないんだ。ごめんね?」
「っ、はっ」
「あなたはボクのだよ。誰にも壊させないし、見せないし、触らせない」
「あッ」
ぐっと顔を近づけ、鼻が触れるか触れないかの距離で、言い含めるように低くしゃがれた声で囁く。それがどうしようもなく鼓膜を震わせ、子宮に響く。
喉を鳴らして唾をのむ私を小さく嗤い、彼はゆっくりと頬に口づけ、そこから首筋へと這い下りていく。
「ぁっ、はぁ、んっ」
「はぁ、トクトクって言ってる。可愛い・・・」
陶酔したような声に、こちらまで思考が酔っていく。鼓動すら可愛いと言って貰える相手と出会える人なんて、世界広しと言えどそういはしないだろう。
手首は押さえられたまま、彼は唇と舌で私の体中を愛撫した。
首筋から鎖骨へ下りて、舌で真ん中のくぼみを舐められる。少しくすぐったいような淡い快感を得る。そのまま舌が体中を這う。
胸の横側を舐め上げ、軽く乳首に噛みついて、すぐに胸の真ん中へ口づけ、そのまま舐め降ろしておへそを舌で抉られた。
「はッぁっ、んはっッ、あぅ、アっ!!はぁ、んん、ッ゛」
手首を掴んでいたはずの手が、いつの間にか私の手と手を合わせ、二枚貝のように重なっていた。指を絡めて緩く繋がり、脱力して彼に与えられる快楽に没頭する。それは途方もなく幸せで、満たされた時間だった。
ゆっくりと降りて行っていた彼の頭が、とうとう私の脚の間に埋まる。抵抗なんてする気も起きなかった。
「ぁッあッあ゛ッッ」
濡れそぼった割れ目を舐め上げた舌が、ゆっくりとナカに入ってくる。彼の舌が入ってくるのに合わせて首と背中がゆっくりと反っていくけれど、手を繋いでいるから離れてしまう事もなかった。
ぬちゅっ
ちゅっ
ちゅぷっ
優しい快感だった。ゆっくりと舌が出入りしたり、割れ目を舐め上げたり、腫れあがったクリトリスを触らないでくれるのがありがたかった。優しい、体がベッドへ沈んでいくような快感に思わず目を閉じる。
「はぁ、っ、っぁ、紫苑、く、ふぁっ」
「んっ」
呼びかけに答えるように、絡んだ指先に少しだけ力が入った。
そしてそのまま、クリトリスに硬くてつるりとした物が押し当てられた。
「ひぃっっ!?」
前歯だ。彼の前歯がクリトリスに押し当てられている。
唐突な強い快感に体が跳ねる。でも指先をしっかりと握られていて逃げ場がない。力の抜けきっていた足がベッドの上を泳ぐがシーツを波打たせることしかできない。
「あ゛ッッ!!ああぁあああっ!!だめっ!だめぇえっ!!」
そのまま頭を左右に振られ、彼の手を握りしめて泣き叫ぶ。足が勝手につま先までピンと伸びてしまう。
「ん、足ピンだめ。膝曲げてるとイけなくなっちゃうからさ。ほら、」
不意に少しだけ顔を上げた彼が手を放した。その手が優しく私の脚を折り曲げて両脇に挟み込んでからまた手を繋ぐ。「折りたたんで押さえておいてあげる」と優しく笑った彼に、思わず喉が引きつる。
「ッッ!!だっっ!!ぅア゛ッッ!!」
だめ、と言おうとした瞬間、彼の頭が再度濡れそぼった場所へ埋まってしまった。当然のように、さっきと同じく前歯をクリトリスに押し当てられて、ゆっくり左右に頭を振られる。
「やぅうう゛ッッ!!あ゛ッ!あッ!!はぁっッ!!」
もはや言葉も出ない。つるつるとしたエナメル質で強すぎない程度に押しつぶされて、際限なくこりこりと甚振られているのだ。逃げ出そうにも両手は握られ、両脚は抱え込まれて、できる事なんて多少上半身を揺すったり頭を振り乱す程度の事だった。
あ、あ、あ?
なんか、なんか変。なんか熱い。あ、待って。待って!ダメこれなんかダメ!!
「っ、しぉんくっぅあっだ、はぁっだめっこぇ、なんか変っ!変になっちゃ、アッ!!」
「んー?じゃあ優しく舐めてあげようか」
「あ、あ、あ、ぅぁああぁああああッ!!」
しょぽぽっ
あ、どうしようっどうしよう私いま漏らしちゃった!!あ、うあっ紫苑くんいるのにっ!
罪悪感と居た堪れなさに涙が滲んでくる。嫌われたらどうしよう。でも、だって、ダメって言ったのにっ!
「ん、ちゅっふふっ泣いてるのも可愛いけど、泣かなくていいんだよ。潮噴いちゃっただけだから。・・・ああでも、お漏らししないように練習しようか」
「っんふぅッ、ッッあ゛!ぁ゛、も、やめるぅっもぉやめるぅぅ゛ッ!」
彼の腕から脚を逃がそうと暴れさせるけれど、細い見た目に反して彼の力は強くてまるで抜け出せない。握り合った手を引っ張り、頭を激しく左右に振ってもう無理だと必死に訴える。
「大丈夫だよ、お漏らしくらいじゃボク怒ったりしないからさ。ん、ちゅっ」
「ひぅぅっ、うっぅぁっはぁっんんん゛ッ!」
「ちゃんと我慢できる大人のお姉さんになろうね」
「ふぅっふッ、んッふぐっぅう゛ッ」
お腹に力を入れようとしてもうまくいかないし、おしっこを我慢するような感じでお股に力を入れるけれど、快感に押されて長続きしない。
もうあとは唇を嚙みしめて、変に彼を見てこれ以上興奮したりしないようにするくらいしかできることがない。
「うふふっ偉いねぇ。ちゃんと我慢できて」
そう言いながら、彼がクリトリスに柔く噛みついた。
「ッッ!?ッぁああああぁッッ!!」
ぷしっ!
我慢するなんて無理だった。思考が白く染まり、気付けば仰け反って漏らしていたのだ。
「あっぁ、はっ、ぁっ、ごめ、へぁっ」
仰け反って緊張していた体が、彼がそこから口を離した瞬間弛緩する。辛うじて謝罪を口にしたものの、頭が白くぼやけていて、体中何処にも力が入らない。
「いいよ、大丈夫。ちょっとずつ練習して我慢できるようになろうね」
手が離され、彼が上体を起こした。のろのろと視線を彼に送れば口元を拭う紫苑くんと目が合った。彼は私と見つめ合ったまま、解放されて投げ出された脚を抱え上げてM字に開く。そうして自身の昂りを、ぐちゃぐちゃに濡れている割れ目に宛がった。
思わず宛がわれたモノに目が行ってしまう。
どうしよ・・・なんか凶器みたいだ。長いし、エラ張ってるし・・・、さっきあのエラのところでクリトリス虐められてたんだ・・・。
無意識に、ごくりと唾を飲んでいた。
少し怖くて、でも、今更怖いからちょっと待ってなんて言えないくらい、私はこの数か月で彼への恋を拗らせていた。
みちり、と今にも迎え入れてしまいそうなくらい柔らかくなった入り口に、彼のモノが押し付けられる。
「ぁ、ぇ、え、待って、待っ、ゴムは」
「しないよ?」
「え、」
「ああ。あとでアフターピルはあげる。ボク、あなたとふたりっきりがいいしさ。でも、絶対に生でする」
「っっ」
言いながら、彼が体を折り曲げて私と顔を近づける。この震えが怯えによるものか、それとも興奮からなのか、もはや自分でもわからなかった。
「ちゃんとお腹の中まで物理的にボクで染まって欲しいんだよね」
「っふ、っ」
顔が熱い。
染められてしまいたい。
嗚呼もう取り返しがつかない。
「挿入れるね?」
彼の語尾は疑問形の形をとって上がっていたけれど、それはただ、私にこれからする行動を伝える以外の意図はなかった。拒否権なんてない。そもそも拒否する意思事態を潰された。
腰を押し付けられ、みちみちと隘路を押し広げながら彼が挿入ってくる。
「ハッッあ゛ッッ」
「あー・・・濡れ方すっごい・・・」
「ぁっぁっ熱、あっはぁっんあ、あぁああぁ」
「はぁ、っすっごい、んっふふっねっとり絡んでくる、っぁ、っ」
ゆっくり、ゆっくり奥まで入って来る彼の熱と存在感に思考が溶ける。意味をなさない声を口の端から垂れ流しながら、彼の熱に体を支配されていくのを感じていた。
無性に抱きしめられたくなって彼に腕を伸ばせば、柔らかく笑って受け入れてくれる。彼の首に腕を回すように誘導され、少し持ち上がった頭の下に彼の片腕が通る。お互いの胸がくっついて、途方もない安心感に包まれて、私はほう、と細く息を付いた。
「痛かったりしない?」
「ん、ぁ、ぅん、ぅ」
「よかった。もうちょっと挿入っても平気?」
「ぅ、ぇ・・・?」
一瞬、何を言われているのかわからなかった。もう全然、全部挿入ったものだとばかり思っていたのだ。私の驚いた顔がおかしかったのは楽しそうに笑った紫苑くんはそのまま腰を推し進めてくる。
「ぁ゛ッ待っ、はっぁ゛ッ」
上にずり上がって逃れようにも、彼の腕が首に巻き付いているので逃げられない。だめだ、だめだこれやばい。深い。こんな深いの知らないっ!
「よかった、痛くないみたいで。んっ、このコリってしてるところが子宮口ね。うふふっ甘えて来てるみたいで可愛い」
「あ゛ッッうぐ、ッはぁ゛ッぅ゛あっ!あ゛ッ!」
彼の体の下で悶える。息がうまく出来ない。深すぎる。踵でシーツを蹴っているのにまるで意味がない。
「苦、ッぃ、!苦しッ、ぅ゛ッッぅぐ、ぁっ!!」
彼の背中に縋りついて必死で訴える。恐らくはお腹の奥を押し上げられる甘苦しい感触に表情をゆがめる私を、紫苑くんは愛おしそうに見つめて、腕枕をしながら逃げられないように肩を抱いているのとは反対の手で、優しく頬に張り付いた髪を払った。
「もうちょっとだよ、ハっ、ぁ、ほら・・・ん」
「ふぐっ、っっ」
もうちょっと、と言った彼の言葉は嘘ではなかったようで、その言葉のすぐ後に彼の恥骨が私の恥骨と合わさったのを感じた。私自身も知らなかった場所まで体の中を押し広げられている。こんなに奥まで行くものなんだ、というどこか客観的な感想と、胸に渦巻く妙な満足感。
「はッ、ほら、これで全部挿入った・・・はぁ、幸せ~・・・」
ふにゃりと力の抜けるような笑顔を浮かべた紫苑くんが、戯れるようにキスをする。それを心地よく感じながら私は詰まりそうな息をそろそろと吐きだした。
なかなかな圧迫感だ。残念ながら、私は所謂「ナカイキ」というのは経験がないし、現状気持ちいいというよりは苦しいの方が勝っている。それでも大好きな彼と繋がったという事実だけで、お腹の底がぞくぞくするような喜びを感じていた。
「平気?ゆっくり息してね」
「っ、はっ・・・ふぅ・・・」
「いい子だね。無理に喘がなくていいし、感じてるフリなんてしないでいいからね。こうやってくっついて、ふたりの熱が混じっていくのが幸せだからさ」
セックス中に言われたことのない言葉の羅列に戸惑う。なんとなく感じてますよ、とアピールするというか、雰囲気作り的な感じで喘ぐのが正解なのかと思っていたのだけれど、そんなことないのか。
紫苑くんは羽で撫でるように優しく、私の額から髪を払い、額に唇をスタンプするようにゆっくりとキスをした。それから鼻の頭に、両方の目尻に、最後に唇に――――。
「愛してる」
「ッ、!」
ずくん
押し潰されている子宮が、重く疼く。
短く息を飲んだ私の唇が彼に食べられる。
甘く、優しく、沈められていく。もう彼しか見えなくて、彼の温度しか感じられなくて、彼の声しか聞こえない。
「ぁ、ふふっ今キュンってしたでしょ。あんまり締めないでね?ボクすぐイっちゃうよ」
全然余裕そうな紫苑くんのその言葉は嘘にしか聞こえなくて、私は少しだけ胡乱な視線を彼に送った。
「ぁ、ふっ、ん。ほんと?」
「さあ、どうだろ。確かめてみて?」
彼はいったい、私にいくつの嘘をついているのだろうか。それとも噓はついていないけど、話していないことが山ほどあるだけだろうか。分からない。
また、唇を塞がれ、考え事が霧散する。今度はぬるりと舌が入り込んできた。それが信じられないくらい気持ちよくて、うっとりと目を閉じて自分から彼の舌に舌を絡めた。
「ん、ちゅ・・・ん、」
紫苑くんのするセックスは、私が知っているそれと違っていた。こう・・・ずっこんばっこんするのをイメージしていたのだけれど、彼は全く動かない。
愛おしそうに見つめられて、キスをされて、愛を囁かれて、存在のすべてを肯定されて、またキスをする。その繰り返しだ。
でも幸福度と言うのか、愛されているという感覚はすごく強い。ホットチョコレートに沈んでいくような、甘い底なし沼に引きずり込まれるような中毒性があった。
喘ぐような快感ではないけれど、子宮を抑え込まれている感触がじくじくと体の奥を蝕んでいるのも気持ちがいい。徐々に徐々に息が上がっていて、体が奥からじんわりと熱くなってきている。
「はっ、はぁっ、ん・・・っは、」
「ん、はぁ・・・分かる?ここ。このあたり」
紫苑くんが体を起こして、私のお腹の上、おへその下あたりにそっと手を添えた。お腹に触れられただけなのに、体がびくりと跳ねてしまう。
「ボクのが挿入ってるのわかる?奥の、はぁ・・・今ね、押しつぶされてるのが子宮だよ」
「はぁっ、はっはっ、ん、子宮、潰れてる、ゥぁ、っ」
「そう、あなたの大事なところ。もうボク以外触らないところね。今ボクのとちゅーしてるんだよ、わかる?」
「ひぁっ!」
あ、やばい。やばいなんか、変な、感じが――――・・・。
「はッ、そうそう。いい子だね。いっぱいちゅーってしようね」
「あっあッあっ、ちゅう、っ」
視覚的にも感触的にも分かりやすいお腹の上に置かれた手によって、じわりと体内に感じていた彼の熱が、より明確で鮮烈なものに変わった。お腹に置かれた彼の手首を掴む。いや、掴むというよりは添えたといった方がきっと正しい。そこに戸惑いはあれ、その手をどかす意志などまるでない。
「そうだよ。ほら、ちゅっちゅっ、って。ね?」
「ア゛ッッは、ぅ゛っ~~~っ」
とん、とん、と奥を軽く小突くように小さく体を揺すられて、そこから生まれるあまりに深い快感に息が止まる。子宮から全身へ、じわっと広がる逃げ出したくなるような重たい快感の片りんに怖気づいて、どうにか彼の位置をずらそうと藻掻いた。
でも、いつの間にか全身から力が抜けてしまっていて、悶えたくても緩慢にしか動いてくれない。
「へっ、ぁっ、待っ――――」
「ふふっ上のお口もちゅうしようね」
「んむ、ぅふぅ、っ」
体の変化について行けなくて彼を止めようとしたのに、その言葉ができる前に覆いかぶさってきた彼に唇を塞がれる。彼の肩を押し返す手に指を絡められ、頭の横に抑え込まれてしまう。
だめだ。だめだ。尾てい骨の辺りがずっとぞくぞくしている。なんか変だ。全身が熱い。やめて、だめ、これだめ。
今まで全く動かなかった紫苑くんが、ぐーっと腰を押し付けてくる。
「ん゛ーーーーっっ!!」
キスをしたまま叫んでいた。子宮を深くまで圧迫されてお腹が変だ。気持ちいい。でもこの気持ちいいは私が知らないやつで、飲まれたら意味が分からなくなりそうで怖い。
「んー?どうしたの?」
唇を僅かに離しただけの状態で彼が聞いてくる。それに縋るように必死で言葉を紡いだ。
「ぁ、あ゛ッッあ、だめ、あ、あぇ、にゃ、んか、だめ、へぁっ」
いつの間にか呼吸は上がり切っていてまともに言葉が続かない。乾いた喉が張り付いてしまいそうで、つばを飲み込んだ。
「ン、ハ、ッダメなの、紫苑くんッ、私これだめっ」
「ふふっだめなの?どうダメなのさ」
聞いてくる彼は少し楽しそうで憎らしい。その上、私が何でダメなのかを恐らくは把握しているだろう。押し込んだ腰を、ゆっくりと揺すりだしたのだ。抜き差しするわけではない。恥骨同士をぴったりとくっ付けたまま、つまりは子宮を押しつぶしたままで、ゆるゆると体を揺さぶるのだ。
「ひッ!ぁ゛ッダっ、はぁ゛ッ!しきゅ、ッ子宮っ!子宮熱いぃ゛!あ゛ッッぞわぞわ止まらな、ッからぁ゛ッッ」
「そっか。苦しいねぇ。早く治まるといいんだけど」
まるで他人事のように彼がそう呟く。表情だけやけに優し気なくせに、目はとろりと甘く溶けていて嗜虐的だ。
「ぅう゛ッ、ふっぅぐ、あ゛、1回ちゅうやめるっ、子宮、ちゅうするのぉ゛ッッやめ、ぇあっ」
「んーん。やめないよ。ちゅーはね、ずーっとするから、他にどうにか収まる方法考えよう?」
滅茶苦茶だ。何を言われているのかさっぱり分からない。出て行ってくれるのが一番いいに決まっているのに、私が激しく首を横に振って訴えても、彼はまるで聞き入れる様子がない。
腰を揺するのを止めて、ゆっくりとお腹とお腹を合わせるように彼が私の体に体重を掛けてくる。熱って汗の滲んだ肌に彼の少し低い体温の体が気持ちよかった。
ぎりぎり重たくはない位に体重をかけて私を潰しながら、彼は私の頭の横に肘をついた。そして優しく髪を撫で、頬を摘まんで楽しそうに笑った。
「子宮ぞわぞわーってしてるのは、気持ちいいって言うんだよ。分かった?」
「はぁっは、んっふぅっふーーーーっっ!わか、ないっ」
「ふふっナカでイった事ないんだ?まあ、今日イけるかは分かんないけど、ゆっくり味わって理解したらいいと思うし」
「ボクは別に焦ってないから安心して?」となんの安心材料にもならないことを言いながら、唇を塞がれる。立てた指を髪の中に差し込んで、頭皮をマッサージするように撫でられる。それが妙に気持ちよくて、また子宮から滲む快感が重たくなる。
「ん、ちゅ、ふふっ幸せ過ぎて溶けちゃいそう。ふふっ舌しまえてないよ?」
「んぇ、へっへむ、ぅちゅ、んんぅぅ」
口の外で舌に吸い付かれる。そのまま彼の口の中でもみくちゃにされているのに抵抗ができない。されるがままになりながら、それでも子宮を押しつぶした状態から少しでも脱しようと、体が彼の下で賢明に悶えている。
でも無駄だった。シーツを蹴ろうが、彼の体を少しでも離そうと脚を絡めてどかそうと力を籠めようが、まったく、びくともしない。
ただただ、恐れを抱くような快楽がじわり、じわりと全身に回っていく。それはまるで毒のようだった。
「んむ、へぁっ!待っあ゛っ、待って、ちょっとだけぇ、紫苑く、ふッ、ちょっとだけだからぁっ」
「んー?待ってるよ。こうやって大人しく、大して動きもしないでいるでしょ?ばっちばちに腰打ち付けてもいいの?」
「っだめぇ!」
「でしょう?」
そんなのダメに決まってる。動かなくてもこんなおかしくなりそうなのに、こんな状態で腰を叩きつけられたりして、ろくなことにならない。
「あ、奥広がって来た。イっちゃいそうだね。はぁ~気持ちぃ、入口の方すっごい締まってるよ?」
「へッ、へぅッ!だめっ、だめっ!なん、ぁ゛っはぁ、んっだめなのクる、だめになっちゃう、これだめェっ!」
もう「だめ」意外に言えることがなかった。しかもダメと言ってるくせに、彼に押しつぶされた腰がへこへこと揺れている。交尾する雄犬みたいなはしたなさだと思考の片隅で思うけど、もう止めることもできない。
浅い呼吸しかできない。目を見開いているのに、目の前にいる彼の事もあまり見えていなかった。
「だめなことないよ?気持ちいいだけだから、味わってみたら?」
「ひぁ、アッ!」
そんなことを言われても、どれがイくだか分からないのだ。クリトリスの間隔と全然違う。ここからどうしたら解放されるのかが全く分からない。なんせ経験がないのだから当たり前だ。
ずっと全力疾走しているみたいだ。苦しい。気持ちよすぎて苦しい。終わって欲しい。これがずっと続くなんて無理だ。既に毒が全身に回っていると分かっているのに死ねないような、そんな快楽。私はもうほとんど泣いていた。
「苦しいぃぃいっ!も、ぉ゛ッッもおやだぁああっ!あ゛ッッあ゛ッッわかんにゃいの!イくのわかんな、あ゛ッッ助けてっ助けてぇぇっ」
「うふふっそうやって懇願されると助けてあげたくなっちゃう」
穏やかな彼の声が福音のように私の鼓膜を撫でる。首を仰け反らせ、後頭部をベッドに擦り付けるようにして悶絶している今、彼がどんな表情をしてその言葉を吐いているのか私にはわからなかった。
ゆるく手首を掴まれて頭の横に抑え込まれる。
ああ、もう終われる。これでやっと解放される。
拘束されて溢れたのは、心の底から沸き上がる安堵だった。
「いい子。トドメをあげようね」
ず――――ぱちゅんっ!
「ひぎぅっっ!?♡♡♡♡」
たった一突き。
それだけで、世界が真っ白に染まった。全身へ染みる程子宮に溜まっていた快感が爆発して脳を焼く。脊椎が痺れる。
がくんっがくんっ!と馬鹿みたいに腰が跳ねる。ネジ巻式のおもちゃにでもなったようだ。息ができない。まともに声も出せないで、快楽の暴走に翻弄される。今自分がとんでもなくあられもない状態にされてしまっているのは理解していて、でももはや制御下になくてどうしようもない。
「はッぁ゛ッッ♡♡♡♡ひゅぁっ♡♡♡♡ぁ゛ッッ♡♡♡♡」
「はぁぁ、可愛いッ!最高に可愛いっ!イけてよかったね?イき方分からなくて悶絶してるのも最高に可愛かったけど、頭真っ白になっちゃってるのもほんと可愛い・・・」
「ダっッ♡♡♡♡ひィぅッッ♡♡♡♡あ゛ぐぅぅ゛ッ♡♡♡♡」
止まらない。なんで、なんでっ!終わるんじゃなかったの。イったら終わってすっきりするんじゃないのっ!?
収まらない波に混乱が増す。紫苑くんは暴れる私をしっかりと押さえ込む。手首は勿論、お腹も少し圧迫感を増し、初めて味わう深い絶頂に震える子宮を、情け容赦なくにちぃ、っと押しつぶしている。
「ゆっくりイってて?雑にしないで、ゆーっくり味わって」
「ぁ゛♡♡♡♡ぉ゛ッッ♡♡♡♡ぅぐううぅうぅ゛っっ♡♡♡♡」
ぴったりと体を寄り添わせて、全身を使ってベッドに押さえつけられているせいで、どんなに藻掻いても腰の位置をずらすことすらできない。必死で首を横に振るけれど、まったく取り合って貰えない。
「子宮、気持ちいい?もう気持ちいいの全身に回ってるかな・・・ね、じわー・・・ってさ。お腹や太ももに広がって行って、それがどんどん指先の方まで、ずーっと、ね?じわーって広がっていくの」
「だぇ゛♡♡♡♡、めっ♡♡♡♡ぉ、わっでぇ゛ッッ♡♡♡♡」
踵でシーツを蹴り、そのうちつま先がピン、と伸びてシーツを軽くかき混ぜるくらいしかできなくなる。
やばい、やばいこれだめだ。頭おかしくなる。どんどん沈んでいく。終わりがない。なんで。こんなの知らない。こんな、こんなの私壊れるッ!!
「やぁあああぁああ゛ッッ♡♡♡♡」
底なし沼に引きずり込まれていくような絶望的な快楽に発狂しそうで、私はなりふり構わず悲鳴を上げていた。
「うん。やだね。怖いの?ずっと一緒にいるからね。安心して。うふふっずーっとひくひくしてるの可愛い」
「っぁく、ッ♡♡♡♡ぉ゛ッッ♡♡♡♡」
「ゴリゴリしてあげよっか。そしたらもっと気持ちいいんじゃない?」
「きゅ゛ッ♡♡♡♡♡♡♡♡」
押し付けられた腰が円を描くように動かされ、押し潰したまま子宮を捏ねまわされる。ばちっと頭の中で電気が弾けるようなおかしな感覚と共に、喉が絞まり裏返ったおかしな音が零れ落ちた。
「はぁ、ぁっ、締め付けえっぐ・・・。気持ちいいねぇ?大丈夫、ちゃんと抑えててあげるから、しっかり味わって」
「ぁ゛ッッ♡♡♡♡っっ!!!♡♡♡♡~~~~~~ぎぅッ♡♡♡♡♡♡」
声を出せない。
息ができない。
気持ちよすぎる。
なにこれ、なにこれぇわけわかんないもう気持ちいいの終わって、終わっあ゛、あ゛ッ死んじゃう死んじゃうぅうぅ゛ッ気持ちいいのもうやだぁっ!
「っ、はっ、あ~・・・だめだ。ボクも射精る」
「ふぁ゛ッ!!?」
勢いよく彼が出て行って、びくんっ!と大きく体が跳ねた。彼を追うようにびしゃっとまた漏らしてしまうけれど、気遣っている余裕はない。
体を起こした紫苑くんが、投げ出された私の両脚の膝の下に腕を通した。そのままベッドのに手を付くものだから、私は脚を大きく開いた状態で固定されてしまう。
ぼけぼけの頭でもこの体勢がマズい事は察せられた。
「待っ、紫苑く、ッ待――――」
ぬちっ
「ひぅっ!」
入口にエラの張った彼のモノが押し当てられる。その感触だけでびくんっ体が跳ねてしまう。
「もう待たない」
ばちゅんっ!
「お゛ッッ!!♡♡♡♡♡♡」
腰を叩きつけられた瞬間、頭の中が真っ白に染まった。
ず――――ばちゅんっ!
「あ゛ぅッッ!!?♡♡♡♡」
もうダメなのに。全然もう限界を超えているのに、彼は容赦なく腰を振りたくる。
「いやっ!!♡♡♡♡ぁああああぁぁ゛ッ!!♡♡♡♡死んじゃうッ!♡♡♡♡ヤダぁああっ♡♡♡♡」
「あッ!はぁっんっ、あはっ殺されてくれるの、ッ?はぁっやばい、それっはぁっすっごい興奮するっ!」
心底楽しそうで興奮しきった様子の彼が、嬉しそうに私の首に片手を添える。頸動脈の上を軽く押さえつけられて、決して首を絞められている訳ではないのに喉がひゅっと鳴った。
「あ゛ーーーー、しないよ、大丈夫。一緒に暮らしたいんだもの。殺したりしないけど・・・・・ねぇ、知ってる?首の血流抑えられるとさ、キメたみたいに気持ちいいんだって」
「っぁ゛ッ♡♡♡♡♡~~~~ッッ♡♡♡♡♡♡」
ぐるりと視界が回る。もう頭の中も目の前も真っ白で何も考えられなかった。
「ぁっ、フっ、ナカやばっ・・・あ~、ボクも、もうだめ」
ばちゅっ
ばちゅっ!
こちゅっ
「ぅ゛ッ♡♡♡♡はぐぅッ♡♡♡♡へっ♡♡♡♡へぁぇ゛ッ♡♡♡♡」
「ぁっ!射精るッ、ッ」
ごちゅんっ!!
「ぁ゛お゛ッ♡♡♡♡♡」
「ッぁ、・・・・ん゛っ」
意識が朦朧とする。
喉が風が通り抜けるようにひゅうひゅう鳴いていた。もう指一本動かせない。満身創痍だ。
「はぁ・・・」
深く満足そうなため息をつきながら、彼が私の体の上にのしかかる。肌が触れ合うとお互いの汗が滑って妙に気持ちがいい。多分普段なら気持ち悪いと感じるだろう感触なのに不思議なものだ。
嗚呼、そうだ・・・お風呂、沸かさないと・・・。
ゆっくりと彼がまた腰を押し付けてくる。
「ぁっ、は、ぁっ・・・?」
ぐじゅっとひどく水っぽい音がした。さっきよりもぬめりが強い。それが彼の精液なのだと思うと散々虐められて、今もまだ押しつぶされたままの子宮がじくじくと喜びにうずく。
あれ・・・いや待って。そもそもなんでまだ押しつぶされてるんだ。紫苑くんイったよね・・・?
「んぅ」
なんか変だと思ったのと同時に唇を奪われる。口の中を優しく舌で撫でられて、うっとりとしてしまう私は恐らく相当頭が悪い。
「ねぇ?大好き」
唇を離し、上体を起こした彼が私の横に手を伸ばす。そして手にした黒い縄を私に見せつけながら、ゆっくりとまだ萎えた様子のないモノを子宮に押し付けた。
「だから、もうちょっと遊ぼ?」
「っっ」
大好き、と言って笑った彼の提案を断る方法を、私は今のところ知らない。
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