SSTにおける多様性と均質性
SSTと呼ばれている障害者に向けた訓練手法がある。Social Skills Traning(ソーシャル・スキルズ・トレーニング:社会機能訓練)
精神病院内のディケアにもそのプログラムが取り入れられていたのだが、アメリカで開発されたそのカリキュラムが、どうも日本の実情に合っていない、ローカライズしきれてない状態で日本に直輸入するんじゃ有効性を持たないだろうと感じていた。
ふと、アメリカ社会は「多様性」が大きく進展してしまっていることに気づいた。対して日本は「均質性」がまだまだ強く残っている社会。
アメリカは「人種の坩堝的状態でいろいろな文化があり、表面上でも付き合い方を知っておいたほうが楽」って状態なのかも知れない。
対して日本では「均質性が高い故、人間自身が固有に持たざるを得ない多様性を相互に認め合うことを知っておいた方が楽」ってことが言えるんじゃないかと考えついた。
多様性と均質性は互いに排除する関係ではなく、このふたつのバランスがとれることで、人間個人と人間社会のあり方が相互に作用し合う健全性を発揮できるんだろう。
つまり、アメリカでは多様性があって当たり前だけど、その分、均質的な物事がないがしろにされ、それが過度になると各種行動に悪影響をもたらす状態。これを改善するためにSSTが開発された。
対して日本では均質性が基本に根付いていて、個々人が持たざるを得ない「一人一人違って当たり前という多様性」を抑え込む傾向が強く、これが過度になると息苦しい中で生きなければならず、多様性を獲得するためにSSTを利用する必要があるんだろう。
多様性と均質性、どちらがより大きいのか、バランスを欠いた状態にあるのかにより、多様性を訓練する文化圏に住む人間と、均質性を訓練する文化圏に住む人間とがいて、各個人の度合いに応じたSSTを提供する必要があるんだろうなと結論した。