【007:七瀬 夏樹】1話『人でなしより愛を籠めて』
~~~雑記~~~
ご覧いただきありがとうございます。
ようやっと書き上げました。大好きな衣類婚姻譚もの。ホント好き。
『泣ける話』が書きたくて、なんかそんなつもりで書きました。涙を誘えたら幸いです。
まあね、最終的にヤってんだけどさ。それはそれですよね。
9月短編遅くなっていて申し訳ございません。今週アップしますので少々お待ちくださいませ。
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数ある作品の中からこの小説をお選びいただきありがとうございます。
この小説はひとりえっち専用ノベルです。
作者の独断と偏見による「できるだけ妄想しやすい」作風を心掛けています。
特徴としては以下の通りです。
・前編は事に至るまでのストーリーです
・後編はもうヤってるだけです
・ヒロインに名前はありません
・心理や動作の描写をできるだけ細かくしています
・めちゃくちゃにイジめられたい人用の内容です
・有料版は最後の章になります
今作は有料部分の文字数が多い(8,000字程)ため398円での販売になります。
もちろん、上記のことをご了承の上普通の小説として読んでいただいても作者としては嬉しい限りです。その際はぜひ背後からの視線にご注意ください。
【注意】
・ヒーローが妖怪です
・フラッシュバック、人が死ぬ表現などがありますので、苦手な方はご注意ください。
【ご常連の皆さまへ】
・♡が少なめです(当社比)
・喘ぎ声きれいめです(当社比)
・最近の流行り(?)に乗っかり、短めで区切っています(5,000字前後)
読みやすいよう工夫してみてます。お気に召したら幸いです。いつもご愛顧頂きありがとうございます。
【本作のキーワード】
・妖怪、異形・幼馴染・童貞(?)・死に別れ・淫紋・関西弁・連続絶頂・潮吹き・気絶・神隠し
それでは、あなたのめくるめくリラックスタイムの一助になりますように。
1話
視界を真っ白く染めるほどのヘッドライト。
鼓膜をひどく震わせる大きなエンジン音。
鳴らないブレーキ音。
私の名を叫ぶ耳慣れた、でも劈くような、それでも尚大好きな声。
ひどく荒っぽく引かれた腕と、肩を脱臼する痛み、衝撃。
水っぽい衝撃音と、目の前で赤く散る、彼の――――・・・
「っ夏樹!!」
彼の名を叫びながら飛び起きる。
泣き叫びたい衝動が喉を締め付ける。全身が痛いくらい強張っている。タオルケットを親の仇のように握りしめたまま、手放すことができない。まるであの瞬間、手を伸ばす事すら叶わなかった自分をまざまざと再現しているようだ。
全力疾走をした後のような荒い呼吸が、しん、と静まり返った暗い部屋に、やけに響いて聞こえた。
夢だ。
これは夢だ。
分かってる。
大丈夫。いや、大丈夫ではない。
けれどもはやどうしようもない、取り返しのつかない過去だ。分かっている。夢だ・・・夢だ・・・。
のろのろと視線を上げ、壁に掛かっている丸時計を見やる。3時を少し過ぎたあたりだった。
最悪だ。
明日も仕事なのにこんな時間に目を覚ますなんて・・・。いや、明日って言うか、もう今日と言った方がいいか。
マジか・・・、マジかぁ・・・。会議あるのに。笑えない。でももう夢見が怖くて寝られない。それは経験則で分かっている事だ。
「あ゛~~~~」
呻き声を上げて髪をぐしゃぐしゃにかき乱す。声を上げたのは態とだ。沈黙が耳に痛すぎて耐えかねた。
呼吸は大分整ったものの、鼓動はまだばくばくと走っていた。頭が痛い。汗で湿った髪が気持ち悪い。
枕元に置いてあるエアコンのリモコンを操作して、節約の為28度にしていた設定を26度まで下げる。丑三つ時の室内には不釣り合いな、軽薄な電子音と、ごうっという人工的な風を発生させる音が響いた。
恐怖に強張った体をほぐすべく、首を回し、軽くストレッチをしながらべッドから下りた。風呂場へ向かう道すがら、手探りで部屋の電気を点ける。そのタイミングで、スイッチの横に設置した棚が目に入った。正確には、棚の上に飾った写真の中の人物と目が合ったというべきだろう。
そこに映る人物は、夢とは違ってにこやかな笑みを浮かべている。高校の学ランを着て、これ見よがしに卒業証書の入った筒を掲げ、そして隣にはセーラー服の私が、肩が触れるか触れないかの微妙な距離で並んでいる。彼は勿論、私も実に能天気な笑顔を浮かべ、さも幸せそうにこちらを見ていた。その先に晴れがましい未来が待っていると、信じて疑っていない、そんな幼い笑顔だ。
「夏樹・・・」
もしもこの日に戻れたら――――そう、何度思ったことだろう。
何度も何度も。
何度も何度も何度も。
思い、祈り、願い、乞い、そして叶えられなかった願い。
そりゃそうだ。
タイムリープだの逆行転生だのなんて非現実的すぎる。そんな事分かっている。でもほら、たまに、まるで本当にあった事みたいに語られるものだから――――。だから、自分にだってそんな奇跡が起きてもいいんじゃないか、なんて・・・そんな傲慢な考えが過ったりする。
そしてもちろん、今日までそんな奇跡は起きていない。そういうところ、現実って言うのは本当に、これ以上なく、どうしようもなく、徹底的に現実しているものだ。現実のそう言うところが心底嫌いだが、お陰で私は、悪夢に悩まされつつも平穏無事に今日も生きているのだろう。
だってきっと、私の脳のキャパシティでは時間が一方通行でない世界なんて生きづらくて仕方がないだろうから。
現実から逃れられない私は、そっと彼の名を呟き、こつん、と写真を倒さないように気をつけながら、その小さな額を小突いた。
「もうちょいマシな登場しなさいよ」
悲しいかな、彼の笑顔は微動だにしなかったし、返事だってなかった。
ねえ?
もし会えるなら、声を聴けるなら、触れることが叶うなら。あなたが幽霊だろうが、悪霊だろうが、肉の塊だろうがなんだって構わない。構わないから・・・だからどうか・・・。
...
..
.
結局、予想通り私は、胸の奥に潜む恐怖と怖気のおかげで眠る事もできず、大して興味もない動画を適当に流し見て鬱々としながら朝を迎えた。眠れなかったから眠くないという事にはならない。めちゃくちゃ眠い。その為眠気覚ましに、もはやただの苦みしか感じない程に濃いブラックコーヒーをぶち込んで、通勤電車に乗り込む羽目になった。
怪我の功名というべきか、少し早めに出勤できたのは良かったのかもしれない。始業前にメールの処理が終わったし、余裕をもって定時に上がれそうだ。
いつもは会社に置いてある給茶機で、紙コップにコーヒーを淹れて参加してる会議だが、今日はペットボトルでブラックコーヒーを持参だ。だって無理だ。紙コップの量じゃ絶対足りない。その程度のカフェインじゃ寝る自信しかない。
参加できるタイプの会議なら一向にかまわないのだが、今日のような人の報告聞くだけ系の会議は、普通に参加しているだけでも眠くなる。
というか、そもそも今回の会議内容、うちの部署は掠めるくらいしか関係してない。もう全然参加メンバーから外してくれていいんですけど、って感じのアレだ。「主任だけ参加すればよくね?」と部署の全員で話しているくらい淡い関係しかないやつだ。それでも参加しろと上からのお達しがあれば、社畜は喜んで参加して粛々とありがたくもないお話を傾聴するしかない。
まあ、そんなあまり参加意義を感じない会議も――一瞬意識が飛びかけたけど――お昼休憩のチャイムが鳴ったのを契機に無事終わった。
ぐぎぎぎっと伸びをして、席を立つ。
さっさとお昼を食べて、仮眠して、あとは午後にいくつか電話を掛けるのと、事務作業をちょこちょこ熟せばおしまいだ。しっかり定時に上がろ。明日は休みだし漫喫行こうかなぁ。なんかこう・・・バトル系のなっっっがい漫画とか読みたい気分だ。
「――――さん」
背後から苗字を呼ばれて立ち止まる。
その声を聴いただけで、昼休憩という事で少し上向いた私の機嫌は急降下だ。
一瞬止まって、彼とやり取りをする覚悟を一呼吸で決める。
隣の島に座っている灰寺という派遣社員の男である。仕事では随分と優秀らしいが、何かと絡んで来るので私は非常に苦手だ。ぶっちゃけ隣の島は、うちの部署とはほぼ関りがないのに、なんでそんな話しかけてくるんだよと、毎日思っている。
「はい、なんでしょうか」
とりあえず腹は括ったので、返事をしながら笑顔を貼り付けて振り返る。これからお昼を食べて仮眠もとりたいので秒で終わらせてやる。
「今日仕事終わってから暇?」
「あー、ごめんなさい。今日はちょっと予定があるんです」
そも、まったく仲良くなった認識もないのに、なんでこいつタメ口なんだろう。そこから嫌いだ。いや、そこも嫌いだ。
満喫に行く予定は、行くか行かないか迷っている段階だったが、今確定の予定に変化した。だって、夏樹の夢なんて見ちゃった日には、きちんとメンタルケアをしなければならないもの。非常に大事な予定である。とてもじゃないが好きでもない挙句、ただ隣の島ってだけで全然別の仕事をしている同じ会社の人間に時間を割いている暇などない。
ちなみにどうでもいい話だけれど、灰寺さんに誘われた回数はもはや覚えていないが――両手の数は確実に超えている――間違いなくすべて断っている。
「ノリ悪いなぁ。金曜いっつもダメじゃん」
「週末ってどうしても予定入ってることが多いので」
「あ、じゃあ明日はどう?」
思わず笑顔が引きつった。
「えーーーっと・・・」
そもそもコーヒーで無理やり覚醒させているだけの脳の回転はそこまで早くない。そのせいもあって、答えに詰まってしまった。だって、これどう躱すのが正解なんだ?
そもそも5回以上断られて、相手から「ここなら空いてますよ」とかの提示もないならもう誘わなくない?普通。金曜日だから駄目なんじゃなくて、遠回しに・・・っていうか割と直接的に、永遠のお断り突きつけてるつもりなんだけど、これ気付いてもらえないものなの?これで気づいてもらえない場合ってどうしたらいいの?「あなたと遊ぶ気はないのでおとといきやがりくださいませ」とかが正解?
正直、これが飲み屋で知り合った人とかなら、平気でぶった切る事もできる。でもあくまで職場の、しかも仕事上は関係なくても、隣の島で毎日顔を合わせる人間なのだ。あんまり事を荒立てたくない。だから是非とも察して欲しい・・・。
え、ダメかなこれ。これ察してちゃんになるなのかな。社会人的常識の範囲内じゃないの?ダメ?
「あー、ごめんなさい。週末は全部埋まっていて・・・」
もう引きつった顔を修正するのすら面倒で、私は壊れたおもちゃみたいに同じ理由を繰り返した。全然誤魔化せてない気がするけど、もうだめだ。なんか新しい言い訳を考えるのすら面倒で、かなり投げやりになっている自覚があった。
大して親しくもない会社の人間と、わざわざ休日を一緒に過ごすわけなかろうよ。頼むよ、気付いてくれ。
「でも彼氏とかいないっしょ?」
「・・・・・」
あ゛ーーーー!!
もうダっっる!
うっっっざ!
寄りにもよって、今日一番踏んで欲しくない地雷を踏んでくるじゃん。なんなんだこいつ。派遣契約の更新やめてくんないかなマジで。
恋愛は地雷なんだよクソが。来る日も来る日も大好きだった、多分両片思いしてた幼馴染が死んだ場面を夢に見続けて、部屋に写真飾って、毎日10回は彼の名前を呼んでるくらい未練タラタラなの。無理なの。私の心はもうそこから動けないの。動きたいとも思ってないの。
もっとぶっちゃけてしまえば、自殺できないから生きてるだけの人間だ、私は。
寝不足の脳みそはいつもより理性が死んでいて、普段は底の方に押し込んでいる焦げついた上で腐ったみたいな、しょうもない思考が、汚らしい油汚れみたいに浮上してくる。
恋人なんていらない。時たま、どうしようもなく本能的に人肌が欲しい時だけ、その場限りの関係を探すくらいがちょうどいい。そのうち覚悟が決まったら――――もう死ぬのも怖くないなって思えたら――――。そのタイミングが来ることを切に願いながら、解放の時をぼんやり夢想して、一応それまで生きるために、最低限の社会活動をしているだけ。
「それ、灰寺さんに関係ありませんよね?」
「え・・・」
思った以上に冷え切った声が出た。
嗚呼これが堪忍袋の緒が切れるってやつか。そんなくだらないことを頭の片隅で思いながら、私はばっさりと灰寺さんの言葉を切り捨てた。何の好意も抱いていない人間に対する配慮は、もう残っていない。それでも、一応は今後もこの会社で働くために必要な、最低限の配慮だけで、どうにか言葉の体裁を整える。
「申し訳ないんですが、お昼を買いに行きたいので失礼しますね」
もう目元に笑みを浮かべる努力なんてせず、とりあえず口元にだけは笑みを模って言い捨てて、私は返事も待たずに踵を返した。
もういいや。
なんかもう優しく対応するのアホらしくなっちゃった。
この前の席替えで、席も遠くに離してもらったし。仕事で関わる事もないし。うちの部署内では一応迷惑してるって話をそれとなく広めてるし。最悪転職しよう。面倒だから出来ればしたくないけど、どうしてもこの会社じゃなきゃ無理ってわけでもない。
唐突に我慢の限界が来て切り捨ててしまったわけだけれど、いっその事私は清々しい気分になっていた。メッセージアプリを起動して、同じ部署の先輩にランチの誘いを掛けながら、背後から私を呼び留める灰寺さんの声を、完全に聞こえなかったことにして、そのままオフィスビルの内廊下へ続く扉を開けたのだった。
2話
同じ部署の先輩は、唐突な私の誘いにも嫌な顔ひとつせず乗ってくれた。非常にありがたい。オフィスビルの1階ホールで待ち合わせて合流したのだが、その時点で既に彼女は「あれでしょ。例のあの人に呼び止められてたやつでしょ」とワクテカが止まらない様子である。きっと彼女は、会議室から出る時に呼び止められた私を見たタイミングで既にワクテカしていたのだろう。
その様子にちょっと笑いながら、私たちは隣に立つ商業ビルの安いイタリアンへ入った。
「そこまで鈍感になれるって逆にすごいよね、例のあの人」
「前々から思ってるんですけど、その呼び方ってすっごい人殺してそうですよね」
容赦ない評価を下す先輩の言葉にちょっと斜めの返答をしながら、私は食後のアイスティーをストローでひと口飲んだ。
それぞれ頼んだランチセットのパスタを食べながら、先輩はしっかりと今さっきの出来事を聞いてくれ、結果先ほどの感想がまろび出た訳である。
「いやでも人殺せそうなメンタルしてる気がするけどね」
「やー・・・ほんとそれ」
先輩の言葉を全く否定できなかった。ほんと、なんなんだろうあのクソ強メンタル。いっそ羨ましい気がする。嫌いだけど。全然憧れないけど。
「なんかもう、どう対応するのが正解なんですかね?」
「うーん・・・難しいとこよね。職場でギスギスすんのもしんどいし、ここまで察する能力低いタイプに逆恨みとかされても怖いしなぁ」
「そうなんですよねぇ・・・まあさっき大分やっちゃった気はしますけど」
先輩の言葉にため息混じりで答えながら、行儀悪くストローをずずずっと鳴らす。追うように氷がからん、と涼しい音を立てた。
「自意識過剰かもしれないけど、嫌がらせされたらとか、ちょっと考えちゃうんですよねぇ・・・あんまり刺激したくもないって言うか」
「いやわかるよ。自衛大事だって。あんだけ断っててなお誘ってくるって普通に怖いよ」
「え、ですよね?あれだけ断ってたら永久にお断りなのって伝わりますよね?」
「普通はね」
先輩の返答に思わず安堵のため息が出る。よかった理解者がいて。
同じ部署に理解者がいてくれるのは、本当にありがたい。これで「あれだけ一生懸命なんだし、デートくらいしてあげれば?」なんて空気になった日には最悪である。というか、同じ部署の、主に男性陣が若干そんな空気を醸し出したことがあったのだが、そこを救ってくれたのが今目の前で話している先輩だったりする。
「え、顔もタイプじゃない、第一印象も最悪、しかも後々面倒な感じになりそうって分かってる女の子に言い寄られてデートとかするタイプなんですか?女なら誰でもイイってタイプです?」って真顔で聞かれたその男性社員は、一瞬固まってから「すまん」と謝ってくれたので今も良好な同僚関係でいる。先輩様様である。
隣の島の人たちはまんま「デートくらいしてやれよ」って雰囲気らしいけど、まあ同じ部署の仕事ができる灰寺さんの肩を持つ気持ちは一応理解できる。できるが、私には私の価値観があるので、その辺りはもう割り切って気にしていない。そもそも仕事で関わらないしね。基本的には「おはようございます」と「おつかれさまでした」しか言葉を交わさない人たちだ。なんならこっちが挨拶して返答がなかったところで全然気にならない。
「とはいえ、今のところ隣の部長にちょっと話すとかくらいよねぇ・・・」
「とはいえうちの部長と仲悪いですしねぇ・・・」
「・・・ならもう現状維持かぁ・・・」
「ですよねぇ・・・総務まで持ってくほど大ごとにするのも面倒ですし・・・」
ふたりで同時にため息をつき、それぞれなんとも形容し難い不満を表すようにストローをずずずっと鳴らす。実に子どもっぽい反抗だが、他にも不満の表明方法も浮かばなかったのだ。
嗚呼全く、楽に生きて死にたいものだ。
「さて・・・そろそろ戻りますかね」
「しんどぉ・・・」
ひとり掛けのソファにそっくり返る私を笑いながら、先輩が席を立つ。
「ほら行くよ」
ほとんど返事になってない呻き声を返しながら、私も先輩のあとを追ったのだった。
...
..
.
定時までは存外さっくりと終わった。ことさらトラブルもなく、灰寺さんもいつの間にか姿が見えない。早退か外での勤務だったのだろう。実に平和だ。
「お疲れ様でした」
今日は定時で上がれるように、あらかじめ周囲に手伝うことがないか聞いていたので、私は定時ぴったり、鐘が鳴った瞬間に帰り支度を始め、これ以上なく爽やかで後腐れない笑みを浮かべて、同僚たちに終業の挨拶を告げた。
「いや早すぎだろ」なんて笑い混じりに揶揄われたが全く気にならない。私のこの後の予定はもう確定しているのだ。速攻で帰って、秒でお風呂に入って、洗濯だけ干して、スエット生地のだるだるロンスカとパーカーに着替えて漫喫へ行く。
つまり、一秒たりとも無駄にはできない。
何を読むかはまだ悩んでいるところだ。新規開拓もいいけど、しばらく前に読んだ、面白いことを確信できるレジェンド作品もいい。でも新巻を読めてない作品も気になる。
いやどうせ朝までコースだ。寝落ちするまでにどこまで読めるか・・・つまるところ、何から読み始めるのがいいか、という問題だ。優先順位は決めておきたいところだ。
これから読む漫画のことで頭をいっぱいにしながら、改札を抜けた。
電車はそれなりに混んでいるが、朝のラッシュほどではない。座れはしないけれど、押し潰されることもないという程度だ。
今この電車に乗ってるビジネスマンの大半は定時組だろうか。そういう日もあるよね。残業代は美味しいけど、自分の時間ってお金じゃ買えないもんね。なんて、妙な仲間意識が湧いてくる。これだけ定時上がり組がいるなら安心だ。何が安心かいまいち分からないのだけれど、なんとなく安心だ。
最寄り駅から家までは、歩いて10分ちょっとかかる。週末の疲れ切った脚は、その10分すら煩わしいのだけれど、残念ながらここでタクシーを拾うなどというリッチな選択ができる程、稼ぎは良くない。いや。いや、ポジティブに考えようじゃないか。歩くの健康的だしね。いい事だよね。ちょっともうパンプス脱ぎ捨てちゃいたい気分ではあるんだけどね。
9月に入って、少し日差しも落ち着いた。都会でも、蝉は鳴くし、トンボは飛ぶ。赤く染まったトンボをちらほら見るようになると、まだ全然暑いけれど若干秋を感じ始める。実際、夏の焼き付くような日差しは多少和らいできているように感じる。
日暮れも早くなってきたけれど、それでも18時を回るかどうかの現在、空は夕日をビルの向こうに抱えてながら空を茜色に染めており、まだまだ明るかった。
うちの最寄り駅の駅前はそこそこ栄えている、と思う。駅のすぐ目の前にはちょっと寂れたショッピングモールがあるし、商店街もある。いっそのこと、ショッピングモールが若干しょっぱい感じなせいか、商店街がかなり盛況だ。
個人経営であろう店がずらずらと軒を連ねている姿はなかなか活気があり、私は毎回この道を通って帰る。
いつもであれば普通に買い物もする。八百屋さんとお魚屋さんはかなり良心的な価格設定だし、お惣菜屋さんがとにかく豊富だ。正直の商店街が気に入っているので、もし引っ越しても、最寄駅は変えずに引っ越すと決めているくらいには気に入っていたりする。今の部屋自体、特に不便もないので今のところ引っ越す予定はないのだけれど。
そう広くない道に並ぶ惣菜店や肉屋、飲食店から美味しそうな匂いが流れてきて、思わず立ち止まる。
あーもう。すごい食欲が掻き立てられる。どうしよ、コロッケ揚げたてだって。えー、あそこの美味しいんだよな。
一瞬止まった足をどうにか再度動かした。
いやだって、お昼にパスタ食べたんだもの。そろそろぴっちぴちの若者とは言えなくなってきた妙齢の女子としては、ここは我慢したいところだ。漫喫行ったら絶対コーンスープを我慢できないし・・・。というかおそらく夜食も何かしら頼んでしまうに決まってる。つまりここは、少しでもカロリーを抑えておきたいところなのだ。
お総菜屋さんやらパン屋さんやら、いい匂いで誘惑してくるあれこれをどうにか振り切り、魅惑に満ち満ちた商店街を抜けると、周囲は一気に住宅街へと変わる。
あんなにも賑わっている通りがすぐそこにあるのに、一本道を跨いだだけで随分と閑散とするのだから不思議だ。
家まであと5分ほどだ。歩けば歩くだけ人の数は減っていく。
静かな住宅街に、私のパンプスの音がやけに響いて聞こえた。
進めば進むほど足音は加速度的に減っていき、今聞こえているのは、自分の足音と、そしてもうひとつ。革靴の、恐らくは男の物であろう重たい足音だけだった。
それは、別におかしいことじゃない、はずだ。だってここは住宅街で、そりゃ働くお父さんだって普通にいるだろう。忙しい現代社会人とは言え、定時で帰る日がないとは言えない。
逢魔が時、だなんて呼称されるこの時間帯のせいだろうか。薄く暗くなってきた住宅街。空の隅だけ妙に赤いのが、きっと不安を掻き立てるのだ。二人分の足音しか聞こえないという状況が落ち着かない。
「・・・・・」
鳩尾のあたりに不快感と不安感が立ち込めていた。
そんなはずはないのだろうが、なんだか後をつけられている気がしてならないのだ。心臓がちょっと五月蠅い位に跳ねている。
立ち止まって確かめてみる?
いやでも、それはそれで怖い。距離を詰められるのも嫌だし、刺激するのも嫌だ。
ここ最近、この道を歩いている時に度々視線を感じる事があった。すわストーカーか、と思わないでもなかったのだが、しかしスマホのインカメであったり、不意に振り返ったりと確認してみても誰がいたわけでもない。それが、今日に限ってこんなにハッキリ追われているような感覚に襲われている。
こちとら女のひとり暮らしである。私は別に、自分が絶世の美女だなんて思ってないし、ついでにスーパーモデルみたいなスタイルをしている訳でもない。でもだから安全か、と言われたらそんな事もない。ニュースで見る被害者たちは、大体が普通の人だし、それは私も同じだ。
歩調を変えないまま、しばし歩く。視界の端にひとつの曲がり角が目に入った。そこを曲がらずまっすぐ行けば自宅で、曲がって少し歩けばコンビニだ。
多分、恐らくは自意識過剰だと思っている。後ろを歩くのは、きっと疲れた週末のお父さんに違いない。
それでも自宅付近で、知らない男性であろう人とふたりっきりという現状は、一人暮らしの身の上としては、どうしても怖い。
ほんの少しだけ迷い、私は角を曲がる事にした。
別に、疲れたOLが、仕事帰りにコンビニへ寄ったからって何も問題はないだろう。こんな不安なまま自宅へ帰るなんて、自意識過剰と言われようと、ちょっとできそうになかった。
不自然じゃない程度に、でもさっきまでより少し速足で歩き、コンビニへとたどり着く。入店を告げる電子音に、こんなにも安心させられたのは初めてだ。
とりあえず、変な動作は見せたくない。いや分かんないけれど。ただの滑稽な大人な可能性は捨てきれないのだけれど。いやもうこの際開き直ろう。これで別にただの気のせいだったとして、誰に迷惑かけてるわけでもないんだしいいとしよう!私がちょっと恥ずかしいだけだ!
日本人じゃないと絶対に「いらっしゃいませ」を崩して言ってるのだとは分からないような声がかかる。それはスルーして、まずは適当に商品棚を物色し、そしてさらりと流れるように窓際に設置されているATMへと移動した。最近雑誌って紐でしっかり括られていて、立ち読みとかできないからね・・・。
ATMも目の前が完全に画面と仕切りで目隠しされてしまうけど、でもそこへ向かうまではしっかりと外を確認できるし、そこから立ち去るときもやっぱり窓の外を自然に確認できる。
何の気はない風を装って窓の外へ視線を流す。夕日も沈み、明るい店内から覗く外は思っていたより暗く、視界が悪い。駐車場のないタイプのコンビニなので、目の前はすぐに歩道なのだが、特に人影はないようだ。
パッと見た感じでは人はいないけれど、一旦不自然にならないように少しばかりお金を下ろし、出口に向かいながらも再度外を確認する。見た限り、やはり人はいない。
やっぱり近くに住んでる働くお父さんだった感じかな・・・。
ほっと胸をなでおろしつつ、過剰に反応した自分がやはり少しばかり恥ずかしい。でも胸につかえていた不安感が一気に払しょくされた解放感もすごい。
うん、なんかグミ買って帰ろう。どうしよう、なんか今日はもう家で映画かドラマの一気見でもいい気がして来た。ちょっと奮発して夕飯はU〇erしちゃおうかしら・・・。
何はともあれ、私はひとつ息をつき、そのままグミコーナーへと向かったのだった。
3話
無事に気になったグミを買ってコンビニを出て、マンションへたどり着いた。もうつけてくるような足音は聞こえず、とりあえず一安心だ。
ポストを確認して、入っていた広告を抜き取る。我が家のマンションには、残念ながらオートロック機能はない。部屋が綺麗で広い割に安いのでここに決めたものの、オートロックあるマンションへの引っ越しは結構真剣に考えたいところだ。不動産屋さんに聞いても治安はいいって話だったし、いいかなと思っていたのだけれど、今日みたいなことがあるとどうにも不安を煽られる。
エレベーターの▲ボタンを押した。結構上にあったらしいエレベーターが、重たいモーター音をたてながら下って来る。
どうしようかなぁ。なんかもうほんとにお家でのんびりデーにしちゃおうかなぁ・・・。
張り切って定時あがりして来たんだけど、どうにも疲労感がすごい。寝不足に加えて、週末という疲労が溜まりまくった状態に、追い打ちの恐怖で異様に疲れてしまった。
やっぱり揚げたてのコロッケは買ってくるべきだった気しかしない。でももう戻る気力なんてない。
既に駅に降り立った時の、漫画を読み漁るぞ!という意欲は欠片も残っていなかった。
ぼーっとしながら待っていたエレベーターが、ぽん、という軽やかな音を立てて目の前に到着した。玄関ホールの灯りよりも白く明度の高い蛍光灯のおかげで、エレベーターの内部の様子がよく見える。
がこっ、と多少の年代を感じさせる音を立てながら開いた片開きの自動ドアの向こう側は、5人も乗ればぎゅうぎゅうの狭い空間だ。少し草臥れた雰囲気のエレベーターで、庫内の壁に貼り付けられた毛足の短いカーペットのような壁紙は、隅の方が剥がれ、くるんと丸まっている。
が、エレベーターがあるというそれだけでありがたい。マンションの設備が多少古かろうが、部屋自体はリノベーションも入っていてとても綺麗だし、最近宅配ボックスも設置された。本当に、オートロック問題さえなければ、何の不便もない、すごくいいマンションなのだ。
この後の過ごし方を悩みながら、グミの入ったコンビニの袋をぷらぷら揺らし、パンプスを引きずるようにして庫内へと乗り込んだ・・・――――瞬間だった。
がんっ!
「ッッ!?」
「待って待って!オレも乗るから!」
閉じかけの扉が、荒々しい音を立てて押し留められ、状況が理解できないまま驚愕に固まった私と同じ空間に、男が乗り込んできた。
灰寺だ。
え・・・。
え・・・?
ダメだ意味が分からない、これどういう状況、なんで目の前にこいつがいるの。
意味が分からないなりに、どうしようもなくよろしくない状況である事だけは本能が察知して、さぁっと血の気が引いていく。血の気が引くなんてことは生まれて初めての感覚だったが、全身の体温が急激に下がり、なるほどこれが「血の気が引く」ってやつか、と妙に納得している変な自分がいた。
血が引いたせいなのかなんなのか、立ち眩みのような感覚に襲われる。恐怖のせいか、全身の毛が逆立っていた。
エレベーターをこじ開けて入って来た灰寺は、満面の、あまりに濁りのない、場違いに陽気な笑みを浮かべて私を見下ろし、そしてちらりと横目で階層を表示するボタンを確認すると、何の迷いもなく私が住む階のボタンを押した。
「ぁ・・・、」
冷や汗が首筋を伝って胸の谷間へ伝い落ちていく。
エレベーターが動き出す。その揺れに少し足がふらついたが、どうにか立て直す。
知られている。私が住んでいる階を知られている。部屋も?何故?今日が初めてじゃないって事?もしかしなくても今まで感じていた視線もこいつなのか・・・?
脳が空回る。震えを誤魔化すために、爪が食い込むほど強く手を握り込んだ。
「何の用ですか」
思ったよりしっかりとした声が出て安心する。少なくとも掠れても、震えてもいなかった。我ながら事務的で、硬質な声音だ。
「ぇえ?だってもうずーっとオレがデート誘ってやってんのに、断るばっかりだからさぁ。今日もほら、予定あるなんて言ってたのにこうして帰って来てる訳っしょ?だからぁ、そんなに照れちゃって行動できないならもうオレから動いてあげよっかなぁって!気ぃ引きたいのは分かるけど、やりすぎると相手に勘違いされちゃうぜ?」
言われている意味を理解しようと、数回頭を巡らしたが、結果、理解できない事を理解する以外に道がなかった。
ただ、確信もした。
こいつは、灰寺という男は、想定の数倍やべぇ奴だ。
すーっと細く、でも深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
思いのほか頭は冷静だ。いや冷静ではないか。気を抜いた瞬間叫び出しそうなので、必死で思考を回して冷静さでパニックを抑え込んでいるような危うい状態だ。多分。とにかくそんな感じだ。
なんでもいいけど警察に連絡入れたい。今すぐ110をプッシュしたい。でもスマホはバッグの中だ。しかもパッと出てくる感じじゃない。ちょっとごそごそいないと出てこないだろう。そんな事をさせてくれるだろうか・・・くれないだろうな。そもそも、警察に電話とか、逆鱗に触れそうで怖すぎる。
「いえ、予定は普通にあります。ただ家へ帰って着替えをしたかっただけです」
「えー!また強がり言っちゃって!まあいいや。今日はその予定ドタキャンしちゃおうぜ!オレがせっかくここまで来てあげたんだからさ」
「っ!」
おチャラけた口調で喋りながら、灰寺はやけに自然な動作で、ポケットからカッターナイフを取り出した。今度こそ悲鳴を上げそうになったのを、ぎりぎりつばを飲み込んで抑え込む。やばい。やばいやばいやばい、怖い。手を握りしてめいて尚、腕が震えている。
今にも頭が真っ白になりそうだ。
どう考えてもとんでもない要求だ。普通にあり得ない。でもじゃあ、ここでその正論を言えるほど私が強いかと言えば、残念ながらそんな事はなかった。
「・・・分かりました。話す時間は設けるので駅前のファミレスにでも行きましょう」
「いいよいいよ!もう家、すぐそこなんだし!そっちの方が楽っしょ!」
いいわけねぇだろイカれてんのかてめぇ。
いやイカれてるか。全然イカれてるわ。ふざけんなよ。
だめだ。私だってそれなりに社会人をやってきているのだし、厄介だなと感じる人間とは相対してきたことがあるはずなのに、イカれ具合がズバ抜け過ぎていてどうしたらいいのか全く分からない。もう心臓が破裂しそうなくらい早く走っている。ただもう刺激しないことしか考えられない。思考が空回る。
どうしよう、どうしよう、怖いどうしよう。
部屋まで行って、そしたらどうなるんだろう。普通に犯されるのか?それで済むかな。監禁?いやでも普通に殺されそうな気がする。いつ死んでもいいんだけどなんて思ってはいるけれど、流石にこの死に方は嫌だな・・・。
現実逃避気味な思考が流れだす。
能天気なぽーんという音が庫内に鳴り響く。私の住む階に到着してしまったらしい。
開いた扉が閉じないように立った灰寺が、慇懃な仕草で私に外へ出るよう促した。ちらちらと煽るようにカッターナイフを弄んでいる。あれを弾き飛ばす事ってできるのかしら・・・。どうだろう。できる気もするけど、こんな震えた手でそんなことできるかがかなり怪しい。それで思い切りざっくり切られるのも嫌だ。
叫ぶというのも考えたけれど、私の住んでるマンションは単身者向けだ。金曜日のこの時間、人が部屋にいる可能性はかなり低い。その低い可能性に欠けて叫ぶか・・・。それも結局、思い切りざっくり切られる可能性の方が、高い気がしてしまう。
「バッグちょうだい!オレが鍵開けてあげる」
「・・・・・」
なにがあげるだよ、と思うものの、もうなんか、逆らう事を考える事すら面倒になって来た。
いっそ、これこそ運命なのでは?
あの時私を守って死んでしまった夏樹と同じような痛みを味わって、ここで死ぬのが運命なのかもしれない。
死んだら夏樹に会えるだろうか。夢であの日の、夏樹が死んだ瞬間ばかりを見るけれど、もういい加減、違う表情を思い出したい。真夏の日差しみたいに笑う夏樹が見たい。
恐ろしい事に、どんなに大切に思っていたって記憶は薄れていくのだ。どんなに動画を見返しても、どんなに写真を見直しても、私と彼が生きていた時間はじわりじわりと離れて行く。時間薬とはよく言ったものだ、利いて欲しくなくたって作用する。もう私がはっきりと思い出せるのは、繰り返し繰り返し見る、あの夢の、夏樹が死ぬ瞬間の事だけだ。
嗚呼なんか、もうこいつに殺されるのでもいい気がして来た。
こんなしょうもない男に殺されるくらいなら、夏樹のお母さんに殺させてあげたかったけど、こればっかりはもう仕方ないよな。連絡先も分からないし、もはや居場所も分からないし。
しかしこんなくそ野郎にレイプされるとか嫌すぎるな。こっちが適当に見繕ってワンナイトとかで遊ぶ分には全然いいけど、無理やりヤられたい訳がない。
ならもう、いっそここで暴れてとりあえず殺されるのが一番手っ取り早いか?いやでもな・・・中途半端に怪我する位なら、さっくり自分で死んだ方が楽そうなんだよな。家入ってすぐにキッチンの包丁を取って首をばっさり切るとか?できるかな。ビビっちゃわないか少し不安だけど、犯されるよりマシだしな・・・。
がちゃッ
ちょっと俯いてどうやって死のうかを考えながら歩く。ふと子どもの頃父親に見せられた、死刑囚が電気椅子へ向かうまでの道を名付けられた映画を思い出した。ラストのあの、永い未来をうかがわせる絶望感が堪らなかったよな・・・。私は今すぐにでも生が終わりそうだけど。それも、目の前にいるのは、死刑までの道のりをなるべく平穏にと同道してくれる警官ではなく、今にも私を殺しそうなイカれたクソ野郎だ。ついでに素敵なドブネズミの相棒もいない。
「えっ」
どういう訳か、我が家の玄関ドアを開けた灰寺が躊躇いの声を上げた。なんだ、と思い視線を上げる。
「おかえりー!」
「え・・・?」
図らずも、灰寺と同じ母音だけの疑問符が口から飛び出てしまった。
あまりに陽気な、そしてもう聞くはずのない声が響き、それと同時に、ドアの隙間から男がひょいっと顔を出したのだ。
外跳ね癖の強い髪が、見覚えのないオレンジ味の強い茶色に染まっている。ちょっと吊ていて、笑ってると堪らなく人懐っこく見える目がこちらを見ていた。高校に上がってから急に伸びた身長は180センチと宣っていたけれど、本当は179センチで止まったのを知っている。
「あん?誰やねん。あんたん友だち?」
小学5年でこちらへ引っ越してきたくせにに、彼はそれからずっと、ずーっと、死ぬまで関西弁のままだった。
「え、あ・・・え?」
「ちょ、おま、何持ってんねん!そんな危なっかしいもん外で振り回すもんじゃありません!」
お母さんみたいな口調で、彼は――――夏樹は。当たり前みたいに事態を飲み込めない灰寺からカッターナイフを取り上げて、そしてその刃をかちりかちりと納めて行きながら、陽気な雰囲気を壊さないまま首を傾げた。
「んで、とりあえず警察呼ぼか?」
「お、ッ、男と住んでんのに誘惑してんじゃねぇよこのクソビッチが!!」
「っ、!」
「おっと」
どん、とかなりの強さで私の体を弾き飛ばした灰寺は、私のバッグを放り出し、どたばたと慌てた様子で駆けて行く。エレベーターを待つ時間すら惜しいのか、階段へ続く扉をこじ開けて視界から消えた。その後も、間抜けで大きな足音が徐々に遠ざかっていく。
なんだかカートゥーンアニメの登場人物みたいに、滑稽で大げさな動作と音だった。
「ったく、なんやねん。惚れた女ならもうちょい丁重に扱えやクソが」
「・・・」
弾き飛ばされた私を、当然のように抱き支えたのは夏樹だった。感触もあれば体温も、鼓動すら感じる。
これはなんだ。
なんだ・・・。
なんで、夏樹が・・・だってぐちゃぐちゃで・・・もう死んで・・・。
・・・。
嗚呼もう、なんだっていいか。
これが夏樹なら、なんだって。
「・・・夏樹」
頬が冷たい。視界が霞む。声が揺れる。いやだ。ちゃんと見えないのも、ちゃんと呼べないのも許せない。
でもただ、もっとちゃんと、彼の存在を実感したくて。
「なつき」
しがみつくように、私は彼に抱き着いた。
4話
玄関前の廊下へ投げ捨てられたバッグを拾い上げた夏樹は、子どもみたいに泣きじゃくる私を抱えるように部屋へ入った。
夏樹は、私をベッドへ座らせると、勝手知ったる様子で電気ケトルを使ってお湯を沸かし、私も忘れていた、かなり前に貰ったイイ紅茶のティーバックを引っ張り出して来た。
馬鹿みたいに手際がいい。というか、なんで我が家の事をそんな何でもかんでも知ってるんだ・・・。
そう思いつつ、あり得ないような出来事の連続に思考が麻痺していて、言葉をひねり出すこともできず、ただぼーっとベッドの縁へ腰かけたまま彼の背中を眺めていた。
「ほい」
お気に入りのマグカップで紅茶を入れ、ついでにミルクまで入れたものを当たり前のように差し出され、受け取らない訳にもいかずに「あ、どうも」とぼそぼそ呟きながら受け取る。
彼は、自分の分のマグカップを持ったまま、拳ふたつ分ほど開けて私の隣へ座った。それは紛れもなく昔から馴染みのある距離感で。あの頃、なかなか縮めることができなくてヤキモキしていたはずの距離感で。そして、今となってはあまりにも愛おしい距離感だった。
「・・・ありがとう、助けてくれて」
「ちょぉ、やめてやそんなん。当然やろ、俺ら幼馴染やん」
ああそうだ。そうだ。夏樹の声ってこうだった。こんな声だった。
鼻の奥がツンとする。
夢の中で散々叫び声は聞いたけれど、こんな穏やかな、普通に話す声を聴いたのはいつぶりだろう。
あの日、高校の卒業式の日以来だから・・・――――やめよう。年数を数えたら辛さが増しそうだ。
馬鹿々々しい程昔の恋を引きずったまま、延々ここまで来てしまった自分が情けなくなる。立ち直るチャンスはいくらでもあった。心の底から優しくしてくれた人だっていた。支える意志を持つ家族も友達もいた。私は決して不幸ではなかった。
でも・・・それでもダメだった。私は、彼でなきゃダメだったのだ。それを突きつけられ続ける日々でしかなかった。自分で自分を不幸にしていると知っていて尚、立ち直れないまま、無味乾燥な人生を歩んだ。それは、弱くて愚かで意固地な私の選択だ。
改めて隣に座る彼を見る。
自分の分のマグに口を付けた夏樹は「ぅわちっ!」なんて言って紅茶を拭き冷ましながら啜っている。相変わらずの猫舌らしい。
顔は、私の記憶や、写真の中の彼よりは幾分か年を重ねている雰囲気がする。間違っても高校生には見えないし、私と同い年と言われても特に違和感は感じない。体つきは、どうだろう。記憶の彼よりも少しがっしりした気はする。髪の毛の色は、洗いざらしの黒髪しか知らないので、オレンジっぽい茶色というのはちょっと違和感があるけれど、存外それも似合っている。
変わっていると言えば、服装もか。まさかの和服だ。濃紺の甚平を着ている。いや、袖が長いから作務衣か・・・?ちょっとこのふたつの違いがよく分からないけれど、多分作務衣だろう。ズボンも脛の辺りまであるし。
頬も唇も血色は良いし、視線も普通に定まっている。どう見ても生きている。生きているようにしか見えないというより、確実に生きている。だって息遣いすら聞こえてくるのだ。違和感がない。
「なんやそんなマジマジ見て。照れるやん」
「いや。照れる前に説明してよ。死んだよね?」
「おう、さっきまで小鹿みたいにビビり倒してた可愛い子ちゃんどこ行きよったん?いきなりストレートでぶん殴ってくるやん」
しょうもない事を宣うので、ついうっかり条件反射で言い返してしまった。やけに嬉しそうに憎まれ口をたたく彼の笑みは、飾りっぱなしの、毎日話しかけているあの写真の、そのままだった。
ぐっと胸が締め上げられて、もしかしたらこれって死ぬ前の幸せな幻覚なんじゃないかという考えが浮かんでくる。本当の私は灰寺にめった刺しにされていて、或いはキッチンに置いてた包丁で頸動脈を掻っ切って、まな板の上の鯉みたいに、吸えない空気を吸っているのかもしれない。
なんだか、その考えが妙にしっくりきた。
だって、そっちの方がよほど現実的だ。ずっと昔に死んで、しっかりとその死体も確認して、葬式にも参列した幼馴染が、生きて、それどころか成長して目の前に現れるよりもよほど。
それでもいいやと思った。
よしんばこれが幻覚だとして、何を構う事があるだろう。
ようやっと見る事の出来た、夢想するばかりで叶う事のなかった彼との幸せな未来みたいな、そんな夢だもの。これを見た後どんな酷い死に方をしたとして、もう別に悔いはない。だからもう、これが夢でも現実でも、どうだってよかった。
「まー死んだんやけどもー」
とんでもなく軽い調子で、彼はぐいーっと組んだ手を上に伸ばして体を伸ばしながら、そのまま背後のソファへと倒れ込むように凭れ掛かった。小さくソファのきしむ音がして、彼の体重が確かにあるのだと感じて妙に安心する。
「なんか色々あってさぁ。妖怪になったんよね」
「・・・え、何。ふざけてんの?」
「いやぁそれが本気で――――ちょ、絞めんといてェっ」
高校生の時のようなノリで、彼の襟元を締め上げたのはワザとだ。
だって泣きたくなかった。
もう頭も心もぐちゃぐちゃで、だから18歳のあの頃の自分を、その頃の、明日も絶対に彼が隣にいると妄信していたあの頃の私を模倣するのだ。
この嘘みたいな夢に溺れて死にたい。
とことんまで夏樹を見て、聞いて、感じて、味わって、それで死んでしまいたい。だって、これが本当に夢なら、もしこの後現実に戻ってしまったら、そんなのただの地獄だ。
「ほら見て!見てって!」
「は・・・?」
「ほら耳!な!な!?猫耳ついてんねんって!」
・・・思考がフリーズする。
そりゃだって、人間の頭から人間じゃない形の耳がぴょこっと生えているのだ。固まりもするだろう。どこに隠していたのか、彼の頭の横あたり、人間の耳が生えているであろう場所には、三角の毛に塗れた耳が生えている。
いやいや。
いやいやいや。
ファンシーがすぎる。
ほぼほぼ夏樹の体をソファに押し倒して乗り上げた状態で、私は髪の色と妙にマッチしたオレンジっぽい毛並みの耳を、むにっと摘まむ。
「ひゃぁっ!?やめて!?耳やめて!」
「エロ漫画の女の子みたいな悲鳴上げんなよ」
「なあ辛辣すぎひん?・・・なあって」
三角になっている部分を親指と人差し指に挟んで揉んでみるけれど、実にこう・・・猫だ。普通に血が通ってる温度もある。ちょっと高い体温とか、人間の耳より薄べったい感じとか、毛の感触とか、まるきり猫だ。間違ってもアクリル製の毛でできた、綿を詰められたぬいぐるみの感触ではない。
根元を探ってみるけれど、普通に髪の付け根に繋がっている。猫の耳、或いは人間の耳と同じで、繋ぎ目も縫い目もなく、そこにあって当然というように、本来人間の耳があるであろう場所に猫の耳が生えている。
猫耳から手を離し、夏樹と少しだけ距離を離してマジマジと彼を上から下まで眺めまわした。
「え・・・・・この年で猫耳はイタいって」
「それ俺がいっちゃん気にしてる事やねんけど、知ってた?」
あれ、なんかちょっとイカ耳になってる。ちゃんと感情ともリンクしちゃう感じの猫耳なのか・・・。えー、どうなのそれ。可愛い。
ゼロになっていた距離をもぞもぞと元の距離へと戻す。
テーブルの下で、手の感触を確かめた。そこに残る、布越しに触れた、男性らしい骨格の体と滲む高めの体温を脳裏に刻みたかった。
でも、そんな事をしているなんておくびにも出したくない。
いつ掻き消えるかもしれないこの瞬間を、波立てず、平穏に、大切に過ごしたい。
「いや大丈夫。可愛いって」
「かっこいいって言うて。ネコ科の耳やぞ」
「いやでも、どう見ても家猫の耳だよねそれ?家猫の分類は可愛いでしょ」
「失礼なやっちゃな。クールな猫もたくさんおんねん」
嗚呼そうだったな。こうやって、ぽんぽんと中身のない会話をするのが大好きだった。大好きだったことにすら、あなたが死んでから気付いたのだけれど。
いてくれればよかったのだ。隣に、ただいてさえくれればそれでよかった。
ねえ、夏樹。
頑張って一緒に合格した大学は、ひとりで行ったんだよ。
夏樹がいない事実を全然受け止められなくて、見たこともない大学生のあなたをキャンパスの中に探した。
友だちはできなかった。私は水の中で、彼らは空気の中で生きているみたいな大学生活だった。透明な幕の隔てた隣り合った世界みたいな、そんな感じだった。
それでもね、一応最初は馴染もうと思って、サークルに参加してみたりしたんだけど。新歓で飲み潰れて、名前も知らん男の家で目が覚めて、その行為だけはまあまあ好きになった。そう言うことしてる時だけ、なんとなく寂しさが紛れるから。でも恋人なんて欲しくなかった。ただ私が、夏樹を妄想して、夏樹とそういう事シてる疑似体験をしたいがための、マネキンみたいなものが欲しいだけだったから。
でも、そうなんだって理解するまでに3年くらいかかったな。適当に勉強して、適当に男漁りする私がまともな友だち作れるわけないでしょ。そしてそんな女にまともな男が寄って来るはずもない。だから結構、大学時代はずっとぼっちだったんだよ。
そう言えば、あなたの実家。あの何の特徴もないマンションにある、私の実家の隣の部屋ね、もう夏樹のご両親が住んでいないのは知ってる?
夏樹のお母さん、私が悪くないのも、飲酒運転してた運転手が悪いのも、全部全部分かってるのに、どうしても生きてる私を見るのが辛いのって泣いてたよ。当然だよね。辛いに決まってる。でも私もあなたも、歩いてたのは歩道だし、それを責めるのは間違ってるって思ってくれてるから・・・。だからたまに私を見かけて「お前が死ねば良かったのに!」って泣き叫んで怒鳴りつけて、そのあとすぐに土下座せんばかりに謝るのをね、何回も何回も繰り返して、それで最後は引っ越して行っちゃった。夏樹のお父さんもね、お母さんの事一生懸命支えてたけど、すごい痩せちゃってさ・・・。悲しかった。
だから、ごめんね。私今、夏樹のお父さんとお母さんがどこに住んでるか知らないの。
ねえ、夏樹。
ずっとふわふわ生きてるばっかりで、ずっとずっと夏樹の事忘れられない私がさ、両親は、特にお父さんは理解できないみたいでね。だからもう最近は、実家とも結構疎遠なの。というか、そのうち死のうと思ってたから、わざとそうしてた。両親には申し訳ないと思ってる。大事に育てて貰ったのに、こんな親不孝者でさ。恋人にもなれなかった幼馴染が死んだって言うそれだけでさ、人生全部投げうっちゃう馬鹿に育てたつもりはなかっただろうなぁ・・・本当に申し訳ない。
「なあ、なあ――――」
不意に彼が私の名を呼んだ。珍しい。いつも「あんた」としか言わないのに。
言いたいことが溢れかえって、でもこの仮初の平穏を守るためには言えない事ばかりで。結果何も言えないままぼーっとしていた私は、彼の声にハッと我に返った。
「なによ」
「そんなに泣かんといてよ」
遠慮がちに手を掴まれた。その温もりにどきっとする。
夏樹は少し身を屈め、私の顔を覗き込んでくる。その距離の近さに心臓を鷲掴みにされながらも、彼の表情があまりに悲しげで、痛そうなものだから、二の句が継げない。
そしてまっすぐに注がれる視線で彼の目を改めてマジマジと見て、嗚呼、本当に人間じゃないんだ、と納得した。
目が、瞳孔が違う。長めの前髪の隙間から覗く、元々すこし猫っぽい雰囲気のアーモンド形の目を至近距離から見て思った。丸くなってたからあんまり違和感がなかったけれど、今の彼の瞳孔は縦長のアーモンドみたいな形をしている。完全に、猫のそれだ。
その夏樹の変わってしまった目が、霞んでは焦点が合うのを繰り返す。ぼたぼたと際限なく溢れていく涙に、逆によく今まで気づかなかったものだと、我ながら感心した。
「泣いてないよ」
「嘘下手すぎやろ。ほっぺたべちゃべちゃやん」
「泣いて、ッ、な゛い」
自覚したら、もうダメだった。
指先だけを遠慮がちに握った、その弱すぎる力加減と温かい体温がダメだった。
声がよれって、一気にぐちゃぐちゃの心がせり上がって来る。
「ふ、ぅ゛、ッ、泣いでな、ぃ゛」
「っ――――せやな、ごめん。泣いてないわな」
そっと、背中に手が置かれた。記憶のそれより大きくて、重さのある大人の男の手だ。私が拒否したら瞬く間に離れる気でいるのが易々と想像できるような、そんな柔い力の入れ具合は昔のままで。その近すぎない距離感があまりにもどかしくて、なのにこんなにも愛おしい。
「ちゃんと、ッ、慰め゛ろよばかぁっ」
「いやそんなん躊躇うやろ。男心なんやと思ってんねん」
ぼそぼそと悪態をつきながら、それでも夏樹は、緩く、本当に緩く、そっと、縮こまった私の体を抱きしめてくれた。なんでか花火の匂いがした。中学生の頃、キャンプへ行った時にやったっきりの、あの手持ち花火の匂いだ。それもふわりと香ってすぐに消える。
私を抱く腕の緩さも距離も、大人になった私にはまるで物足りなくて、だから私は、よく分からない怒りと勢いに任せて、彼の背中に手を回し、ぎゅっと思い切り抱き着いてやったのだ。
5話
嗅ぎなれない彼の匂いに包まれ、閉じこもった場所で夏樹の鼓動を聞くというのは、至上の贅沢だった。
ぐずぐずと泣く私は、あまりに子ども染みているなと自分で分かっている。
色んな感情が溢れて収まらない。彼に会えて嬉しいとか、今までどこにいたんだとか、もっと早く会いに来いよとか、あの時一緒に死にたかったとか、私の方こそ夏樹を助けたかったのにとか、でもありがとうとか・・・。もう本当に、一生解消されるはずのなかった、するつもりもなかった喜怒哀楽のごちゃ混ぜになった感情が、無秩序に溢れかえっていて、自分でも、どうすることもできなかった。
しゃくりあげるわ、目元は擦るわで、元々夕方で崩れかかっていたメイクはきっともう酷いことになっているだろう。あんまり見られたくないな。夏樹の前でなら、いっそのこと崩れたメイクでいるより、すっぴんでいる方が恥ずかしくない。なんせ、すっぴんなら子どもの頃から見られているので今更感しかない。
彼に問いただしたい事なんてごまんとあるのだけれど、存外、つらつらと頭の中に流れてくる思考は、そんなくだらない物ばかりだった。
「・・・ごめんて」
何をとは言わないまま、彼は酷く気まずげに謝った。彼が何に対しているのか分からなかったし、もしかしたら彼自身、何に謝ってるんだか分かってなかったかもしれない。
夏樹は昔から、私が泣いてしまうと自分の悪い所を見つけて謝って来るいい奴だった。別に私だって、それにかこつけて何でもかんでも泣いて解決なんてあくどい真似はしなかったけれど、夏樹が謝ってくると、どうにも意固地になり続けることができなくて、大抵は「ごめん、私も・・・」となるのが常だった。
「いやだ。無理」
そう、いつもならそうだ。
でも今回はそんなの無理だ。だって死んだのだこの馬鹿野郎は。死んで、そのまま私を放置してきたのだ。許せるわけがない。いや、今の今まで全くそんな事は思っていなかったのだけれど、こうして生きて姿を現したのなら話は別だ。
「っ!そ、そんな事言わんといてよ。こっちにも色々事情があんねん」
私がいつもとは違う返答をしたせいだろう。狼狽えた様子の夏樹はごにょごにょと弁明しようとしている。それでも、私が慰めろと怒ったからか、ちゃんと背中を摩ってくれる辺り、やっぱりいい奴だ。そう言うところが、本当に好き。
「・・・ねえ、これ夢?」
彼の言い訳染みた声を完全に無視する形で、ぼそりと問いかける。こんな風にしか尋ねることができなかった。
束の間の沈黙。部屋の中が静まり返っているという状態は、今までの私にとっては当たり前の事だったはずなのに、今日はやけに耳に痛い。
堪らなく怖い。
夢だと言われるのは、勿論怖い。だって夢なら、今目の前にいる夏樹は、この体温は、鼓動は、全部嘘って事だ。
でもこれが現実だと言われても怖い。だって、人でなくなったであろう彼と、これからどうしていったらいいか分からない。
少し冷静になって来た頭が、余計な事をつらつらと考え出してしまうのだ。猫耳が生えた成人男性なんて、見つかったら実験施設とかに入れられちゃうんじゃないかとか、雑なSF映画みたいな事を考えてしまう。
私は、彼とまた離れなければならなくなるのが嫌だ。本当にただ、ただそれだけだった。一緒にいられるなら、夢だろうが現実だろうが、正直どちらでもよかった。この温もりを手放すなんてもう無理だ。もう、絶対に無理だ。
ぎゅっと縋っていた、彼の背中側の作務衣を握りしめる。人ではない彼は、瞬いたらすり抜けて消えてしまうじゃないかなんて、急に不安になったのだ。そんなの耐えられない。
「夢ちゃうよ。幻覚でもない」
大きく涙に湿った息をつく。嗚呼、私今自分にすら嘘をついていた。夢でも構わないなんて、どうしようもない嘘。絶対に夢じゃなくてよかった。こうして触れている彼は現実なのだ。肉も血も骨もある彼の体は本物なのだ。
「・・・何があったかって・・・聞いてもいいの?」
「ええよ。もう姿見せちゃったし。嘘みたいな話しかできひんけどな」
夏樹の鎖骨辺りにくっ付けた額から、笑った振動が伝わってくる。
その酷く生々しい震えとか、私の背中に回った筋肉質な腕の重さとか。その感触が嬉しくて、苦しい。
名前も顔も覚えていないような他人と肌を重ねた感触を思い出していた。実際の夏樹の感触と、セフレ相手に妄想した感触は、まるで別物だった。
私って、何して生きて来たんだろうな・・・。今までだって事後は吐きたくなる程虚しかったし、結局こっちだってオナホ代わりにされてるだけな事はよく分かっていて、それに染みるような惨めさを味わってはいたのだけれど。でもまるで性的でないこの、慰めるだけの抱擁だけで、こんなにも違う。まがい物にすらなっていなかったという事実を叩きつけられる。
それに妙な罪悪感が酷い。夏樹は死んでいたという認識だし、そもそも私たちは付き合っていたわけでもないけれど、長年の恋人をひどく裏切っていたような、そんな罪悪感がみぞおちに泥のように溜まっていく。
その欠片も生産性のない、馬鹿々々しい思考を振り払いたくて、私は質問を重ねた。
「話したら、消えたりしない?」
「あほか。消えるんなら話されへんって言うわ」
出会いがしらから今まで、あまりにあっけらかんとし過ぎた彼に「なんでこいつ、感動の再会のはずなのにこんな軽いんだろう」と腹が立ってくる。でも、まだ涙が全然止まらなくて、何なら鼻水も垂れてくるしで、とても顔を上げられる状態じゃない。
「ティッシュ取って」と涙に爛れた声で告げれば、彼は何も言わずにテーブルの上にあるティッシュを箱のまま取って渡してくれた。
遠慮なく鼻をかみ、ちょっとだけ顔を上げてゴミ箱へ捨て、そしてまた彼の鎖骨の辺りに顔を埋める。「おい」なんて言うくせに、引き剝がされることも、拒否されることもなかった。それどころか「・・・しゃーなしやでほんま」なんて悪態なんだかいい訳なんだか分からないぼやきを挟みつつ、再度彼は私の背中に手を回して緩く緩く抱きしめてくれた。
涙が止まらないのに、唇の端が笑みを作ってしまう。でも痛いのだ。苦しいのだ。どんな顔したら正解なんだろう。それすら分からない。
その苛立ちをぶつけるように、私は不機嫌そうな声を絞り出した。
「で?」
「おうおう。えらいドスが効いてますやん。そうカッカしなさんなごめんなさい」
調子に乗っているので背中の肉を抓るとすぐに謝って来る。懐かしいやり取りは嫌いじゃないけれど、さっさと話しを進めて欲しい。
「まあなんつーかな。ほら、俺轢かれて死んだやろ。そん時さ、たまたま野良猫も一緒に死んだんよ。覚えてる?近くの公園におった茶トラのボス猫。たまに鰹節とかあげてた」
「・・・たしかに、あの事故の後見なくなったかも」
「やろね。まあ、そんで・・・あー・・・うん、なんかこう、ごっちゃになってな。ごちゃっとなって・・・んで・・・こうなった訳なんよ」
「・・・・・は?」
思わず顔を上げる。
目が合った夏樹は、妙に爽やかな笑顔でこちらを見下ろしていた。が、猫耳をピコピコと落ち着きなく震わせている。誤魔化してるのがわかりやすすぎるだろ。
何もかも説明が足りない。「野良猫と一緒に死んだから、猫耳生えて生きています」にはならないでしょ。だって普通にお葬式したし、あなたこんがり焼かれて骨になってたよ。骨壺に入れたもの。どういう事よ。
じとりと睨み上げるけれど、彼の笑顔は崩れない。なるほど。その笑顔は知っている。意志を曲げるつもりがない時のアレだ。つまり今現在は絶対に言う気がないって事だろう。ならいい。言わないなら言わないで、問い詰めたいことはいっぱいあるのだ。
「夏樹はずっとさ、この、なに。猫人間?になって存在してたって事でいいの?」
「おー・・・まあ、せやな」
「じゃあ、実はいつでもこうやって出てこられたって事?」
「いや・・・その・・・ええっと・・・出て、来られなくはなかったんだけれども・・・」
「できたの?できなかったの?」
「・・・・・できました」
その回答に目の前が真っ赤に染まるような怒りを覚えた。怒髪天を衝く、とはきっとこの事だろう。ぐわっと頭に血が上って、もはや何も考えず、私は怒鳴っていた。
「ならなんでっ!!」
あまり大きな声を出すという事がないせいだろうか。私の怒鳴り声はひっくり返り、涙で裏返り、酷い有様だった。
「、んでっ!も、っっ、もっと早く出て来いよ!私はずっと夏樹の事――――!」
「言ったらあかん!」
泣いて怒鳴り散らかす私の口を、慌てた様子で夏樹が抑えこんだ。彼の熱い掌が、私の鼻から下をしっかりと塞いだせいで、ずっと本人には言えないままだった、でもきっと、いや、絶対。お互いが知っていたはずの感情を表す言葉は、口の中へと消えてしまう。
高校の卒業式のその日まで、お互いに何度も言おうとして、でも恥ずかしいやら照れるやらで、結局言えず仕舞いだったたった二文字の言葉を、私は今もまた言えないままに飲み下す。
「お願い、言わんといて・・・まだ・・・お願いやから・・・」
睨み上げた先で、夏樹の顔はぐしゃりと歪んだ。今にも泣きだしそうな、痛々しい、悲壮感に溢れた表情に勢いが削がれてしまう。
真っ直ぐに私を見つめながら、夏樹はゆっくりと、私の唇を塞いだ自身の手の甲に唇を落とした。ぎゅうっと心臓から子宮までの内臓全部が引き絞られるような感覚に襲われる。
何も言えないでぼたぼたと涙を流す私に、彼は手の甲に唇を押し付けたまま「お願い」と囁いた。
「あんたからそれを聞いたら、俺待たれへんくなるから・・・だから言わんといて。な?」
こんな・・・こんなの酷い。
そんなのずるい。
だってこんなのキスしてるのと一緒じゃない。自分も同じ気持ちだって、こんなにも全身から溢れさせておいて、なんでそんな事を言うの。
夏樹がいるならもうなんだっていいのに。夏樹がいない世界なんて、もう地獄でしかないのに。
なのにどうして、まだこのあやふやな関係に留まろうとするの。
変だ。言いたいことが渋滞してるのに、彼の掌の下の私の口はうまく動いてくれない。
ちろちろと視界の隅で何かが揺れ動く。なんだろう、黒い・・・炎?
違和感を感じるのに、体が重たくて動かない。ずるりと作務衣の袖を握っていた手が滑り落ちる。視界が陽炎に飲まれたように揺らめいて、どんどん体から力が抜けていく。
「、つ・・・き・・・?」
「ごめんな。ほんの少し寝とって」
「帰っ・・・、夏樹・・・なつ、っ・・・」
「うん、ごめん・・・ごめんな・・・帰って来るよ。ちゃんとここに戻るから・・・」
ああよかった。
よかった。帰ってくるんだ。夏樹、ちゃんと傍にいて、くれるなら――――・・・もうそれで。
+ + + + +
完全に眠りに落ちた彼女を、軽々と持ち上げた。その動作はあまりに軽々しい。とても、人をひとり抱えて立ち上がるような動作ではなかった。ぬいぐるみでも抱え上げるような、そんな軽々しさだ。
ほんの数歩移動して、彼女を寝乱れたままのベッドへ、そっと寝かせてやると、彼は枕元の床にしゃがみこみ、さらりと彼女の髪の撫でた。それからあまり血色の良くない頬をそっとひと撫ですると、やおら立ち上がる。
ざわりと空気が騒めくが、それに気づく者はいない。
彼女の前にいた時の、根っから明るい雰囲気はどこかへ消えて、一目見て人でないものだと確信するような、不穏な雰囲気を纏った妖がそこには立っていた。
「あのストーカー野郎・・・どうしてくれよう」
怨嗟に塗れた声でぼそりと呟き、そして次の瞬間、その声が彼女の部屋の空気へ溶け込むのと時を同じくして、彼の姿もまた、陽炎のように揺らめき、掻き消えた。
6話
なにかが顔に触れたのが鬱陶しくて、意識が急に浮上した。
「あ、目ぇ覚めたん?」
「なつき・・・?」
成長した夏樹の姿を見るなんて、なんていい夢だろうか。そう納得しかけて、一気に灰寺の事や、あわやのタイミングで夏樹が助けてくれた怒涛の展開を思い出す。
あれでも、なんで寝てたんだっけ・・・。なんか大泣きして、そのまま寝落ちとかしてしまった感じだろうか。
「ごめん、寝ちゃった」
「ええよええよ。そらあんなひどい目に合ったら疲れもするしな。でもあんた、とりあえずそのドロッドロの顔洗ってきたら?」
「・・・・・なんて?」
「すんません。なんでもありません」
寝起きから不用意なことこの上ない発言を聞かされはしたものの、顔がどろどろな自覚はある。ベッドの横に胡坐をかいて座る夏樹を押しのけて、のそのそと洗面所へ行ってメイクを落とす。というかもう、このままさっぱりしたい。洗面所から顔を出し、夏樹に声をかける。
「ねー、シャワー浴びて来てもいい?」
「おう。パンツ忘れんようにな」
「うっさいわ」
シャワー浴びてくるって言ってるのに、色気もへったくれもない空気感が酷く心地いい。心地いいけど、再会して即この空気感はいったい何なんだろう。とんでもない安心感があるけれど、なんとなく腑に落ちないというか、変な気分だ。
「ちょっとあっち向いててー」と断って着替えを用意し、そのまま洗面所へ向かう。
洗濯機と独立洗面台のある洗面所はなかなか手狭だ。それでも、バストイレ別で、独立洗面台があるというのは非常にポイントが高い部分なのだ。狭いぐらいで文句は言えない。
洗面所に鍵は付いていないけれど、まあ別に、覗かれる事もないだろうし、よしんば入って来てそういう事になるなら、それはそれで願ったりかなったりというかなんというか・・・。いや嘘ごめん。そんなのされた心臓が死んじゃいそうだから、順番は守りたいかもしれない。
服を脱ぎ、洗面台に映る私の顔は確かにマスカラが落ちてパンダだわ、アイラインなど跡形もないわ、眉毛もなんか薄まって左右非対称だわで、酷いことになっていた。なるほど、確かにドロドロである。が、やっぱり人に言われたくはない。さっさと落とすべく、浴室へ入った。
上から下までさっぱりしても、当然ながら夏樹が洗面所に入ってくる気配すらしない。
まだ夏樹と顔を合わせるのが少ししんどくて、なんとなく背中に熱いシャワーを浴びながら、ぼんやりとこの状況どうするのが正解なんだろう、と考える。
泣いていたせいか、灰寺がストーカーって分かったせいか、寝る前の会話の内容がちょっと曖昧だった。
なんだっけ・・・夏樹が交通事故で死んで、その時にたまに餌をやってたボス猫も一緒に死んだから、なんか混ざってあの、なんだ・・・猫人間?妖怪?になったみたいな話・・・をした。したな。うん。なんかそれは思い出した。
その後の記憶がブツっと途切れているから、多分その辺りで寝落ちしたんだろう。まあ、相手が夏樹だし緊張が切れて気が緩んだんだろうな。
夏樹ってこの辺に住んでるのかな・・・。
あの時、部屋から彼氏面して出て来てくれて本当に助かったけど・・・、いや待て。そもそもなんで鍵かけて出て行った部屋の中にいたんだ、あいつ。
え、普通に不法侵入では?ストーカーも大概だけど、不法侵入もなかなかだぞ。私だからいいけど、訴えられるやつだぞそれ。いやそもそも死人を訴えるとか無理か・・・。あれ、死んだんだよね?いや、死んだって本人がはっきり言ってたもんな。本人が死んだって言って本当に死んでるパターンは初めてだ。
混乱して暴走しかける思考を、大きく息を吐きだして抑えた。落ち着け。とりあえず、現実問題、夏樹は家にいる。で、灰寺も反応してたんだから、恐らくは普通に他の人にも見える。触れるし、声も聞こえる。体温もある。
でも戸籍はない、はずだ。というかあったらまずいんじゃないだろうか、死亡届が出されてるはずだし。となると普通に結婚は無理だな。・・・いや、そもそも恋人ですらないのに何考えてんだろ・・・馬鹿すぎるな、私。
私の片想い歴は長い。なんせ夏樹が小学5年生で越して来てからずっとだもの。高校生の間は恋人ではないけれど、きっとただの友だちじゃなかったし、お互いがお互いに気がある事に気づいていた。自惚れでなければ、だけど。少なくとも私にとって、夏樹との距離感は特別なものだった。彼にしか許さない距離があり、そしてそれは夏樹も一緒だった。
で、やつが死んで、私はそれからずっと、死人に片想いだ。
まあ長い。ほんとに・・・馬鹿みたいに長い事、結ばれるはずもない抱き続けた。
だから、我儘を言うつもりはない。
こうして隣にいてくれて、触れて、話せるなんて、もうそれだけでどうしようもなく奇跡だ。それだけでいい。恋人か、友だちか、内縁の夫婦か・・・関係性の名称なんて、もはやなんだっていい。夏樹がここにいられる状態で、方法で、私の側にいてくれるなら、それで十分だ。
「ほんと・・・望み過ぎたら罰当たっちゃうな・・・こんなの」
ぽつりと口に出した、それが総てだった。
悩んでも仕方がない。なるようにしかならないだろう。
そう結論が出たら、少し気が楽になった。
何はともあれ、夏樹には、今住んでるところがあるのかを聞くところから始めよう。
「あがったー」
「おーう。なあごめん、缶チューハイ貰ったわ」
「いいよー」
「あとポテチ開けた」
洗面所から上がってみれば、夏樹はラグの上にごろ寝して、テレビで適当にチャンネルを回しながら行儀悪くポテチを摘まんでいた。宣言通り、ローテーブルの上には開いた缶チューハイが置かれている。
「あんたくつろぎ過ぎじゃない?」
我が物顔というのがこれ以上似合う状態もなかなかないだろう。
そういや紅茶入れてくれる時も、キッチンの諸々の位置を私より把握してたよな。なんなんだ。妖怪パワーなのか。
なにそれ、滅茶苦茶アホっぽい。
「くつろがせてもろてますぅ」
「苛つくわぁ・・・」
わざとらしいイントネーションを付けて寛いでるアピールをしてきやがる。なんなんだ全く。あまりに飄々とした姿を見ていると、真面目に考えるのが馬鹿らしくなってくる。
色んな感情をぶつけてしまいたい。
好きだとか。
ふざけんなとか。
愛してるとか。
苦しいとか。
全部の疑問をぶちまけてしまいたい。
どうして連絡くれなかったの?とか。
いつからこうやって触れ合える状態だったの?とか。
なんで助けてくれたの?とか。
私の事好き?・・・とか。
泣き叫びたいような気持と、怒鳴り散らしたい気持ちと、笑い転げたい気持ちがずっと胸の中で嵐を起こしていて落ち着かない。
この嵐を、吐き出してしまったら、このだらりと緩んだ、夏樹が部屋にいるという、あり得ないのにひどく落ち着く時間は終わってしまうのだろう。それはすごく、嫌だった。
「夏樹」
「んー?」
「だし巻きとか食べる?」
冷蔵庫を開けて中身を確認しながら、私が声をかけると、ひょこっと彼が上体を起こしたのが、ローテーブル越しに見えた。
彼の雰囲気にのまれて、聞きたいことも聞けない私は本当に臆病者で、ズルい奴で、嫌になる。
「え、食べる。や、でもええの?疲れてるやろ?無理しんときや」
「うーん、お腹空いちゃったんだよね、私が」
いい年だし、多少の自炊はする。それこそ、時短レシピとか、10分ご飯とか、ちょっと探せばレシピもやり方も動画付きで説明してくれる世の中なのだ。やる気さえあれば、まあ自分が食べる分くらいは作れる。ひとり暮らしも長ければ、その辺りは憶えてくるものだ。調味料と調理器具さえ揃えれば、自炊するだけで随分節約になるしね。
家に帰ってあんな大変な目に合うまでは、思いっ切りジャンクにする予定だったのに、だし巻きなんていう案が出てくるあたり、私もなかなか女々しい。そりゃ好きな人が目の前にいたら、しれっと好物を作れますアピールとかしたくなってしまうのが複雑な乙女心なのだ。例え、ただ隣にいてくれたらいいと割り切ったとしても、それは変わらない。
「ねー、夏樹ー?」
縦長の2口コンロの奥側で片手鍋にお湯を沸かし、手前側でだし巻き卵を巻きながら声をかけると、気のなさそうな「んー?」という生返事が返ってくる。きっと彼の視線はテレビに向かったままだろう。だから私も、頑なにだし巻き卵から視線を逸らさない。
今直近で気になる事と言えば、夏樹が泊まっていくかどうかというところだ。さっき時計を見たら21時を回っていた。終電まではまだ時間があるけれど――――そもそも彼には終電とか関係あるんだろうか。それにしても、どこまで聞いていいんだろうか。そこも気になる。素直に聞きたいことを全部聞けるほど、私の胆力はない。
「やっぱなんでもなーい」
「なんやねん」
何を聞けばいいのか分からなくなり、質問自体をなかったことにした。
彼の文句をスルーして、冷蔵庫を開ける。何かお味噌汁の具が欲しい。3パック纏め売りのお豆腐がひとつ残っていた。賞味期限が昨日だったけど、まあ1日くらいでは味も変わるまい。出す相手も夏樹だし。
だし巻きを均等に切り分け、ちゃちゃっとお味噌汁も作って、テーブルに並べる。ご飯もよそった。私の分以外のお茶碗なんてないので、彼の分は小さめのどんぶりだ。
「やー、なんか申し訳ないわぁ。めっちゃうまそう」
「でしょ。まあついでだし、気にしないで。いただきます」
「いただきます」
正方形の2人掛けのテーブル。その対面に彼が座り、当たり前のように手を合わせて一緒に食べる。
私は家に人を呼ばない。
母と、小学校の頃からの友人だけ、ほんの数回来たことがあるが、それだけだ。私が夏樹を今も想っているのを知らない、或いは知っているけれどそれを頭がおかしいと切り捨てる人間を、自分のテリトリーになど入れたくはなかったからだ。だからセフレだろうが、それ以外の友人だろうが、呼ぶことはなかった。
だからこうして飾り気もない食事を自宅で、人と一緒に食べるというのは、今までしたことのない事で、それが嬉しくて、そしてなんでか、妙に切なかった。自分でもなんで切ないんだか分からない。もう生理の時にインフルエンザ重なったくらいの酷いメンタル状況な自覚はあった。
目の前で「うんまぁ!おま、旨いやんこれ。なに、意外すぎんねんけど!」とか失礼なのに嬉しい言葉を掛けてくるやつを見ていると、自然に笑ってしまう。そんな自分に、阿保くさい位に夏樹が好きだなんだなぁとしみじみ理解してしまった。随分爛れた生活を送って来ていた割に、妙に純真な恋心みたいなのも残っていたんだななんて本当に私って何なんだろう。
感情が折り紙のようならいいのにと思う。折って畳んで、好きな形にできて、いらなくなったらぐしゃぐしゃに丸めて、燃えるゴミの日に捨ててしまえる、そんな自在な物ならどれだけよかっただろう。
零れ落ちそうな「好き」をお味噌汁で流し込む。
「ねえ夏樹、一緒に住む?」
そんな提案、していい訳もないのに。
ここは独身者用の部屋だ。別に短期間人を連れ込んだところで、何を言われるでもないけれど、住むなら話は変わって来るだろう。分かってる。でもなんとなく、あんまり長く一緒にいられる気がしないのだ。それは勘というか、こう、空気感と言えばいいだろうか。よく分からないけれど、何故かそれは私の中で確信めいていた。
彼といる時間を、どうしようもなく儚く感じるせいだろうか。
咽び泣いても足りないくらいに嬉しいのに、でも、喜びに浸る事ができない。
幻のような、夢のような、あやふやで確信を持てないのに、永遠に続いたらいいのにと思えるような、そんな空間。
それでも――――、ほんの1秒でもいいから長く、あなたと一緒にいたい。
きっとこれは自傷行為だ。
塞がる事のなかった初恋という膿んだ傷口に、塩酸をぶちまけるような行為だ。
でも構わない。
どちらにしろ、夏樹が消えたらもう、流石に臆病な私でも死ねそうだ。
死んだように、それでも欲に塗れて生きて来たけれど。でも、こんな素敵な奇跡を体験したら、もう何にも怖くない。終わっても、何にも悔いがない。
本来一緒に住むのなら、二人居住用のところへ引っ越すべきなのだろうけれど、どっちにしたって妖怪の彼には何か身分を証明できるものなんかない。つまりは収入を証明するモノだってないだろう。ふたり入居可のところへ引っ越すにしたって、お金はかかるわけで、どうせ最期の楽しい時間なら、もっと違う事にお金を使いたい。
消える時は、全部綺麗に整理して消えるから。だから、今だけ・・・社会人としてどうかって言われそうな我儘を許してほしい。
ちらりとこちらを見上げるながら、夏樹はずずっとお味噌汁を啜った。
「ええよ、別に。布団だけ用意して欲しいとこやけど」
「私マットレス2重に敷いてるから、薄い方貸してあげる」
「なんで厚い方じゃないねん」
「そっちは私が使いたいから」
「はー、ほんっま横暴やわ。呆れて物も言われへん」
寒くなったら毛布と掛布団くらい買ってあげる、という言葉は、言いかけたけど、やっぱりやめた。きっとそんなに長くはいない気がして。代わりに「言ってるじゃん」という憎まれ口だけ、どうにか吐き出すことに成功した。
7話
飛ぶように日々は過ぎて行った。
人というのは慣れる生き物、だなんてよく聞くけれど、それは事実だと心の底から実感した。
彼と同居を始めた最初のうちは、仕事から帰ったら夏樹が消えているんじゃないかと気が気じゃなかったけれど、実際そんな事はなく、彼は普通に家にいる。
段々と駅から走って帰る事が無くなり、そしてそのうち家で彼が待っているのが当然になって、その日々を当然のように甘受するようになった。
それでも、ふと胸裏に、燻るような熱と、言いようのない不安と切なさが襲う。でもそれがあるから私は、不用意な一歩を踏み出さずに済んでいるのだろう。
薄氷の上に佇むような生活にすら慣れるのだから、人間って本当に生に貪欲な生き物だ。
二人で暮らすには少し狭い11畳の1DKはしかし、いつでも夏樹の姿が見えて、安心できた。
私はベッドで、夏樹はその隣にマットレスを敷いて寝る。お互いのベッドへ入り込んだりなんて言う色っぽい事は何もない。修学旅行で小学生が布団を並べて寝るような、そんな色気のない関係性を保ち続けている。
それでも、夏樹がいるのに代用品なんてもちろんいらないから、体の関係だけで繋がっていた人たちとは、あっさりとすべての関係を清算した。まあ、ただ「彼氏できた」と連絡して、ブロックして終わりだ。簡単だった。
会社は、転職しようかなと思っていたのだけれど、どういう訳かあの日以降、灰寺の様子がおかしい。私に全く関心が無くなった様なのだ。どうやら仕事もミスを連発するようになったらしい。お陰でやつは次の派遣更新がなくなったと風の噂に聞いた。
当然ながら、言いたいことは山のようにあるし、警察沙汰にするか本当に、心から、非っ常に迷ったのだけれど、考えれば考える程、警察沙汰にできない。なんせ、夏樹の事を掘り下げて聞かれたら、困るのはこちらなのだ。うまい説明も思い付かず、モヤモヤは残っているものの、私の方も水に流す、という事でとりあえずは納得することにした。
まあでも、灰寺はどこからどう見ても確実におかしくなっている。
私の事も意図的に避けている、とかそういうレベルの無関心ではない。人格が崩壊したような、ぎりぎり社会生活を送れているくらいの、ほんとうにギリギリ人間を保っているというような雰囲気で、前の灰寺とはまるで別人である。誰がどう見ても「何かあった」と考えるような状態なのだ。
とはいえ、私の同僚たちは隣の島での出来事だから対岸の火事であるし、私だって関わらないで済むのならそれが一番いい。
少々心当たりはある。なんせ超常的な存在が最近身内にいるので、「夏樹何かしたのか?」と考えずにはいられない。だってタイミングがタイミングだし、そりゃ思うに決まっている。とはいえ、私も性格のいい人間でもないので、灰寺と関わらなくて済んで非常にストレスフリーだし、もうすぐ視界からも消えるとなるといい事しかないし、そのまま触れていない。何も知らないで通すのが恐らく一番平和だろう。
...
..
.
「ただいまぁ」
「おかえりー」
ドアを開けて気の抜けた帰宅の声を掛ければ、夏樹の声が返ってくる。それを当然のように受け止める反面「よかった、今日もいる」と心の底からホッとする。
夏樹は、あまり自分の事は話してくれない。
私も、深く掘り下げて聞こうとしない。
だから、私は妖怪がどういうものなのか、全然分からないまま一緒に住んでいる。それが夏樹なら、まあ別になんだっていいか、という曖昧というよりは投げやりな思考の末の暴挙だ。
何時この平穏な生活が終わってしまうだろうかと恐れながら、いつまでも続いてくれと願いながら。でも現状が永遠に続くなんて欠片も信じてない。それどころか、夏樹との関係を深めたり、理解度を深めるような努力も何にもしていない。ただ都合よく、表層の甘い部分だけを舐めて満足しようとする私は、本当に愚かしくて仕様がない。
泥沼だ。
でも抜け出したくない。助けも求めていない。このまま、ぬるく居心地のいいここで、死ぬまで溺れていたい。
「風呂張っといたで」
「ありがとー。入っちゃお」
「おう、飯温めとくわ」
ここへ住み始めた当初からだが、夏樹はなにくれとなく家事全般をやってくれる。普通に下着まで洗われるのは若干どころではない抵抗があったのだが、なんだかんだでそれも慣れた。
服を買おうか、と聞いたけれど「作務衣で慣れてるからええわ」とあっさり断られたのでそのままだ。ころころと色が変わるので、なんか知らないけど着替えはあるらしい。でもそれが一体どこにしまわれているものなのかは、全く分からない。
なんであれ、こうして家事をしてくれる事には、本当に感謝しかない。
「いつもありがと。今日何?」
「麻婆豆腐」
「えー、好きー」
「おー知ってんでー」
ゆるいやり取りをしながらお風呂へ向かう。いつもシャワーでささっと済ませていたのに、夏樹がお湯を沸かしてくれるものだから、最近ちゃんと湯船に浸かっている。
一緒に住み始めてそろそろ1か月が経とうとしてるけれど、大家さんや管理会社から何か言われたりも特にない。その理由は、夏樹が玄関から外へ出たり入ったりしていないからだろう。
時たま空気に溶けるように消えて、また同じようにふっと現れる。まんま幽霊である。相変わらず触れば体温も実態もあるのに、本当に不思議だ。
どういう訳か、食費を渡したらいらないと言われる。「泥棒はだめだよ」と言ったのだが「あほか。俺かて稼いでるわ」と胡乱な表情で返されただけだった。だけどどうやって稼いでいるのかは全然教えてくれなかったし、あまり納得も行かないのだけれど「ほれ、盗みなんてセコいことせえへんわ」と言いながらドヤ顔でレシートを渡されて、とりあえずは納得せざるを得なかった。
詳細は分からないけれど、妖怪には妖怪の社会があるらしい。某日本を代表する妖怪の主題歌のせいで、お化けには学校も会社もないんだとばかり思っていたから、これには驚いた。
「夏樹は夏樹だもんな」というそれだけで、私はもう無理やり納得することにしていた。
食事の片付けも終え、寝支度を整えてお互いの寝床で寝転んだ状態でホラーゲームの実況を流し見る。実況者の素っ頓狂な叫びや罵声に、ふたりでけらけらと笑って、適当なところで寝る、というのがここ最近の夜のルーティンだ。
「んははっ!ビビりすぎやろー」
「ふふっ、あ、ねえ今日さー」
「おーん?」
ゲーム内で高所から落下するシーンを見ている時だった。そのシーンを見て、不意に今日の出来事を思い出してしまったのだ。その話をしたくなって、私は充電器に差しながら触っていたスマホを枕元に放り出し、何の気なしに夏樹に向って話しかけた。
生返事のお手本のような声が返ってきたので、そのまま言葉を続ける。
「駅の階段から落ちてさぁ」
「え、は?なん・・・、怪我は!?」
私に背を向け、頬杖をついて寝転がっていた状態から、がばりと勢いよくこちらに向き直る瞬発力はなかなかに猫を感じる。猫耳もぴんっと立ってしっかりこちらを向いているあたり、本気で心配してくれているらしい。
「いや、そんな慌てなくても。3段くらいだし、足挫いたのと尻もちついて蒙古斑みたいな痣ができただけだよ」
「なんやねん、蒙古斑って」
へらへらと笑って返すと、彼は慌てた自分を恥じるように不貞腐れ、ため息をついて薄いマットレスの上に溶けるように伸びた。
「なんか最近ついてないんだよねぇ・・・。イヤホン落とした瞬間に踏みつけられて壊れたし、引き出しに思いっきり指挟むし、普通に食べてるだけなのに、ランチのお皿が真っ二つに割れるし。で、今日は階段から落ちるでしょ。もー散々よー」
「っ・・・、もっと早よ言えや」
「え?」
夏樹がぼそぼそと小声で呟く。何を言ったのか聞こえなくて聞き返すが、返答はない。
なんとなくで見ていた夏樹にしっかりと彼に焦点を合わせると、どうにも少し顔色が悪い。
彼は寝転がったまま、私の方は見ずに、口を開いては閉じ、何度も言い淀む。緩み切っていた空気感がもう完全に張りつめていた。唾を飲む。場違いなゲーム実況者の騒ぐ声が煩わしくて、私はリモコンを操作してテレビの電源から落とした。
ぶつっと騒々しい音が途切れ、いきなり部屋が沈黙に支配される。その沈黙があまりにも痛くて、私はうろうろと視線を彷徨わせてしまった。
夏樹は、そんな私を見るとへらりと笑って、妙に明るく取り繕った声で尋ねた。
「なぁ、俺がさ、今日でバイバイって言ったら、あんたどないする?」
張りつめていた空気が完全に凍る。空気が凍る「ぴきっ」という幻聴が聞こえた気すらした。
心臓が痛い。呼吸するのすら痛い。
どうしてこうなった、という思いばかりが頭の中を駆け巡る。階段から落ちた話なんてするんじゃなかった。もう頭の中にはそれしかない。まさか今、こんな何にもない和やかなタイミングで、この時が来るだなんて、覚悟も何もできてない。
それでも。それでもいつか終わると予期してはいた。
その思考だけで、私は短く息を吸い込んだ。
「っ、っ、ぁ・・・えー?そしたら、・・・そしたらちゃんと、バイバイってしたげるやん」
言葉に詰まった一瞬を、なかったことにするように、とって付けたような関西弁で返した。なるべく平穏に、いつもの調子で返そうとして失敗した口調は、肩事みたいに不自然だった。「へたくそ」と笑ってくれないかな、なんて思ったけれど、彼はまっすぐに私を見て、もうへらへらした笑みも浮かべていなかった。
頭の中に悲鳴が響いている。
「いやだ」「引き留めないと」「ずっと一緒にいるんじゃないの!」と、なりふり構わず叫ぶ私がいる。
「覚悟してたでしょ」「仕方がないじゃない」「こうするって最初から決めてたんだから」と、本音をねじ伏せて、私はきゅっと下唇を噛んだ。
「なぁ・・・・・、なあ、それなら」
のっそりと体を起こし、自分のマットレスの上に胡坐をかいて座った夏樹の視線は、少し寒気がするほど真っ直ぐで、私のすべてを見通していそうだ。彼に倣い、私もむくりと体を起こして、ベッドの上に座る。自然、正座になったのは日本人の性だろうか。
「ちゃんと、俺がいなくなってもちゃんと、前向いて生きてけるか?」
彼の言葉に、呼吸ひとつ乱さなかった自分を褒めたい。
あまりに残酷で無意味な質問だったから。考える間でもない。そんなの無理に決まってる。
いっそのことだ。最初から夏樹との生活の「その後」なんてこれっぽっちも考えていない。
でも、夏樹が去るのを止めるつもりだってない。
夏樹はもう、人ではないのだから。詳しく聞いたわけではなかったけれど、妖怪には、きっと妖怪のルールがあるのだろうと、一緒に暮らしていてそれとなく感じた。なんとなく、無理してこちらにいるのだろうと、感じていた。私はそれにおんぶにだっこで、それがいかような努力なのか、全く聞くこともなかったけれど、でもその努力に心から感謝はしていたつもりだ。そして、そうして多少無理しても私と一緒にいたいと思ってくれることに、汚らしい優越感と充実を感じていた。
本音を言うのなら、まだこのぬるま湯のような生活を続けたい。縛り付けて、雁字搦めにして、私の事だけ考えて、私の為だけに存在して、私と一緒に息をして、私と一緒に息を止めて欲しい。そう思っているくせに、自由でいて欲しいと思うのも、また本音なのだ。
彼らしく、のびのびと生きて欲しいと、本当にそう願っている。
きっと私は害悪だ。
せり上がる涙を、そっと飲み込んだ。今ここで泣くなんて、そんな事はしたくない。代わりに笑う。これ以上なく朗らかに、それっぽく。
「馬鹿ね、当たり前でしょ。今までだってそうやって生きて来たんだから」
ねえ私、昔から結構嘘つくの得意なの。
つく必要がないからつかなかっただけなの。
呆れたような、何言ってんのという思考を前面に出したような声を作って、純度100パーセントの濃縮された嘘をつく。今までもうまくは生きられなかったし、あなたがいなくなったらもうあとは、身辺整理をして、自分の命にも整理をつけるだけだけど、でもそれを、夏樹に語る必要なんてない。
「死んだらあなたに会えるかな」なんて思っていたけれど、夏樹ってば妖怪なんだもん。きっと死んだらもう会えないね。
でもいい。そんな不確かな希望より、この1か月の掛け替えのない幸せを手にしたのだから。これ以上を望んだら罰が当たりそうだもの。だからもういいのだ。タイムリープと同じか、それ以上の奇跡を体感しておいて、これ以上なんてあまりにおこがましい。
ぎりりと音が鳴る。
目の前で、夏樹が痛そうに、苦しそうに顔を歪めて、奥歯を食いしばっていた。人間に比べると長い犬歯が唇の端から覗く。オレンジ味があると言っても茶色い髪が、毛先から炎のようにゆらゆら揺れ出している。随分と禍々しい。
彼が怒っているのが分かっているのに、人でないものにしか見えないのに、それを美しいなと感じてしまう私は、きっともう、あちらこちらの回路がおかしくなってしまっているんだろう。
「嘘が、下手すぎんねん、アホ」
地を這うような低い声で唸った彼は、音もなく眼前に迫り、そのまま私をベッドへ押し倒した。
男女ふたりで、軋むベッドの上にいるというのに、色気の欠片もない。夏樹は、組み敷いた私の両手首をベッドへ磔にして、爛々と光る眼で見下ろしてくる。
夏樹の猫耳の体毛がなんだかふわふわしている。もし彼がもっともっと猫だったら、今はきっと全身の毛を逆立てて怒っているんだろうな、なんてそんな想像をしたらおかしくて、私は思わずちょっと笑ってしまった。
猫にするように、彼の頭をよくよく撫でてあげたいのだけれど、残念ながら押さえつけられていて何もできそうにない。
なので代わりに、私は寝ころんだまま肩を竦めるなんて器用な事をしながら、彼を宥める様に言葉を掛けた。
「嘘じゃないって。私が何年独りで生きて来てると思ってんの?」
「嘘やろが。これっぽっちも生への執着が見えへん。せめてその薄っぺらい笑顔やめろ」
「失礼過ぎない?」
ギュッと掴まれた手首が少し痛い。多分後で見たら跡が付いているだろうけれど、夏樹に跡をつけて貰えるなんて嬉しい事でしかないから問題ない。
私は彼の真剣な調子を受け流して、困ったように笑って見せる。
「俺がいなくなって・・・それであんたはどうすんねや、自殺か?・・・っ、勘弁してやほんまに」
「っ、なんでそんなに怒ってるの?自殺なんてしないって。気にし過ぎだよ」
「お願いやって・・・なあ、頼むよ・・・そんなに死を望まんといてよ・・・」
夏樹の声が震えて、ぽた、と私の頬に水滴が落ちてくる。
そうだったね、夏樹。あなた結構涙もろいのよね。
ほんのすぐそこにある夏樹の綺麗な猫の目玉が、苦し気にゆがめられ、ぼたぼたと涙が落ちてくる。
私は泣かないよ。今はね。一緒に泣いたらだめだ。
喉の奥を締める。
表面だけは湖面のように静かな精神を保つ。
いやごめん、嘘。全然嘘だ。
ぐらぐらと沸く寸前の、気泡だけが立ち上る湯の張った鍋の水面みたいな、そんな心地だ。まだギリギリ、沸騰していないだけ。でも、そこに至りたくはなくて、私は必死に平静を保つ。クールダウンしよう。感情的になったらだめだ。決めたことでしょ。ずっと、最初から決めていた事でしょう。必死に自分へ言い聞かせる。
「自殺なんて、そんな勇気ないよ私」
この感情は、諦念と呼べばいいのだろうか。自分でもよく分からない。ほんの少し、何かが揺らいだら、ぐちゃぐちゃでどろどろの心の内が溢れそうで、私はそれを無視するために、真意を突く夏樹の言葉を、おチャラけて受け流す。
「なあ・・・俺はどうしたら、あんたを救えんねん」
「もう十分、救われてるよ」
彼の悲痛な声に、私は不誠実な嘘で返すことしかできなかった。
それが私にとって、唯一出来る、彼を解放する術だったのだ。
8話
私に覆いかぶさる彼の雰囲気がじりじりと人間から離れて行く気配がしていた。
箱の中から闇が這い出てくるような、妙な寒気を伴う怖気がする。その怖気は恐らく本能的なものなのだろうけれど、でも私の本能自体がもう大分イカれているのだろう。生存本能より、夏樹を求める本能の方が強くて、だから辛うじて私は彼の前で平気で笑っていられるんだと思う。
幽霊だろうが、悪霊だろうが、肉の塊だろうが構わない。それが夏樹ならば、近くにいて欲しい。それは間違いなく、心の底から願った事だ。だから、じりじりと伸びた爪が多少肌に食い込もうと、彼の目がより猫のそれに近づこうと、髪の毛が仄かに発光するようなオレンジ色に変化しようと、やっぱり夏樹は夏樹だったから・・・だから全然、構わなかった。
「やっぱり人間と一緒だと生きづらい?」
「今そんな話してへんやろ、はぐらかさんといて・・・なあ、ええか。よく聞きや」
別れを切り出した彼に問いかける。苛立たし気な夏樹に一蹴されてしまったけれど、別にはぐらかすつもりではなかったのにな。
ぎゅっと眉根を寄せた彼は、細く長く息を吸い込むと、苦しそうに、呻くように言葉を続けた。
「俺は妖怪やねん。人間だった俺は、もう死んでる」
「ッ――――!」
心臓に杭でも突き刺されたかのような、そんな痛みを感じた。
知っていた。
ただの事実の羅列。
もう長年向き合い続けてきた真実であるのに。
だというのに、こんなにも間近で、目の前に、逃れようもないその真実を突きつけられた途端、私は痛みを伴うほどの深い絶望を味わっていた。もしも魂という存在が本当にあるのなら、多分今、私のそれはぎしぎしと軋んでいる。痛みを感じるはずのない、どことも分からない部分が致命的な傷を負ったような気がした。
嗚呼、私、自分で戒めていたつもりだったのに、なのに思っていた数倍、もしかしたら数十倍、浮かれ果てていた。
夏樹がいる生活に、下らなくて甘ったれた、許されない夢を見ている自覚が足りなかった。そりゃそうだ。「戸籍がないなら結婚はできないか」なんて、今更だけど、頭ぱっぱらぱーじゃなきゃ考えるはずもない。
喉の奥から漏れ出そうな呻き声を辛うじて飲み込む。その嚥下する音が、やけに大きく聞こえた。
「ごめんな。あんた元々死の色があんまりに濃かったから・・・だからこうやって俺が近くにいたって、今更すぐに不幸に見舞われたりはないと思っててんけど・・・あんたは俺が思ってた以上に俺側に引かれてる・・・」
死の色が濃いとか薄いというのは、正直言ってよく分からないけれど、濃いと言われても反論する気にはなれなかった。だって、ずっといつ死のうかと考えていた訳だし。こうして夏樹がいなくなると言われたらあっさり腹を括れるくらいには、私はギリギリのラインに立って生きてきた。
どうして夏樹にはその「死の濃淡」とやらが分かるのかとか、夏樹が一緒にいたら不幸になるのはどうしてなのとか、聞きたい事はたくさんあるけれど、でも口を挟めるような雰囲気でもなかった。それに、そもそも聞きたい事を聞けるようなら、もっと前に沢山のことを聞いているという話だ。
まるで懺悔するように、夏樹は、深く後悔した色を声に乗せて、もう既にぼろぼろの私に、ねじ伏せるような正論を説く。
「だから、あり得ないような確率の不幸を引いてしまいよんねん。分かるか。俺と一緒にいたら、あんたどんどん不幸になんねんで。それじゃあかんやろ、ちゃんと幸せに――――」
「幸せだよ、今」
「ッ!」
耐えかねて夏樹の言葉を遮った。「幸せだ」と発した私の声は思った以上に低く、まるで地獄の底から這い出て来たみたいな、怨嗟を孕んだような、そんな声だった。
真っ直ぐにその目を見返して、できる限り静かな声を心がけて。それでも、泣き叫ぶのを抑えているせいで声が震え出す。もはや涙を止める事もできなくて、あとからあとから流れ落ちていく。
だって。
だって無理だ。
夏樹にそんな事言われたくない。
彼にだけは「幸せになれ」なんて言われたくない。そんなの耐えられない。耐えたくもない。
夏樹しか好きになれなかったのだ。どうしても、どうしても私の「幸せ」には夏樹が必要だった。それを確認し続ける日々だった。終ぞ真っ当な幸福とやらを見つけられなかった不良品の私に、あなただけは「幸せになれ」なんて言わないで。
「私、今、本当に幸せなんだよ、夏樹」
「ッ、幸せなわけないやろ!あんた今俺に引きずられて、あれこれ痛い目見てるやろうが」
彼の罵声が全然怖くなかった。
彼の罵声自体が、散々夢で聞いたそれよりずっと柔らかいからか、それとも、それが純粋に私を想ってくれるものだからか。分からないけど、理由なんて何でもいいや。もう考えるのも疲れてきた。
彼から溢れ出る人でない気配に触発されるように、理性の底へと沈めていた本音が、口の隙間からまろび出てしまいそうだった。一応まだ、私の理性は言う訳にはいかないと訴えていて、だから一度、大きなため息をつきながら唇を閉じ、本音を飲み下してから、どうにか朗らかな声色を作った。
「幸せだよ。夏樹がいない世界より、なんでもいいから夏樹がいる世界の方が、断然幸せ」
ヘタに嘘をついたら、抑え込んだ醜い本音が溢れ出そうだったから、私はただの真実だけを口にした。目尻を伝い落ちた涙が、そのまま髪の中へ流れて落ちて、変にくすぐったい。
「違うやろ・・・違うやんか、幸せって。なあ、もっとあるやん。俺じゃなくて他の・・・他の男と、・・・っ!」
言葉を最後まで言い切れないまま、夏樹は投げ捨てるように私の手を離し、自分の顔を覆った。
言葉を言い切れないまま放棄した夏樹を見上げて、私は泣きながらちょっとだけ嗤った。
だっていい年をした大人がふたり、子どもみたいに泣きながら、自分のままならない想いを伝えきれなくて悶々とするなんて、あまりに滑稽だ。
私は夏樹が好きだよ。
夏樹も私が好きでしょう?
他の男と幸せになれなんて、嘘でも言えないんでしょう?
すごい傲慢で己惚れた思考だけど、でも当たっているでしょう?
嗚呼、夏樹の事が好き。大好き。本当に好き。好きで、好きで好きで好きで、忘れたくて、忘れられなくて、なんで一緒に死ねなかったんだろうって思うくらいにしんどくて。でも助けてくれたことが心底嬉しくて。私が助けられなかった事が死んで詫びたい暗い申し訳なくて。あんまり苦しいから憎たらしくなる位にね、好きなの。
「いっぱい試したよ。でも無理だった。全然無理だった。全部全部夏樹と比べちゃう。夏樹の代わりにしようとして全部失敗したの」
嗚呼、逃がしてあげたいのにな。
私の事忘れて、妖怪人生、楽しく生きていってくれたらいいなって、本当にそう思っていたんだけどな。
どろどろとした本心が、静かに保とうと努力していた精神の湖面を泡立たせる。
嗚呼、やっぱり。一度沸騰してしまったらもうダメだと思ったから、頑張って耐えていたのに。
そんな私に、最後の一歩を踏み出させるのは夏樹だよ?あなたがもし、私に他の男と幸せになれって突き放せたら、ちゃんと逃がしてあげたのに。
ぼたぼたと泣きながら、唇の端が引きつって歪な笑みを作るのが自分でも分かった。
まだ少し手首に痺れが残る手で、彼の作務衣の襟首を掴んだ。驚いたように彼が顔を覆っていた手を緩めて、細い縦長の瞳孔が私を見下ろした。
「夏樹がいない世界じゃ幸せになれないよ。どんな幸運があっても、夏樹がいないってだけでダメなんだもん。大学じゃまともな友達も作れない。彼氏作ろうにも、全部夏樹と比べちゃう。少なくとも月に1回は夏樹が死ぬ瞬間を夢に見て、夏樹の写真にしゃべりかけるような女なんだよ、私」
私の声は涙で揺れてはいたけれど、穏やかな物だった。ただ吐き出される言葉はまるで可愛げのない恨み節でしかない。
夏樹は私の唐突な告白に唖然として、それから口元を片手で覆った。あなたのその目でぐつぐつ煮だっているのは欲望だろうか、それとも恐怖?憎悪?
何でもいいよ。なんでもいい。それだけ熱い視線で焼き尽くすように見てくれるなら、そこに込められている感情が何かなんて、もうどうでもいい。
刻み込んでやりたい。
私が死んでも、彼が私を忘れられないように。
死んだ人を想い続ける地獄のような苦しさを、彼も知ったらいい。それに苦しんで、苦しんで苦しんで、いつか時間薬がそれを癒してくれることを、態とらしく祈ろう。でもそれまでは、夏樹を私に縛り付けてやりたい。
なんて醜い。
こんなに壊れてしまう前に、一思いに死んでおけばよかったと心底思った。でも怖かったんだから、仕方がないじゃない。
きっと夏樹より、私の方が変わったね。全然変わってないつもりだったけど、幼虫が羽化するように、私も変わっていたみたいだ。残念ながら芋虫がなったのは麗しい蝶じゃなく、地味なのに不気味で毒を持った蛾だったけれど。
こんな醜い感情が、恋な訳はないな。
ましてや愛なはずがない。
こんなに、胸の奥が苦しくて、体が全部どす黒く染まっていくようなこの気持ちが、そんな崇高なものな訳がない。きっとこれは、憎しみとか、呪いとか、そういうアレだ。
ぼたぼたと涙が溢れる。
吐息だけの嗤いが零れる。
苦しい。
痛い。
血を吐きそうだ。
その苦しみを、あなたにまで与えようとする私を、どうか憎んで、憎んで、憎んで、それで忘れないで欲しい。
「もうね、私ぐちゃぐちゃに汚いんだよ」
夏樹の手の向こう側、喉の奥から、男のうめき声と猫の唸り声が入り混じった、妙な声が溢れ出る。
怒ってるんだ?どれに?自分から汚れに行った私に?
いいね、もっと怒って。憎んで。
「別に私、夏樹が死んだことを受け入れなかったわけじゃないんだよ。ちゃんと納得しようとした。色んな人に言われたもの。お父さんにもお母さんにも言われた。友達にだって言われた。『夏樹はあなたを守ったんだよ。だからあなたは幸せにならないと。夏樹の分も生きないと』って。分かるよ、分かる。みんなの言う通り。きっとそれが正解。でもね、できなかった。無理だったの。何をしても夏樹じゃないってだけでダメだった。だからもう、死ぬ覚悟ができるまでダラダラ生きてるだけだった」
ひゅっと夏樹が息を飲む。
ぼたぼたと涙を流しながら、夏樹は口を覆っていた手をどかして、私を睨むように見下ろす。ぎちぎちと音が出そうなほど食いしばられた口元は、鋭い八重歯がよく目立って見えた。
彼の怒りを呷るように、私は言葉を吐き続ける。
「なのに最後に夏樹が現れて、一緒に暮らすなんて奇跡まで体験してさ。だからもう、何の悔いもない。周りに迷惑かけないように整理だけして、死ッ」
唐突に口を覆われる。彼の大きな手が、しっかりとベッドに私の頭を押し付けるようにして口を抑え込む。少し痛いし苦しいけど、何より私を見下ろす彼の目が、馬鹿みたいに熱っぽくて、そこから目を離せない。
「好きや」
「っ!」
彼の目が、獲物を狙い定める猛獣みたいにぎゅうッと細くなる。白目の色が陰りのある朱色になっていた。猫にしたって派手な色味の目が、獰猛で、なのに切実な視線で見下ろしてくるのだ。心臓が痛みを伴ったまま鼓動を走らせる。
知ってた。
でも言うと思わなかった。
だって。なんで。ずっと言わなかったのになんで今――――。
「もうええやろ。そんなに死にたいなら、全部俺に寄こせ」
「な、んッ」
唸り声もそのままに吐き捨てながら、彼は私の口を解放し、代わりに私の髪の中に乱暴に指を突っ込んで両手でがっしりと頭を掴み、そのまま私が何を言う間もなく、齧りつくように口づけて来た。
一瞬、頭が真っ白に染まる。
「――――っ!?」
唇に触れたそれが、その行為がキスだと把握するのに数秒を要した。
私より温度の高い唇。思ったよりも柔らかい乾いた粘膜。下唇に当たる鋭利な歯。
嗚呼、私、今夏樹と初めてキスしたんだ・・・。
もうほんと、死んでいいな・・・。
すごく素直にそう思えて、ゆっくりと目を閉じた。もっと唇の感触に集中したかったのだ。
初めてのキスは、涙の味と花火の匂いがした。
9話*
「ん゛っ、ぅ、ふぅ、んん゛っ」
息が苦しくて涙が滲む。
夏樹の口付けは執拗だった。それ自体は望むところとはいえ、本気で息が苦しくて窒息死できそうだ。逃げようにも、がっしりと頭を抱え込まれていて自分のタイミングで息を継ぐこともできない。あまりの苦しさに、頭に張り付く手を解こうとその手首を掴んで引きはがそうとはしたのだが、頭に溶接されているのか疑いたくなる程にピクリとも動かず、まるで歯が立たない。
咥内をいいように舐めまわされ、自分のか夏樹のかも分からない唾液を嚥下せざるを得ないこの行為は、キスと形容するにはあまりに野蛮な行為に思えた。
そう思っているのに、私は下着が割れ目に張り付くくらい濡れている。息が苦しくて仕方ないのに、彼の舌や唇という柔らかい場所に噛みついたりせず、悶えながら余すことなく受け入れている。
いつの間にか脚の間に彼の体が割り入っていた。ぐずぐずと疼く熱を持て余して踵でシーツを蹴り飛ばすけれど、まるで逃げ出せない。
「ん、はっ、なつ――――」
「喋んなや」
彼の名前を呼ぼうとした。もうこんなのやめないと。でも続きを――――もっとして。何が言いたいのかは自分でもわからなかったけれど、じろりと睨み下ろされ、低い声で命令されて、呼吸と一緒に言葉も飲み込んだ。
改めて見上げた夏樹に見惚れる。ゆらゆらと炎そのもののように揺らめく髪に、白目部分が暗い朱色の縦に割れた瞳孔をした目の彼は、まさしく異形だ。
「俺の事しか好きじゃないくせに、散々浮気しよって・・・」
「むぐっ、ぅっ」
彼の大きな手は、片手で容易に私の両頬を押しつぶした。頬の内側の柔らかい肉が自分の歯で押しつぶされて痛い。でもまともに抵抗ができない。こんな暴力的に睨み下ろされているのに、下腹部が今まで体験したことがない位に疼いている。全身が熱くて脳みそが茹りそうだった。
「ちゃんと逃がしてやろうと思っとったんやで。ほんまに、そのつもりやって」
彼の表情は怒りに歪んでいるのに、なのにまだ、時折ぽろりぽろりと涙が零れ落ちている。
笑いたくなる。私たち、同じこと考えてたんだ?
ねえ分かるよ。本気で逃がしてあげるつもりだったんだよね。でも逃がしたくなかったのも本音でしょ?私もそうだよ。私だって、夏樹の幸せを願ってたんだよ。だけどもう無理。無理なの。絶対逃がさない。
「でももう無理やわ。一緒に堕っこちてや」
「っ!」
びっ、と鋭い音がして、部屋着の草臥れたTシャツの正面が真っ二つに割れ、体から滑り落ちる。そんなに薄っぺらい布じゃないはずなのに、まるで紙切れのように切り裂かれてしまった。
私の頭に浮かんだのとまるで同じ言葉を絞り出した彼が、好きだ。好きで、憎くて堪らない。間違いなく、私のテンションは、夏樹が死んで以降一番高い状態だろう。服を切り裂かれて、力づくで口を塞がれて、頭と胸を締めるのは狂いそうなほどの喜びだけだなんて、ほんとどうしようもないイカれた女だ。
「ぅ、ぅうぅっ」
「なんや。悔しいの?そんな睨みつけても可愛いだけやで?」
片手で私の口を覆ったまま、夏樹は小首を傾げて私を見下す。にやりとした笑みは初めて見るもので、その大人の色気に中てられる。
それが悔しくて引っぺがすように視線を逸らすけれど、腹の底が疼くのは止められない。もうすでに夏樹の体は私の脚の間にあるわけで、痴女みたいに濡らしたそこが部屋着越しとは言え、無防備にさらされてしまっているのだ。それが不安で、でもそれ以上に焦れったくて、情けない程呼吸が乱れてしまう。
暴走する鼓動の音は、そのピント尖った耳には届いてしまっているんだろうか?だとしたら恥ずかしくて死ねそうだ。
「なあ、俺妖怪になってから人間の頃よりずいぶん鼻が良ぉなってな」
くちゅっ
「ッ!?ふ、ッぅ、~~ッ」
「これ、バレてないと思ってたん?」
彼と私の恥部が、服越しに重ねられて、私は大げさなほどに腰を跳ねさせて呻いた。「キスしただけでえらい雌臭い匂いさせとるやん」なんて、意地悪で卑猥な事を言われてカッと顔面い血が上る。思い切り睨み上げるけれど、彼はまるで気にしたそぶりを見せない。
「んははっ!睨んでも可愛いってなんなんマジで。今俺化けの皮剥がれてしまってるやんか。なのにそんな濡れた目ぇしててええの?あんた今、化け物に犯されそうになってんねんで」
お互いにズボンを履いてる状態なのに、彼の熱が滲んで来る。口を押えられているのだから答えられるはずもないのに、夏樹は実に悪い笑みを浮かべて、酷い言葉を吐く。もし口が利けたなら「そっちだって勃ってるじゃん」と悪態をつけたのに、悔しい限りだ。
「はっ、もー、あかんなぁ、ほんま」
「んっ、んんぅ、ッ」
強く腰を押し付けられて、服越しとは言えクリトリスが潰されてしまう。走った快感に思わず甘えた声が漏れた。
くだらない。服の上から触れ合っているだけだなんて、児戯みたいな触れ合いなのに、なんてだらしない声を上げているんだ。
ばかみたいに興奮している自覚はあった。それこそ、嘗てない程に興奮している。なんならもう、こうやって服の上からお互いの恥部を擦り合わせているだけでも果ててしまいそうなほどに。
分類的には痴女に近いのだろうけれど、私は殊更敏感で、何をされても気持ちいいというような体質ではない。不感症とは言わないけれど、感じやすいかと言われたら否と答えるだろう。なんも気持ちよくなかったわ、みたいなセックスの経験だってザラにある。
それがこんな、服越しの触れ合いだけでイってしまいそうだなんて、正直どうしていいか分からない。
「殺してやりたいくらい腹立つのに、かつてない程テンションぶち上がってんねんけど、どうしたらええんやろ」
「――――ッ」
夏樹の言う支離滅裂な言葉に、どうしようもなく同意したかった。私なんてもっとひどい。聞きたい事は山ほどあるし、彼の言う通り、夏樹の見た目に少々ビビってもいるのに、この先の行為を、そして一緒に堕ちろという言葉を、その意味を、この上なく期待しているのだから。
ぷち、と軽い音を立ててブラまで真ん中で切り裂かれてしまう。口元を手で覆われているせいでどうやってるんだか見えないけれど、なんとなく動作から、爪で切り裂かれたのかなと予想はできた。それにしても、そんなにばっさばっさ人の服を切り裂いて、あとで覚えておけよ。弁償してもらうからな。
「はー、もー、マジであかん。ちょっと待って」
大きく息を吐きだして身を起こした彼は、私の口を覆っていた手を外すと、再度両手で自分の顔を覆った。掌で目元も頬も一気に拭って涙の痕跡を消している。覆っていた手を外した彼は、元の、人間にほど近い、彼の言葉を借りるなら化けの皮を被った状態に戻っていた。
白目も白に戻っている。あの暗い朱色もそれはそれで素敵だったけれど、まあ別に、異形に犯される趣味がある訳でもない。普通な方が見慣れていてやりやすそうだという、その程度の感想しか抱かなかった。
彼の頬へそっと手を伸ばして、もう拭い去られた涙の痕を辿り、そうして彼の体温を感じながら、私は消え入りそうな声で尋ねた。
「・・・一緒にいられるの?」
「あんたは人間やめることになるけどな」
鼻で嗤うような、ちょっと小ばかにしたような仕草で、彼は言葉を投げ捨てる。そんな悪びれた言い方をしながらしかし、彼の視線は私の返答を、様子を伺うように、真っ直ぐにこちらへと定められていた。
不安なのかもしれない。
まあだって、「人間やめる」なんてなかなかだ。
そもそも人間をやめるって何だ。私も猫人間になる感じなのか。猫耳生える感じなんだろうか。まあまあ嫌だな。それとも幽霊だろうか。
「・・・やめても、夏樹とこうやってお互いに触ることできる?」
「当たり前やろ。むしろこれからも触りたいから人間やめさそうとしてんねん」
随分と明け透けな物言いだ。
まあそうだ。薄氷を踏むような生活をずっと続けるのはしんどい。一緒にいられるだけでいい。そしてどうせなら言葉を交わしたい。更に言うなら触れ合えるならもっといい。どうしてこうも強欲なんだろう。夏樹に対して足る事を知る事ができない。
つまるところ、猫人間どんとこいという話だ。
「じゃあいいよ、全然。人間やめる。親に迷惑かけたくないから、退職とかマンションの解約とかはしたいけど」
「・・・あっさりしすぎやろ・・・意味わかって言ってんの?」
私の回答に、夏樹の方がためらいを見せる。言葉を選ぶように、ゆっくりと問いかけてくる。
もしここで、私が「やっぱりやめる」って言ったら夏樹は私を殺してくれるのだろうか。そうならいいのに。きっとそうはしてくれないだろう。いやそもそも、夏樹と生きる――生きるで合ってるのかは分からないが――未来があるのなら、態々怖い思いをして死にたいわけでもない。
頬に置いた手をゆっくりと滑らせて、彼の首に腕を絡める。
それを黙って受け入れる夏樹に、その、ちょっとだけ挙動不審な様子に、今度は私が笑った。
「多分分かってないけど・・・別に何でもいいよ。絶対私の方が夏樹の事好き」
「――――アホか。んな訳ないやろ。絶対俺の方が好きやわ」
私の可愛げのない告白に、夏樹は一瞬面食らったような顔をして、それから存外嬉しそうな笑みを浮かべた。
伸びて来た彼の両手が私の顎の輪郭を這いあがる。そのまま髪の中に手を突っ込んで、くしゃりと乱しながら頭皮を撫でた。それがくすぐったくて少し肩を竦めた私の唇を、夏樹はそっと自分のそれで塞いだ。
受け入れるように、唇を開いて、それから絡ませた腕に力を込めて更に彼を引き寄せる。
でも、両肘を私の肩の横あたりについて体を支えている彼はビクともしない。
きっと妖怪になって、人間とは比べようもない位の腕力になったんだろう。それはずいぶんと前から、生活の端々で感じていた事だけれど、さっき実際に抑え込まれて、身をもって確信した。
思い通りにならないのも嫌じゃない――――いや、やっぱりやだ。
彼の思い通りというのが悔しくて、私は蜘蛛みたいに彼の腰に脚を絡ませて、口付けをしたまま、もっと体を寄せろと態度で示す。さっきまで感じていた脚を開いてしまってる事への焦りとか恥じらいなんて、あっさりどこかへ吹っ飛んでいた。そもそも、既に上半身は開けっ広げになってしまってるわけで、今更何か隠すとかそういう次元になかった。
「ちょっ、なんやねん、はしたない」
「いいから、もっとくっついてよ」
黒いドロドロした感情は、もう胸の奥で燻っているばかりに鎮火されている。それはそうだ。だってもう、私は夏樹と一緒にいるって選択してしまったのだもの。そんな選択肢があるなんて思いもよらなかったけれど、それが許されるならこれ以上なんてない。そりゃ気分も楽になる。
でも多分、それは夏樹も一緒だろう。
さっきまでのおどろおどろしい雰囲気は鳴りを潜めていた。それはきっと、私があっさりと人間やめます宣言をしてしまったからなのだろう。
でも何となくツンケンした態度は変わらない。多分私が他の男ともいっぱい寝たみたいな話をしたからだろうな。浮気どうの言ってたし。そこに関しては、こちらも少々どころではなく罪悪感がある。
別に悪い事をしたわけではないはずなのに――なんせ夏樹は死んだのだ――ものすごく悪い事をした気がしている。なのであえて触れるつもりもない。
「うっさいわ、黙っとけ。こっちのペースでやらせろや」
ごちゃごちゃと文句を垂れつつも、夏樹は私のリクエスト通り体を寄せてくれた。裸の上半身に作務衣越しの夏樹の体温が伝わって思わず満足の笑みを浮かべてしまう。今はもう揺らめいていない茶色っぽい色へと戻った髪を梳くように指に絡めながら、私の方から唇をくっ付けなおす。催促するように口を開けば、ぬるりと彼の舌が入って来た。
尾てい骨の辺りがぞくぞくする。どうしよう、今私、普通に夏樹とキスしてる。
その事実だけでとんでもない幸福感を感じられる。
夏樹の舌は少しだけざりざりとしているけれど、人間のそれと大差ない。猫のあの、かなり刺々しい舌で、自分の咥内を舐められるのを想像すると、正直ちょっと痛そうだから今更ながら安心した。
さっきはこんな風に観察する余裕は皆無だったのだ。
甘えた声が喉から漏れ出てしまう。
ぐちゃぐちゃにされたい。ドロドロにして欲しい。
頭の中が本能でぐずぐずに熔かされていくみたいな気がした。
「夏樹」
「ん?」
ほんの少し、息継ぎに離れた隙間に、彼の名を差し挟む。それに大した意味なんてなくて、でも、優しく返事をしてくれたことは嬉しくて。
発する言葉は何も見つからなかったから、私はやはりもう一度彼の名を呼んで、そのまま再度、自分から夏樹の唇を奪いに行った。
10話*
夏樹の手が私の胸を鷲掴む。むにっと手の中で潰された感触がなかなか強かったものだから、私は無理やり唇を引っぺがして文句をつけた。
「痛い!強い!」
「えっ、ごめん。こんくらい・・・?」
痛くしようとしたわけではなかったらしく、夏樹は少し慌てた様子で手の力を抜いた。悪意があった訳ではないらしい。そのあたふたした感じを見て、私は少々面食らった。
あれ・・・待てよ。もしかしなくてもこいつ、童貞か・・・?
「・・・・・・」
「じろじろ見んなや。言いたいことあるならハッキリ言え」
「や・・・全然・・・」
「張っ倒すぞ」
えだって・・・だって夏樹童貞なんだ?え、ほんとに?いやいや、え、え。ほんとに?待ってそれは可愛すぎる。これから私の事知ってそのまま私しか知らなくなるの?それはいいのか?いいの?え、ヤダ嬉しい。全然誰とも共有しなくていいって事?
「は、初めて・・・だったりする・・・?」
これ以上なく遠慮がちに尋ねると、思いっきり顔をしかめた彼に睨み下ろされた。
「あんた俺がいくつで死んだと思ってんねん。18やぞ。しかも拗らせた幼馴染がおったせいで全然関係が進展しぃひんし」
心底不機嫌であると顔面に張り付いた表情をして、夏樹は視線を逸らしながら早口でまくし立てた。それでも裸の胸に置いた手が離れない辺り、なかなか童貞してる。
「拗らせてたのはそっちもでしょ」
「どこがやねん。俺は素直が取り柄や」
素直だなんて、本当にどこのどいつが言うんだろうか。天邪鬼もいい所のくせに。夏樹の言葉に非常に引っかかった私は、一旦過去の事をほじくり返すことにした。
「でも体育祭の時いい雰囲気だったのに告白してくれなかったじゃん」
「あんな人がちらほらいる場所で思春期真っ盛りの俺が告白なんてできるわけあるかボケ」
「じゃあ夏休みにたまたまふたりっきりになった時は?」
「あ、ッ、あれはその、タイミングが・・・だー!もー!黙っとれ!先に進まんやろが!」
問い詰める私を怒鳴りつけた夏樹は、そのままもう一方の胸にも手を添える。さっきの痛いという言葉はそれなりに響いているらしく、今度はそっと優しく触られた。
その反省に免じて「先に進めたいんだ?」という言葉は飲み込むことにした。
「んっ、ふふっ、はーい」
「ほんまに腹立つわぁ・・・」
ボヤく夏樹すら可愛くて、でもあんまりイジりすぎると空気が悪くなるよなと自重する。彼の手はすごく温かくて心地いい。そもそも「夏樹の手」というそれだけで、私が刺激を快感へと変換するには十分な要因だ。
ふにふにと触り心地を確かめるように胸に触れる彼が堪らなく愛おしい。その慣れていなさそうな感じがまた、最高にイイ。
「夏樹」
「あん?」
「夏樹も脱いで」
少々ドスの利いた返答をさらりと流して要求だけ突きつける。
挑発するように、でも甘えるように見上げて強請ると、夏樹はぴきっと固まった。
別にいいでしょ。我儘にさせてよ。だって私もあなたも、シたい事は一緒でしょ?情緒なんてくそくらえ。私は、さっさとあなたを全部私の物にしてしまいたい。
夏樹の喉仏が上下に動く。
ねえ、興奮してる?
してたとして、まだ足りないよね。もっと昂っちゃえよ。
私は、もう余計なことなんて考えないで、野獣みたいなセックスがしたい。
だって人間じゃなくなる、なんて意味の分からない事、深く考え出したらすごく怖くなってしまいそうだから。それでまかり間違って、夏樹から逃げ出すなんて考えが浮かんだりしたら、きっと自分で自分を殺したくなるだろう。だから、そんな余計な考えが浮かばないように、ぐちゃぐちゃになってしまいたい。
欲望と焦燥の混ざった何かが私の中心を支配していた。どちらにしたって結論は一緒だ。早く夏樹と繋がりたい。
私の服を平気で切り裂いたくせに、自分の服を脱ぐのは躊躇われるのか、彼はぴしりと固まったまま動かない。まったく何をやっているんだかと、彼の作務衣の前紐を引っ張った。当然、それはするりと簡単にほどけて、はらりと前身頃がはだける。
「ちょっ」
「私もうおっぱい丸出しなんですけど?」
「っ・・・」
私の主張に何か言う事は出来なかったらしく、夏樹は黙ったまま内側の紐も外すと、小慣れた仕草で内側の紐を解いた。
するり、と作務衣の上衣が肩を滑り降り、夏樹の上半身が露わになる。
今度つばを飲み込んだのは私の方だった。
思った以上にがっちりと筋肉の付いた夏樹の体が、ちょっとエロすぎてズルい。ズルいし、それはちょっとしんどい。
なんとなく私の方が上手に立った気になって落ち着いていた鼓動が、一気に走り出してしまう。馬鹿正直な自分の心臓に少々呆れてしまうが、そんな事を思ったって動悸は治まらない。
上手く言葉が出なくて、でも触れたくて、幼い子供が抱っこを強請るように、彼へ向かって両手を突き出す。夏樹は黙ったまま私に首を差し出してくれた。首に腕を絡めるのと同時に、裸の胸同士が重なる。
肌が直接触れ合うという、ただそれだけの事なのに、直に肌が触れ合う温もりの心地よさに思わず息を飲む。彼は体温が高いと感じていたけれど、こうして触れると、それは更に顕著に感じられた。触れた場所から溶かされてしまいそうだ。
「っ、は・・・」
「急に静かになりよる」
頭だけ持ち上げた夏樹が、至近距離で私を見下ろして悪戯に笑った。胸が締め上げられるこの感覚は、一体どの臓器で味わっているんだろう。心臓だろうか?肺だろうか?それともそこに、心があるとでもいうのか。
余計な事を考え出した私の頬を撫でた彼は、そのままキスをした。
こんなに心地いいのに、まさか拒む理由もない。
蕩けてしまいそうな心地の良いキスに、なんでこいつ、キスだけこんなに上手いんだろうと変な不満が脳裏をよぎるけれど、咥内に入って来た温かい舌が上顎を撫でる感触に、そんなのどうでもよくなってしまう。
掌で彼の背中を撫でおろす。脇腹を爪で掠めるように這い上がり、髪の中へ手を入れて悪戯に猫耳をマッサージして、それからまた首筋を伝って背中を撫でて・・・。
時たま私の手の下で、夏樹の体がびくりと震えるのが可愛い。真似をするように、彼の手が私の体を優しく這いまわる。肩を、二の腕を、脇腹を、顔の輪郭を、それから耳を。
少したどたどしい動きが却って私の呼吸を乱す。キスをするのが苦しい。でも辞めたくない。
「んっ、はっ、ちゅ、んぅ」
「っ、はぁっ、かわい」
息継ぎの合間に挟まれた「可愛い」に、心臓が止まりそうになる。「可愛い」なんて、適当に穴に突っ込みたい男が、適当に口説く時に使う、十把一絡げの売り文句だと思ってきたのに。なのに特別な人に言われた瞬間、それは魔法の言葉に変わってしまった。
顔が熱い。
多分真っ赤になってる。
可愛いって言われただけなのに、そんな初心な反応をするなんて恥ずかしい。
そう思うのに、夏樹はさも嬉しそうに「照れてんの?」なんて囁いて、私が余計な事を言う前に、また唇を塞いだ。
余計な茶々を挟めないせいで、ペースが完全に夏樹に握られている。シーツを無駄に乱すだけだった足を、夏樹の太ももと腰に絡めてやる。夏樹がびくりとするのが分かって、非常に気分がよかった。
ただ、少し体を離した彼が、胸を下から掬い上げるように柔く掴んだせいで、そのいい気分はあっという間に焦りにとってかわられてしまった。
「なあ、ここってどう触るのが気持ちええん?」
にんまりと優越感を滲ませた笑みが私を見据える。そんな大人な夏樹は全然知らなくて、でもどう見ても夏樹で、もう息をするのすらしんどい。
不埒な手を払いのけるなんて、もちろんできるはずもなく、じり、と視線を逃がす。それでも、初めてである彼に、とりあえず察して上手にセックスしろというのもなんだか違う気がする。・・・なんかものすごくこう、なんだ。気まずいんだけど、でもとりあえず、聞かれたことには答えよう。
「ん、優しく・・・、触って欲し、」
「こう?」
「ぁっ!んっ、んっ、ふっ」
指先でつつ、と掠めるように胸の輪郭をなぞられ、ぞわぞわと肌が粟立つ。夏樹の指先が触れた場所から、波紋が広がるように全身へ、緩い快感の波が広がっていく。
暴れ出したいような、縋りつきたいような感覚を、シーツをひとつ蹴る事で逃がす。
「こうすんのがええんや?んはっ分かりやす」
「ふっ、ぅ゛ー」
違う、なんて初めての相手に下手な事を言って、間違った方へ行くのも嫌で、否定もできない。そもそも、実際気持ちがいいの「違う」なんて嘘でしかない。
とりあえず夏樹と繋がれたらなんだっていいけれど、私だってできれば気持ちのいい行為がしたいのだ。だからこれは、必要な前段階で、だから、全然恥ずかしいことじゃないはずで。
頭の中で、童貞相手に唯々諾々と流されている現状への言い訳をつらつらと並べ立てる。
が、やっぱり悔しい。悔しいのだけれども結局、私にできる事と言ったら、唇を手の甲で覆って甘えた声が出るのを封じ、視線を横へ逃がし、唸り声で遺憾の意を表明する事くらいだった。
「なあ教えてよ、経験豊富なお姉さん?こっちも優しく触られたい?」
「はっ!ぅぁっん゛っふぅぅッ」
ふに、と親指が私の乳首を優しく圧し潰す。
胸に触れられているだけだというのに、あまりに気持ちがいい。この程度の事であんあん鳴くなんて「お姉さん」などと揶揄された後では恥ずかしすぎる。ぐっと奥歯を噛みしめて声を殺す。
優しく優しく撫でられる乳首が、じりじりと硬く立ち上がっていく。もうちょっと強い刺激が欲しくて、でもそれを言うのは恥ずかしすぎて、とてもじゃないけれど口を開けない。
夏樹がどんな表情をしているのか堪らなく気になるけれど、見たらもっとドキドキして心臓が取れてしまうような気さえするから、視線も逸らしたまま、ついには目をきつく瞑っている始末だ。
「なぁ硬くなってんで。気持ちいいと女も勃つんやなぁ?」
「っ、せ、いり現象、だ、し、っ、ぁっ」
意地悪ばっかり言われるのに我慢ならなくなって、思わず睨み上げて文句を言った。なのに、見下ろす視線と目が合った瞬間、声がしりすぼみに小さくなってしまう。
真っ直ぐ私を見下ろす夏樹は、少し頬を上気させ、うっとりと私を見下ろしていたのだ。その恍惚とした表情の破壊力と言ったらなかった。
「・・・なあ、目ぇ逸らさんと、俺の事見ててや。そうやって見上げられんの、めっちゃそそる」
「っっ!」
「んで」
余裕綽々の態度に腹が立つ。同時に胸の奥が酷く疼く。
夏樹は立てていた膝を伸ばして、ベッドの上、というか私の上にのしりと寝そべった。体重がかかって多少重たい。なんならちょっと息が詰まる。それでも、一応自重を肘で支えてくれているので、息ができないというほどではない。
問題があるとすれば、こんなに感じてる状態で、夏樹の熱い肌が私の肌と広く触れ合ってしまうというこの一点に尽きる。
ばくばくと跳ねまわる心臓をまるで制御できない。こんなの、きっとご立派な猫耳がなくたって聞こえてしまう。
うっとりとした視線から目を逸らせないままだった私は、胸の谷間に猫のようにすり寄った彼の甘やかな上目遣いに完全にやられていて、まともに喋る事もできず、ただ餌を強請る鯉のようにはくはくと口を開閉することしかできない。
「やっぱ舐められるのも気持ちいいもんなん?」
「っ、私胸はそんな、にィっ!」
揶揄ってくる彼の言葉でようやく言語野に回線がつながった物の、やりたい放題の夏樹を止めるには至らなかった。
人の物よりざらつく舌が、ねろりと乳首を舐め上げたのだ。とてもじゃないが、言葉を最後まで言い切る事ができなかった。
乳首を舐められる、なんて、言うならばそれだけの事なはずなのだ。普段ならちょっとくすぐったい程度。気持ちよくなろうという意識があれば、感じられない訳ではないけど、そうは言ったって言葉が中途半端に途切れる程の物ではない。
それなのに、走った刺激は予想していたものをあっさりと上回るものだった。
「なん、はっあっ」
息が上がる。
熱くて、少しざらつく舌が乳首の上を這う快感が、子宮を猛烈に疼かせる。
どう身を捩っても気持ちがよくて、口元に手の甲を当てながら首を仰け反らせてしまう。
待って。待って、好きな人とするエッチってこんなに違うの?
「なあ、目ぇ見とってって」
「ぁっふ、ッ、ん、ふぅっ」
首を仰け反らせてしまったのも、つま先でシーツをかき乱し、顔の横のシーツを引っ張るように掴んでしまうのも、もはや反射的な行動だった。
目を見ているなんて、そんな余裕はどこにもない。でも、流石にそんな事を言うのは悔しすぎる。ちょっと服を脱いで、胸を舐められたってだけなのだ。ぐっと奥歯を噛みしめて、顎を引き、夏樹を見下ろす。
「っ、ぁっ、っ・・・」
ああくそ。見たりしなきゃよかった。
妙に可愛い仕草で首を傾げながら、横から乳房を掴んでソフトクリームを舐める時のように大きく舌を出した夏樹が、それを見せつけるようにこちらを見上げていたのだ。私と目が合った途端、嬉しそうに目元だけ緩めて、大きく露出したその舌を乳首に貼り付けた。
「あッ!く、っ」
「で?胸はそんなに・・・なんやて?」
「ふっ、っ、あ、ッ、生意気っ!」
「はっ!こっちの台詞やわ」
尖りきった乳首を、舌全体を使ってべろりと舐め上げ、そのまま口に含みちゅうっと吸い上げられる。喉を絞めて必死に声を我慢しようとして「くぅっ」と中途半端な声が漏れた。
「なぁ」
「あ゛っ!?」
「あ、ごめ――――」
彼が口を開いて乳首を解放した瞬間、あまりに強い刺激が走ってあられもない声を上げてしまった。組み敷かれた彼の下で、大げさなくらい体が跳ねる。
恐らく、態とではない。たまたま、本当にたまたま、彼の、人間よりも鋭利な牙が乳首の先端を掠めたのだ。唐突に与えられた強烈かつ直接的な快感が、優しい快感で焦らされていた体にはあまりに強くて、決して絶頂したという訳ではなかったけれど、体がびくつくのを止められないくらいには気持ちよくて、まともに呼吸も整えられない。
「へぇ?」
にんまりと笑っているのが声だけで分かる。
違う。ちょっと待って。なんか勘違いしてるでしょ。待って、待って本当に違くて――――!
「ちょ、ッ、待っ」
「これそんなにイイ?」
「ん゛っ゛、ッ!は、あッあッ!」
「・・・なにそれ。ヤバい可愛いやん」
びんっと背中が反り返る。彼の体の下でそこまで動けなかったけれど、それでも背骨に沿って筋肉が収縮したのが自分でもわかった。
夏樹が乳首に牙を立てたのだ。優しく、力加減に気を付けながら、でも舌で舐めるよりも明らかにハッキリとした快感。
だめだ、だめ。まだズボンも脱いでないのに、私なんでこんなに呼吸を乱しているんだろう。まだ前戯もいいところだというのに、なんでこんな信じられないくらい感じちゃってるんだ。だめだ。こんな調子じゃおかしくなってしまいそうだ。
ぐちゃぐちゃにされたいなんて、ついさっき考えていたはずの思考は、恐怖に近い焦りに飲まれ、どこかへ消えていた。
「待ってっ!待っ、つッ!ハっ」
「んー?」
夏樹の髪を引っ張って、胸から引きはがそうとしてもまるで歯が立たない。彼の下から這い出そうとベッドを蹴るものの、いつの間にか、手が片方、肩を掴んでいてうまくいかない。
何もできないまま、乳首をかしかしと柔く噛まれ、かと思えば丁寧に舐られ、快感と焦燥感が体の中に積もり積もっていく。
「んぁっあっだめっ、ぁっ、も、だめェっ!」
「んー、痛くないんやろ?ならもうちょっと・・・」
そんな優しい言い方しないでよ。なんでそんな風に言うの。なんかもう気持ちよすぎてダメなのに。ちゃんと拒否したいのにッ!
ざらりとした舌がくすぐるように乳首の先端を舐め擦る。悶絶したいくらい気持ちがいいのに、夏樹の体が邪魔でまともに動くこともできない。
「ふぅっ!ふっ!んぅぅッ゛!」
もう「だめ」と言う事すらできなくて、私は両手を目の上で交差して、せめて声を押し殺すために、ぐっと奥歯を噛みしめる事しかできなかった。
11話*
「あーあー、糸引いてるやん。べっちゃべちゃやであんた」
「はぁっはっんっはぁっ」
散々に嘗め尽くされた結果のこの台詞である。
揶揄われているのは十二分に分かっているし、腹も立ってるのだけれど、乱れた呼吸を戻すことができず言われっぱなしだ。ほんと後で覚えてろよマジで。
もうとにかく体が、全身が熱かった。
ズボンとパンツを一緒くたに引きずり降ろされたのだけれど、もはや抵抗もできなければ協力もできない。完全にされるがままだ。
圧し掛かっていた彼はどいたので逃げることだってできるのに、もう手を持ち上げるのすら億劫だ。乳首の先がまだじんじんと痺れている。こんなに胸だけ虐め倒されたのも初めてなら、上半身だけで一戦交えた後くらい体力を削られたのも初めてだった。
もうヤダってほとんど泣きながら言ってるのに、全然やめてくれないのだ。
「もうちょっとだけ」だの「痛い?それならやめんで」だの、声色だけ優しく、その実強引に強請られて断れなかったのだ。だって!大好きな夏樹にそんな風におねだりされて断れるわけがない。結果、ひたすらに乳首、というか乳房全体もお腹も首筋も、マーキングするみたいにあちこち舐められて齧られた。
お陰でようやくパンツを脱がされるという段階なのに、既にヘロヘロだ。
ほんとにムカつく。童貞のくせにっ!
まったくもって腹に据えかねる。
仰け反っていた頭を正常な位置に戻しながら、どうにか目に力を込めてヤツを睨み上げた。
「そっち、もっ、ッ、脱ぎなさいよ」
「えー?どないしよっかなぁ」
これだけ人を甚振りつくしたくせに、夏樹はさも可愛げのある猫みたいに、ぴこぴこと猫耳を震わせて、楽し気に首を傾げる。そうしながら、露わになった下腹部をするりと撫でた。
「ッ」
押されたわけでもないのに、私はただ下腹部を、子宮の上を撫でられたというそれだけの刺激に息を詰めた。
これまで与えられた刺激は、明確な、身を悶えさせるような快感だった。でも、果てるにはあと一歩足りず、そのせいで、添えられた彼の指の下には今、ため込まれた快感がめいいっぱい渦巻いている。
「優しく、がええやんなぁ?」
「っあ、は、あっ」
ゆっくりと、円を描くように下腹部を撫で摩られる。たったそれだけでまともに口もきけなくなるなんて、我ながら情けないにも程がある。
「べちょべちょだ」なんて揶揄ってきたくせに、肌を撫でる夏樹の手つきは驚くほどに優しくて、するすると肌の上を滑っていく。下腹部からなだらかに降りて行き、夏樹に居座られてだらしなく開いた太ももの内側へ降りて、そこから脚の外側へと流れて行って、腰骨の輪郭を優しくなぞる。
「ぅ゛ーーーっ!ふぅううぅ゛ッ!」
もう突っ込んでくれと怒鳴りたい気分だった。発狂しそうなくらい焦れったいのに、それでもされるがままになっていたいと思わせる程気持ちがいい。
泣きたいんだか怒鳴りたいんだか分からない感情を、唸り声と一緒に吐き出す。両目に手の根元を押し付けて、せめて視界から夏樹を締めだした。
「はっ!はぁっ!ふっ!んはっ」
「加減間違えんの怖いし、最初はこっちな?」
「は、ぇ?あっ―――――ア、?」
ずるりと脚の間で夏樹が動いて、でももう快感に脳みそが溶けだしてるから、その程度の事は気にもしていなかった。
ただクリトリスを覆った熱くてぬめった感触に、理解が追い付かなくて、なのに神経が焼き切れそうな快感に背筋を貫かれて、気が付けば仰け反って情けなく腰を揺らしていた。
「ぁっぁっ、ッ??へぁ、ッ?」
「なぁ、ちょい、これ舐めづらいねんけど、も」
「ふ、ぁぇっ?」
だめだ、ダメだ、待って、なに、え、待って、今の何分かんないちょっとだけでいいから待って待ってだめ、もうダメこれ無理っぽいから私だめで――――。
気付かないうちにつま先までぴんっと伸びて緊張していた脚が、力づくで折りたたまれて大きく開かれる。そのまま彼の熱い手が、私の腰にがっちりと巻き付いた。
そこでようやく、私は目元から手をどけて、どうにも安定しない視線を真下へ向けた。そして、とんでもない場所へ吸い付く夏樹と、ばっちりと目が合ってしまった。
「や゛ッ!やだっ!やだやだやぅぐぅぅ゛ッ!」
しっちゃかめっちゃかに腕を振り回して、どうにか少しだけ上体を起こし、夏樹の髪を引っ掴んで引き離そうとした。が、びくともしない。だから今度はバシバシと叩いてやめさせようとしたのに、ぬろりとクリトリスを舐め上げられた刺激でベッドへ沈んだ。
目の裏側がバチバチしている。眼を見開いてるのだから視界は良好なはずなのに、何にも視覚情報として処理できない。
もはや引き剥がすような力を入れることもできない。猫のように柔らかい毛質の髪を指に絡めたまま仰け反って、そこからどうすることもできない。腰が勝手にガタガタと震える。脚は無意識に逃れようと悶えている。その力がこもっている自覚はある。なのに、私の脚力は完全に夏樹の腕で殺されていた。
夏樹は何も言わないで、いっそ献身的にクリトリスを舐めしゃぶる。濡れそぼった割れ目からべろりと舐め上げられるせいで、簡単に皮が剥かれてしまい、剥き出しにされたそこが、熱くてざりざりの舌に丁寧に丁寧に舐られるのだ。
そんなの、耐えられるわけがない。
通常状態でも耐えられそうにない刺激なのに、散々焦らされて昂った体にそんな事をされて、どうにかならないはずがなかった。
「あ゛っ!はぁっ!あっ、あっ、あ゛ッーーーーッ!」
絶頂の波が落ち着く前に次の波が来てしまう。言葉を挟む余裕なんてない。全力で暴れているはずなのに、すべての抵抗が徒労に終わるのだ。
逃げられないッ!これ全然逃げられないっ!
強すぎる快感に涙が溢れて来る。頭の片隅に過った、あんまり大きな声を出したら苦情を入れられるという理性が、私に手近にあった枕を引き寄せさせた。あるいはもはやどうにもならないから、何かしら縋るものが欲しいという欲求の方が強かったかもしれない。
「ぅ゛ーーーーっ!むぅううぅ゛ッ!」
叫んでいないと気が狂いそうで、枕をもみくちゃにしながら、そこに顔を埋めて叫び声を殺す。その間も強すぎる刺激から逃れようと体は勝手に暴れているのだけれど、もう全然、まったく、信じられない程に意味をなさない。
恥骨にぴったりと張り付いた夏樹の唇は剥がれる様子もないし、腰に巻き付いた手もびくともしないという、完全な力負けをしていた。
「はっ、何してんねん。声聞きたいんやけど」
「へっ、ぁ、あぇ、ッ゛、かえ、し、ひぃっ!」
唐突に刺激が止んだと思ったら、折角手にした縋りつく先を易々と剥ぎ取られた。結果、若干不機嫌そうな夏樹と目が合い、瞬きをした瞬間にぽろりと涙が目尻から耳へと流れ落ちる。
抵抗しようと手を伸ばしたのだけれど、その瞬間、割れ目に彼の指が添えられて、反射的にびくりと縮こまってしまった。もう逃げだしたくて一生懸命ベッドを蹴っているのに、うまく力が入らずにシーツを上滑るばかりだ。こんな時に脚が役に立たないなんて!
「あー、かわい・・・泣いてたん?ここそんな気持ちぃんや?」
「ほぁっ、あっ、あっあっんっんんっくふぅっ」
割れ目に添えられた指はそのままゆっくりと這い上がり、舐めまわされてじんじんするほどに充血したクリトリスに直接触れた。
そもそも涎塗れにされたクリトリス自体もぬめりを帯びているが、溢れかえるほど濡れた割れ目から粘液を指に絡めた指もこれ以上なくぬるぬるしていた。しかも本当に繊細に、優しく触れてくるのだ。そこには不快な摩擦感は一切なく、ただ純粋な快感しかなくて、元々うまく力が入らなくなっていた身体から更に力が抜けていく。
もはや枕返してとすら言えず、こちらをまっすぐ見降ろしてくるヤツの視線から逃れるために、片方の腕で目の上を覆い、もう片方の手であられもない声を垂れ流す唇を覆った。
「あかんって、こっち見て」
「ふっ、ぅ、っあ、やっ、も、やだぁッ」
「えー?でもあんた、めっちゃ気持ち良さそうやんか。アホほど可愛い顔してんで」
目元を覆った手をあまりにも簡単にどけられてしまう。彼の力が強いというより、私の腕に力が入ってない方に問題があるのだろう。骨と筋肉の存在を疑いたくなるくらいに力が入らない。
何が「えー?」だ。全然やめる気がないのが声ににじみ出てる。なんなら含み笑いを隠せていない。本当にムカつく。でも苛ついているはずなのに、思考がぼやけて全然睨むこともできない。
「ぁっ、やめ、あっあっ、手ぇ、止めてぇっ」
「うん、ならほら、もっとちゃんと嫌がらな」
「ぁっあっも、っ、またイく、イっあッ!ふぁ、あぅっ!」
「はっ、あっつ。イったらほんまにひくひくすんねんなぁ」
腰が浮く。
ナカへ指が挿入って来たのだ。それもイったと思ったその瞬間に、ぬるりと。
「っ!は、っっ、っつぁ、っ!」
仰け反った喉に変な力が入って息がうまく出来ない。
やばい、どうしよう、私今夏樹に体の中触られちゃってる。セックスしちゃってる。どうしよ、これ、これ幸せ過ぎて狂いそう。
「なー、Gスポットって実際どの辺なん?」
「っぁ、あっ!っっ!」
探るように、夏樹の骨ばった指が私の腹の中を探る。自身の弱点を探られているのだと思うと、怖さと興奮が綯い交ぜになった何かに襲われて、叫び出したくなる。もうやめて欲しくて、そして容赦せず続けて欲いと僅かに思っていて。自分でも何をして欲しいんだか明確にできなかった。
それでもどうにか首を横に振るけれど、正直、これではどちらが初心か分かった物じゃない。
「なーぁって。どこなん?」
「ふっぅ、あ、ッ!?あ゛ッ!!」
「あぁ、ここ?」
膣なんて、そんな広い範囲の場所じゃない。相手に性感帯を探し出す意志がきっちりあるなら、その場所を見つけるなんて、きっとそう難しいことでもない。だって、こちらの反応を伺いながら、探るようにあちこち撫で擦ればいいだけの話なのだ。
「ひぁっ!やぇっ!あ゛っ!やっだめっ!だっ、やだっ!や゛ッ!これだめっ!出ちゃうっ!」
「え、マジ?めっちゃ見たいねんけど」
散々クリトリスを虐められていたのがよくなかったのだろう。その場所を探り当てられ、ピンポイントでノックするように刺激された途端、じわりと奥の方が熱く滲むのが分かった。もう触れられていないクリトリスまで熱く痺れているような感覚に襲われる。
焦る私に構うことなく、夏樹は淡々と同じリズムで刺激を続ける。こいつ童貞とか絶対嘘だ。こんな手馴れてる訳ない。おかしい。なんでっ!
「やだっ!ほん、とに゛ぃっあ゛ッ!出ちゃぅッ出りゅから゛ぁッ!」
「うん、出して?」
幸いな事に既に腰のホールドは解けている。私はぐちゃぐちゃに顔を歪めたまま、夏樹の指から逃れるべく、自分の体とは思えないくらい言うことを聞かない手足を動かして、必死に藻掻く。それが功を奏して、どうにか体がうつ伏せに転がり、ナカから彼の指が抜け落ちた。
その感触にすら喘ぎながら、どうにか立ち上がろうとした。
「ほら、逃げるんなら早よしぃや」
「ひっ、」
つ、と背骨の上に指が置かれた。肩甲骨の間辺り、性感帯でもなんでもない部分だ。それなのに、そこに指を置かれた途端、びくっと全身が硬直してしまう。
「急がな、すーぐ捕まってしまうで?」
「ッッ!~~~~~ッ!」
汗で湿った背中を夏樹の指が伝い落ちていく。背筋に沿って、指を下ろされているという、ただそれだけの動作に、腰がびくびくと跳ねる程感じてしまう。
なんでっもうおかしいっなんか体が変になってるっもうやだっもうやだ!!
「あ゛、」
尾てい骨の上あたりでぴたりと動きを止めた指は、そこをくるくると撫でまわし、そのまま触れる指の数が増え、最終的に掌全体で、揉み解すようにそこに触れる。
「ふぁ、ぅ、ぅぅー・・・」
思考が鈍る。
性的な快感とリラクゼーション的な快感が入り混じってちょっともうなんだかよく分からない。分からないけどとにかく気持ちよくて心地よくて仕方がない物だから、まともに抵抗もできない。どうにかシーツを握りしめている手だけが、まだその意思があるのだと主張していた。
「捕まえた」
「ぁっ」
ふわふわとした心地よい快感にぼーっとしていたら、くるりと体をひっくり返された。仰向けに転がされ、伸ばした脚の上、ちょうど膝の少し上あたりに、になかなかな重さがかかった。
私の脚の上に跨った夏樹は、可哀そうなものを見る目で私を見下ろし、しかし目が合うと、それはもう優越感たっぷりの表情でにんまりと笑った。
やばい、なんて思っても本当に今更だ。
「待っ――――」
「あーあー、ちゃんと教えたげたのになぁ?早よしないとって・・・ほんまどんくさいわぁ」
「そ、ぅむ」
夏樹の手が伸びて来て、これでもかと文句を言おうとした口が塞がれる。
「んははっ!やばい、俺なんか変な趣味に目覚めてもうてるわ。あんたの口抑え込むの、なんかすげぇクる」
楽しそうにおかしな性癖を恥ずかしげもなく暴露しながら、彼は何の躊躇いもなく私のナカへと再度指を埋め込んだ。
「んむぅう゛ッ!」
「いい目。そのままこっち見とってよ。そう、目ぇ合わしといてや?童貞に潮吹かされる経験豊富な情けなーいお姉さんの顔拝ませてや」
にんまりとした笑顔の夏樹は悪魔に見える。・・・妖怪だけど。
どこでそんなこっ恥ずかしいセリフ覚えてくるんだマジで。エロ漫画か?AVなのか?もう信じられない!それに煽られてる自分も信じられない!カエル化現象起こすなら今だろ!萎えろよ私!萎えるなら今だろうが!もぉおおっ!!
「ん゛ーーーっ!ッ!んっ、んぅぅ゛っ」
すっかり夏樹の掌で転がされている事を棚に上げて、思い切り睨み上げたのに、そのタイミングでさっき見つけられてしまったGスポットをゆっくりと刺激され、その瞬間虚勢が崩壊する。
信じられないくらい丁寧に解されてしまった体は、もはやどうにもならないくらいに敏感だった。そうでなくても、相手が夏樹というだけで、どうにもいつもと調子が違うというのに。
正直、一体今までの経験って何だったんだと聞きたくなるほどに、今している行為は、私が知っているセックスとは似て非なるものでしかなかった。
夏樹相手にこれだけ気持ちよくなれるのが嬉しくないはずもないのだが、しかしこんなにも掌の上でいいように転がされているのが心底気に食わないのも事実だった。
マジでムカつく。ほんと、あとで絶対泣かせてやる!!
「んっんっふっ!ぅんっんっ!」
心からそう思っているのに、私ができることは夏樹を弱弱しく睨み上げながら、Gスポットを刺激されて与えられる強い快感に、情けなく腰を揺らす事だけだった。
12話*
明るい部屋の中、ぐちゅぐちゅと酷い水音が響いていた。
「ッ!!ぅ、ふぅううぅ゛ッ!ぅううぅ゛ッ!」
「あかんって。こっち見とってよ」
脚を少し開いた状態で太ももの上にしっかりと乗られてしまっていて、まともに身動きが取れない。口元を抑える手を引きはがそうとしていた私の手は、もはやその手に縋っているような状態だ。
「潮を吹くとこ見せろ」なんていう、小学生男子みたいな好奇心で宣った夏樹は、びっくりする位優しい手つきで、Gスポットを攻め立ててくる。
それなりに経験があるけれど、逆に丁寧なセックスというのにはとんと縁がなかったのだと、今更気が付いてももう遅い。
夏樹の代用品が欲しい私と、適当に突っ込みたい男とのマッチングじゃさもありなんというところだが、そんな事にさえ今更気が付いたのだ。セックスに求めていたものが、快感というより、隙間を埋める体温でしかなかっただろう。そんな浅い経験、誇れることもなければ、経験値としても薄味で、大好きな相手との行為に直面している今、それらはなんの助けにもなっていなかった。
焦がれに焦がれた夏樹との行為というのは、私が知っていた今までのセックスを根本から覆す程の快感を伴っていた。
だって、口を押さえつけられて呼吸が苦しいのに、本気でそれを拒むどころか、そんな状態で普通に快感に流されてしまっているのだ。自分で自分が信じられない。
「ん゛っ!んん゛っ!!んんんぅ゛ッ!!」
あ、待って、あっ、やばい、やばいこれ本当に出ちゃう奥熱くなってるじわってしてきてるッ!
必死に首を振る。必死で口元を抑えている手を叩いて、腰を逃がそうと身を捩るが、びくともしない。
「出ちゃう?」
うっとりと目を細めた夏樹が尋ねてくる。これぞ猫なで声、という甘く優しく作られた声だ。喋れなくさせているのは夏樹のくせに、質問形式なところが憎らしい。
どうにか下っ腹に力込めて潮を吹くなんて行為を阻止しようとしたのと、Gスポットを今までよりほんの少し強い力で押し上げて揺らされたのは、ほとんど同時の出来事だった。
「~~~~~~~っ゛!!!」
ぷしゃっ
「わっ!すっごい勢い。んははっ可愛いー、ちょぉ待って。可愛すぎるて」
「っ!!ん゛っっ!!ふぅ゛っ!」
「あー、これって一回出したら止まらへんの?だらだら溢れよる」
「ぅ゛~~~~~ッ!!」
知らない、知らないっ!こんなの知らないっ!!
もう潮を吹いてしまったというのに、夏樹が手を止めてくれないせいで、そこから更にだらだらと潮を溢れさせてしまっている。こんなことは経験がなくて、どうしていいのか分からない。体が完全に自分の制御下から外れてしまっていた。
「こっちも一緒に触ったらどうなん?」
「きゅぅ゛ッ゛!」
ぷしゅしゅっ
喉から変な音が漏れる。
目の前が真っ白に染まっていて、もう何が起きているのかよく分からない。息苦しい。頭が痺れたみたいにふわふわしてる。
「きゅうって・・・かわい。ははっどこ見てんねん。白目むかんと、ちゃんと俺の方見とってって。なーぁ」
「っ!!――――ッ!!」
クリ、クリトリス潰さにゃいでっ!ナカもやめてぇっ!もお無理なのっ!しんどいっ!もぉしんどいぃっ!イけないっ!やだもうイくのやだぁあ゛っ!
「ここまで乱れたとこ見んのは初めてやわぁ・・・そんなに俺の事好き?」
夏樹が何か言ってる。でも全く意味が分からない。声は聞こえているけれど、その言葉の内容が全然理解できなくて、もはやただの音でしかない。
体の中で渦を巻く快感を吐き出すために、せめて叫びたくて、夏樹の掌の下で口がはくはくと動くけれど、音らしい音も出てくれない。
にゅぷん、と彼の手が抜ける。ただそれだけの動作で、体の筋肉がびくっと跳ねる動きをする。当然、太ももの上に居座られているのでその動きは完全に殺されてしまうのだが、今の私にそれをどうこうする気力は皆無だ。
口を塞いでいた手も同時に外され、私の脚に座り込んでいた夏樹の体も離れた。
呼吸は一気に楽になったけれど、まともに声も出せない。ひどく荒い喘鳴混じりの呼吸を繰り返す事しかできなかった。遠い昔、授業で長距離を走らされた時でさえもう少しまともに息ができていた気がする。
不意に、名前を呼ばれてぼやけていた意識が僅かに浮上する。それでも、頭を持ち上げる事すら億劫で、ぼーっとどこでもない場所を見ていた視線を、夏樹の方へ流すことしかできなかった。
そんな瀕死の私に覆いかぶさった夏樹は、陶酔という表現がまさにぴったりと当てはまる表情で覗き込んで来ながら、汗で濡れた私の髪を優しく梳いた。
「ほんまに人間やめてしまってええの?」
静かな声だった。
でもそれは、問いかけの形式の割に疑問を孕んでいるようには聞こえなかった。
もう私の答えなんてわかっているというような、そんな雰囲気がしていたのだ。きっと夏樹は、私が彼の手の中から逃げ出すなんて、欠片も考えていないのだろう。
それに対して傲慢だとか、自惚れ過ぎだとか、そんな事を考えるよりも先に、ああ、信頼してくれたんだ、という悦びが溢れる辺り、私はどうしようもないヤツなのだろう。
「そし、たら・・・は、ぁっ・・・夏樹と、いられる・・・でしょ?」
荒い呼吸の合間に問を返す。声が少し震えていた。
怖いからだろうか。それとも、まだ体を巡っている快楽の残滓のせいだろうか。分からなかったし、別に分かりたいとも思わなかった。
「うん。永劫な」
静かな声のまま、彼が答える。
それなら別に、なんでもいいかなぁ、と。そう思った。
快楽で理性の融けた脳みそは、大して考えもせずに答えを出す。「ずっと」なんてちょっと幼稚な言葉を使った夏樹が、なんだか可愛くて、私はへらりと笑って彼の方へと手を伸ばす。腕が重しでも付けているみたいで、のろのろとしか上がらない。
その腕を補助するように、夏樹の手が支えてくれて、どうにか彼の首へと腕を回して縋りつく。唇を合わせたのは自然な流れだった。そうするのが当然のように、私たちはどちらからともなく目を細め、顔を寄せた。
口付けながら夏樹の手が私の体の上を滑っていく。指先でなぞって官能を高めるような触れ方ではなく、掌全体を使った労わるようなその手つきが、敏感になり熱った体には大層気持ちよくて、そうでなくても無駄に上手なキスで回らない思考が、加速度的に溶けだしていく。
食べ合うように口付けながら、私はもう芸もなく、ただ夏樹の首に縋りついている事しかできなかった。
もうまったく、頭が回らない。
脚を大きく開かれて、その間に彼の体が割り込んだ。足に触れた感触で、夏樹も服を全部脱いでいたらしい事に気付く。大洪水の割れ目に、熱いモノが掠めて、一瞬息が止まった。
「ッ!んむっん゛っ!」
ぬるり、ぬるりと割れ目とクリトリスを彼のモノがなぞる。抱え上げられた脚が悶えても、夏樹は気にもしないで口付けを続けていたけれど、不意に顔を離し、それからばつが悪そうに私を見た。
「ごめん、ノールックで挿入れんのはやっぱちょっと無理っぽいわ」
「んっ、ふっふへ、はぇっ」
実に童貞っぽい事を言ってるのに、こっちにそれを揶揄う余裕がない。
彼からしたら挿入に失敗していたのかもしれなが、こっちは敏感な場所をぬるぬるごりごりと擦られていただけなのだ。そんな余裕あるはずがなかった。
体を起こした夏樹が、大きく開いた脚の間、もうぐちゃぐちゃに濡れて、彼が挿入ってくるのを今か今かと待ちわびているその場所に、ぺちんっ!と自身のモノを叩きつける。
「ぁぅっん゛っ!」
「うわ・・・エっロ」
焦らすこともなく、夏樹はぬぷりと私のナカへと挿入ってきた。先っぽの太い所を捻じ込まれた衝撃に頤を跳ね上げる。
熱い。熱、はっ硬い、なに、なんか変、え、あっアっなにっ!?なんかぼこぼこしてるっなにっこれなにっ――――!?
「なちゅ、あ゛っ!な、ッ、なん、何、変、ッ、へんっ!」
「はっ、あー、うん、ちょっと、ッ、待って・・・はッ、後で説明、するから、待っ、てなんなんこれ――――ッ」
「気持ちよすぎるやろ」と掠れた声で呟きながら、夏樹が奥までゆっくりと挿入ってくる。
気持ちいいって言って貰えるのが嬉しいなんて、私、本当に馬鹿だな。体の具合を褒められて何喜んでんだろう。そんな斜に構えた思考も僅かに流れるけれど、夏樹と体を繋げているという事実の前に、そんなもの大した意味を持たなかった。
ただただ、今自分の腹の中で脈打つ、自分とは別の熱があることに、それが夏樹である事に、もはや感動すら覚えている。それでも、今まで感じたことのない、膣壁を抉ってくるような突起物の存在を感じていて、でもどう考えても温度感も、質感も、そして夏樹の反応からしても、彼に生えているものを突っ込まれているようで、疑問が頭の中で爆発しそうだった。
「はっ、待って、待っ、ちょ、そんな締め付けんとい、っ、出るって」
「あっあっわか、ないっあっぅあっ」
そんな事言われたってどうしようもない。こっちだって別に、やろうと思って締め付けているわけじゃないのだ。それに待ってほしいのは、むしろ私の方だ。完全に快感が過剰すぎる。本当に、切実に一回待ってほしい。
「あかんって、も、っっ!」
ぱちゅっ!
「ひゅっ!?」
「くっ、っっ!」
「あ゛っ~~~~ッッ!!!♡」
上から腰を叩きつけられ、子宮をこれでもかと抉られて、まともに声も上げられないまま、味わった事のない深い絶頂感に意識を攫われた。腹筋が変な痙攣を起こしていて、絶頂感が引いてくれない。
お腹の底にじわりと熱が滲む。その慣れない感触が妙に心地いい。あれ・・・待って、これって・・・あ、え、これ生・・・?
二人分の乱れた呼吸音だけが響く部屋。湿度のある沈黙の中でぼーっと現状を把握しようと、のろまにしか回ってくれない思考を回す。
「夏――――」
「あ゛ークソもー、気持ちよすぎんねん」
「あっ!?ッんくぅっ!」
ぬめり気を増したナカからわずかばかり引き抜かれた感触に、思わず呻く。少し硬さの落ち着いたそれは、でも十分に熱いいし、未だ硬さを保っていた。何より、慣れない突起物で膣壁をぞりぞりと擦られる感触が本当にダメだ。
「はー、っ、あー、零れてきよる・・・エっロいわぁ・・・んははっ、おめでと。あんたもこれで人からはみ出た存在に仲間入りやで」
「はっ、ぁ、え・・・?」
するりとおへその下、子宮の上を撫でられる。何を言われているのかまるで分からなくて、のろのろと視線を下へ向けた。
見ると、下腹部には見慣れない模様が浮かんでいる。じわりと滲むように、段々と黒く濃くなっていくその模様は、車輪を描いたもののようだ。
「んはっ、くくっふっ、あははははははっ!!」
突如、場違いな大爆笑が室内に響いた。周囲から苦情が来てもおかしくないような、狂気じみた笑い声。どうしたんだろういきなり。なにが・・・どうして・・・なに。分からなくて怖い。
「っ、なつ、き・・・?」
それでもそこにいるのは確かに夏樹で、恐る恐る彼へと手を伸ばす。
仰け反るように笑っていた彼はしかし、私が手を伸ばしている事に気が付くと、喉の奥で笑いながらも、手を差し伸べてくれた。今しがた、狂った笑い声をあげていたとは思えない程に優しく、掌同士を合わせて、指を絡め貝殻のように繋いでくれる。
「長かったわ、ほんまに・・・気が狂うかと思った」
「ぁっ、はっあっ」
まっ白い腹に刻まれた車輪に雲・・・炎だろうか、そんな模様が纏わりついている車輪模様を、それはそれは愛おしそうに撫でながら、彼はゆるゆると腰を振る。
じわじわと彼の白目が暗い朱色へ侵食されている。化けの皮が剥がれかかっているらしい。それでも彼の口調は優しいままだし、お腹を撫でる手も、繋いでいる手も、どちらも優しく力を加減されていた。
長かったって何。どういう事?
この痛い程じゃないけどとげとげしてるの何?
何で笑ったの?
この模様は・・・?
私って、どうなってるの?
聞きたいことが渋滞している。なのに、体の内側を優しく撫でられるのが気持ちよすぎて言葉が出てこない。
「好きやで。愛してる」
「ッ!」
唐突な告白に、きゅっと胸が締め上げられて、同時にナカにいる彼の事も締め上げてしまう。
「っ、んはっ!めっちゃ素直やん。可愛すぎるやろ」
「ぁっ、ぅあっはっ、っんと、せつめっぇあっあっ説明っ!」
「するよ。もう取り返しもつかん状態やし、いくらでも説明したるけど、んっ、後にしようや。な?」
「あ゛ッ」
化けの皮が剥がれる程に興奮しているくせに、夏樹は変わらず穏やかな口調を崩さない。余裕そうな表情をして、上体を倒して私に覆いかぶさる。繋いだ手はゆっくりと顔の横に抑え込まれ、いつの間にかもう片方の手も同じように貝殻繋ぎにして反対側へと沈められる。
「なあ俺たち、もう夫婦やねんで」
「あっはっあ・・・?」
「こういうの、契りを交わす、って言うやろ?」
「あッ!ふぁっ!んッ!」
こういうの、と言いながら、夏樹は少し強く腰を揺する。優しくお腹のどん詰まりを小突かれるのが気持ちよすぎて腰が浮いてしまう。
「あ゛ー、そのだらしない顔やばい・・・なあ、人間の夫婦と違ってな?こうやって刻印を刻んだ者同士は、どうなったって離れられへんねんで・・・っは!素敵すぎるやろ?」
「ふぁ゛ッ!ッ、ッッ、ぅ゛~~~~~ッ!♡」
ぐっと奥に押し込まれ、子宮を押しつぶされる。その瞬間、一気に昇り詰めて思考が白く弾け飛んだ。
勝手にうねる腹筋の暴走に翻弄されながら、かすかに残る思考で、離れられないのは、確かに素敵だなんて馬鹿げたことを考えながら、私の視界は完全に白い闇に飲まれたのだった。
13話*
ぱち、と頬に軽い衝撃を何度か受けてはっと目を開ける。
「あ、起きた?よかったわぁ、病院に連れてく言うても、俺もまだこんなんやし、どないしよ思っててん」
「あ、あ゛っ?ぅあ・・・?」
しょろ
しょぽぽ
「ぉ゛ッ~~~~~゛ッ!!♡」
「っ、は、締めすぎなんやて・・・中イキは難しいって聞いてたんやけど、そうでもないもんなん?」
じわじわと熱い体液が勝手に溢れていく。ぞりぞりと上の壁こそげる様にして彼が出ていくのだ。ただ夏樹が出ていくというそれだけの動きで、何本もの突起が壁を抉っていくのだ。
こんなの、どうにかならない女の子がいるわけない。
耐えられない。
身体が言う事を聞かない。
片手は頭の横でベッドへと押さえつけられたままだった。もう片方は自由だけど、快感が強すぎていつの間にかシーツを握りしめ、そのまま動かせない。
腰は勝手に浮き上がってへこへこと揺れてしまっているし、腹筋がべこべこと波打つから呼吸も苦しい。
こんな深い絶頂は味わったことがなくて、自分で自分の事が分からない。頭の中が多幸感で溢れている。これだめだ。多分味わったらだめなヤツだ。抜け出せなくなる。
「なーぁって!」
ばちゅっ!
「ひィんっ゛!!?♡」
話しかけながら腰を叩きつけられてまた果てる。まだイくの終わってないのに次が来ちゃう。辛い。これきついッ!
「やっやぁ゛っ♡イっでるからっぁ゛っあ゛っ!イ゛ってるぅ゛ッ」
「あー、こら、あかんやん、俺の腹びしょびしょにしんといてよ」
「ぅあ゛っぅぁぁっごめ、へぁっ!~~~~ッ!♡ぞりぞりしにゃいでぇええ゛ッ!!♡」
ぷしゃっ!
必死に首を振りながら、味わった事もない強すぎる快感から逃れようとガムシャラに脚を動かす。でもどんなにシーツを蹴り飛ばしても、ただ布が波打つだけで、ちょっとずり上がる事すらできない。なんせ片手はまだ頭の横で磔にされたままなのだ。考えてみれば当然の事なのに、今はそんな思考すら回らない。
ちょっと出入りされるだけで潮を吹いてしまう。こんなの知らない。こんなの知らないッ!
「これそんな気持ちぃんか。んなら、こっちの体になってよかったわぁ」
「ほぁっ♡やみぇ、え゛ッ♡も、とめ、へぁッ゛♡」
「俺の元の体、骨しか持って来られへんかったし、大体猫でできてるんよなぁ。これでも随分人間に寄せられるようになったんやで」
なんか訳の分からない、難しい事を言われている。今のドロドロに溶けた頭では全然話について行ける気がしない。なんでもいい、後にして欲しい。とにかく動くのやめてっ!
「ぅーーーッ!ぅう゛~~~~ッ♡」
「知ってる?猫のちんこってこんなん比べ物にならんくらいトゲトゲしてんねんで。でもそんなん困るやんか。俺あんたと普通のエッチしたかったし」
「止めッも、待ってぇ、待っ――――えぅっ!♡」
深い場所まで挿入ってきたまま、緩く出し入れされて絶頂感が続いてしまう。それが苦しくて、気持ちよすぎるのがしんどくて、夏樹の手を爪が食い込むくらい握りしめ、何度も何度も静止の声を上げた。
なのに全然聞いてくれない。こちらに構うことなく、彼は訳の分からない話を続けるだけだ。
猫のおちんちんとか今どうでもいい!今話す事じゃないでしょ。全然ちゃんと分からないからっ!それよりお腹びくびくしてるの苦しいの。子宮熱いっ!
彼が動く度、じょろじょろとだらしなく潮が溢れてしまう。完全に体がおかしくなっていた。
「あ゛っあ゛ッ!♡あっはっぁっ゛♡」
「このさぁ、奥コリコリしてるのって子宮?」
「~~~~っ!!ぅうううぅぅ゛ッ!!♡」
夏樹が無遠慮に、これでもかと腰を押し付けてきたせいで、全然イくのがおさまらない状態の子宮が、ごりごりと押しつぶされる。
悶絶した。
喉が攣りそうなほどに仰け反り、彼に握られた手も、シーツを掴んでいた手も、大きく割り広げられた脚もめちゃくちゃに暴れさせたた。
しかし、あまりの力の差の前には、全ての抵抗が無駄で、無意味だった。
「んはっ、ッ、そんなだらしない顔したらだめやろ?童貞相手にしてんねんで?もっと初心者向けにあんあん可愛く鳴いてや」
「ぅむ、っ!?ん゛っぅぐぅうぅ゛♡」
悶絶する私を完全に抑え込んだ彼は、今の状況には不似合いな、照れたようなはにかみ笑顔を浮かべ、そのまま呼吸すら貪るように唇を塞いだ。
そうでなくても腹筋が痙攣していて息が苦しいのに、そんな事を歓迎するはずもない。今は無理だ。そう訴えたいのにいつの間にかシーツを引っ掻きまわしていた手まで捕まって、もはややめろと訴える術すらない。
「ぅう、んぅ、ぅ゛ぐ♡」
咥内をいいように貪られながら、恥骨同士をぴったりくっつけたまま腰を揺すられる動きまで加わった。堪ったものではない。もう全然、私のキャパシティはいっぱいというか、飽和していて、これ以上はどう考えたって無理なのに。なのになんでまだプラスで快感を捻じ込んで来るのか。意味が分からない。
「っ、かわい、どうしよ、俺こんな変な性癖ないつもりやってんけど、っ、はっ!アヘ顔してんのめっちゃちんこにクる、くッ、はっ!なあちょい、後ろ向いてぇな」
「ほぁっ!ぅ、ぁっ、へぁぇっ、ぇう、ゃぁ゛っ!」
身体が動かない。びくびくと勝手に痙攣してはいるけれど、自由意思ではもう全く動かせそうになかった。
夏樹は、ずるりと彼のモノが抜き去られた感触だけでちょろちょろと潮を溢れさせる私を、実に軽々しく、ころりとひっくり返した。そしてうつ伏せになった私の腰を両手でがっしりと掴み、ずりずりと自分の方へと引き寄せる。
「休、む、ぁっ、一回、休むぅ゛!」
「んー、休ませてやりたいねんけど、俺もう出ちゃいそうやもん。もうちょっとだけ・・・な?」
「あッ!」
ずぷり、と一番太い部分が沼と化した割れ目を押し広げて挿入ってくる。入口を押し広げたところで侵入を止めてはくれたものの、そんな状態で体が休まるはずもない。
「ふっ、っつ、っつぁあッ」
「はーっ、熱っつい、あ゛ー・・・奥まで挿入ったらあかん?」
「ふーーーっふっんふぅぅッ」
顔の周りにあるシーツを搔き集めて顔を埋め、必死になって呼吸を整える。割れ目が、私の入り口が、もっと寄こせとねだるように、彼の先端を食い締めている。その動きをありありと感じてしまうのが恥ずかしくて、だけどものすごく欲しくて。
体と脳みそはもう限界だと悲鳴を上げているのに、本能は夏樹を求めて止まない。いい加減にしてほしい。ほんとにもう無理なのに。
「なぁ」
「ぁっ」
腰だけを高く上げた体制のまま、彼が私の背中に密着するように身を屈めた。耳元にそっと熱い息を吹きかけられる。その熱い吐息と共に、低く潜められた声が耳の中へと入って来て、私は全身の毛がぞくりと逆立つのを感じて小さく呻いた。
ただ囁かれたというそれだけの事に、身震いするほどの興奮を感じてしまう。
「ぁっ、ぁ、なつ、きぃ」
「おるよ、ここにおるから安心し。もうずーっと一緒やしな」
大好きな声が、まるで迷子の子供に言い聞かせるように囁く。
シーツを弄っていた手が、彼の大きな手に捕まる。
あ、あ、手ぇ大っきぃ、やば、これ捕まったら私逃げられなくなっちゃうっ。
「もうちょっとだけ挿入れてい?」
「ぁ、ぁ、ぅ、ぅうっ」
ダメって言いたい。言いたいのに言えない。だって腰が揺れてる。もっとって腰揺らしちゃってるのは私の方だ。もうダメなのに欲しい、おちんちん奥まで欲しいっ!
至近距離から覗き込んで来る暗い朱色をした目。優しくうっとりと眇められていて、でも余裕なさそうに眉根を寄せていて、それが堪らなく色っぽくて可愛い。
その目を見てたら、ぐんっと一気に欲の方へ天秤が傾いてしまった。
「んっ――――はっぁっ!ごりごりぃっ!」
「はっ、とげとげ気持ちぃもんなぁ?は、くっ」
トゲトゲで膣壁を抉りながら、彼のモノがじっくりと時間をかけて私の中心を押し広げていく。ゆっくりと、でも確実に奥へと進んで来る動きは止まってくれない。
「ふっ!ふぅ゛っ!んむぅぅっ、ッ」
「あかんやろ、ちゃんと膝立てて?な?」
がくっ、と膝が折れて寝バックの体勢になりかけたけれど、彼の片腕が腰に巻き付いて支えられ、体勢を崩すことが許されない。
やば、あ、やばい、これだめ、いいとこ当たっ――――ッ、!
「とげとげやぁあっ♡」
「あっは!トゲトゲいややなぁ?でも困ったなぁ、これ初期装備やねんな」
夏樹はおかしそうに笑う。
その彼の顔がゆっくりと視界から遠ざかる。少し体が離れ、汗に濡れたうなじを、髪を掻き上げるようにして撫で上げられる。ぶわりと肌が粟立った。
「っあ、あ゛ッ」
「ごめん、ちょっとだけ・・・ちょっとだけ噛ましてや」
「ひぐっ!?ぅうぅうぅうう゛ッ!!♡」
かぷ、とそれなりの強さでうなじに噛みつかれ、それと同時に抉るように子宮を潰されて、私は泣きながらシーツへしがみつき、強い絶頂感に飲まれた。
何処までが絶頂かそうじゃないのかが曖昧になっていたけれど、今のは分かる。確実に今までで一番深い。昇り詰めた先から抜け出せない。
もうイってるのに、夏樹はうなじに噛みついたまま、ゆるゆると腰を振る。猫の唸り声のような音が背後から響く。私たち今、獣みたいな交わりをしてる。それってなんて・・・なんて――――ッ!
「ぅう゛ーーーーッ!!♡」
唸り叫びながらシーツを食い千切らんばかりに噛みついた。興奮が臨界点を超えている。頭が茹って悲しくも嬉しくもないのにぼたぼたと涙が溢れてきた。
ちゅぷっ
ちゅぷぷっ
ぷちゅんっ
ず――――ばちゅんっ!
「ふぉ゛ッ♡」
ゆらゆらと揺れていた腰が、唐突に強く、お尻の肉が潰れてしまうくらいに強く叩きつけられ、その衝撃で、既に深い絶頂から下りられなくなっていた私の脳みそが、ついに限界を迎えた。
お腹の底で吐き出された熱と、もはや何かも分からない液体を漏らした感触だけ生々しく感じながら、ぐるりと視界が上向き、暗転し、一度だけかすれた声で名前を呼ばれたのだけなんとなく認識しながら、私の意識は今度こそ完全に暗闇に囚われたのだった。
+ + + + +
「はっ、はぁっ・・・はっ・・・くっ」
七瀬夏樹が乱れた呼吸のまま腕の力を抜くと、彼女の体はずりずりと崩れ、ベッドへと沈んだ。
彼は何度か彼女の名を呼んだけれど、彼女はもう、うんともすんとも言わない。もう無理だと訴える彼女を言いくるめ、丸め込んでここまで事に及んでいるのだ。まさか意識を飛ばした彼女に文句を言えるはずもない。
「はぁっ、なー、まだ寝んといてよぉ」
それでもあきらめの悪い男は、ゆさゆさと彼女の肩を軽く揺さぶる。が、そこまでの強さもなく、また本気で起こそうという強さもない。
「ああもう・・・」と本人のやりすぎが問題なのに、まるで反省した様子もなくぼやきながら、七瀬はずるりと彼女の中からその凶悪な見てくれの陰茎を引き抜いた。
大まかな形は人間のそれと変わりないが、その根元部分を中心には棘のような突起物がびっしりと生えている。棘の先端は丸く、内部を傷つけるような構造ではないが、それでもなかなかに人間離れしてグロテスクな形状をしていた。
舌もそうだが、性器もまた猫のそれと似通っている。だが人間の物とそう遠い訳でもなく、猫と人間の特徴を混ぜ合わせ、都合よく改変された肉体であるように感じられた。
七瀬は、彼女の体をくるりと仰向けに直すと、うっそりとした笑みを浮かべた。白目部分が暗い朱色に塗りつぶされた猫の目が、怪しい光を内包し、彼女の腹に刻まれた刻印を舐めるように眺める。
浮世絵に描かれるような車輪と炎の柄が、彼女の子宮の真上にしっかりと刻まれていた。それは彼が成り果てた妖怪の正体を現すに相応しい図柄であり、そんな柄を腹に刻むなど、独占欲の発露以外の何物でもなかった。この刻印は決して夫婦を表すための物などではない。どちらかと言えば、被支配者に刻まれる所有印に近しいものだ。人間がその身に刻まれれば、支配者が望むまま、人の理から外させることが可能な程度には物騒な代物である。
視線だけでは足りなかったらしく、彼はその刻印に口づけ、更には舐め上げ、深い呼吸を繰り返す腹に、満足そうに頬ずりをする。
「やぁっと俺のになった・・・あんたを抱いた他の野郎どもの記憶はこないだぜーんぶ焼き消したったわ。あんたかて、どいつの顔も名前もぜーんぜん覚えてられへんかったやろ?」
寝物語でも聞かせるような穏やかな声色で、七瀬は己の、随分と人間から離れた思考を吐露していく。
「なあこれ、俺の妖気に反応するんやで?」
「っ、んっ・・・ふ、ぅ」
寝そべった姿勢のまま、ずるずるとベッドを這い上がり、彼女の横に寝そべりながら、彼はその腹の模様の上をゆっくりと指先で辿る。黒かった車輪模様が、熱したガラスのような色へと変わっていく。それは彼の、化けの皮が剥がれた本性の髪色とうり二つの色だった。
「あーあ、これ意識なくても発情できんねんなぁ。ほんま便利。なあ、起きたらどんな声で啼いてくれるんやろね?起きるまで体中弄り放題やなぁ?」
実に妖怪らしく、けらけらと愉快そうに笑いながら、七瀬は意識のない彼女の唇を、そうっと優しく塞いだのだった。
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