「休む」という正義
このnoteは、真っ暗だった夜に、感情のままに綴った言葉です。
私はまた、同じ苦しみを繰り返してしまうかもしれないから「未来の私自身へ」、そして「休むことを罪悪感と闘う人」へのお手紙として残します。
去年の夏の終わり、私は内定を蹴って起業することにした。
今どうしても創りたいもの、
世に残したいものを創り、それを事業としてやってみることにした。
この春、クラファンを始めた。
毎日が不安。
もし誰かを傷つけてしまったらどうしよう?
家族が不安に思う将来にベットして、自分の理想を追うべきなの?
私の選択は、本当に正しかったの?
ああ、お金はどうしよう?
これからどうなるんだろう?
来年は、どうしてるだろう?
っていうか、来月どうしよう?
もしかしたら、ダメかもしれない。できないかもしれない。
私は起業すべきでなかったかもしれない。
みんな出来てるのに、なぜ私にできないんだろう?
私が無能だから…?
いやできる。もっとやるだけだ。
やり方が間違っていたんだ。
これまでの自分を殺して、もっとやるの。
休むことなんて考えないで…
いつからだろう。
Slackの音が、Twitterの反応が怖くなった。
なんなら、生活の中で周りの目が怖くなった。
「結果出さないと結局ダメなんだよ。」
「負けなんだよ。勝てないんだよ。」
「やりたいことがあるんだったら、数字でぶん殴りなよ。」
「あなたに何ができるの?」
「そんなの出来るわけないよ。」
「そんなの誰が買うの?」
「俺だったら、私だったらさ…」
色々な物差し、それぞれの主観で冷酷な言葉でぶん殴られたし、潰されそうになった。苦しかった。
苦しくても辛いとか休むとか、そんなことを言うなんてとても出来なかった。許されない、とまで思っていた。
倒れる直前に言えば良くて、今はまだやれると思っていたから。
いつからだろう。
休むことに罪悪感を感じるようになったのは。
「だって、誰かが事業のために頑張ってる中、私が休んでいいわけないよね?」
ああ…いつからだろう、
いつからか、思考論理は崩壊していたんだ、、、
いつからか、寝るとき以外頭痛症状に悩むようになった。表現がとても難しいのだけど、頭全体を大きな手で強く握られるような痛み。
もはや、それが”普通”になっていった。
1年以上も鎮痛剤を飲み続けていたから、気づけば薬なんて全く効かなくなった。
最近、脳が麻痺したような、脳に電流が流れるような、刺されるような痛みとでも言ったら良いのか、耐えられないほどの痛みに襲われることが増えた。
さすがにやばいかも。と思うことが増えて、病院に行った。
緊張性頭痛症だと言われた。
これまで、強めの鎮痛剤を服用し続けていたにもかかわらず効かなくなっていることから、これ以上出せる薬は無いと言われた。
それでも私は大丈夫だと思って働き続けた。
見かねた友人たちから、
「あなたは普通の人だからね、
人生に余白を持たなければ、
実力は発揮できないんだよ。
なんなら、実力があるのかどうか挑戦すらできない。」
そう言われて、やっと冷静になれた。
苦しくて泣きながら帰る。
涙が止まらない夜道。
過去のトラウマが蘇る。
壊れる寸前にいた自分。
「私、また、狂ったんだな。」
そう思った。
いい加減に学ぼう。
甘えてもいいんだって。
だから、
”私は、休むことを正義に掲げます。”
「私は大丈夫」「私はもっと強くなれる」
疑いもなく、ただそう考えていました。
いつからか、自分の痛みに耐えることや無視することに慣れていました。
だけど、私がキャリアを真っ白にして、
今どうしても創りたかったのは、
クラウドファンディングを通して届けたかったのは、
私みたいに日々、強がって生きる人を、
ありのままでつつみこめるようなブラウスでした。
まさに等身大の私のような人に届けたい体験でした。
私のブラウスを着て、テレビに出てくださった起業家の先輩が、その日
「”休む”ということをちゃんとやる。」
とおっしゃっていた声がそのままに思い返されました。
真っ暗だった夜、涙が止まりませんでした。
今私がいる起業家の世界では、「結果や数字が全てだ」とよく叫ばれます。
結果史上主義とでもいえるかと思います。
時に排他主義的な思想が蔓延し、冷酷な”くうき”に包まれます。
結果と数字が価値であり、
結果や数字を出さなければ価値はないのです。
いつからか、私も結果を出さない自分に価値はないと思うようになっていました。そうやって、自分で自分を追い詰めていったのだと思います。
立ち止まろうと思ったのは身体の限界に気づいたのと合わせて、
日々の私の言動を気にかけて、今止まるべきだと声をかけてくれた友人たちのお陰でした。
「ビジネスのことはよくわからないし、正直クラファンなんてどうなってもいいんだよ。
”だって、智子は智子じゃん。”」
そう言ってくれた幼馴染に、どれだけ救われたか…
そして、きっと幻滅されるだろうなと思いながらツイートした「休みます宣言」でしたが、
忙しい中わざわざ会いに来てくれた人、
都心を離れ自然豊かな別荘に連れ出してくれた人、
「おかえり」と言ってくれた人、
”休む”ことを一緒に約束してくれた人、、、
たくさんの人たちが歩み寄ってくれました。
ある友人は「今立ち止まってくれてありがとう」と、
またある友人は「そんな智子のブラウスがもっと魅力的に見えるよ。」と、
声をかけてくれました。
こんなにも沢山の人たちに支えられて生きているんだと、実感しました。
そして、はっと目が覚めました。
私はビジネスの世界以外の居場所が見えなくなっていたんだなと。
一人の人間でも、
色々な世界に生きていて、
それぞれの世界のなかに、
ペルソナ、つまり顔を持って生きていて、
それぞれに価値軸がある。
ビジネスの世界では、
止まることなく成長し続けることが価値とされるし、
止まることを善しとしない”くうき”があります。
私自身の性格を見ても、好奇心旺盛で向上心が高く、行動力もある方なので、一定評価されたり、起業家としてビジョナリーに生きていきやすい体制が作られていたと思います。
でも私もただ在ること、それだけで誰かに価値を与えることができる世界にも住んでいること。
それをいつの間にか、忘れていたのだと思います。
その世界にも私を大切に思ってくれる家族や友人が多くいること。
複数の世界を股にかけて、自分のことかのように、
私の経験に対して喜び、悲しみ、怒りを共有してくれる仲間がたくさんいること。
私にとって周囲の人たちが大切であるように、
きっと彼ら彼女らにとっても私のことを大切に思ってくれている。
だから、私が友人たちを大切に思う気持ちの分だけ、自分のことも大切にしよう。
胸を張って休もう。誇り高く休もう。
私が私で在ること。
それが何よりも私の価値だと思うから。