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春の始まりか、夏の終わりか

先日、「#8月31日の夜に」というテーマに参加させていただいた。
死にたいと思っている学生さんに、
生きていてほしいと綴った文章に嘘はない。
が、私は8月の末より、
3月・4月あたりのほうがよっぽど死にたくなる。

とにかく「変化」が嫌いなのだ。

春は出会いや別れをはじめ、
あらゆる変化が目白押しである。
新しい環境、新しい人たち、何かが始まり、何かが終わる。

しかし、私はこれ以上新しい人と出会いたくないし、
馴染んだ人はどこへも行ってほしくないし、
何も始まらなくていい。
別に春に限らず、「身のまわりのなにかが変わること」が
嫌でしょうがない。

街にはひと目見たらわかるフレッシュな人たちが溢れ、
なんだかちょっと浮ついた空気が流れている。
人々はやれお花見だ歓迎会だと騒いでいる。
「変化」とは関係ないが、
春ついでに言えば、そういうものも苦手である。

漠然と「変化」とは言うが、掘り下げると、
対ヒト、対コミュニティ、何であれ、
新しい関係を構築するということがだめなのだ。
何かにうまく馴染むことができない。
異常に消耗するのだ。

人が普通にやっていることが、できない。
たま~にご飯を食べに行く友人などは
2人か3人くらいしかいない。
飲みに行こうといえばつかまりそうな人も
ギリギリ3人くらいしかいない。

身内と、前述の貴重な人材を除いて、
できるだけ人と関わりたくない。
そんな私に、春の環境変化はとんでもない暴力である。

しかし、もういいのだ。諦めている。
私は「変化」に耐えられる精神を持っていない。
人と関わるのが苦痛だ。
それに気づき、認めることが大事だ。
いつまでも無理をし続けていると、壊れてしまう。
よきところで潔く諦め、
やれる範囲でたまにちょっと向上心を出しつつ、
なんとかやれそうなポイントで、
なんとか生き延びるしかないのである。

無論、私が勝手に諦めているだけで、
「変化」は春に限らず、自分勝手にやってくる。
そのたび私は冗談抜きで死にそうになりながら、
なんとか今日も、生きているのだ。

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